太田述正コラム#12455(2021.12.18)
<皆さんとディスカッション(続x5022)/徳川家康、並びに、近衛・島津家の布石、及び、天皇家の転落>

<太田>

 コロナウィルス「問題」。↓

 「・・・死者はなく、・・・計1万8376人から変わらなかった。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/

 それでは、その他の記事の紹介です。

 大阪ビル火災事件。↓

 「出火に関与した疑いの男、事件直前に自宅も燃える・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/21373079/
 「大阪ビル放火疑いの男は意識不明の重体・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/21373082/
 「放火疑い男火元医院に通院 関係先から診察券・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%94%be%e7%81%ab%e7%96%91%e3%81%84%e7%94%b7%e7%81%ab%e5%85%83%e5%8c%bb%e9%99%a2%e3%81%ab%e9%80%9a%e9%99%a2-%e9%96%a2%e4%bf%82%e5%85%88%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a8%ba%e5%af%9f%e5%88%b8/ar-AARVJdT?ocid=UE03DHP
 「現場の心療内科クリニック、会社員らの復職支援に力…大阪・北新地ビル火災・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20211217-OYT1T50261/
 「無色無臭、一酸化炭素の怖さ 0・5%でも1~2分で死亡・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/21373100/
 「<火元は4階だが6階の女性に>「大丈夫」消防隊員は声をかけ続けた 窓ガラス溶け、上がった黒煙・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/21372749/
 「ビル火災に遭遇、命を守る方法は? 3階以上ならば「くの字」呼吸も・・・」
https://www.asahi.com/articles/ASPDK5HKGPDKPLBJ008.html?ref=livedoor

 視力が失われなかったことはよかったが・・。↓

 「硫酸事件被害男性「人と関わるのが不安」 痛む傷口、視力不安定・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%a1%ab%e9%85%b8%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e8%a2%ab%e5%ae%b3%e7%94%b7%e6%80%a7-%e4%ba%ba%e3%81%a8%e9%96%a2%e3%82%8f%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8c%e4%b8%8d%e5%ae%89-%e7%97%9b%e3%82%80%e5%82%b7%e5%8f%a3-%e8%a6%96%e5%8a%9b%e4%b8%8d%e5%ae%89%e5%ae%9a/ar-AARUCGH?ocid=hplocalnews

 検察とドスコイおじさんが手打ち。親方はアンタッチャブル。↓

 「日大前理事長を脱税罪で起訴へ 妻の立件見送り・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%97%a5%e5%a4%a7%e5%89%8d%e7%90%86%e4%ba%8b%e9%95%b7%e3%82%92%e8%84%b1%e7%a8%8e%e5%ae%b9%e7%96%91%e3%81%a7%e5%91%8a%e7%99%ba-%e5%a6%bb%e3%81%af%e8%a6%8b%e9%80%81%e3%82%8a-%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e5%9b%bd%e7%a8%8e%e5%b1%80/ar-AARUrG5?ocid=hplocalnews
 「・・・田中前理事長は17年分までは役員報酬と不動産収入を税務申告してきたが、業者からの現金を受け取ったことで多額の納税が見込まれるようになり、妻には受け取った現金を除外して「これまで通り申告しておけ」などと指示したという。特捜部は田中前理事長と妻が共謀したとみて捜査を進めてきたが、妻は田中前理事長に従う立場に過ぎず、立件の必要はないと判断した模様だ。」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e5%a4%a7%e3%81%8d%e3%81%aa%e3%82%ab%e3%83%8d%e3%81%8c%e5%85%a5%e3%82%8b%e5%ba%a6%e3%81%ab%e5%a6%bb%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a0%b1%e5%91%8a%e3%80%8d-%e6%97%a5%e5%a4%a7%e3%83%bb%e7%94%b0%e4%b8%ad%e5%89%8d%e7%90%86%e4%ba%8b%e9%95%b7%e8%b5%b7%e8%a8%b4%e3%81%b8/ar-AARUodv?ocid=UE03DHP

 資本主義/個人主義、も、戦争/冒険好き、も、ゲルマン人の遺伝子が生み出したビョーキなんだぜ。↓

 「資本主義の「無限拡張」を疑う より豊か…求める果ては 佐伯啓思氏・・・」
https://www.asahi.com/articles/ASPDK21WXPDFUPQJ005.html?iref=comtop_7_01

 上記ビョーキ本舗であるところの、大英帝国サマ、没落後時間が経ち、ついに老醜をさらし始められたようで・・。↓

 In a bad sign for Boris Johnson, Britain’s Conservatives lose Parliament seat they held for nearly 200 years・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2021/12/17/boris-johnson-election-lib-dems/

 これは、最近も繰り返し言ってることだが、モンゴルの軛症候群っちゅうビョーキなんだぜ。↓

 Russia broadens security demands from West, seeking to curb U.S. and NATO influence on borders・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2021/12/17/ukraine-russia-military/

 日・文カルト問題。

 <またもや、コロナ死者数休刊日習慣戻る。↓>
 <それが何か?↓>
 「感染者急減の日本、来年1月以降も外国人「締め出し」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/285803
 <ハイ、残念でしたね。↓>
 「「メガネ先輩」率いるカーリング女子韓国代表、日本にまた敗れる・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/12/18/2021121880004.html

 ちゃう、エルドアンをイスラム教で置き換えりゃ正しいけどね。↓

 In Turkey, critics say the sultan has no clothes. Erdogan’s advisers won’t tell him.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2021/12/17/turkey-erdogan-currency-crisis/

 ノーコメント。↓

 An opposition state lawmaker apologized Friday for making a rape joke in the Karnataka legislative assembly in southern India.
 “There is a saying that when rape is inevitable, lie down and enjoy it,” lawmaker K.R. Ramesh Kumar said in response to a comment made by Speaker Vishweshwar Hegde Kageri about Kageri’s helplessness to impose order in the state assembly. The speaker and other lawmakers laughed at Kumar’s joke.
 The remark drew condemnation from female lawmakers from Indian Prime Minister Narendra Modi’s Bharatiya Janata Party, while Kumar’s Congress Party said his comment was “insensitive.”・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2021/12/17/state-lawmaker-india-rape-joke/

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 報道価値なし。↓>
 「孔鉉佑駐日大使「隣国日本が中国の発展による新たなチャンスを先んじてつかむことを歓迎」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2021/1217/c94474-9934282.html
 <ここからは、サーチナより。
 定番。↓>
 「日本は「想像と違っていた」、実際に住んで感じた「メリット、デメリット」・・・中国メディアの網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1704286?page=1 
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一人題名のない音楽会です。
 ショパンの作品の落穂拾いの六回目です。
 前に一度登場したことがある、ニコライ・ホジャイノフ(Nikolay Khozyainov。コラム#12300)による演奏ばかりの小特集にしてみました。 

Wiosna (Spring) in G minor Op.74-2(注a)(1838年) 1.04分
https://www.youtube.com/watch?v=FK0Jj4sXb90

(注a)1968年に初出版。同名のショパンの歌曲(作品74-2)のピアノ編曲版
https://enc.piano.or.jp/musics/926

Moderato in E major ‘Albumblatt’ Op. posth(1843年) 2.49分
https://www.youtube.com/watch?v=gAgwdkSI4uA

Fugue in A minor Op. posth(注b)(1840?年) 2.35分
https://www.youtube.com/watch?v=C_auS2XcYfY

(注b)1898年初出版。「ショパンはバッハに深い尊敬の念を抱いていたことから対位法に強い関心を抱いており、1841年には対位法を学び直すためにケルビーニの『対位法とフーガ教程』を入手し、その中の3つのフーガを写譜するなどしていた。そのため、後期の作品には対位法手法を取り入れた楽曲が多く存在する。 このフーガもその中の1つであるが、その一方で若い時の習作か弟子の教育のために書かれたものとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC_%E3%82%A4%E7%9F%AD%E8%AA%BF_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)

Cantabile in B-flat major, B.84(注c)(1834年) 1.43分
https://www.youtube.com/watch?v=vBeOAbxSiFE

(注c)1931年に初出版。
https://musopen.org/ja/music/4362-cantabile-in-b-flat-major-b-84/

Bolero in A minor Op. 19(注d)(1833年) 8.57分
https://www.youtube.com/watch?v=3nVGU5unThY

(注d)「曲はハ長調の即興的な序奏部と、イ短調のボレロ主部となるが、その中間部はボレロのリズムから離れホ長調や変イ長調のむしろ夜想曲と言える部分になり、しかも全体はイ長調で終結するので、全体を統合する調性は不明であり、作風は非常に気まぐれである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%AD_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)
 「ボレロ(bolero)はスペイン起源のダンス音楽、もしくは大衆音楽ではキューバ起源の音楽である・・・。18世紀末に始まったもので、1780年頃に舞踊家セバスティアーノ・カレッソ(Sebastiano Carezo)が創作したともいう。3拍子で、元来は歌にカスタネットやギターでリズムをつけ、1人またはペアで踊るダンスだった。19世紀になるとヨーロッパ全体に広まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%AD_(%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E9%9F%B3%E6%A5%BD)

Funeral March in C minor Op.posth 72(注e)(1827年) 5.56分
https://www.youtube.com/watch?v=vIiJeZQpyGU

(注e)死の6年後の1855年出版だが、遺作扱いになっている。
https://musopen.org/ja/music/616-funeral-march-in-c-minor-op-posth-72-no-2/
 ショパンには、より有名な葬送行進曲であるソナタ2番の3楽章がある。
https://imslp.org/wiki/Marche_fun%C3%A8bre%2C_Op.72_No.2_(Chopin%2C_Fr%C3%A9d%C3%A9ric)

Contredanse in G-flat major B.17(注f)(1827年) 3.41分
https://www.youtube.com/watch?v=qKC9p-Fo9pY

(注f)「コントルダンスは、2組の男女が向かい合って踊るフランスの舞踊。イギリスの民族舞踊であるカントリー・ダンスに由来する。フランスでは17世紀から18世紀初頭に栄え、後にカドリーユと呼ばれる舞踊へと変化した。コントルダンスはフランス宮廷に伝わったが、宮廷のみならず舞踏会や町の結婚式、宴会など多くの場所で踊られた。コントルダンスの音楽は通常2部ないし3部から成り、生き生きとしたテンポである。踊り手のポジションに従って、これらの部分は「エテ(夏)」「パストゥレル(牧歌風)」「トレニ/トレニック」、「シャス・クロワゼ」などの異なる音型が用いられる。
 ショパンの作品は、コントルダンスがまだ流行していた1827年に作曲され、彼の没後1934年になってから初めて出版されたが、偽作の疑いがある。」
https://enc.piano.or.jp/musics/544

Chopin Variations in A major on “The Carnaval of Venice” by Paganini(注g)(1829年) 4.48分
https://www.youtube.com/watch?v=fKu8Npg2rbk

(注g)’The “Carnival of Venice” is based on a Napolitan folk tune called “Oh Mama, Mama Cara” and popularized by violinist virtuoso and composer Niccolò Paganini, who wrote twenty variations on the original tune. He titled it “Il Carnivale Di Venezia,” Op. 40. Chopin’s “Souvenir de Paganini” for piano, is dedicated to Niccolò Paganini.’
https://www.facebook.com/389934624386194/posts/the-carnival-of-venice-is-based-on-a-napolitan-folk-tune-called-oh-mama-mama-car/2858679927511639/
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      徳川家康、並びに、近衛・島津家の布石、及び、天皇家の転落

I 徳川家康
1 先祖達
2 本人
[大樹寺]

II 近衛・島津家の布石
1 始めに
2 近衛尚道
3 近衛稙家
4 近衛前久
5 近衛信尹
6 近衛信尋
[禁中並公家諸法度第1条]
7 近衛尋子
8 近衛熙子/天英院
[近衛家と鷹司家]
9 安己君
[徳川宗春の悲劇]
10 清閑寺竹姫/浄岸院
11 島津篤姫/近衛寔子/広大院
12 島津(源)篤姫/近衛(藤原)敬子/天璋院
[近衛家の墓所]

