太田述正コラム#1421(2006.9.26)
<信頼ゼロの中共社会>(有料→2007.3.25公開))

1 始めに

 東京外大名誉教授の岡田英弘氏は、「妻も敵なり–中国人の本能と情念」(クレスト社 1997年)の中で、「<支那人は、>自分の住んでいる家を一歩出れば、まわりにいる人間はすべて敵であり、自分の寝首を掻こうとしている」という・・弱肉強食の世界・・観<を抱いており、>他人から付け込まれる前に、他人の弱味に付け込めというのが、中国人の行動原理・・である」(注1)と指摘しています。

 (注1)「男・・は家庭に帰っていても、気を緩めることができない。何しろ、妻ほど自分の私生活を知りつくしている人間<、>つまり自分の弱点を最も握っている危険人物は<おらず、>男にとって最大の敵は、自分の妻であるからだ」。「峩々たる山がそびえ、誰も訪ねて来そうにないようなところに、ぽつんと・・小さな家が・・建っている・・<というのが定番である支那の>山水画とは・・安心して人間らしい生活を送れる・・まわりに・・ほかの<支那>人がいない絶対の孤独<という支那>人<にとって>の理想郷である仙境を描いたものに他ならない」。これではたまったものではないので、「<支那の>知識人階級の人々は<儒教を奉じて>科挙によって擬似的な親子関係である師弟関係を作<り>、それ以外の一般の人々は、<道教を奉じて>秘密結社という、擬似的な兄弟関係を結ぶことによって、生きてきた」のであって、中国共産党は秘密結社の伝統をひいている、と岡田氏は指摘する。

 一体どうしてそんな荒涼たる世界観が形成されたのでしょうか。
 岡田氏の書かれたものから拝察すると、支那においては、「特定のどの言葉を書き表した文字でもないため、話し言葉がちがう人々の間のコミュニケーションに適している<ところの>・・漢字」を羅列する漢文が、支那の書き言葉になったため、逆に話し言葉は種々雑多のまま推移した上、「<それが書き言葉、就中役所の文書の言葉であったがゆえに、漢文における、>感情を表現する語彙の発達が阻害され<たため、支那人は、>自分自身の情緒さえ掴まえたり確認したりできず、まして他人に対して豊かな感情を表現することもできな<くなってしまい、>」その結果、やや誇張して言えば、「自分の住んでいる家を一歩出れば、まわりにいる人間はすべて」話をすることを通じて考えや気持ちを疎通させることが困難であるとともに、筆談を通じて気持ちを疎通させることすら困難であるところの異邦人、すなわち敵になってしまったからだ、ということのようです(注2)。

 (注2)岡田氏の指摘中には、例えば、「少数民族による自治や、言論の自由といったものを実現させれば、<支那>というシステムはその瞬間に消えてしまう。これは、<支那>人そのものに問題があるのではない。結局、近代国家にはサイズの上限というものが存在するということなのである」という、人口の数といい、民族構成の複雑さとい、面積の大きさといい、支那に匹敵するインドで自由民主主義がまがりなりにも機能していることをうっかりした誤りがあるので、以上の氏の指摘についても、疑ってかかる可能性はある。

 さて、「魯迅<が、>明治末期に日本で開発された言文一致体を下敷きに<して>、それと同じことを漢字を使って表現しようと・・白話文を創作した」したことと、中共政権樹立に伴う話し言葉としての北京官話(標準語)の支那全土への普及によって、支那人の弱肉強食の世界観は崩れつつあるのでしょうか。
 (以上、「妻も敵なり」からの引用は、
http://www.ube-k.ac.jp/~usui/okada.html(9月26日アクセス)による、)
 いや、この点では支那は全く変わっていないようです。

2 信頼ゼロの中共社会

 現在の中共では、人々は弁護士を信頼していません。
 ここまでは、どの国でも似たようなものですが、中共では、弁護士は顧客が弁護士費用を払わないのではないかと疑っていますし、人々は裁判官が法を無視して政治的判断で判決をねじまげるのではないかと疑っています。
 友人は友人をだまし、親戚は親戚をだましてカネを巻き上げます。
 そもそも、誰もロクに友人など持っていません
http://j.peopledaily.com.cn/2006/09/25/jp20060925_63388.html。9月26日アクセス)。
 カネがなくても夫の不貞行為が蔓延し、カネがあれば夫は蓄妾に勤しみます。
 ルールが明確でないので、いつ塀の中に落ちるかと冷や冷やしていなければなりませんし、食べ物は健康に問題のあるものだらけですし、工場は空気や水を汚染する科学物資をまき散らしていますし、正義を押しのけて権力とコネが幅をきかせています。
 地方官憲は立派な共産党員であるフリをしつつ、一般の人々に迷惑をかけて私腹を肥やしていますし、何世代にもわたって農民が耕してきた土地を、土地の私有が認められていないことをいいことに、官憲がお涙金を出すだけで突然収容してしまいます。
 中央は中央で、政府は政治的観点からインチキな統計数字を発表し、共産党中央はアカウンタビリティーを欠き、構造的な腐敗という病に冒されています。
 ことほどさように、中共は、いつ誰が「犯人」になり、「被害者」になるか分からず、常に互いに注意を怠れない、という疲れる社会なのです。
 当然、あらゆるところで、社会不穏ムードが高まっています。
 現在の中共社会のこのような病理の原因として挙げられているのは、一つには、1966年から76年にかけての文化大革命において、家族の一員が家族の他の一員を、そして友人が友人を互いに非難し合うことを強いられたために、いい意味での支那の伝統が破壊され、人間の絆がずたずたになってしまったことであり、二つには、その後の市場経済化政策が、司法や規制システムの十全な整備なくして推進されたことであり、三つには、共産主義が事実上放棄された社会において、人々が倫理的価値体系を失った状況にあることです。 (以上、特に断っていない限り
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-trust24sep24,1,3166856,print.story?coll=la-headlines-world
(9月25日アクセス)による。)

3 結論

 以上をまとめると、もともと支那は信頼ゼロの社会であったところ、20世紀に至って、ようやくフツーの社会になる可能性が出てきたというのに、中国共産党のせいで、その可能性が摘まれた状況にある、ということです。
 果たしてこんな中共がこのまま経済成長を続けていけるのか、私は疑問に思っています。