太田述正コラム#12251(2021.9.7)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その20)>(2021.11.30公開)

⇒海賊の英語ウィキペディアは、16世紀にはじまり19世紀まで続いたところの、地理的意味での欧州でのイスラム教徒たるベルベル海賊とロードス島に拠るキリスト教徒たる聖ヨハネ騎士団の海賊との間の紛争が、「近代」欧州諸国の海賊行為の起源であると示唆しているように読める
https://en.wikipedia.org/wiki/Piracy
のですが、確かに、日本周辺では、この図式の一種の系である、カトリック教を掲げるスペイン・ポルトガル王国と広義のプロテスタント教を掲げる英蘭の海賊ごっこが始まったわけですが、地理的意味での欧州における海賊の起源はヴァイキングで、その更なる淵源はゲルマン文化にあるのであって、イスラム系海賊の出現に触発されたものではない、というのが私の見解(コラム#省略)であるわけです。
 当時、日本起源の倭寇だっていたではないか、という合いの手が予想されるけれど、後期倭寇は「構成員の多くは<明の海禁政策の下で>私貿易を行う<支那>人であったとされ・・・台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした。また当時琉球王国の朝貢貿易船やその版図(奄美、先島含む)も襲撃あるいは拠点化している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
ところ、日本の海賊とは言い難かったわけですし、日本人によるものであった前期倭寇についても、構成員の多くは正規の武士達であり、その目的は軍用物資の獲得であり、外地の拠点化は伴っていない(上掲)点で、地理的意味での欧州由来の海賊とは性格が異なります。(太田)

 「1609年・・・、フィリピン臨時総督の任を終えたビベロ<(注32)>がメキシコに帰還する途中、日本近海で遭難し、からくも房総半島に漂着し<た。>・・・

 (注32)ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(Rodrigo de Vivero y Aberruza。1564~1636年)。「父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコの任地であるヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で生まれ、エスパーニャ本国で成長し、フェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリアの小姓などを勤める。その後、ヌエバ・エスパーニャ副王だった伯父のルイス・デ・ベラスコに重用され、1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともない1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣される。
 フィリピン臨時総督の後、パナマ地方長官兼軍司令官などを勤め、1627年にフェリペ3世によりバリエ・デ・オリザバ伯爵に叙爵され、1636年に没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%99%E3%83%AD
 「『ドン・ロドリゴ日本見聞録』・・・は、スペインの・・・ビベロが執筆した書物。・・・遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A6%8B%E8%81%9E%E9%8C%B2

 ビベロに対して家康は、宣教師の保護を約束した。
 やはりフィリピンとの貿易をなんとしても実現したかったからだろう。
 家康はこれより先1602年・・・と05年、フィリピン総督に対してキリスト教の布教禁止を通知していたが、ビベロへの家康の回答はこれらの措置の凍結を意味していた。
 貿易を実現させるためには宣教師の滞在=布教は容認せざるをえない、と判断したのだと思われる。・・・
 家康はビベロに、メキシコに帰国する船や必要な資金を提供することを申し出るとともに、銀の精錬技術をもった鉱山技師50人をメキシコから派遣してほしいと要請した。
 家康はこのとき、イギリス人ウィリアム・アダムス<(注33)>が日本で築造した外洋船二隻をもっていた。

 (注33)William Adams(1564~1620年)。「<イギリス>南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長として<スペインの無敵艦隊>アルマダ<と>の海戦に参加した。・・・
 航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。・・・
 しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号はポルトガルに、ブライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
 関ヶ原の戦いの約半年前の1600年・・・3月16日・・・、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人や<イギリス>人を即刻処刑するように要求している。
 結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
 <1600>年3月30日・・・、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダや<イギリス>などプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。
 江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。
 やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年・・・に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年・・・には120tの船舶を完成させる。
 この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に采地も与えた。また、三浦按針(”按針”の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の”三浦”は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9

 日本船を提供することで、直接メキシコへの通路を確保しようという思惑であった。・・・」(129、131~132)

⇒「すでに日本の造船技術は高く、朱印船では百人から四百人も乗れる船があった。ガレオン船<等の外洋船>をつくる指導さえあれば、日本人の造船技術でそれを造ることができたのである。」
https://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11590536413.html
という、田中英道(コラム#11375)の指摘を頭に入れておきましょう。(太田)

(続く)