太田述正コラム#12194(2021.8.10)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その16)>(2021.11.2公開)

 (その後、いわゆる「宮中某重大事件」が起こって、この話がおじゃんになりかけたのですが、結局、予定通り入内がなされます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
 この話の中身にまで立ち入ると話が長くなり過ぎるので、止めて、先に進みます。)
 「<貞明皇后は、>大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇に代わり皇室を取り仕切り、宮内大臣の牧野伸顕や元老など重臣たちと渉り合った。・・・
 <彼女>は第一皇子の迪宮<(みちのみや。昭和天皇)>よりも、第二皇子の淳宮<(あつのみや。秩父宮)>に対する愛情を深めていった。・・・
 <また、>「・・・嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。
 香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。・・・
 一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらし<い。>・・・
 雍仁親王<(秩父宮)>の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

 もともと能力も抜群に高かったのでしょうが、夫の大正天皇が虚弱であったことから、大正天皇の時から彼女が亡くなる戦後にかけては、彼女こそが実質的な天皇だった、いや、というよりも、彼女こそが、生前の明治天皇すらその足元にも及ばぬ、日本の最高権力者だった、と言えるのではないか、というのが私の到達した見解です。
 で、そんな貞明皇后が香淳皇后に厳しかったのは、上に出てくるような低次元の理由によるものではなく、香淳皇后が、あにはからんや、日蓮主義者ではなかったからでしょう。
 (「昭和の皇后良子(香淳皇后)は戦時中からキリスト教の聖書の講義を宮中で受けていた。東京が空襲を受けているさなか、皇居ではなんと聖書の講義が行われていた。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42567?page=3 前掲
のが事実だとすれば、香淳皇后が貞明皇后によって心理的に追い詰められていたからでしょうが、日蓮宗ではありえなかったとしても、よりにもよってキリスト教とは!)
 また、貞明皇后が昭和天皇よりも秩父宮に対してより愛情を注いだのは、昭和天皇が、香淳皇后の影響もあって、自身による薫陶にもかかわらず、日蓮主義者になってくれなかったからでしょう。
 そして、島津家「出身」の香淳皇后で大失敗をした貞明皇后が、秩父宮の妃として幕末において薩摩藩の仇敵であった会津松平家出身・・、但し、「旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%8B%A2%E6%B4%A5%E5%AD%90
・・の勢津子を「逆張り」で選んだのは、いかに、貞明皇后が香淳皇后で懲りたかを示して余りあるものがあります。
 この秩父宮は、めでたく、彼女にとって理想的な日蓮主義者・・同じく次回オフ会「講演」原稿で説明するところの、秀吉流日蓮主義者・・になるのです。↓

 「1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入学、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった。
 1922年(大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立した。・・・1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。・・・
 1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長を務めた。歩三時代には<後に二・二六事件で死刑になる>安藤輝三などとも交流を持ち、彼らの革新思想の影響を受けた。本庄繁の日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。

⇒昭和天皇は、秩父宮が、貞明皇后の世界観に基づいて行動していることを百も承知しつつも、貞明皇后に訴えて同皇后に嗜めてもらうことができないので、周りの圧力で秩父宮の翻意を促そうとしたのでしょう。
 「日米開戦して戦況が著しく不利となったのちも、貞明の意気は「ドンナニ人ガ死ンデモ最後マデ生キテ神様ニ祈ル心デアル」と、悲愴にして軒昂であった<こともあり、>・・・四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。」
http://gunzo.kodansha.co.jp/39016/39848.html
という「史実」があるくらいですからね。
 昭和天皇は、能力においても識見においても傑出していた上、実母ながら自分を嫌っていたところの、彼女の前では、立ちすくみ脂汗が流れ続ける状態だったであろうと想像され、そんな彼の姿が目に見えるようです。(太田)

(続く)