太田述正コラム#12243(2021.9.3)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その16)>(2021.11.26公開)

 「1592年・・・5月、秀吉の命令によって朝鮮の釜山に上陸した日本軍は、6月には漢城を占領した。・・・
 その報を・・・肥前名護屋で聞いた秀吉は、間もなく明国も陥落すると考えたらしい。
 征明後の壮大なプランを同月に、甥である関白秀次と侍女に書き送っている・・・。
 両書状の内容を要約して示しておく
 1、 このたび大明国を残らず支配し、秀次を大唐関白として都廻り100か国を渡す。
 2、 後陽成天皇を明後年、北京に移し、都廻りの10か国を料所とする。
 3、 日本帝位は良仁(ながひと)親王か智仁(としひと)親王のいずれかとする。
    日本関白は羽柴秀保(ひでやす)か宇喜多秀家のいずれかとする。
 4、 高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させ、九州には羽柴秀秋をおく。
 5、 秀吉自身は「日本の船付き寧波府」に居所を定める。
 6、 先鋒の衆には天竺近くを与える。以後は天竺を切り取るべし。・・・

⇒1941年に開始された対英米戦は、朝鮮半島と支那(の主要部分)を、事実上併合、ないし、占領した状態から始められ、寧波に代えて(寧波と目と鼻の先の)台湾、及び、海南島を前進拠点とした
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8D%97%E6%96%B9%E4%BD%9C%E6%88%A6
けれど、これは、秀吉のこのプラン中の天竺征服計画の350年後の実行であった、と言えそうです。(太田)

 東アジア社会に中華帝国として君臨してきた明国を日本が乗っ取り、秀吉がアジアの盟主になるということであった。・・・

⇒「秀吉がアジアの盟主になる」というより、秀吉が、東南アジア、南アジアの(欧州)半島勢力を駆逐する、ということでしょう。(太田)

 東シナ海にせりだしている寧波(ニンポー)(浙江省)は、日本からの寄りつきがよかった。
 古くは遣唐使などもこの港を利用しており、日明貿易(勘合貿易)を開いていた室町時代には日本船が出入りする港であった。
 戦国時代には明人倭寇たちの拠点にもなっていた。
 ポルトガル人たちもまた、日本との貿易にあたっては寧波周辺を中継地にしていたという。・・・
 いわば寧波は東シナ海交易の拠点であった。
 そこを秀吉の居所とするということは、海をも支配するという意思のあらわれであった。・・・
 <実際、>秀吉・・・の視野は明国にとどまって<おらず、>・・・琉球や台湾、フィリピン総督・・・インドのゴアにいるインド副王にまで威嚇的な書簡を出していた。・・・
 バテレン追放令が・・・1587年・・・6月19日<に>・・・発布される・・・少し前の<6月7>日に、対馬の宗氏に対して、朝鮮が秀吉に服属するよう交渉役を命じてい・・・る。<(注25)>

 (注25)宗義智(そうよしとし。1568~1615年)は、「宗家第15代当主・宗将盛(まさもり)の四男(異説として五男)として生まれた。
 長兄に宗茂尚(しげひさ)がいたため、宗家第17代当主・宗義調<(よししげ)>が隠居したときには茂尚が家督を継いで当主となったが、茂尚が早世し、さらにその後を継いだ次兄・宗義純(よしずみ)も早世したため、・・・1579年・・・1月に義調の養子となって家督を継ぎ、宗家の当主となった(・・・1580年・・・相続説もある)。
 ・・・1587年・・・5月、隠居していた養父・義調が当主として復帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。これは同年に豊臣秀吉による九州征伐が始まったためであり、義智は義調と共に秀吉に従ったため対馬国一国を安堵された。
 このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力する。
 ・・・1588年・・・に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。なお義調の死後、再び家督を継いで宗家の当主となった。
 ・・・1590年・・・朝鮮から来日した使節を服属使と称して秀吉に謁見させた。秀吉はこれを朝鮮が服属したものと受け止め、朝鮮には明の征服事業の先導が命じられることとなる。だが、この朝鮮使節は義智が朝鮮側に秀吉による全国統一に対する祝賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性はなかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。しかし、これも実現しなかった
 朝鮮との交渉は結果的に失敗し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E6%99%BA

 その翌年には島津氏に対して、琉球に使節を派遣し、入貢させるよう命じている。
 島津氏を屈服させた直後に秀吉は、「この上、兵を用いるならば高麗・琉球ならん」と述べていたというから・・・、矢継ぎ早にそれを実行に移していったのである。
 まだ関東には小田原北條氏が盤踞し、奥州では伊達政宗も気を吐いていた。
 国内を統一したから海外へ、ではなかったのである。」(95~99)

⇒信長も西方につんのめった進出を行っていった(コラム#省略)ところ、秀吉の場合も、東方の征圧前・・小田原征伐は1590年2~7月・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
に、西方から先の海外進出に早く乗り出したいと気が流行っていたのは確かです
 想像するに、日蓮主義者としての先達であった上司の信長(1534~1582年)は50歳前に横死してしまい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
自分(1537年~)も50歳こそ超えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
ものの、当時としては、既に高齢者で、秀吉は、自分に残された時間は余りないことを強く意識していたのでしょうね。(太田)

(続く)