太田述正コラム#12220(2021.8.23)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その6)>(2021.11.15公開)

 「スペインのフィリピン総督フランシスコ・デ・サンデは1576年にスペイン国王に対して、鉄・生糸等の貿易を確保するために明国へ軍隊を派遣しなければならないと上申している。・・・
 スペイン国王は翌年の返書で、いまは適切な時期ではないとしているが、もし友好政策を改める必要があるときは然るべき措置を命じるとしている。・・・
 フィリピン総督は1580年と83年にも明国征服論を国王に上申しているので、これが植民地為政者の現場感覚だったのだろう。
 とくに83年のディエゴ・ロンキーリョ総督の書簡では、明国の為政者が宣教を妨害しているので征服行動を起こすことは正当であるとして、国王に迅速に遠征隊を派遣することを求めている。
 しかも、わずか8000人のスペイン兵と10隻ないし12隻のガレオン船で簡単に明国を征服できるとまで豪語していた。
 こうした認識は宣教師たちも同様に抱いていた。
 マニラ司教ドミンゴ・デ・サラサールは1583年にスペイン国王に対して、明国が布教を妨害していることは武装攻撃を正当化するとして、わずかな鉄砲隊で何百人もの野蛮人を殺すことができるので、できるだけ迅速に軍勢を派遣するよう要請している。
 1584年にイエズス会のアロンソ・サンチェスがマカオから同会日本準管区長ガスパル・コエリョに宛てた書簡では、明人を改宗させることは不可能なので、メキシコやペルーと同じように征服すべきだと書き送っていた。」(33~34)

⇒紹介の途中ですが、こういった声が、とりわけ諜報活動に熱心で長けていた(典拠省略)、秀吉の耳に入らないわけがないのであって、彼は、スペイン/ポルトガル勢力がいつ支那征服に乗り出すか分かったものではない、という焦燥感に駆られるに至っていたはずである、と思うのです。(太田)

 「このような露骨な即時征服論に対して、もう少し適切な時期を待とうという意見もあった。・・・
 たとえば1582年にマカオの宣教師アルメイダが、フィリピン総督に送った書簡では、広東を占領するだけなら200人の兵隊で十分だが、明国全土を征服するためには、まずは布教に取り組み、そのうえで1万ないし1万2000人の軍勢を送り込めばよいと述べている。
 硬軟両様取り混ぜての征服論である。
 イエズス会東インド巡察使ヴァリニャーノ(在マニラ)も同年、フィリピン総督に宛てて、征服事業の最大のものは「シナを征服すること」だとする。
 「尤もそれは着手すべき時宜と条件に適えばのことである」とも指摘しているので、時宜征服論だといってよい。
 1584年にマカオのサン・パウロ・コレジオ院長フランシスコ・カブラルからスペイン国王へ送られた書簡でも、・・・陛下が征服事業を決定すれば、それを正当化する口実には事欠かない、と<している>。
 布教が妨害されればそれを口実とし、布教を容認しているのであれば別の理由を探し出すというのだから、征服にかけるこの強欲さはなにをかいわんやだろう。・・・
 <これも、>時宜征服論になる。
 前出したヴァリニャーノが1582年にフィリピン総督に書いた手紙には、「私は多くの人がそれ(明国征服)について語り、いろいろ多くの計画を立てているのを耳にしている」とある。
 つまり宣教師たちの世界では、即時征服論か時宜征服論かの違いはあるとしても、明国征服についてほとんど異論なく意見交換がなされていたことを、この書簡は証明している。
 それは前述した「デマルカシオン」(世界領土分割)体制のなかでの議論であるから、彼らにとっては当然の論理だった。
 また、キリスト教によって世界を文明化するという、彼らの強い正義感のあらわれでもあった。・・・

⇒キリスト教とか、況やデマルカシオンとか、は殆ど関係ないのであって、基本的には戦争/冒険を生業とするゲルマン文化の業(ごう)、性(さが)、である(コラム#省略)、というのが私の主張であるわけです。(太田)

 ・・・<ここで、>イエズス会士が書いた日本征服の文章をいくつか紹介しておきたい。
 最初は、第一回目の日本巡察を終えたヴァリニャーノがマカオからフィリピン総督に宛てた1582年の書簡である。
 日本の国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ、とある。・・・
 しかしながら、・・・明国征服にとって日本は重要な役割をはたすだろうともいう。・・・
 <日本に対する>時宜征服論だといってよい。
 これに対して、積極的な攻勢をかけることを主張したのはイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョであった。
 彼は1585年にイエズス会のフィリピン布教長アントニオ・セデーニョに宛てて次のように書いた。
 日本に早急に兵隊・弾薬・大砲・数隻のフラガータ船を派遣してほしい、キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである、これで諸侯たちの改宗が進むだろう、と。・・・
 しかもコエリョは、日本66か国すべてが改宗すれば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服することができるであろうとも述べている。
 日本支配への意欲がみなぎっている。
 明国征服の前段としての日本征服という位置づけは、ヴェリニャーノと同様に明確である。
 こうした意見は、その後も出続ける。
 1581年までイエズス会日本布教長を務めたサン・パウロ・コレジオ院長のフランシスコ・カブラルが、1584年にスペイン国王に宛てた書簡には次のようにある。
 明国を征服するために、日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)たちは容易に2000~3000人の日本人キリスト教徒を送ることができる、彼らはうち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、少しの給料で喜んで馳せ参じるだろう、と。
 また、アウグスティノ会<(注9)>士のフライ・フランシスコ・マンリーケによる1588年のスペイン国王宛書簡では、もし陛下が戦争によって明国に攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう日本において王たちにはたらきかけるべきである、キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが群を指揮すれば明国を占領することは容易であろう、と述べられていた。・・・」(34~36、38~40)

(続く)