太田述正コラム#12226(2021.8.26)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その8)>(2021.11.18公開)

 「1587年にイエズス会士が同会総会長に宛てた書簡に<いわく、>・・・あるとき秀吉が信長に、イエズス会士は日本を征服し支配する目的をもっていると話したところ、信長は、「あのように遠いところから、その目的(日本を征服すること–筆者注)を達成するのに十分なだけの(ポルトガルの)兵士が、来るのは不可能だ」と語ったという(高橋裕史<(コラム#12080)>、2012)。・・・
 「あのように遠いところから」というのは、ポルトガルが交易の拠点としていた中国のマカオではなく、ポルトガルのアジア支配の拠点であったインドのゴアのことを指しているのだと思われる。
 イエズス会のアジア拠点もゴアにあった。・・・
 信長の明国征服論がどこから出てきたのかということを考えた場合、ポルトガルという国への対抗心が明国征服論を生み出したとみてよいだろう。・・・」(61~63)

⇒平川(や、恐らくは平川が引用した高橋)の認識の中からスペインが抜け落ちてしまっているのは、一体どうしてなのか、理解に苦しみます。
 遠いゴア(ポルトガル領インド)ならぬ近いマニラ(スペイン領フィリピン)が当時既に存在していた・・1565~70年にかけて概ねスペインが領有・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3
というのに・・。
 ポルトガル領マカオもあったではないか、と反論する人がいるかもしれませんが、そんなの、当時はまだ、「1553年にポルトガル人が汪柏という役人に賄賂を贈り、上陸と居住の許可を得た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
程度の代物で、しかも、面的支配が達成されていたフィリピンとは違って、こちらは点でしかないのですからね。
 なお、日本からの距離は、マカオの方が少し近いけれど、フィリピンと大差ありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Macau_Trade_Routes.png
 そんなことは、信長は、フロイス等から情報を引き出して、当然、知っていたはずです。
 よって、「信長の明国征服論<は>・・・、ポルトガルという国への対抗心が・・・生み出したとみてよい」の「ポルトガル」は、「カトリック諸国」或いは「欧州勢力」的なものでなくてはなりますまい。
 ちなみに、フィリピンの場合は、最初から、スペイン当局とカトリック教会そのものが手を携えて原住民にキリスト教布教を行っており、イエズス会だのフランシスコ会だのの出番は余りなかったようです。
http://www.seasite.niu.edu/crossroads/russell/christianity.htm
 そもそも、フィリピンを「発見」したのは、1521年3月、太平洋を横切ってやってきたマゼラン率いるスペイン艦隊であるところ、マゼラン自身はポルトガル人だ、というややこしい話なのですが、フィリピンにおける、その後の布教態様を先取りするかの如く、マゼラン自身が積極的に原住民へのキリスト教布教を行っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3 (太田)

 「現段階で秀吉が征明に言及したもっとも古い記録とされているのは、関白就任直後の1585年・・・、家臣の一柳市介(ひとつやなぎいちすけ)宛の書状にある、「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という文言である・・・。<(コラム#12118)>
 唐国というのは当時の明国のことであり、「仰せつけられ候心」というのは支配下におく計画という意味である。

⇒秀吉は、直接、上司であり同志である信長から、唐入り計画について聞かされていた、と、私は見ており、翌1586年の九州平定を目前にして、九州のすぐ先が大陸であることから、征明の大願を思わず口にしてしまった、ということではないでしょうか。(太田)

 <既>紹介<の>・・・1586年・・・<の>イエズス会日本準管区長コエリョ<との>・・・会見の様子を報じたオルガンティーノ<(注12)>は、コエリョが秀吉に九州への出陣を要請し、出陣のさいには九州のキリシタン大名をすべて秀吉側に立たせるよう尽力することを述べたと記している。」(68~70)

 (注12)ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(オルガンティーノ・ニェッキ・ソルド/ニェッキ・ソルディ=Organtino Gnecchi‐Soldo。1530/1533~1609年)。「1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した[要出典]。1556年、フェラーラでイエズス会司祭に就任。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣された。来日は1570年6月18日・・・で、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年・・・から1574年・・・にかけて法華経を研究した。・・・
 書簡の中で「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている。また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

⇒オルガンティーノが「法華経を研究した」こと、日本人(の人間主義)に敬意を表したこと、は、もっと注目されてしかるべきでしょう。(太田)

(続く)