太田述正コラム#12255(2021.9.9)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その22)>(2021.12.2公開)

 「そこにあらわれたのが、・・・伊達政宗<(注38)>であった。

 (注38)「伊達邦宗(政宗の直系子孫)が著した『伊達家史叢談』に、明治天皇が政宗を「武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」と評したと記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

⇒家康同様、政宗にも日蓮主義の気(け)はうかがえず、そういう意味では、信長や秀吉に比して政宗は保守的な人物だったと言えそうですが、そんな政宗を絶賛した明治天皇の保守性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
がここからも窺えるというものです。
 このような明治天皇の保守性をもたらしたのは、岩倉具視、元田永孚、それに佐々木高行、ではないか、というのが、現時点での私の仮説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E8%A1%8C (太田)

 1613年2月・・・、窮状を見かねた政宗はビスカイノに新造船の提供を申し出た。・・・
 1612年、家康が宣教師ルイス・ソテロをメキシコ副王への使者として乗船させたサン・セバスティアン号は浦賀を出港直後に難破したが、じつは同号に政宗は家臣2人を乗り込ませていた。
 こうした経緯をみると、遅くとも1610年よりも早い段階に、宣教師を招聘して教会領地を提供し、メキシコとの通商関係を開く構想を抱いていたといってよい。・・・
 政宗による船の提供が家康の許可を得たものであったことは、1613年5月・・・に幕府の船奉行向井将監<(注39)>が船大工を仙台に派遣したことからもわかる。・・・

 (注39)向井忠勝(1582~1641年)。「徳川水軍の将で御船手奉行であった向井正綱の子として誕生。・・・1601年・・・、徳川秀忠の元で、父・正綱とは別に相模・上総国内に500石を拝領し、御召船奉行として下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に陣屋を置いた事が記録されている。大坂冬の陣では九鬼守隆、千賀信親、小浜光隆らとともに水軍の将として出陣。下福島村付近から出兵し、野田・福島の戦いでは大野治胤らの豊臣水軍と小競り合いを繰り返し、その後も木津川付近にて豊臣軍に対し終始優位に立ち、大坂湾の制海権を押さえる活躍を見せた。その功により・・・1615年・・・500石を加増され、・・・1617年・・・に2,000石を加増され3,000石となり、父の死後は父の遺領を継ぎ合わせて5,000石、・・・1625年・・・には相模・上総の両国で合わせて6,000石となり、大身の旗本として封ぜられた。
 忠勝は江戸幕府2代将軍・秀忠の信頼は篤く、船の移動の際には必ず忠勝を随行させている。また造船技術は父譲りであ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D

 支倉常長<(注40)>は、政宗のスペイン国王とローマ教皇宛の親書をもっていた。

 (注40)1571~1622年。
 ソテロは家康と秀忠のメキシコ副王宛親書を預かっていたので、幕府の使者としての性格も有していた。
 こうした任務からみて、政宗と徳川政権とはメキシコ貿易を実現したいという共通の意思をもっていたということができる。・・・
 <江戸でさえ、その位置から南蛮貿易には地の利を得ていなかったが、>政宗は、マニラ・メキシコ航路が仙台沖を走ることに着目し、食糧や薪水を供給する寄港地として、あるいはメキシコとの直接貿易地として、みずからの立地を活かそうとしていた。
 東南アジアには遠いが、太平洋の向こうのメキシコにはもっとも近いという逆転の発想であった。
 インド洋経由でヨーロッパとつながるポルトガル商人は、太平洋横断航路を使わない。
 そのため政宗のねらいは、マニラのスペイン人に絞っていた。・・・
 家康のメキシコ副王宛の書簡には布教禁止が明記されているので、禁教政策に変更はない。
 しかし、伊達政宗がスペイン国王やローマ教皇に宛てた親書では宣教師の派遣を求めている。
 家康と政宗の考えている方向は正反対だといってよい。
 この矛盾した内容を合理的に説明できないために、政宗は密かにスペインと手を組んで倒幕をねらっていたという倒幕野望説、あるいはスペインとの軍事同盟説などが生み出されてきた。
 だが、方向性の異なる二つの方策を一致させる手段が一つだけある。
 それは、布教は伊達領に限る、という合意である。
 現代風に言えば、布教特区とでもいうべきアイデアであった。・・・」(164~166、168~170)

⇒「1612年に岡本大八事件・・・が起こると、・・・家康はそれまでの態度を一転して諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌<1613>年になると側近以心崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1616年に徳川家康が亡くなると、「東照大権現」とされて神として祀られたこともキリスト教禁止に影響を与えたとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
という次第であり、支倉常長が出発した時点では、まだ、「諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止」が通達されていただけであって、諸大名の臣下、や、庶民、すなわち陪臣や庶民のキリスト教は禁止されていなかった、だから、例えば、伊達藩においては、政宗だけが非キリシタンであれば、常長等の武士や庶民はキリシタンたりえた、という単純な話だったのではないでしょうか。(太田)

(続く)