III 天皇家の転落
1 始めに
2 後奈良天皇 
3 正親町天皇
4 後陽成天皇
[猪熊事件当時の近衛前久と信尹]
5 後水尾天皇
6 明正・後光明・後西天皇
 (1)明正天皇
 (2)後光明天皇
 (3)後西天皇
7 霊元天皇
[近衛家と赤穂事件]
8 東山天皇
9 中御門天皇
10 桜町天皇
11 桃園・後桜町天皇
 (1)桃園天皇
[宝暦事件]
[垂加神道]
[宝暦治水事件]
 (2)後桜町天皇
12 後桃園天皇

IV 終りに

I 徳川家康

1 先祖達

 「松平信光<(1404?~1488年)は、>・・・三河国松平氏3代当主<で、>・・・徳川家康の7世祖父。・・・松平氏当主として系譜の史料で実在が確認できるのは信光からである。・・・応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親<(注1)>に仕えたと言われる。・・・
 滝村萬松寺や岩津信光明寺、岩津妙心寺(明治時代に京都市中京区円福寺町の圓福寺と寺号交換)などを建立し、岩津城で逝去した。逝去により家督は三男の親忠が継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%85%89

 (注1)「1454・・・年,[桓武平氏の流れを汲む]父貞国の跡を継ぎ室町幕府に出仕したが,家職の政所執事は二階堂忠行に奪われ,・・・1460・・・年,ようやく同職に就任した。以後僧録司の相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂と組んで次第に幕政に介入し,殿中惣奉行,御厩別当などを兼ね,将軍足利義政の信任を得た。彼らの政治干与を可能にしたのは,将軍義政の無能もあるが,有力守護家の内訌による混乱と,その結果としての宿老政治の破綻であった。・・・1466・・・年7月には斯波家の紛議に介入して義敏擁立に動き,同年9月には日野富子の足利義尚出産を奇貨として足利義視暗殺を謀り,細川勝元ら宿老の指弾にあって近江へ逃亡した。これが文正の政変で,半年後にはじまる応仁の大乱の導火線となる。大乱勃発後ほどなく幕政に復帰したが,義視はこれを嫌悪して自ら西軍(山名持豊方)に投じ,戦乱の混迷に拍車をかけた。・・・1471・・・年官を辞し,出家。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA-30954
 「ちなみに伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、貞親の同族備中伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるともいう)とされ、貞親の推挙によって義視に仕えたと言われている。また徳川将軍家の先祖にあたる三河の国人領主松平氏宗家第3代松平信光は、貞親の被官であり、貞親の命で額田郡一揆の平定にあたるなどして勢力を伸ばし、〔西三河の3分の1を所領と<するに至り、>(上掲)〕のちに戦国大名化していったとされる。・・・
 伊勢貞親教訓は、室町時代後期に伊勢貞親が嫡男貞宗に対して著した教訓状である。・・・「神仏への崇敬」「公私における主従関係の徹底」「武芸を重視した教養の習得」「日常からの礼儀作法の厳守」という4点は、伊勢氏に限らず武家一般の基本的なあり方について論じている部分が多く、鎌倉幕府の北条重時による『北条重時家訓』と並んで後世に影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA ([]内も)

⇒信光が建立した「信光明寺(しんこうみょうじ)は、愛知県岡崎市岩津町東山にある浄土宗の寺院。・・・<1479>年・・・、後土御門天皇の勅願所とされた」寺だし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA
「妙心寺は・・・信光が・・・1461<年>に没した彼の室と、子の親則の菩堤のために建立した寺<であり、>・・・転地交換がなされ<たところの、>・・・もとは京都にあった・・・妙心寺<は、>・・・浄土宗西山深草派大本山の寺院」だ。
https://okazaki-kanko.jp/point/510
 このように、浄土宗の立派な寺を二つも建立したことから、信光は、プロに近い熱心な浄土宗信徒であったと思われる。
 しかし、考えてもみよ。
 仏教の宗派が僧兵を擁したりその一般信徒達が武装したりすることはあるが、それは、当該宗派が武家化することを意味しないし、禅宗系は(私見では)武家の縄文性毀損を回復させることを旨としているのでその信徒たる武家にとって信徒となるのは自然なことだったし、日蓮宗に至っては(私見では)武家に武力を用いて日蓮主義遂行を促す宗旨なのでやはり武家にとって問題はなかったけれど、浄土宗の場合は、来世(非現世)志向であることに加え、松平家は、当時既に浄土宗の主流になりつつあった鎮西派(鎮西義)であった、というか、鎮西派の興隆に最も貢献した武家であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2
ところ、鎮西派の場合、念仏でも善行でもどちらでも極楽往生できるとする
https://www.e-sogi.com/guide/16630/
https://kotobank.jp/word/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%B4%BE-570001
けれど、武家は殺傷戒等を破らねば武家たりえない・・悪行を行わざるをえない・・が故に、武家は、熱心な信徒であればあるほど、心理的葛藤に苛まれるはずである、ということを・・。
 (付言すれば、初期の家康を危機に陥らせることになる浄土真宗は、浄土宗中の、念仏が極楽往生の唯一の方法であるとする西山派(西山義)の教義、
https://www.e-sogi.com/guide/16630/ 前掲
を更に極端にして、念仏さえしておれば悪行を積んだ人間でも極楽往生できるとしているわけだ。
https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E4%BA%BA%E3%81%AA%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A6%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%82%92%E9%81%82%E3%81%90%E3%80%81%E6%B3%81%E3%82%93%E3%82%84%E6%82%AA%E4%BA%BA%E3%82%92%E3%82%84-2236687 )(太田)

 「松平親忠<(ちかただ。1431/1438~1501年)は、>1489年・・・頃に、父<信光>が死去したために家督を継ぎ、安祥城主・安祥松平家初代となる。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。
 『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康ら松平氏を代表する人物が現れたため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。・・・
 <親忠は、>合戦の戦死者を弔うため、松平氏菩提寺の大樹寺を創建<し、また、>・・・1477年<、>・・・大恩寺(愛知県豊川市御津町御津山山麓)の開基<(注2)>として同寺を中興する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E5%BF%A0

 (注2)「開基<とは、>・・・寺院を開創すること。また寺院を開創した僧(開山)、あるいは開創のために土地や資財を寄進した在俗の信者をさす。・・・多くの場合開山と開基は同義語的に用いられるが,禅宗や浄土宗では寺院の創建に尽力した資主(檀越(だんおつ))を開基とよび,その開創の僧を開山とよんで区別している。」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%8B%E5%9F%BA-456977

⇒信光の子で、結果的に徳川家の祖ということにさせられた親忠は、子を男子だけでも9人も作った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E5%BF%A0 前掲
後、早期に出家している上、父同様、浄土宗の寺院を少なくとも二つ建立(事実上の建立を含む)しており↑↓、僧侶志向が強い人物だったと思われる。
 その男子の中から、高僧が出現したのは、必然だったと言えそうだ。↓
 「存牛<(ぞんぎゅう。1469~1550年)>は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土宗の僧。浄土宗総本山知恩院25世。父は三河国の松平氏宗家第四代松平親忠。号は尊蓮社超誉。諡号は高顕真宗国師。
 1481年・・・祖父松平信光が建立した三河国信光明寺の開山で、増上寺開山聖聡の弟子だった存冏に師事して出家。その後父親忠が開基となり中興した大恩寺の開山で、同じく聖聡の弟子だった了暁に教学を学び、1511年・・・信光明寺3世となる。また松平郷高月院第七代住持も務めた。
 1520年・・・、同じく了暁門弟だった知恩院24世訓公の遺言で後継者に推されるもののこれを固辞。しかし後柏原天皇の綸旨と知恩院門末の懇請により、翌年京都知恩院25世を継いだ。応仁の乱(1467年-1477年)で荒廃した知恩院を再興するとともに皇室との関係を深め、後柏原天皇から浄土門総本寺と公称することを勅許され、さらに後奈良天皇より知恩教院、大谷寺の勅願を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E7%89%9B

 「松平長親<(1473~1544年)は、>・・・<この>松平親忠の三男<で>徳川家康の高祖父<にあたる>。・・・

⇒「松平信光が岩津城を攻略後に松平氏は本拠地を松平郷から岩津城に移した<が、>その岩津城を継承したのが<長男の>親長であ<り、>本拠地を継承したことから、本来の惣領・宗家であった可能性が高いが、のちに彼の家(岩津松平家)は16世紀初頭に今川氏に攻略され没落したらしく、<長親の>安城松平家の隆盛に伴い次第に分家扱いになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E9%95%B7_(%E5%B2%A9%E6%B4%A5%E5%AE%B6)
ところ、「松平信光<が>、長坂新左衛門の拠る加茂郡荻生(おぎゅう)の大給城を攻略して三男の親忠に与え<、その>親忠<が>次男の乗元に細川城と共に大給城を譲<り、>・・・大給松平家の祖」となっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%B9%97%E5%85%83
信光が長男親長の次に、次男を飛び越して目をかけた長親は、恐らくは父親並みかそれ以上に浄土宗の熱心な信徒であったが故に、兄思いの優しい、しかし、武士としては疑問符が付く人間だったようだ。(太田)

 1508年<に>・・・隠退後、入道し道閲と号した長親は、なおも<子の>信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しい上に一門衆・家臣団からの信望が薄く松平党<は>解体の危機に瀕した。

⇒信忠は、祖父や父親に輪をかけた熱心な浄土宗信徒だった、と見る。(太田)

 そのため、家老・酒井忠尚(将監)の嘆願により道閲・信忠父子は、信忠の隠居と信忠の嫡子清康への家督継承を受け入れた。・・・
 晩年は福釜・桜井・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井家の信定<(注3)>を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。

 (注3)?~1538年。「松平長親の三男。桜井松平家初代。松平宗家の家督を巡り、長兄の信忠との対立に始まり、清康・広忠と宗家3代に亘り反意を示したが敗れた。・・・
 1526年・・・には氏族が敵対していた尾張国守山城主となった織田氏と縁を結んだ(嫡男・清定の室に織田信秀妹を迎えたとされ、のちに娘を<信秀の弟の>織田信光に嫁がせたともいう)。・・・
 桜井松平家は江戸時代に入ると各地に転封するが、1711年に10代松平忠喬が移封されて以後摂津国尼崎藩に定着した。明治維新後の1882年に創建された桜井神社(兵庫県尼崎市)には、信定以来16代櫻井忠興(最後の藩主)までの歴代当主が祀られている。創建当初は信定を主祭神、8代忠重(一時改易された桜井松平家を再興)と10代忠喬を併座として祀り、のちに祭神が追加されたという。神号は五十橿戈衝立豊柱根命(いかしほこつきたつとよはしらねのみこと)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%AE%9A

⇒信定は、墓所は浄土宗の桜井山菩提寺(愛知県安城市桜井町)にあるが、出家しなかったようだし、戒名の他に、子孫が贈ったと思われる神号もあることから、浄土宗に余り思い入れはなかったように思われる。
 だからこそ、安城松平家の家中は信定に思いを寄せたのではなかろうか。
 長親は、そのような家中の意見に配慮せざるをえなかったのではないか。(太田)

 このために家臣団の失望を招いたという<説がある>。

⇒だから、話は逆だったのではないだろうか。(太田)

 後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば玄孫にあたる)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じている。後の徳川家康である。しかし、長親の溺愛した信定は広忠の代まで家督に固執して松平氏一族とその家臣団に内紛を引き起こし、結果的には少年時代の家康の苦難の遠因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%95%B7%E8%A6%AA

 既に登場したところの、「松平信忠<(1490~1531年)は、>・・・徳川家康の曾祖父にあた<るが、>・・・家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲った<ところ>、その背景には諸説がある。・・・
 34歳にして隠居・出家し・・・隠居先の大浜郷で父に先立ち死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BF%A0 

⇒熱心な浄土宗信徒だったからこそ、長親も信忠も出家した、と見るわけだ。(太田)

