太田述正コラム#12192(2021.8.9)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その15)>(2021.11.1公開)

 だから、九条道孝が娘の節子を、わざわざ日蓮宗信徒の家に里子に出したのは、節子を日蓮宗信徒にすることが目的の一つだった、と見てしかるべきでしょう。
 (そもそも、九条家は、節子を「さだこ」と読ませており、この命名は完子(さだこ)を意識したものであった可能性が大です。)


[石田三成と九条家]

 秀吉流日蓮主義に殉じたことになっている石田三成の血も九条家は幕末期に至ってからだが、受け継いでいる。↓

 「石田三成<の>・・・次女:小石殿 – 蒲生家の家臣岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。後に若狭国へ移り住み、小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに女系(千代姫の孫徳川吉通の娘徳川三千君)を通じ九条家、二条家を経て貞明皇后、そして現在の皇室などに三成の血を伝えている(系譜 石田三成 – 小石殿 – 岡吉右衛門 – 自証院 – 霊仙院(千代姫) – 徳川綱誠 – 徳川吉通 – 信受院(徳川三千君) – 二条宗基 – 二条治孝 – 九条尚忠 – 九条道孝 – 貞明皇后 – 昭和天皇)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90#%E5%AD%90%E5%A5%B3

 だから、維新後の九条家が、江戸時代中期までの九条家に比して日蓮主義に一層傾いていた、としても不思議ではない。

 明治天皇の皇后として一条家の美子(よしこ)・・当時の名前は勝子(まさこ)・・が内定したのは慶応3年6月28日(1867年7月29日)という忙しいさなかであり、当時の政権が関わったのか、関わったとしてどの程度関わったのかは分かりません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%86%B2%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E
が、貞明皇后に関しては、「皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
https://book.asahi.com/article/11645572 ←二人の写真
ということから、その入内に「政府上層部」つまりは、内閣が関与したことは間違いないところ、1899年当時は第二次山縣有朋内閣であったけれど、山縣は薩摩藩の長州内スパイ上がりの人物(コラム#省略)ですし、山縣を入れて大臣が10人いたうち、れっきとした薩摩藩出身者が4人もいたことから、事実上、半分を占めていた薩摩藩の斉彬流日蓮主義者達が、あらゆるリクツを並べ立てて明治天皇を説得し、大正天皇、及びそれ以降の天皇家、を日蓮主義で染め上げるために、彼女の入内を図った、と私は想像しています。
 そして、昭和天皇の皇后選びの時には、この貞明皇后が積極的役割を果たしているように見受けられます。↓

 「福田清人によれば、貞明皇后<・・当時は皇太子妃・・>が東宮御学問所御用掛として皇太子に倫理学を教えていた杉浦重剛を相談相手に、東宮御学問所の小笠原長生に命じて候補者の写真等を集めさせ選定したとされ、大野芳は、元老かつ内大臣であった<薩摩藩出身の>松方正義が関与し、元首相<でやはり薩摩藩出身の>山本権兵衛と<薩摩藩出身の大久保利通の子である>牧野伸顕が<佐賀藩の支藩の藩士の子で司法官僚上がりの>波多野敬直
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4 >
宮内大臣を使い、良子<(ながこ)>女王<(注18)>を推挙したとみている。

 (注18)島津忠義-久邇宮邦彦王妃俔子-良子女王(香淳皇后)-上皇-今上天皇

 そのほか片野真佐子は、昭憲皇太后が明治天皇の大葬の際に良子女王を見初めたという話を紹介している。
 1917年(大正6年)11月、貞明皇后は学習院女学部の授業参観を名目に良子女王に会い、女王を一目で気に入る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 これは、島津久光の実子だが島津斉彬が養子にして世子に指名したところの島津忠義の孫であれば、当然、日蓮主義者であろう、と、貞明皇后のみならず、松方や山本や牧野すら思い込んでいたからではないでしょうか。
 ちなみに、良子女王の父方の祖父の久邇宮朝彦親王は、幕末、一貫して薩摩藩と連携行動をとった人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

(続く)