太田述正コラム#12289(2021.9.26)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その7)>(2021.12.19公開)

 「<当時の>日本は・・・アジアと対比されるヨーロッパ世界の存在を認識できたであろうか。・・・
 結論を先に述べれば「否」である。
 たとえば、南蛮宗と呼ばれたキリスト教は、天竺から渡来した仏教の一派とみなされていた。
 キリスト教が在来の神仏思想と対立するものであれば日本に入り込むことはできない。
 宣教師は僧衣を纏い、仏教の言葉を借りて布教に努めた。

⇒「布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書のデウス(神)を「大日」と訳したこと、ザビエルらが仏教発祥の地であるインド(天竺)から来たこと、日本人の間で「外来の宗教と言えば仏教」という考えが強かったことなど、複数の要因からキリスト教は「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解されることも多かった。布教当初、「知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げている」と認識したザビエルらは、すぐに仏教用語をできるだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
という次第であり、三鬼は、日本人達のキリスト教に対する、伝来初期の「誤解」、と、理解、とをあえて混同して説明している、と言うべきでしょう。
 なお、「キリスト教伝来(1549年)から徳川幕府によるキリスト教禁教までの期間、日本に建てられた・・・教会堂の通称<は、>・・・南蛮寺(なんばんじ、なんばんでら)<であった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA
ところではあります。(太田)

 一例を挙げれば、デウスは大日(だいにち)と訳されている。
 発音が似ているとはいえ、大日如来<(注16)>は密教の本尊で、太陽神信仰に起源をもち、その光明は世界をあまねく照らすという汎神論的なものである。・・・

 (注16)「密教の教主。諸仏・諸菩薩の根元をなす理智体で,宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる。智徳の表現が金剛界大日,理徳の表現が胎蔵界大日とされ,天台宗では大日如来と釈迦如来は法身・応身で同体とし,真言宗では釈迦如来は顕教の教主とみて異体とする。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5-91806
 「神仏習合の解釈では天照大神・・・と同一視もされる。・・・
 日本密教における「大日如来は密教の根本仏」という観念は、チベット仏教には当てはまらない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

⇒大日如来が「太陽神信仰に起源をもち、・・・汎神論的なものである」との三鬼の主張には首をひねらざるをえません。(太田)

 やがて宣教師側も矛盾に気づき、教義の説明には原語を用いる方針に改めている。・・・

⇒三鬼が典拠を示していないこともあり、「<当時の>日本は・・・アジアと対比されるヨーロッパ世界の存在を認識できた」に、(「アジア」的な観念が当時あったかどうかはさておき、「アジアと対比される」という表現にもひっかかるけれど、)決まっている、と、申し上げておきましょう。(太田)

 京都に建てられた南蛮寺は、・・・老朽化した寺院を改修した和風の建造物だった。・・・
 周囲は高い塀で囲まれ、櫓をつければ城郭に転用できるような防御機能を備えていた。」(103~104)

⇒「都の南蛮寺(1576年)<は、>・・・当初は仏教の廃寺の建材を流用することが意図されたが、価格面で折り合いがつかず、新たに建てることとなった<ものであり、>・・・和風を基本としながら、ヨーロッパ特にイタリアの建築様式やキリスト教に関連するモチーフが加味されたものと推測される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA
ところ、「老朽化した寺院を改修した和風の建造物だった」とはこれいかに?
 また、「仏塔を別にすれば、当時は3階建ての建物は京においても異例であり、・・・<南蛮寺>建設にあたって、キリシタンの寺から見下ろされる形になることに京の町衆から抵抗があ<った>」(上掲)らしいものの、「城郭に転用できるような防御機能を備えていた」という三鬼の主張にも首を傾げざるをえません。(太田)

(続く)