太田述正コラム#12172(2021.7.30)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その5)>(2021.10.22公開)

6 明治天皇の日蓮主義宣言

 以上のことを調べている過程で、「一体、誰が、<明治天皇の御沙汰書なる>戦略指針の案を作ったのか、近い将来の、オフ会「講演」原稿で追究したいと思います。」(コラム#12152)と書いたばかりであるところ、ささやかながら、その手がかりが偶然得られたので、ここでご披露し、私のコメントを付しておきます。↓

 「・・・慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇が大阪に行幸した際に、大阪城付近に豊臣秀吉を祀(まつ)る神社の造営を命じる御沙汰書が下された。そこには大略、次のような造営の趣旨が記されていた。秀吉は低い身分から出発し、自分の力だけで天下を統一し、大昔の聖人が成し遂げた偉業を継いで、皇室の権威を海外に広く知らしめ、数百年を経た今も外国に脅威の念を抱かせている。国家に尽くした功績の大きさは前代未聞のものである。その功績に報いようと朝廷は秀吉に神号を贈ったが、不幸にして豊臣家は断絶し、秀吉の大功は埋もれてしまった。明治維新を機に、廃絶した行事を復興したい。今は日本が世界に打って出ようという時代であり、秀吉のような英知雄略の人材が輩出されることを願って、秀吉を祀る神社を造営する、と。・・・
 御沙汰書では大阪城の近くに社殿を造営せよと命じていたが、紆余曲折を経て、明治八年(一八七五)、京都東山の方広寺大仏殿跡地に、豊国神社が造営されることになった。同十三年に社殿が完成し、遷宮式が行われた。
 上の御沙汰書の文章からは、なぜ明治政府が豊臣秀吉を賞賛したかが良く分かる。秀吉は、立身出世・攘夷・尊皇という明治政府の政治理念の体現者として位置づけられたのである。秀吉の事績のうち、特に朝鮮出兵を重視していたこともうかがわれる。・・・
 鹿児島出身の官僚で『贈正一位島津斉彬公記』などを著した寺師(てらし)宗徳(むねのり)<(注3)>は「君臣の大義を弁じ、群雄を駕御(がぎよ)し、ついに明韓征討の挙に及べり」「活量吞牛(どんぎゆう)の気宇は小日本たらんとする今日の人には好模範たり」と秀吉支持の理由を語っている。・・・」(呉座勇一「明治・大正期の豊臣秀吉像–維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心」より)
https://kadobun.jp/serialstory/sengoku-kyojitsu/6gvbnl7t8o4k.html

 (注3)「市来四郎<は、>・・・寺師(てらし)次右衛門の次男。市来政直の養子。・・・明治・・・22年には,旧大名家を勧誘して史談会を結成し,甥の寺師宗徳と共に,その運営を推進した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E6%9D%A5%E5%9B%9B%E9%83%8E-1054450
 寺師宗徳(1856~1912年)には、著書に、贈正一位島津斉彬公記、先賢遺宝、韓国実業私見、編著に条約改正之標準、がある。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/459662.html

 ここから、御沙汰書発出の背景に薩摩藩系の人々の関与があったことが見えてきます。
 では、一体、本件のキーパーソンは誰だったのでしょうか。
 日本の当時の新政府の国制の頂点は、天皇は別として、総裁・議定・参与の三職からなっていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AE%98%E5%88%B6
 しかし、「三職は、小御所会議(三職会議)を開催して、徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞任と領地の一部返納)などを決定した。その後、総裁の熾仁親王<は、>・・・実際には政務の中心となることはなかった。翌明治元年1月17日、三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七科とし、同年2月3日には科を局として総裁局を設置し三職八局とした。また、このとき、総裁局に副総裁を置いて三条実美と岩倉具視をこれに任命し、実際の政務を執ることとなった。・・・
 明治元年閏4月21日(1868年6月11日)、五箇条の御誓文に基づく政治の基本組織を定めた政体書を発表した。政体書では、太政官を中心とした政治体制を採り、それまでの総裁をはじめとする三職は開始から半年足らずで廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E8%A3%81
という次第であり、閏4月21日までの神祇事務総督は白川資訓(すけのり。1841~1906年)です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E8%B3%87%E8%A8%93
が、彼がキーパーソンであるとは到底思えません。
 そこで、当時の国制の事実上のトップであったところの、副総裁であった三条実美と岩倉具視ですが、三条は長州藩べったりの人物でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E
から、残るのは岩倉です。
 「岩倉は海陸軍事務と会計事務という最も重要なセクションを任され<、当時は、>・・・実質的に岩倉を首班とする政権<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
ところ、この岩倉は、「1865<年>の秋ごろ<までに、>・・・薩摩藩の動向に呼応する形で従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更し<てい>た」人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
当時、参与であった、薩摩藩の大久保利通(上掲)がキーパーソンであって、岩倉が事実上の決裁を行った、というのが私の見立てです。

(続く)