 「松平清康<(1511~1535年)は、>・・・西三河の実質的な支配権を得るなかで、従来の支配層である三河吉良氏に対する権威性の確立が求められており、このころ清和源氏のひとつ新田氏一門である徳川氏の庶流・世良田姓に注目。 吉良氏に対する対立軸として世良田次郎三郎と名乗った。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにもつながっているという・・・。・・・
 清康は、斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する大軍で尾張に侵攻。・・・1535年・・・12月、清康は尾張に侵入し織田・・・信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中の12月・・・、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25。・・・
 近年ではこの戦いは織田信秀と対立する織田藤左衛門尉<(注4)>を清康が支援し、これに対して織田信秀と松平信定が連携する構図の中で発生したとされ、信定による陰謀とされる背景となっている(信定の妻は信秀の姉妹であった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E5%BA%B7

 (注4)織田寛故(とおもと。?~1550年)。「藤左衛門家<。>・・・官位は兵部大輔。2代於田井城主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%AF%9B%E6%95%85
 藤左衛門家は、尾張守護代家二家中の清洲織田氏の配下の清洲三奉行家のうちの一つ。織田信秀は清洲三奉行家中の弾正忠家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%B8%89%E5%A5%89%E8%A1%8C#%E8%97%A4%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%AE%B6
 信張-信直-信氏-津田清幽、の、清幽(?~?年)は、「織田信長→徳川家康→織田信長→石田正澄(三成の兄)→三成→徳川義直<、と仕えている。>・・・佐和山城・・・落城<の際、>・・・三成の三男佐吉と、11人の石田家家臣(大半が少年だったという)を連れて・・・<脱出し、家康に対し・・・<違約による>佐和山攻撃の不義を説き、11人全員の助命を約束させた<ことは有名。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%B8%85%E5%B9%BD

 「松平広忠<(1526~1549年)は、>・・・守山崩れ<の後、>・・・大叔父信定に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。のち今川義元の後援を受け、1537年・・・ようやく岡崎に帰ったが、以後も松平家では今川・織田勢力を背景に内紛が続いた。そうしたなかで41年、三河刈谷城主水野忠政の女(於大(おだい))と結婚、翌年に竹千代(家康)が生まれた。その後45年安祥(あんじょう)城を攻め、47年には戸田康光の拠る田原城を陥れたが、織田信秀の来攻に際し、竹千代を人質として今川義元に救援を求めた。竹千代が駿府に赴く途中、田原付近で戸田康光に奪われ、織田氏のもとへ送られたのはこのときである。のち三河平定に尽くしたが、<1549>年・・・、近臣岩松八弥(いわまつはちや)に刺殺された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0-136656
 「<但し、>村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している。・・・
 <ちなみに、孝明天皇によって、広忠は、>1848年・・・太政大臣正一位に追贈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0

⇒清康と広忠が出家していないのは、若くして亡くなったから当たり前だが、清康が浄土宗志向がほどほどで、かつ、武士として傑出していたので、祖父の長親は、最終的に信定ではなく、清康を選んだのだろう。(太田)

 以上を総括すれば、家康に至るまでの安城松平家の歴代当主達は、武士としての自分と(程度の差こそあれ)浄土宗のプロに近い熱心な信徒としての自分との間の矛盾に翻弄され続けた、と、言えるのではないか。
 蛇足ながら、ここで、注目されるのは、孝明天皇が、家康の父の広忠に正一位を追贈していることだ。
 これは、同天皇が家康を高く評価していたからだが、当時、家康が贈正一位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
信長が贈従一位、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
秀吉が従一位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
であったことを思え。
 後水尾天皇は、家康の孫を中宮として迎え入れさせられるという弱い立場にあった時に、家康の死の翌年の1617年に、秀忠によって故家康に正一位を贈らされているところ、孝明天皇は、時勢を考えれば、(家康にはそれ以上の位を贈りようがないために、家康の父親に目を付けて、)自発的に贈ったとしか考えられず、これは、信長と秀吉(の、私に言わせれば日蓮主義)を全面否定したに等しい、あらゆる意味で顰蹙ものの行動だった。(太田)

2 本人

 「3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。・・・
 <6~8歳の時、>竹千代は名古屋の織田家の菩提寺である<萬松寺(注5)>に預けられ、この寺で2年間あまりの人質生活を送ってい<る。>・・・

 (注5)「1540年)、織田信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。開山には信秀の叔父にあたる雲興寺第8世・大雲永瑞和尚が迎えられた・・・単立の寺院。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%9D%BE%E5%AF%BA
 「雲興寺(うんこうじ)は、愛知県瀬戸市にある曹洞宗の寺院。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E8%88%88%E5%AF%BA

 駿府に来た人質の竹千代は、大変病弱であったために祖母が付き添って面倒を見た。祖母とは竹千代の生母、つまり於大の方の母源応尼(のちの華陽院)<(注6)>である。

 (注6)華陽院(けよういん。1492~1560年)。「はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。<その後、>・・・星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。・・・松平竹千代(後の徳川家康、清康の・・・子である松平広忠と娘である於大の方との間に生まれた子)が今川氏の人質として駿府に送られると、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたった。・・・
 華陽院の墓は静岡市葵区鷹匠2丁目24番18号の玉桂山華陽院(浄土宗)にある。この寺は元、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたものであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E9%99%A2
 「水野忠政<の>・・・墓所<は、曹洞宗の>乾坤院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%94%BF
 「勉学のため<、華陽院>は竹千代に、智源院<(浄土宗)>の智短和尚に手習いを学ばせた。」
https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_01.htm
 「臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣<の>・・・太原雪斎<(1496~1555年)を、>・・・人質時代の徳川家康の学問・軍学の師とする説も存在しており、小和田哲男が支持している。しかし雪斎の駿府不在時期と重なり、雪斎は名目上の師で実際は雪斎の弟子が行ったとする説を始め、その他異論・反論も多く、雪斎を家康の師匠としている『朝野旧聞裒藁』の記述も疑問視されている。
 雪斎は『御屋形対諸宗礼之事』という義元の太守としての心得を遺している。これによると雪斎は有徳の僧侶であれば形式などくだらないものにこだわらないで尊敬する事、禅師・上人などの号に奢って堕落する高僧を非難するなど、合理主義者としての素養を伺わせる一文がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E

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[大樹寺]

 「大樹寺<は、>・・・1475年・・・、戦死者供養のため松平親忠<(前出)>の開基・・・により・・・創建された・・・浄土宗の寺院・・・。「大樹」<(注7)>とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わるもので、全国の寺院で例のない命名である。

 (注7)「近衛大将、征夷大将軍の唐名。後漢の時代、諸将が手柄話をしているときに馮異(ふう・い)はその功を誇らず、大樹の下に退いたことで士卒から大樹将軍と称賛されたのが由来(「後漢書」《馮異伝》)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A8%B9
 「8世紀前半、大宝律令・養老律令により二官八省以下の職制が整備され、百官の職名が制定されていった前後からすでに、同様の職掌を有する唐風の職名および部署名を一種の雅称として用いることが行われていたが、唐風文化に心酔する藤原仲麻呂(恵美押勝)が政権を握ると、・・・758年・・・百官名をすべて唐名で言い換えることが行われた・・・。
 764年・・・仲麻呂失脚後は旧に戻されたが、その後も官職の別名・雅称として唐風の官名が用いられることが多かった。奈良時代後半から平安時代にかけて生じた様々な令外の官についても、唐名がつけられた(蔵人頭・検非違使などの令外官を置いた嵯峨天皇も唐風文化の心酔者であった)。
 これらの唐名は、本家<支那>歴代王朝の職制と完全に一致するわけではないため、必ずしも一対一で置換ができるものではない。そのためいくつかの職においては重複するものあり、逆にひとつの職に対し複数の唐名があるものも少なくない。
 唐名は、除目における朝廷の正式な位記等に記されることこそ無かったが、書簡・日記・漢詩など私的な文書には頻繁に用いられた。・・・
 近衛大将<は、>羽林大将軍(うりんだいしょうぐん)、幕府(ばくふ)、幕下(ばっか)、大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)<、が唐名だった。>・・・
 『職原抄』によれば本来は近衛大将に用いたものだが、源頼朝が右近衛大将(右大将)に任官後に征夷大将軍に就任したことから、以後は征夷大将軍の唐名としても扱われるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%90%8D
 「雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。・・・明帝が前代の功臣たちに感じて洛陽南宮の雲台に二十八将の肖像画を描かせたことから「雲台二十八将」と称される。・・・雲台にはその他の功臣、王常・李通・竇融・卓茂も加えられて計32人が顕彰されたため、「雲台三十二将」と称されることもある。しかし、同じく光武帝の功臣のひとりである馬援は、すでにその娘が明帝の皇后となっていたため選ばれなかった。・・・
 雲台二十八将は天下統一の後に前漢初めの功臣のような粛清を受けなかった一方で、朝廷の要職に任用されることもなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%8F%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B0%86
 「馮異(ふう い、? – 34年)は、後漢の武将。・・・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第7位に序せられる(『後漢書』列伝12)。・・・
 陣営・所属等 王莽→更始帝→光武帝・・・
 職官 潁川郡掾→主簿〔更始〕→偏将軍〔劉秀〕→孟津将軍〔劉秀〕→征西大将軍〔後漢〕(後に兼領北地太守事、領安定太守事、行天水太守事)・・・
 諸将が戦功とその褒賞を論議する際にはこれに加わらず、ひとり大樹の下に離れた。士卒は彼を「大樹将軍」と呼び、王郎を破った後の兵の再編成では士卒はみな「大樹将軍に属したい」と言った。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%95%B0

 親忠により大樹寺は安城松平氏の菩提寺とされ、松平郷の高月院にあった墓から分骨され、先代3代である松平親氏墓、松平泰親墓及び松平信光墓が大樹寺に作られ<、>・・・1535年・・・、岡崎松平家当主松平清康により再興され<た。>・・・

⇒「注7」で大樹について説明した諸文を紹介したが、私自身は、「菩提樹の名前は、パーリ語及びサンスクリット語の“budh”という語根に由来し、覚醒する、転じて知り尽くすまたは完全に理解するという意味をもつ<ところ、> 動詞語根である<この>budhが、仏教関連では名詞形の“ボーディー”(bodhi)として、ブッダの悟りを示す<ところ>、下に座って悟りを得たとされる木がボーディーの木(Bodhi vriksha)と知られるようになった。 日本語での菩提樹は<、支那>でボーディーの音写となる菩提(ぼだい)、またボーディーの木が菩提樹とな<ったものが>日本語で取り入れられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%AE%E8%8F%A9%E6%8F%90%E6%A8%B9
ということから、親忠は、戦死者と安城松平家歴代の供養、つまりは、戦死者と安城松平家歴代の菩提を弔うために、菩提樹の意味で大樹寺と名づけた寺を建立した、と見ており、自分の、藤原氏姓、そして藤原氏から源氏への転姓、をでっちあげた家康が、足利家の故事(注8)を念頭に、大樹寺の名前の言われもでっちあげた、と考える。(太田)

 (注8)「今川貞世(了俊)の著作である『難太平記』(・・・1402年・・・)によれば、足利氏には、先祖に当たる平安時代の源義家が書き残したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したという。二代後の子孫たる足利尊氏・直義兄弟はこれを実見し、貞世自身もその置文を見たことがあると記している。・・・「家時の置文」そのものの実在は確実である。しかし、直義がこの置文を見たのは建武の乱から15年後であるため、これが挙兵の動機であるとは考えにくい。また、「家時の置文」の内容自体も、貞世の主張する「天下を取れ」というものとは別物だったと考えられている。「足利氏は源氏嫡流である」という認識は、室町幕府成立後に、幕府が正当性を高めるために行った工作によって広まったものであり、貞世が語る義家・家時の天下取り伝説も、その源氏嫡流工作の一環であるとするのが有力である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B6%E6%99%82

 [・・・1557・・・正月15日、元信は蔵人元康と改名した。義元の勧めで、元康は16歳で瀬名姫(今川義元の姪)と結婚した。一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを今川義元に命じられ初陣を飾った。勝利の陰には大樹寺(松平家の菩提寺)の登誉<(注9)>上人が、衆徒を引き連れ「厭離穢土・欣求浄土」の旗をシンボルに加勢してくれたという。」
https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_01.htm ]

