太田述正コラム#12196(2021.8.11)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その17)>(2021.11.3公開)

 秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により、青年将校から引き離すため同年9月に陸軍参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。
 1935年(昭和10年)8月、青森県弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し、弘前市紺屋町の菊池長之別邸に居住した。
 1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。・・・
 昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。<(注19)>

 (注19)「<事件後銃殺刑に処せられた>十五人は、全員が、『天皇陛下万歳』と叫んで射たれていった。しかし、ただひとり『秩父宮万歳』とつけ加えた者もいた。それは安藤ではない。……歩一の栗原安秀だった」
https://note.com/ttmovies/n/neaaa67eee5a4
 栗原安秀(1908~1936年)は、1929年陸士卒。事件当時は歩兵第1聯隊所属の歩兵中尉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E5%8E%9F%E5%AE%89%E7%A7%80

 『木戸幸一日記』によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。

⇒昭和天皇の見立て違いでしょう。
 「親代わりだった鈴木貫太郎に瀕死の重傷を負わせたのは、安藤部隊なのです。鈴木の妻は秩父宮にとって母親代わりだった、たか夫人<(注20)>です。秩父宮が賛同し、賞賛するわけがありません。」
https://ameblo.jp/talk226/entry-12113162804.html
というだけのことだったのではないでしょうか。

 (注20)「後妻はたか(旧姓:足立)。たかは東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、菊池大麓東京帝大教授の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。皇孫御用掛の役目を終えたのち、鈴木と婚姻。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

 いずれにせよ、秩父宮は、杉山元が・・私見では、本当のところは、貞明皇后が、ということになるわけですが・・、五・一五事件や二・二六事件を「起こさせた」(コラム#省略)などとは夢にも思っていなかったことでしょうね。(太田)

 同年12月に参謀本部第1部付となる。・・・1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスのジョージ6世国王の戴冠式に出席。その後・・・当初の予定にはなかったが、・・・ドイツを訪れ、・・・ヒトラー総統とニュルンベルク城で会談した。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り、「私は彼を信じない、また憎みます」と口にした。これに対して秩父宮は英語で「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎んでもよいものでしょうか?」と返した。この面会について秩父宮は、付き武官の本間雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい」と述べている。
 『昭和天皇独白録』によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ」と天皇に突っぱねられている。

⇒当時、杉山元は、「近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年・・・7月・・・に日米通商航海条約の廃棄を通告した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
という背景の下、米国からの資源の輸入が困難になると予想されたことから、南進して資源を確保する必要が生じ、確保を南方の植民地の欧米諸宗主国(英仏蘭米)の妨害に抗して行うため、独伊と結ぶことで、更に英米の反日感情を高め、日本に対し禁輸を行わせ、対英米戦争遂行を不可避たらしめることによって、南方を占領し、南方の「解放」図ろうとしていた(コラム#省略)わけですが、海軍はこの同盟締結に反対しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
そのことに藉口して、同盟締結を渋る昭和天皇の説得を、貞明皇后が秩父宮に命じ、秩父宮は喜んで命じられたことを行ったのかも、と、私は想像を逞しくしています。
 (秩父宮の、ヒットラーを評価せず、従ってナチスドイツを信用せず、にもかかわらず三国同盟は追求されるべきだ、という発想は、まさに、日蓮主義者ならではのものです。)
 結局、「1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利にな<り、>三国同盟の締結論が再び盛り上がって<くると、>・・・陸軍首脳は親英米派の<海軍が擁立した>米内内閣<の>倒閣に動き、<出来悪の日蓮主義者だが操り人形として使う目的で>近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣<を>成立<させ、>・・・9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において<三国同盟の>調印<に漕ぎつけた>」(上掲)わけです。(太田)

 1938年(昭和13年)1月に大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、1939年(昭和14年)8月に<は>陸軍大佐に<、>昇進した。
 日本は1937年、中華民国との全面戦争に突入していた(日中戦争)。高松宮が、華北に出征していた閑院宮春仁王に送った書簡(1937年12月30日付と1938年2月22日付)<で、>・・・「中支方面の軍紀風紀に関しては、之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」「日支親善、東洋平和確立の礎と云ふ見地から見まして疑問に思はれることも少なくない様に考へられます」「南京が陥落したとて支那人の小学生に旗行列をやらせるのが日支親善百年の大計でありませうか」と、日本軍の<支那>住民への振る舞いなどを憂う気持ちを吐露していた。1972年刊行の伝記『秩父宮雍仁親王』によれば、<支那>での戦線拡大自体に批判的で、早期収拾派であった。・・・保坂正康は、この書簡の内容について、南京事件について昭和天皇周辺に伝わっていたことを示すと評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒母親の貞明皇后も、また、当時、参謀総長として上司であった杉山元も、(参謀本部で大佐として勤務していた)秩父宮に、杉山構想の全貌、というか杉山構想そのもの、は教えていなかった、ということでしょうね。

(続く)