太田述正コラム#12154(2021.7.21)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その33)>(2021.10.13公開)

 <話を戻すが、>後水尾天皇は<1614年>10月24日、伝奏広橋兼勝と三条西実条とを勅使として二条城の家康のもとに派遣し、28日には重ねて伝奏を勅使として派遣し、家康に太刀折紙と薫物(たきもの)とを贈った。
 この天皇の行為は、これまでの先陣の際、信長や秀吉に対し天皇が示した行動と同様であり、事実上、天皇が家康の側に立ったことを意味している。
 11月・・・25日、後水尾天皇は、<先の二人>を勅使として家康を見舞うために陣所に派遣した。
 28日、勅使の2人は家康に会い、30日には<別の場所>に布陣していた秀忠に会い礼を述べたあと12月2日に帰洛した。
 同月15日、後水尾天皇は、再度家康のもとに伝奏を勅使として派遣した。
 この勅使派遣の目的は家康と秀頼との和談の扱いにあった。
 しかし、家康は、「禁中の御扱いは無用」と天皇による扱いを退けた。
 また、『駿府記』<(注73)>には、このとき勅使から家康に「寒天の時分、諸軍に仰せ付けられ、大御所先ず上洛あるべきか、かつもし和睦の儀仰せらるべきか」との勅定が内々に伝えられたが、家康は「諸軍に申し付くべきために在陣いたす也、和睦の儀、然るべからず、もし調わずば、則ち天子の命を軽んじせしむ、甚だもって不可なり」と勅答したとある。・・・

 (注73)「江戸時代初期の記録。一巻。『駿府政事録』ともいう。徳川家康が将軍職を秀忠(ひでただ)に譲って駿府(静岡市)に引退したのち1611年・・・から死の4か月前の1615年・・・12月までの家康の動静を漢文体で記したもの。記主は後藤庄三郎(しょうざぶろう)(光次(みつつぐ))とも林道春(どうしゅん)(羅山)とも伝えられているが、いずれにしても家康の側近でかなりの教養の持ち主であったことは確かである。それだけに記事の信憑性はきわめて高く、この期の研究上重要な史料である。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E8%A8%98-85441
 「後藤庄三郎<は、>江戸幕府金座の主宰者(御金改役(おかねあらためやく))。初代光次(みつつぐ)〔1571-1625〕以後代々庄三郎を名乗り御金改役を世襲,幕府御用達町人の上座を占めた。初代は本姓美濃(みの)国加納(かのう)城主長井氏というが,疑わしい。豊臣秀吉のもと京都で大判を吹いていた後藤徳乗(とくじょう)(光基)の弟子山崎庄三郎と思われる。1593年秀吉の下命をうけ徳乗の名代(養子となる)として徳川家康のために関東へ下った。1595年武蔵墨書小判,1600年から小判,一分金を造り,また摂州(せっしゅう)平野の豪商末吉利方とともに銀座の設立を差配。その聡明さと力量が認められ家康の側近となり,政治,外交,貿易などにも参画。庄三郎家は11代目庄三郎光包(みつかね)まで続いたが,1810年光包が三宅島に流罪となり断絶。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%BA%84%E4%B8%89%E9%83%8E-835904

 <1516年>3月17日、駿府になお滞在していた両勅使から家康の病が「危急」であり、家康を太政大臣に任じるようにとの奏請が伝えられたのを受けて、後水尾天皇は27日家康を太政大臣に任じ、駿府に<そのまま>いた伝奏を通じて家康に伝えさせた。<(注74)>」(294~295、304)

 (注74)「これは武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
 また、徳川幕府全体を見ると、秀忠と家斉が太政大臣に就いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
 家康(1543~1616年)は、将軍に就いた1603年に同時に(内大臣から転じて)右大臣にも就いたが、同年中に右大臣を辞任しており、(摂関はさておいて、朝廷の最高機関である)左大臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E5%A4%A7%E8%87%A3
に就くことはなかった。また、(将軍職を1605年に秀忠に譲ったところ、)太政大臣には就いたが、それは1616年における、死に至る1カ月間だけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
 秀忠(1581~1632年)は、将軍に就いた翌年の1606年に内大臣と右近衛大将を辞任し、1614年から23年まで右大臣であったところ、やはり左大臣に就くことはなかったが、将軍職を家光に譲った1623年に右大臣を辞任したけれど、1626年に太政大臣に就き、死ぬまで続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
 家光(1604~1651年)は、権大納言を経て、1623年右近衛大将兼右馬寮御監、同年中に内大臣転任、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下、1626年に左大臣に転任し左近衛大将を兼任したが、1634年には太政大臣への転任を固辞した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89

⇒家康は、天皇を権威だけの担い手へと純化/矮小化するとともに、日蓮主義それ自体も放棄してしまい、後水尾天皇としては憤懣やるかたない思いだったと想像されますが、自分を天皇にしてくれたのは家康であったことに加え、家康ないし(将軍位を承継することになるであろう)家康の子孫達が仮に日蓮主義の遂行を再開するようなことがあったとしても、その累が天皇家に及ばないよう、家康は、(信長ほどは徹底していなかったけれど、)摂関はもとより、左大臣にすら就こうとしなかったことで、自らを無理やり納得させたのではないでしょうか。
 そして、その姿勢を秀忠もほぼ維持したことで、もはや、徳川氏による日蓮主義の再開はない、また、征夷大将軍の「管轄」は国内だけという認識もまた一般化した、と、院政を復活させて敷いた後水尾上皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
は判断し、家光には将軍時代に左大臣に就くことすら認めた、と。(太田)

(続く)