 (注9)天室(信蓮社登誉。?~1574年)。「相模国小田原の人。幼い頃に出家して広く経論に通じ講説に優れていた。・・・家康は天室によって浄土教に帰依した。」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A9%E5%AE%A4

⇒「注9」は浄土宗(恐らく鎮西派)の公式HPの記述だが、浄土宗(鎮西派)は安城・岡崎松平家の宗旨であることから、「家康は天室によって浄土教に帰依した」は私見ではありえない。また、私は、大樹寺の建立理由からしても、その住職は安城・岡崎松平家の関係者だろう。(太田)

 <ところが、>寺の言い伝えによれば、・・・1560年・・・桶狭間の戦いで総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ。しかしついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」<(注10)>・・大意は「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」・・・の教えを説いて諭し<、>これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めた・・・元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる<(注11)ということになっている>。

 (注10)「元康としてはそこで、もはや自分の命はこれまでであるという事を考えまして、先祖の墓前で切腹自害をしようという事をその時の住職13代登誉上人に告げるわけですね。登誉上人は名将たるものは命を粗末にしてはいかんという事で、そこで皆さん方にお渡しをしました元康との問答がございますので、ちょっとご覧になっていただきたいと思います。大意だけ申し上げます。「師曰く檀主の危難あるは法門の厄に係れり」師というのは登誉上人の事であります。いわゆる檀家さん、大檀家さんが危難にあった場合は、いわゆる大樹寺としても放かっておくわけにはいかん。「公慮りを爲さヾれ吾身命を捨て公を護衛せん」心配しなくても良いと。我身命を捨て、公を、公は元康の事ですね、守りますと。「即ち緇素しそ若干衆に命じて、寺門を固めしむ」ここに緇素としてありますのは黒と白という意味でありまして、黒が僧侶を表して、白は俗人を表す。緇素、僧侶と俗人が若干衆に命じて寺を固めると。「公大に異しむ時に師白布を以って旗を製し之に題して厭離穢土欣求浄土と 是に於て師公に問ふて曰く」「君弱冠より戦場に向ふ其心唯だ敵を殺害するに在るか」あなたは若い時から戦場に向かっておるけれども、その心はただ敵を殺すだけにあるのかと。「公の曰く武人の心実に唯然り」元康は武人の心はただその通りであると。
 「師曰く殺害なんの爲ぞ 曰く是れ他に非ず勇を振ひ功を樹て城を抜き國を奪はんとなり何ぞ」殺害を何の為にするのかという事ですね。これは他にあらずと、自分で勇気を振い起こして、功をたてて、城を落として、国を奪わんとすると。どうしてそれをするんだと。「止だ其をしも云んや尚を竟に天下を領せん者なり 曰く竟に天下を領して是れ亦た何んするものぞ」最後は天下を領せんという事が目的である。遂に天下を取ってこれまたどうするんだという問答が続くわけですね。「武權を執るが如きは 則門葉を興隆し子孫を榮耀し名を後世に挙げて父母を顕さん而己」要するに自分の家を興隆して子孫を繁栄させて名を後世に挙げて父母の名を表さんと。登誉上人は「天に得ざるの國を劫奪するは之れ奸盜之所爲なり」天に得ざるの国を強奪するというのは、これ盗人の所為ではないかという事ですね。「たとひ運を啓き一たび天下を領すとも非道にして得ば則ち何ぞ子孫に傳ふる事を得ん 己れ獨り榮華に傲るとも猶を一陽の春夢の如し命終の後には必ず地獄楚毒の苦みを受けて何の益か之れあらん」例え運があってひとたび天下を取ったといっても非道にしてそれを取れば即ち子孫に伝わることを、これひとり栄華に傲るともなお一陽の夢の如しと。命終の後には必ず地獄に落ちるんだぞという事。こういう事を懇々と説くわけです。
 最終的には万民のために天下の父母となって万民の苦しみを無くするというような事をしていかなければいけないという事を説くわけでございます。そういうことを懇々と諭されて、時の元康自身は、その大慈大悲の心というもの、仏教の心というものを初めて悟る訳であります。そうして将来安定した日本の国を作るためにはどうあるべきかという事を悟ったわけですね。元康は大いにそこで感激して悟って、そうして住職から十念を授け、先ほど言いました「南無阿弥陀仏」ですね、それを受けてそうして敵に対処するという形になるわけでございます。折から織田の軍勢が大樹寺を取り囲んだわけですが、登誉上人は既に約500名の僧侶を集めて武器を取らせて、そして先ほど書いた白い布、白布に「厭離穢土 欣求浄土」と大書した旗を立てて、一山挙って敵に対処した。家康はその後旗指物、例えば武田の場合は「風林火山」だとかいったのがありますが、家康公はその後の戦陣には必ず「厭離穢土 欣求浄土」の旗指物を使っておられます。それ以来家康公は仏の道に、要するに仏道に寄依され、戦いのある毎に暇さえあれば「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というのをいつも常時書いておられて、将来念仏将軍という事まで言われた方でありますが、ちょうど今、前に出しておきましたが、一枚大樹寺に残っておりますけれども、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と書いてありまして、一番最後、この左の数の下、「南無阿弥家康」と書かれております。これは大樹寺だけではありません。各地に残されておりますね。大樹寺としては寺宝として保存してあります。そういう事で生涯念仏将軍と言われてお亡くなりになる直前まで日課念仏六万遍という事もしておられた方でございます。」
http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf
 「厭離穢土欣求浄土の語が術語化し、この思想が流布されるようになったのは源信の『往生要集』の影響である。源信は、『往生要集』大文第一を厭離穢土、第二を欣求浄土とし、この思想を浄土信仰の基本としている。この『往生要集』では、穢土の内容を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と規定し、浄土には一〇種の楽のあることを明かし、浄土での十楽を願い、穢土を厭い離れることをすすめている。浄土宗では、厭欣の心を総安心とし、三心を別安心とする。なお「厭離穢土」を「おんりえど」と読む宗派もあり、浄土宗でも、ある時期には「おんりえど」と読み習わしたこともあったが、今は「えんりえど」に統一している。」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F%E6%AC%A3%E6%B1%82%E6%B5%84%E5%9C%9F
 (注11)「寛文年間に編まれたといわれる『難波戦記』。その「御旗本合戦附扇子の御指物の事」に、家康の指物について、次のような記述があります。
 「又、前将軍家に御吉例の御旗あり、白布に、墨を以て厭離穢土欣求浄土と書きたり、これは三州浄土宗大樹寺の和尚登誉上人の筆なり、御筥に入れられ、御側に置かせ給ふ」
 指物は、戦場で自軍の目印としたもの。」
https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/manage/contents/upload/584e758f47563.pdf

⇒「厭離穢土 欣求浄土」がらみの登誉天室と家康との関りは、絶対少数説の1558年が正しいのか圧倒的多数説の1560年が正しいのか、それともどちらも正しくて都合二度あったのか、はともかくとして・・後述するようにどちらの話もウソっぽいのだが、この類の話も、恐らく、家康によるでっちあげだろう。
 というのも、第一に、典拠レスではあるが、「臨済宗は皇族、公家、武家などに信者が多く曹洞宗も地方豪族や豪農などに信者が多くて経済的支援や身分的に優遇されていたの で僧兵を抱える必要もなく、例え僧兵を抱えていたとしても朝廷や幕府に僧兵を使って強訴する必要性もなかったのでしょう。それに禅宗系は他宗派との争いも避けていたようです。相国寺や南禅寺が武器を蓄えていて幕府から没収されたのは、悪党と呼ばれた大名から戦いの時だけ臨時的に雇用された足軽などの乱入や略奪を防ぐ自衛のために武器を蓄えていたからです。僧兵を抱えていなかった宗派は浄土宗、時宗などもありました。そして一向宗すなわち浄土真宗の門徒は一向一揆などの領主権力と衝突事件を起こした事で有名ですが、門徒を使って一揆を起こしたり戦闘を交えたのは本願寺派と高田派です。他の仏光寺派、出雲路派、三門徒派などは信者を使って一揆を起こしたり、戦闘を交えたりしていません。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13108222338
というイメージを私自身も以前から、浄土宗について持っており、「登誉上人が、衆徒<・・武士たる衆徒か(太田)・・>を引き連れ・・・加勢してくれた」だの「元康は奮起し、・・・およそ500人の寺僧とともに奮戦し<た>」だのは浄土宗らしくないと感じるし、第二に、源信由来の厭離穢土欣求浄土は本来来世を志向していて現世の平和など念頭にない文言だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86 ←往生要集(現信)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F ←厭離穢土
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F ←浄土
し、そして第三に、事新しく浄土宗の教義を聞かされるまでもなく、家康は、登誉上人の言動が事実であったとすれば、それらが浄土宗のプロにあるまじき間違った言動であることが分かったはずなのに、いかにも、このその言動に感銘を覚え、回心したかのようなストーリーになっている、からだ。(太田)

 こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる。
 しかし、桶狭間の戦いの直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない。

⇒このことも、旗印の由来に係る2つの挿話、が、家康によるでっち上げであることの傍証となろう。
 恐らくだが、「江戸時代の故事や旧例を紹介した『柳営秘鑑』によると、「厭離穢土欣求浄土」の旗印の由来は、家康が三河国を治めていた<1562>年から<1564>年にかけて、一向一揆が苛烈を極めた際に大樹寺の住職だった登誉は家康に味方し、家康から御旗を賜ると自筆で「厭離穢土欣求浄土」と記して、門徒たちはその御旗を先頭に一向衆に攻め入り勝利を得た。御旗の「厭離穢土欣求浄土」は「生を軽んじ、死を幸いにする」という身構えを示したもので、これは一向一揆側が自分たちの鎧に「進是極楽退是無間地獄(前進すれば極楽、退却すれば無間地獄)」と記したことを聞いて、住職がこの文言を書いて死を奨め、それ以来この旗は吉例とされ、御当家の御宝蔵にある、となっており、・・・正反対の意味合いの説明文が書かれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F 前掲
ところ、登誉上人自身は「出陣」せず、単に門徒の武士達を士気を鼓舞した、と解すことができるこの話が史実に近いのであって、前出の2つの挿話は、この史実に近い話をもとに家康がでっちあげた、と、断定してよさそうだ。
 すなわち、家康は盛ったセルフプロモーションに長けているのだ。(太田)

 また、近年では岡崎城への帰還は織田勢に備えるために今川氏の許しを得たものであったとする説もある。・・・
 1602年・・・ 勅願寺となる。・・・家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A8%B9%E5%AF%BA 
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⇒家康の安城・岡崎松平家の家業の半分が鎮西派浄土宗のプロモーターであったことが、その残りの半分の家業たる武家業の存続発展を紆余曲折だらけの困難なものにし、かつまた家康が一向一揆に悩まされる羽目になったこと、の一方で、彼の現在で言う小中学生時代の大部分の期間、他家の浄土宗信徒たる実祖母に家庭内教育を施されると共に、この宗派の他家の僧たる智短和尚によって家庭外教育を受け、かつ、一向一揆(注12)をこの宗派の恐らくは安城松平家関係者たる僧である登誉上人の助けも借りて鎮圧できたこと、から、家康は、宗教、ひいては思想、一般に対して、拒否反応を抱く一方、その利用価値を十二分に知る、原理主義的世俗主義者、になったのではないか、と思うのだ。

 (注12)三河一向一揆。「西三河全域で・・・1563年・・・から・・・1564年・・・まで半年ほど行われ<、>・・・現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。・・・
 中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏といった反家康勢力である。門徒側には、家康の家臣の本多正信(後の家康の参謀)や蜂屋貞次(徳川十六神将)や夏目吉信(三方ヶ原の戦いで家康の身代りとして討死)が参加するなど、内紛の様相も呈していた。松平宗家に台頭した安城松平家(家康の家系)が三河の中原に位置する安祥城に居城していた時代から、もともと真宗門徒でもあった安城譜代を勢力拡張に伴って家臣団化したものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど、主君に対する踏み絵にもなった。・・・
 一揆の終結より19年後の・・・1583年・・・まで、三河国は本願寺教団禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した(本多正信など、一部の家臣は出奔した)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86

 そしてその結果、宗教・思想を同じくするかどうかではなく、もっぱら、血が(擬制も含めて)繋がっているか、どの程度繋がっているか、でもって心を許して手を携えることができる人物であるかどうかを判断する、身内事大主義者、になったのではないか、とも。
 そのように考えれば、家康の日蓮主義や儒教に対するつかず離れずの関わり方も、宗派を問わず仏僧を、そしてやがて儒者をも、ブレーンとして活用したことも、そして、キリスト教を弾圧するようになったことも、更にまた、キリスト教対策のために仏教宗派を行政の末端組織化し始め(注13)、やがてそのことが仏教宗派による布教の事実上の禁止、や、キリスト教対策もあっての事実上の鎖国への着手も、説明できるような気がしてくる。

 (注13)「<家康>は、1612年・・・にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6

 原理主義的世俗主義者で身内事大主義者、と来れば、家康という人物は、ある意味、凡人の最たるものであったと言えそうだ。
 (秀吉もまた、身内事大主義者ではあった(コラム#省略)けれど、彼の場合は、徒手空拳で日本の最高権力者へとのし上がった以上、そうするより他になかっただろう。
 しかし、秀吉は、日蓮主義者であり、就中、信長を乗り超えた秀吉流日蓮主義者となって、日本史上初めて日蓮主義を対外的に実行に移したのだから、到底、私が言うような意味での凡人とは言えまい。
 更に遡れば、足利尊氏も身内事大主義者に見えたけれど、身内が非身内より当然大勢(権力者である)自分の周りに詰めかけて来たのを選別せずにみんな歓迎したという彼の優しさがそう見えさせたに過ぎない、と私は見ているし、少なくとも彼の夢窓疎石の臨済宗への傾倒は本物であって(コラム#省略)原理主義的世俗主義者どころか世俗主義者でさえなかったので、彼もまたやはり、私が言うような意味での凡人とは言えまい。
 但し、政治的ビジョン(政治思想)を持ち合わせなかった(コラム#12434)点では尊氏と家康は共通しており、違いは、尊氏が時代の流れに身を任せたのに対し、家康が信長/秀吉が形成した新しい時代のうちの国外部分を斬り捨てた上で、その残り(国内部分)について基本的にそのままの形で時代の進行を凍結したところにある。)
 但し、そんな家康が、凡人一般と一味違っていたのは、既述したように、彼が、盛ったセルフプロモーションに長けていたことだ。
 もっとも、そんなことは、通常はむしろマイナス要因なのだが・・。
https://www.dekirunin.com/media/ability-story/3980 (←必ずしも権威ある典拠ではないが・・)
 それにしても、そんな家康が、日本の最高権力者になり、更に、彼の子孫にその地位を世襲させていく手筈まで整えることに成功した、というわけだが、それは、彼がツキに恵まれ続けたからだ、と私が考えていることはご承知の通りだ。
 思い付くままに、家康のツキのうち、代表的なものだけだが、例示しておこう。↓

一、家康の近傍を根拠地とした信長に、若い頃から一方的に気に入られ、清須同盟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E5%90%8C%E7%9B%9F
締結を経て、信長に死ぬまで舎弟扱いされたこと
二、三方ヶ原の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
で信玄に敗れた時、既に信玄が死の病に罹っていたこともあり、信玄が家康を殺さなかったこと
三、本能寺の変の時、伊賀越え
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88
に成功し、生きて三河に帰国できたこと
四、秀吉によって滅ぼされるところだったのに天正地震
http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC16%EF%BC%88%E7%AC%AC35%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89.pdf
が起きたおかげで救われたこと
五、豊臣家の秀吉の後継者が、亡くなったり秀吉に殺されたりして、秀吉が死去した時、その子の秀頼しか残っておらず、しかもその秀頼が若年だったこと(コラム#省略)
六、また、秀吉の死までに、既に、豊臣家恩顧の大名達が分裂していたこと(コラム#省略)
(太田)

II 近衛・島津家の布石

1 始めに

 Iで明らかにしたところの、家康の身内事大主義的かつ原理主義的世俗主義的なものの考え方が、徳川本家を規定することとなったわけだが、それを、江戸時代の2世紀半をかけて、秀吉流日蓮主義を信奉するところの、(天皇家に見切りをつけた)近衛/島津家が風化させていき、ついには、徳川本家の打倒に成功する、というのが、以下、私が展開する新しい説だ。
 江戸時代全体に及ぶ長期間を、そのように日蓮主義と非日蓮主義の戦いでもって説明しようとするのはいかがなものか、と思われるかもしれない。
 しかし、私が既に、その形成に近衛家が不可欠な役割を果たしたところの、日蓮主義、が形成された鎌倉時代の後期から徳川幕府の成立までの3世紀半の日本の歴史を日蓮主義と非日蓮主義の戦いでもって説明したことを思い出していただきたい。
 それに2世紀半を更に加え、6世紀にしただけのことなのだ。
 そして更に思い起こして欲しい。
 聖徳太子コンセンサス的なものを形成することを構想していた厩戸皇子が事実上の天皇として推古天皇の皇太子になった6世紀末から鎌倉幕府が成立する12世紀末までの6世紀の日本の歴史を、私が、聖徳太子コンセンサスの形成とその完遂の営みでもって説明したことを。
 日本史は、世界のその他の国や地域の歴史とは違って、大和王権成立以降は一つながりの歴史なのであって、天皇家とそれをとりまく藤原氏を中心とする一握りの日本の支配層に関しては、その一人一人を切り離して取り上げるのではなく、家伝的な世界観や思想を背負った諸家、という、個人よりも比較にならないくらい長命なものに焦点を当てて描写されなければならないのだ。
 (その伝で、家康個人についてすら、家康が生まれた時点からではなく、遡ることができる最初の祖先の時からを描いたわけだ。)

2 近衛尚道

 ひさみち(1472~1544年)は、「<正室がいなかった父>近衛政家<(1444~1505年)と>北公路俊子<(注1)の子。>・・・

 (注1)?~1482年。「近衛政家の家女房。越前国の武士加治能登入道の娘。近衛家諸大夫北小路俊宣の養女となる。・・・加治氏は越前国の武士で朝倉氏の一門とも家臣とも言われる。越前国にあった近衛家の荘園宇坂荘(現在の福井県福井市美山町付近)は朝倉氏が代官を務め、その下の荘官として加治氏も現れる(『雑事要録』)。また、近衛家の家司である北小路家(大江氏)は、同荘に下向して朝倉氏・加治氏ら現地荘官とともに年貢収納に携わっていた。その過程で加治氏の娘である俊子が北小路家の養女の身分で近衛家に仕えることとなって寵愛を受け、嫡男である尚通を生んだ。当時の公家社会では高い身分の娘と正式な婚儀が行われない限り、正式な妻である正室(「北の方」、摂関では「北政所」)が置かれることはなかった。このため、近衛政家のように生涯正室を持たない例は珍しくな<かった>・・・。
 成人後の尚通の日記『後法成寺日記』には、俊子の実の兄弟とみられる加治左京亮をはじめとする加治氏一族との親交を示す記述が多く記されている。また、加治氏の主家にあたる朝倉氏が朝倉孝景の代に越前平定の過程で一条兼良や甘露寺親長らの有力公家領を奪いながら宇坂荘には手を出さなかった背景には、近衛尚通が「加治氏の一族」であったことが一因と考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E4%BF%8A%E5%AD%90

⇒尚道は武士達と交流しながら大きくなったわけだ。(太田)

 公家や連歌師、武士に近衛邸を開放し、学問や文芸の普及にも努めた文化人である。若年のころ、連歌師宗祇から古今伝授を受けていた。
 日記『後法成寺関白記』(近衛尚通公記)を残した。・・・1508年・・・4月16日の条には、細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを<支那>の春秋戦国時代に例え、「戦国の世の時の如し」と評す。戦国時代の呼称はこれに由来している。・・・
 女子:慶寿院(1514-1565) – 足利義晴正室・・・
 <また、父の政家も自分の嫡嗣の稙家もそもそも養子も猶子もとっていないのに、どちらも自分の女子である慶寿院と足利義晴の子、つまり、孫である>足利義輝<と>・・・義昭<を猶子にしたほか、>・・・大浦政信<を猶子にしたことになっているが、>・・・ 大浦氏(のち津軽氏)は<大浦>政信を尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子と<され>、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったとしている。江戸時代に至って当時の近衛家当主近衛信尋により<その旨>認可され、津軽藩主津軽家は本姓を藤原氏とし、近衛家の親族を称した。・・・
 <また、もう一人の女子を、後北条氏2代当主の>北条氏綱継室<に送り込んでいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E9%80%9A

⇒時代を戦国時代と規定したからには、やがて、日本にも秦の始皇帝のような人物が現れて戦国の世が統一される、とも思ったに相違なく、近衛家は、「始皇帝」候補者を見極め、その者に日蓮主義を実施させるように計らえ、と稙家に言い残した、と、私は想像をふくらませている。
 そして、足利家を周の王家に見立て、このようなことを自分達が考えていることを気づかれないよう、あえて、足利家に接近した、とも。
 また、大浦政信を猶子にした・・実子話は、尚通の意図を隠すためのメーキングであったと見たい・・のは、戦国時代であるからには、島津氏もどうなるか分からず、分身たる武家をもう一つ確保しておく必要があると考えたから、と見たらどうだろうか。
 大浦氏が選ばれたのは、島津氏が日本の南端に位置していたので、もう一つとしては北端の武家が好都合だと思ったとすればいかが?
なお、尚道が日蓮宗の本満寺を再建し、後奈良天皇の勅願時にした話を、以前(コラム#12103で)行ったところだ。(太田)

3 近衛稙家

 たねいえ(1502~1566年)は、「女子:大陽院(足利義輝正室)(?-1590)・・・女子:ひ文字姫(朝倉義景継室)・・・女子:渓江院 – 赤井直正の継室・・・男子:斎藤正義(1516-1548)<(注2)>・・・
 将軍の縁戚であった稙家は武家伝奏に替わって、朝廷のみならず諸大名からの要望を将軍に取次役目を行うようにな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A8%99%E5%AE%B6

 (注2)1516~1548年。「13歳の時、父稙家に家臣の瀬田左京を付けられて、比叡山横川恵心院に出家させられる。武事を好み、美濃国可児郡瀬田村出身と言われる左京の姉が斎藤道三の愛妾となっていた縁で、道三を頼ってその養子となる。ただし、大納言を称したことと、美濃斉藤氏持是院家の斎藤妙椿の孫の妙親が大納言を名乗っていることを関連付けて、斎藤氏の持是院家を継承した、とする説もある。・・・<そして、>守護土岐頼芸のもとで身分的には道三と並ぶ地位に<登>ったと考えられる。・・・配下の久々利城主の久々利頼興に館へ酒宴に招かれて謀殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%AD%A3%E7%BE%A9
 
⇒足利義輝に女子を嫁がせたのは将軍への取次役目を行うようになるためだったのだろうし、その他の女子を二人武家へ嫁がせ、また、男子一人を武士にしているのも、嫡男の前久に自分以上の武家的空気を吸わせてより本格的な「兼業」武士へと育て上げると共に、自分と前久が、彼らから得られる情報も踏まえて「始皇帝」候補者を探し出せるようにするためだったのではなかろうか。(太田)

4 近衛前久

さきひさ(1536~1612年)は、「1540年・・・、元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)を名乗る。・・・1547年・・・に内大臣、・・・1553年・・・に右大臣、・・・1554年・・・に関白左大臣となる。また、藤氏長者に就任した。
 1555年・・・、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた<。(但し、以下、便宜上、「前久」とする)>。この当時、将軍・足利義輝は三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。・・・

⇒もちろんそれは、「時が来ました、「周王室」は見限りました、自分は「始皇帝」候補を探します」、という宣言だったわけだが、同時に、「周王室」たる足利家の上により権威の高い天皇家が鎮座する日本においては、「周王室」たる足利家が最高権力者たる将軍の職を世襲することを認めたところの、この天皇家の不信任をも意味した。
 この天皇家が、来るべき「秦帝国」の中に納まる場所が果たしてあるのかを前久は、父稙家と共にずっと以前から熟考し、後醍醐天皇の秀吉流日蓮主義・・この言葉は、秀吉の日蓮主義、という意味ではないから、秀吉より前の時代から使ってもよいわけだが、同じことが信長流日蓮主義についても言える・・では天皇家を滅ぼしかねないという認識の下、大覚寺統の後醍醐天皇と袂を分かった持明院統の天皇家が、室町時代に生き残ってきたところ、この天皇家が滅びてはならないという発想は、そもそも日蓮主義に反する、と、彼らは思い至っていたのではなかろうか。
 更に言えば、日蓮主義の形成に不可欠な役割を果たした近衛家の中で、こういう天皇家の系統と同様の発想をした側が生き残ってきたことは恥ずべきことだった、と、自省したのではなかろうか。
 というのも、日蓮主義は、本来、自分の一身を顧みず、人のため世のために貢献することを旨としているところ、率先してその範を示すべきなのに、まさにそうしようとしたところの、後醍醐天皇に始まる大覚寺統(南朝)の諸天皇が追求した日蓮主義を引き継ぐ約束の下に(近衛家が汗をかいて)南北朝合一が成った(コラム#省略)にも関わらず、引き続き秀吉流日蓮主義ではなく信長流日蓮主義を唱え、しかも唱えるだけでその遂行を託しうる武家の発掘を怠ってきたそれ以降の歴代天皇、ひいては当時の天皇家そのもの、に対し、稙家・前久父子は愛想をつかすに至っていたのではないか。(太田)

 ・・・1559年・・・、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前<久>と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。・・・

⇒もとより、自分自身が適格者であれば、「始皇帝」候補は自分でもいいはずだが、自身を武士化する努力こそしたものの、いかんせん、(近衛家の新規のもう一つの分身である武家の津軽氏は弱体なので論外として、本来の)近衛家の分身である武家の島津氏は、僻遠の地にあり、しかも、内紛を克服してから日も浅く、未だ近衛家の実働部隊たりえない状態だったので、その代わりに前久がまず目をつけたのが上杉謙信であったところ、彼を日蓮主義者へ回心させることに失敗し、挫折する。(太田)

 <次には、>信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている。

⇒信長は、既に日蓮主義者だったが、信長流日蓮主義者だったので、前久は、信長を更に秀吉流日蓮主義者へと回心させることを期しつつ、まずは、積極的に、信長への協力を始めた、というわけだ。(太田)

 <1575>年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。
 ・・・1577年・・・2月、京都に戻り、翌・・・1578年・・・には准三宮の待遇を受ける。
 ・・・1580年・・・、次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。
 ・・・1582年・・・2月、太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の甲州征伐には信長と同行する。

⇒前久は、私の言う、秀吉流日蓮主義信奉者だったのに対し、信長は、その真意は永遠の謎だが、見かけは、後の後陽成天皇(1571~1617年。天皇:1586~1611年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
と同様の信長流日蓮主義者として、その生涯を終えることになったわけだ。
 さて、「正親町天皇はすでに当時としては高齢であり、誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であった。しかし、朝廷が譲位にともなう一連の儀式を自力で挙行することは経済的に不可能であり、また先々代後柏原天皇・先代後奈良天皇・そして正親町天皇自身の3人の天皇のように、全国の戦国大名から広く寄付を募るという手法も、信長の覇権の下ではもはや使えなかった。朝廷は、譲位の実現をひたすら信長に働きかけざるを得ず、左大臣推任・三職[・・征夷大将軍・太政大臣・関白・・]推任
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%81%B7%E6%8E%A8%E4%BB%BB%E5%95%8F%E9%A1%8C  []内>
など、朝廷としては破格の交換条件を提示して信長を動かそうとしたが、信長は明示的に拒絶することはなかったものの、その死に至るまで消極的な態度に終始した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ところだが、このことからして、後陽成天皇とは違って、彼の祖父の正親町天皇も、彼の父の誠仁親王も、実は、秀吉流日蓮主義者だったのではないか、という合いの手が入るかもしれない。
 私は、信長に譲位資金を提供させるためには、いかなる手段も排除しないというところまで追い詰められていた正親町天皇の弱みに付け込んで、前久が、こうなれば信長を最高官位で釣るしかありませんね、と、同天皇に囁き、同天皇を頷かせ、ダメ元で信長を秀吉流日蓮主義者へと回心させようとした、と見る。(太田)

 だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し、竜山(龍山)と号する。

⇒前久のこの「失意」は、以上を読めば、どんなに深刻なものであったか、想像できよう。(太田)

 しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」と讒言に遭い、織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問される。そのため、以後は徳川家康を頼り<(1566年の、勅許を得ての、系図の家康得意のでっち上げによる松平氏の家康の藤原姓を称しての徳川氏改氏に前久が関わっていた
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076949 )>
、遠江国浜松に下向した。

⇒これは、単なる緊急避難だったろう。(太田)

 一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、・・・1584年・・・の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。・・・

⇒ところが、信長横死後、最高権力者にのし上がった秀吉が秀吉流日蓮主義者であったことを知った前久は狂喜し、嫡子の信尹ともども、秀吉に最大限の協力を始めるのだが、やがて、後述するように、秀吉の背信行為に激怒することになる。(太田)

 ・・・1587年・・・以降、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。・・・
 ・・・1600年・・・の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ<(いや、装いつつ(太田))>、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど、かつての活躍を伺わせる行動をしている。・・・
 前久は五摂家筆頭という名門貴族の生まれにありながら、その半生を流浪に費やした。また、当代屈指の文化人でもあり、中央の文化の地方波及にも貢献している。
 前久は藤原氏嫡流の五摂家<の筆頭近衛家の当主>らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮した。書道は、青蓮院流を学び、有職故実にも詳しかった。
 更に馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えている。

⇒これは、趣味ではなく、意識においても実体においても武家を兼ねるためだった、というのが私の主張であるわけだ。(太田)

 古筆の蒐集でもしられ、前久が所持した久我通親筆と謂われる千載和歌集はその分割に際して、古筆家により龍山切と命名された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

⇒この前久の徳川家康への貸しについても振り返っておこう。
 かつて(コラム#12328で)、「1566年・・・、官職を得ていて朝臣でもあった松平家康が朝廷の許可を得て、家康個人のみが「徳川」に「復姓」<・・「復氏」が正しい(太田)・・>(事実上の改姓<・・「源姓から藤原姓への改姓」が正しい(太田)・・>)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は先例のない申請に対して躊躇し不信を述べたが、吉田兼右が万里小路家の文書を改鋳し、<源姓の>新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたとした<のだが、>この件には近衛前久が関与して<いた>」(上掲)という経緯に鑑みれば、<藤原姓から源姓への復姓(太田)は、>秀吉から、万一、その方針転換の背景を聞かれた場合に、口裏を合わせてもらえるように、前久と調整の上その了解を得た上で行った方針転換であったのではないか、というのが私の見方です。
 つまり、「徳川氏が源氏であるという見解が明確に整えられたのは後のことであり、源氏の名家である吉良氏から源義国からの系図を借り受けてのことであった<が、>これを近衛前久が発給時期不詳の書状で「将軍望に付ての事」と指摘していることもあり、家康の源氏名乗りは将軍職就任を目的とした、1603年・・・の征夷大将軍就任直前のものであるという見解が渡辺世祐や中村孝也の研究以来定説となってきていた」(上掲)ということからも、源氏でないと征夷大将軍にはなれない、的な観念が当時流布していたことが分かるところ、上記、家康の方針転換が行われた<のは>1588年頃の時点で<あって、当時>、既に、前久は、家康を将来将軍に就任させることを内々決断した、換言すれば、秀吉から家康に支持対象権力者を切り替える決意を固めた、と、私は見ており、それは、即、島津氏もそうしたことを意味することは言うまでもありませんが、同時代人の目端の利く大名なら、400超年後の後知恵込みの私などよりも、むしろより容易に私と似通った見方をし、その少なからざる部分が、密かに家康への接近を開始したのではないでしょうか。」と記した。
 私が、藤原姓→源姓の時期を、1603年ではなく1588年頃としたのは、米田雄介説を前提にしつつ、笠谷和比古が、同年(天正16年)の聚楽行幸の際の三ヶ条誓詞に家康が源家康と署名している
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi54MT1k7P0AhUjIaYKHbEyBaMQFnoECBwQAQ&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D776%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw09uhk5Ccbl_u9l0APSMYrK
と指摘している(注3)ことを知ったからだ。
 
 (注3)「1566年・・・の叙爵は実際には、「系図発見」の経緯もあって藤原家康としておこなわれており、この時点では藤原氏を称していた。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。・・・
 米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、・・・1585年・・・の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、・・・1586年・・・などは不明であり、・・・1592年・・・9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していた事が明らかになっている。米田は源氏改姓を<1592>年と見ているが、笠谷は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、<1588>年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている。以降の現存する発給文書でも源姓となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F

 くり返しになるが、ここで銘記すべきは、家康の、1566年の、源姓→藤原姓、の(官位を得ることが目的の)改姓を手助けすると共に、当時の藤氏長者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
としてそれを認可したはずであるところの、近衛前久、に対し、前久が隠棲していた・・但し、隠棲の翌年(上掲・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85 前掲
とはいえ、しかも、当時、藤氏長者は不在であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85 前掲
とはいえ、家康は、当時、源氏長者は不在だった
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/list15.htm
ところ、当然、恩がある元藤氏長者の前久に仁義を切った上で、「上司」の豊臣秀吉の了解だって、元猶子たる秀吉の父であった前久と事実上一緒になって取り付けたに相違なく、その結果、その後、家康が征夷大将軍に堂々と就任できる運びになったことだ。
 つまり、家康は、前久、つまりは、近衛家、に、二度にわたって、足を向けては寝られないくらいの重恩を受けた、というわけだ。
 他方、一度目に関しては、前久側にはさほど家康への思い入れがあったわけではなく、有力武将なので、便宜を図ってあげた、くらいの話だったのだろう。
 なお、前久は、大浦政信(前出)の嫡男の為則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E7%82%BA%E5%89%87
の養子の為信(注4)を猶子にしているが、これは、為信の津軽氏の正嫡性に疑義なかりしもあらずだったことから、近衛家と津軽氏の紐帯をリコンファームするためだったのではないか。

 (注4)1550~1608年。「南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。・・・陸奥国弘前藩初代藩主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1
 「1591年・・・、大浦(津軽)為信に対して、九戸一揆の鎮圧を命じた豊臣秀吉朱印状の宛名がそれまでの「南部右京亮」から「津軽右京亮」に切り替えられ、独立大名として公認された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%B0%8F
 大浦守信(1524~1568?年)。「大浦政信の次男として誕生。・・・津軽氏が南部氏と為信との血縁関係を否定するために作られた架空の人物とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E5%AE%88%E4%BF%A1

⇒以上、稙家、前久について、これまでの私の説を、それぞれ、一部改説したが、以下、信伊についても同様だ。(太田)

5 近衛信尹

 のぶただ(1565~1614年)は、「1577年・・・、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。

⇒どちらも日蓮主義者であってポン友であった、父の前久と信長の関係から、こういう成行になったのだろうが、その結果、信尹は、父前久に勝るとも劣らないゴリゴリの秀吉流日蓮主義者になったはずだ。(太田)

 幼い頃から父と共に地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという。

⇒そもそも、父の前久が武士を兼ねようとしたくらいなのだから、信尹だって「武士に憧れていた」というより、父の意向もあり、父以上に武士を兼ねようとしたのだろう。(太田)

 ・・・1580年・・・に内大臣、・・・1585年・・・に左大臣となる。
 同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に<、近衛前久の猶子になった上での>関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。

⇒秀吉が事実上の最高権力者になってからこの時点までは、信尹とその父の前久(1536~1612年)は、全面的に秀吉に協力してきたのであって、「口実を与えた」までは、メーキングだろう、というのが私の見方だ。
 但し、前久/信尹と秀吉は同床異夢であり、近衛家側は、秀吉を近衛家に受け入れることで、近衛家を文武両道の摂家化することを図り、秀吉に秀吉流日蓮主義を対外的に遂行させ、秀吉の代で完遂させられなかった場合は、その後、信尹及び信尹の近衛家後継者達が引き続き関白や左右大臣等として完遂を期する、という思惑だったのに対し、秀吉は、自分の代で完遂できようができまいが、自分の血筋の後継者達に関白/太政大臣を独占させる、という思惑だった、と、私は考えるに至っている。(太田)

 秀吉が秀次に関白位を譲ったことに内心穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり、・・・1592年・・・正月に左大臣を辞した。

⇒秀吉が関白に任官した、1586年7月11日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
の直後の7月24日に正親町天皇の嫡男の誠仁親王が死去し、ついに同親王への譲位する機会を与えられなかったことに悲嘆にくれる正親町天皇を籠絡して、自分が事実上の藤氏の長者であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F
ことを利用し、近衛家を蚊帳の外に置いたまま、同天皇の嫡孫である後の後陽成天皇への譲位資金等を提供する見返りに、豊臣家が関白/太政大臣位を爾後独占する含みで、正親町天皇に豊臣姓下賜(藤原姓から豊臣姓への改姓)を持ちかけ、それに成功したことに近衛家は激怒し、同年、前久の子で信尹の異母妹である近衛前子を(一旦、猶子にしているので、恐らくは、)秀吉の推しで、天皇に即位したばかりの後陽成天皇の女御(事実上の皇后)に送り込む
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
ことで、秀吉は近衛家との宥和を図ったものの、それしきのことで近衛家の怒りが収まるはずもなく、抗議の意味合いで、翌年、前久は隠棲を行い(前出)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85 前掲
また、爾後、信尹は「心の病」に悩まされるようになったかのようにふるまう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
、とともに、秀吉が、1591年にその秀吉流日蓮主義の遂行に本格的に着手するまでの間に、島津氏をして、石田三成を説得させて朝鮮出兵が失敗に終わるよう仕組んだ(コラム#省略)、と、私が見ていることはご承知の通りだ。(太田)

 ・・・1592年・・・、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こ〔し、秀吉自身が3月26日に京を出立する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9 〕と、同年12月に<信伊>自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。

⇒その目的は三つあって、一、近衛家が島津氏と共同して秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わるように仕組んだ(コラム#省略)ことを秀吉に気取られないための後付けアリバイ工作、二、秀吉流日蓮主義に反発する後陽成天皇に対する忠諫、三、近衛家を継ぐ者達に秀吉流日蓮主義を継承させるための範例提示、だったのではないか、と、私は見るに至っている。(太田)

 後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、・・・1594年・・・4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。・・・

⇒後陽成天皇やその周辺は、上述の「二」を直感し、収まりがつかなくなって、同天皇はやむを得ず勅勘・・但し、実質的には単に信伊に長期バカンスを与えただけ・・を下したが、女御の和子から、(間違いなく、父の前久と異母兄の信尹本人からの示唆を受け、)自分と同天皇の子である信尋を信尹の養子にして信尹の子と娶せ、近衛家を継がせる話が持ちかけられたこともあり、勅勘を解くタイミングをすぐに模索し始めた、と、私は想像している。(太田)

 信尹は薩摩国の坊津に・・・配流とな<るが、>・・・1596年・・・9月、勅許が下り京都に戻る。

⇒こうして、信尹の晴れての京御帰還とあいなるわけだが、恐らくは、それとほぼ同時に、当時30歳だった信尋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
が信尹の養子となり、信尹の子と結婚したのだろうし、同年に秀吉の同父母姉の智子が出家して日秀となり、その日秀が建立した瑞龍寺に後陽成天皇が1000石の寺領を寄進する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
こと、すなわち天皇家が日蓮主義者であることを改めて宣明することを前提として、近衛前久・信伊父子と後陽成天皇との間で、両家がそれぞれ、秀吉流日蓮主義、と、信長流日蓮主義、を維持しつつも、日蓮主義という最大公約数で爾後協調行動をとる、という「休戦協定が締結された」、と、私は見るに至っている。
 そして、1598年に秀吉が亡くなった時点で、両者間で、一、(秀吉が後陽成天皇の意向に反して秀吉流日蓮主義遂行に着手したことで豊臣氏にペナルティを課す意味合もあり、)いずれしかるべき時に家康を将軍、すなわち、徳川家を将軍家、にする、二、豊臣家は武家を兼ねた公家として、かつ摂家として存続させる、三、(同じく豊臣氏にペナルティを課す意味もあり、)当時、秀頼はまだ幼かったのでいずれにせよ対象外だが、豊臣家による太政大臣・摂関の独占は行わせない、という「休戦協定マークIIが締結された」、とも。(太田)

 1600年・・・9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)<(注5)>も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。

 (注5)1571~1645年。薩摩国島津氏の[島津氏庶流である]家臣で、後に薩摩藩の家老。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%85%A5%E5%BF%A0%E7%B6%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%85%A5%E5%AD%A3%E4%B9%85 ([]内)

 そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近<(注6)>も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。

 (注6)1571~1629年。「一生の間に160人以上を撃ち取り、切り捨ては数知れずと記録される程の剛の者であった。・・義弘に従い朝鮮出兵に従軍。・・・
 1600年・・・の関ヶ原の戦いにおいては西軍に加担した島津軍にあって、主に物見として敵情を調べた。伏見城の戦いの前には、妻の兄弟である浜田重昌(浜田主水)と共に城中に忍び入り、大垣に進出した際には、敵は遠路を駆け付けたために具足を枕に寝入っており夜討ちを仕掛ける好機である旨を義弘に伝え<、>・・・ 義弘もこれに納得したが、この案は石田三成に退けられた。・・・
 義弘死後、殉死してその供をする旨を願い出るが、家久が直臣にしたいと申し出たためにそれに従<う。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B7%9D%E5%85%AC%E8%BF%91

 [ちなみに、信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、[関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど<の>・・・行動をしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85 ]
 <信尹は、>関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。・・・
 <1614年>11月25日・・・に薨去、享年50。山城国(京都)東福寺に葬られる。信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、自身の娘(母は家女房)を娶らせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9

⇒近衛父子が、島津義弘を西軍に参戦させ、かつ戦直後の西軍参戦者の保護をしても、家康がそれらを咎めた形跡がなく、それどころか、近衛父子の求めるままに、島津氏の所領を安堵したのは、豊臣恩顧の大名達が東軍の中にもいて、彼らを家康は警戒しなければならなかったということに加え、前述したように、家康が前久に大きな借りがあったことが大きかっただろうし、近衛父子の側は、そんな家康の心中を完全に読み切っていた、ということだろう。
 さて、これからが本題だ。
 近衛信尹(と前久)の打った長期的布石を考えるに当たっては、まず、藤原惺窩について押えておく必要がある。
 藤原惺窩(1561~1619年)は、「公家の冷泉為純の三男<だったが、>・・・長男でもなく、庶子であったため家は継がず、上洛し相国寺に入って禅僧となり、禅と朱子学を学んだ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者・姜沆と交流し、その助力を得て『四書五経倭訓』を著し、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じており、同時代の歌人木下長嘯子とは友人であったと言われる。豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退し、[1605年に
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1-14680 ]
門弟の羅山を推挙した。・・・
 この惺窩の下冷泉家も、同じ藤原氏の近衛家同様、戦国時代末期~安土桃山時代においては、後出の惺窩の父為純の事績を見ると、武家を兼ねた公家を目ざしたところの、秀吉流日蓮主義者であった、と解することができ、惺窩の父の為純と近衛前久は大いに気脈を通じていたのではないかと想像しているところ、1605~06年の間の藤氏長者は近衛信伊であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
惺窩はもともと信伊とも交流があったはずであることからも、原理主義的世俗主義者たる家康は日蓮主義者たりえない(注7)、と、信伊は見切っていたので、惺窩に仕官を思いとどまらせ、惺窩とは違って朱子学原理主義者の(単なる大秀才の)林羅山(注8)を家康の下へ送り込み、あえて深読みすれば、徳川本家を堕落させようとしたのではなかろうか。(太田)

 (注7)沢庵宗彭<(たくあんそうほう。1573~1646年)は、>・・・但馬国主・山名祐豊の重臣・・・秋庭綱典<の子。>・・・1642年・・・、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも、末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったために、引き下げた教えに食い違いが生じ、それ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD 
という挿話から、家光の、徳川家(安城松平家)の家業であったはずの浄土宗に対してさえの原理主義的世俗主義的姿勢が窺われるが、そこからも、家光の尊敬する家康の浄土宗に対する姿勢が透けて見えてくる。
 (注8)1583~1657年。「京四条新町に生まれる。父は加賀の郷士の末裔で浪人。13歳で建仁寺大統庵の古澗慈稽に,14歳で同じく建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に就いて,内典(仏書)のみならず外典も幅広く修得。特に雄長老の講席には松永貞徳ら文学に長じた同輩がいて少年羅山を刺激した。18歳ころからは経学,なかでも新学問たる宋学に開眼<し、>・・・仏教を排撃した。・・・22歳,角倉素庵の仲介で藤原惺窩と会見し朱子の新註に対する信頼を深め,翌・・・1605・・・年,二条城で初めて徳川家康に謁し,翌々年その命により剃髪して道春と改称。 この自ら排する僧形を余儀なくされたことは,思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年批判を受けることになる。もっとも家康は,彼に大坂の陣口実のため名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど,博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって,羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く,専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。・・・
 羅山は藤原惺窩に従っていたころ王陽明の理気論に傾いていたが、1619年・・・の惺窩の死以降は朱子の理気論にたつことをはっきり宣言している。そして天(理気未分の太極(たいきょく))を人事・自然のいっさいの事物のうちに内在化し、しかも天は気によっていっさいを創造し、理によっていっさいを主宰するものと考え、この天の働き(天道)を賛(たす)けることを人道と断じ、この人道の履践(りせん)が「格物」に始まることを主張した(『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解(げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場から神道(しんとう)を解釈して「理当心地神道」をたて、近世の儒学神道の先駆けをなした(『神道伝授』(1644〜1647)『本朝神社考』(1638〜1645成立)『神道秘伝折中俗解』などの著がある)。・・・
 朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に内面的関係が存在し、この関係が羅山の子孫をして代々大学頭(だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどらせ、朱子学をして幕藩体制を支持する官学たらしめたゆえんと考えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1-14680 前掲

 <惺窩は、>個人の修養を重視し、・・・仏教には寛容的であった。・・・
 墓所<は、臨済宗の京都>相国寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9
 「<この惺窩の父の>冷泉為純<(1530~1578年)は、>・・・公卿・武将。歌人。官位は従三位・参議。・・・1578年・・・、播磨において織田信長の命令を受けた羽柴秀吉の中国方面軍に協力して嬉野城に立て籠もっていたが、秀吉から援軍が送られなかったために別所長治の攻撃を受けて自害し<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%B4%94 
 「<また、この惺窩の子の>冷泉為景<(1612~1652年)は、>・・・官位は正四位下・左近衛中将<で>下冷泉家8代当主<になるのだが、その>実の姪・貞子は後光明天皇の典侍である<。>・・・
 父の惺窩は、冷泉家(下冷泉家)の・・・庶子であったため、下冷泉本家を継が<ず、>・・・<父の>為純と子の冷泉為勝が戦死したのちも、惺窩は弟の為将に下冷泉家を継がせた<ところ、>・・・1647年・・・、叔父・冷泉為将の死去に伴い、勅命により下冷泉家を相続する<運びとなり、>後光明天皇の侍講として活躍し、松永貞徳や中院通村等の当時の一流の文人達とも<、更には、>水戸藩2代藩主・徳川光圀とも交流を持ち、・・・1651年・・・朝廷使節団の江戸下向に伴い対面を果たし<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E6%99%AF

⇒上出の勅命を発出させたのも、為景を後光明天皇の侍講に推薦したのも、また、為影と光圀との交流を仲立ちしたのも、近衛信尋(~1649年。1645年出家)・尚嗣(1622~1653年)父子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%97%A3
だろう。
 後光明天皇(1633~1654年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
は、この父子、すなわち近衛家にとって最後の希望の星だった(後述)し、光圀(1628~1701年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
は、この父子、すなわち近衛家にとって徳川本家風化のための第一橋頭保だった(後述)からだ。(太田)

 そしてまた、木下長嘯子(木下勝俊。1569~1649年)は、「木下家定の長男として生まれる。家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の父である杉原定利の子であるため、勝俊は高台院の甥にあたる<が、>・・・幼少より豊臣秀吉に仕え・・・文禄の役では1,500名を率いて在陣衆の1人として名護屋城に滞在した<ことがあり、後に>・・・勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号し<、>・・・和歌を詠み続け、後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている。・・・
 小堀政一や伊達政宗といった大名をはじめとして、林羅山や春日局といった幕府の要職にあった人たちや、藤原惺窩とその息子の冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)、松永貞徳、中院通勝たち文化人らとも交流を持<ち、>・・・山鹿素行には住居の訪問を受けている。・・・
 一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる<が、>・・・墓は高台院らが眠る高台寺にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%8B%9D%E4%BF%8A

⇒秀吉流日蓮主義のなんたるかを長嘯子から学ばせるために、やはり、近衛父子が、為景と長嘯子の間を取り持ったのではなかろうか。
 ここに、山鹿素行が登場するのも意味深だ。(太田)

6 近衛信尋

 のぶひろ(1599~1649年)。「関白近衛信尹の養嗣子となり、1605年・・・元服。翌年・・・従三位に昇り公卿に列し、1612年4月内大臣。1614年正月右大臣、<同年11月に養父信伊が死去するが、>1620年・・・左大臣に転任。1623年・・・関白となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
 「信尹の娘(母は家女房)を娶る。しかし妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居となる。・・・

⇒名前すら残っていない妻だったわけだが、信伊がそれなりに目をかけていたからこそ、信尋に娶せたのだろうから、彼女にも、近衛家のミッションは叩きこんであったはずであり、ひょっとすると、このミッションの実行を巡る対立がこの2人の間に生じたのではないか、といった想像をしたくなる。
 いずれにせよ、夫婦仲の修復のために、信尋がわざわざ家康の出馬を仰いだのが、近衛家が家康に対して陰謀を企てているといった疑念を絶対に抱かせないための高等戦術だった可能性がある。(太田)

 近衞前久や<養父>信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父信尹の三藐院流(別称:近衛流)を継承し、卓越した能書家だった。
 茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を・・・叔父であり桂離宮を造営した八條宮・・・智仁親王、<やはり叔父で天台座主になる>良恕法親王、<弟の>一条昭良らと共に中心的人物として担った。また、禅僧の沢庵宗彭や一糸文守、後に養父と共に寛永の三筆として名を連ねる松花堂昭乗<(注9)(コラム#12176、12385、12389)>などの文人らと交流があり、宮廷への橋渡しも行っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B

 (注9)「1619年・・・5月〜6月 徳川義直と近衛信尋を対面させるため奔走する・・・。・・・1623年・・・6月 将軍秀忠・家光の上洛に際しての準備に奔走。・・・1624年・・・近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97

 一糸文守(1608~1646年)は、「村上源氏久我家の分家岩倉家の始祖<たる>・・・岩倉具堯(いわくらともたか)<の子。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E5%A0%AF
 「1626年・・・に真言宗西明寺の賢俊良永により得度して法名を文守としたが、翌年、大徳寺の沢庵宗彭の影響により臨済宗に転宗した。・・・1628年・・・沢庵宗彭が紫衣事件により出羽国に配流されると、これに従ったが、翌年には一人で京に戻った。このころより近衛信尋などの公家との交流が深まるが、後水尾上皇との交流も弟近衛信尋の仲介によるものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%B3%B8%E6%96%87%E5%AE%88

⇒近衛家が目をかけた下冷泉家は、「下冷泉家も、家系的には上冷泉家には全く劣るものではなかったが、戦国時代に別所氏によって当主が殺され所領を失い、庇護者で親しい間柄にあった豊臣氏も没落し徳川氏が台頭したことが後々の官位にも影響し、爵位の差に繋がった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6
こともあり、為景から後に見るべき事績がないが、やはり近衛家が目をかけた岩倉家の方は、「幕末から明治時代にかけての当主岩倉具視は、明治維新の功績によって太政大臣(首相)三条実美に次ぐ右大臣に任じられ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%AE%B6
という事績を残している。
 近衛家から岩倉家に、秀吉流日蓮主義が伝えられ、それが、代々受け継がれていったということだろう。(太田)

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[禁中並公家諸法度第1条]

 「禁中並公家諸法度(当初は「公家諸法度」)は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡後の<1615>年7月17日・・・、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。・・・
 第1条<は、>・・・天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
(天子が修めるべきものの第一は学問である。以下略。)・・・
 第一条の条文は鎌倉時代の順徳天皇が記した有職故実書『禁秘抄』に書かれている文章の抜粋である。これについて橋本政宣<(コラム#1209、12317)>は第一条にこれに関白が連署して公家法としての要件を得る事によってこの法度の実際の制定権力である江戸幕府への「大政委任」の法的根拠を与えたと解説する。・・・
 これに対して田中暁龍<(コラム#12317)>は・・・朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ、幕府側の論理である大政委任の法的根拠と解釈することで出来ないとし<つつ、>・・・武家官位の員外官化と公家官位からの分離は既に・・・1606年・・・4月に導入されていた武家官位推挙の江戸幕府への一本化と合わせ、豊臣氏宗家を摂関家に豊臣氏庶流や豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家として位置づけようとした豊臣政権における官位システムの解体・・これには徳川氏が豊臣政権下で豊臣氏宗家の下に位置づけられ、かつ前田・上杉・毛利といった現存外様大名を含む他大名と同格とされた事実の否定・隠蔽を含む。・・と徳川氏による武家官位掌握を目指したものであり、その結果徳川氏一門を唯一の武家公卿とする原則(まれに加賀藩前田氏などが公卿となった例がある)が確立された。・・・
 <ちなみに、> 当時の関白は鷹司信尚であるが、「国家安康」の鐘銘で問題になった方広寺の大仏供養に参列しようとした件を巡って家康に忌避され、<1614>年11月1日の摂関家による家康への挨拶の際に家康から会見を拒否されて以降は謹慎状態となり、大坂の役後に辞表提出に追い込まれており、法度公布直前の7月10日に二条昭実に次期関白の内示が出され、同28日に正式に任命されている。つまり、昭実は事実上の現関白の立場として法度に署名している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6

⇒私は、田中暁龍説乗りなのだが、その上で、更に一歩を進めて、禁中並公家諸法度は、その制定時期からして、かつまた、その第1条が最重要規定と目されることから、武家官位外にある(=員内官である)将軍兼右大臣等を輩出することから唯一の例外たる徳川本家以外の、(豊臣氏のような)公家を兼ねた武家も、(かつての下冷泉家のような)武家を兼ねた公家も、一切認めないことを定めたもの、と、解するに至っている。
 これにより、近衛家は、武家を兼ねた公家を目ざせなくなったわけだが、ご承知のように、武家たる島津家≒公家たる近衛家、であったことから、かつまた、家康が島津家を取り潰すことができなかったことから、近衛家は、事実上、脱法的に武家を兼ねた公家であり続けることとなり、これがアキレス腱となって2世紀半後に、近衛家/島津家によって徳川家は権力を喪うことになるわけだ。(太田)
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⇒養父の近衛信伊から、秀吉流日蓮主義教育を受けた信尋は、その結果、確固たる秀吉流日蓮主義者になったと思われるところ、その信尋に対して、前久・信伊父子が与えた指示は、(天皇家に「残った」ところの、信尋の同母兄である後水尾天皇をすら秀吉流日蓮主義者へと回心させるのは不可能であるとの心証等から、天皇家が最大限望んでもせいぜい信長流日蓮主義家であり続けるであろうとの結論を下した上で、それでも諦めることなく、)秀吉流日蓮主義を日本の国是にするための具体的な長期計画を立て、その実行に着手することだった、と、私は想像を逞しくするに至っている。
 そして、信尋は、見事にこの長期計画を立て、子の泰姫(後の尋子)にその旨を言い含めた上で、(かねてより光圀と交流させていた冷泉為景、と、江戸に工作員として送り込んであった松花堂昭乗を使って)、彼女の水戸徳川家世子との縁談のお膳立てに成功した(後述)、と。
 信尋が立てた長期計画とは、『神皇正統記』の南朝正統史観・・私見では秀吉流日蓮主義史観・・、を、典拠付きの大部のものへと作り変えた日本史書を、(尾張徳川家は尊皇ではあっても日蓮主義家とは限らないとスルーした上で、)日蓮主義家であろうと見た、水戸徳川家か紀州徳川家の中から、水戸徳川家に白羽の矢を立て、同家に作らせることとし、将来、それを徳川将軍家に受納させ、更にそれを将軍家から天皇家に受納させることによって、秀吉流日蓮主義を日本の国是にすることを目指すこととし、そのために自分の子を水戸徳川家の世子に正室として送り込み、その子に当該世子を「洗脳」させる、というものだった。
 この計画がうまく進捗して行けば、秀吉流日蓮主義が徳川将軍家の身内事大主義/原理主義的世俗主義とは相容れない以上、徳川将軍家が内部から弱体化する可能性が大であり、かつまた、天皇家においても、北朝系であることから窮地に追い込まれる可能性があるが、どちらもやむをえない、と、達観したのではないか、とも。
 なお、信尋(~1649年)とその子尚嗣(1622~1653年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%97%A3
に、短期間ながら、自分達の天皇家評価がひょっとしたら間違っていたのかもと思わせた可能性があるのが、後光明天皇(1633~1654年。天皇:1643~1654年)の秀吉流日蓮主義者化(後述)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
であったと思われるところ、これは、同天皇が、その能力が傑出していたところへもってきて、直接的には、冷泉為景、及び、従兄弟の近衛尚嗣、また間接的には、為影と交流があり、かつ、尚嗣の義兄弟(同母妹の夫)であるところの、徳川光圀(1628~1701年)、の影響を強く受けたからだろう。(太田)

7 近衛尋子

 ちかこ(1638~1659年)。「関白左大臣・近衛信尋の娘<。>・・・1649年・・・10月11日、父信尋が死去<したが、>・・・1652年・・・8月頃、水戸藩の世継ぎであった徳川光国(後に光圀)との縁談がほぼまとまり、9月には幕府の承認を得る。

⇒尋子の同母兄で近衛家を継いだ尚嗣(1622~1653年)は、1651年に関白に登り同年中に出家している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%97%A3
が、文化人としての事績がなく(上掲)、文字通り、父の遺命を受けて、妹で(父から既に言い含められていた)尋子の婚約を成就させること、と、近衛家の男系の嫡男を残す、ということだけのための生涯であった、と言っても過言ではない。(太田)

 同年の11月に光圀の庶子である頼常が誕生しているが、光圀の兄・頼重の高松藩に送られて養育された。
 ・・・1653年・・・に兄の近衛尚嗣が没したため婚礼は延びたようで、・・・1654年・・・春に江戸に下向して水戸藩邸に入り、・・・光圀との婚礼が挙行された。ときに光圀は27歳、泰姫<(尋子)>は17歳。・・・
 <ところが、彼女は、それからわずか5年後に>赤痢となり、・・・死去<する>。・・・
 光圀は「・・・藤夫人を祭る文」を書き、夫人の死を悼んだ。「……物換り、年改れども、我が愁は移ることなし。谷の鴬百たび囀れども、我は春無しと謂はん。庭の梅已に綻びたれども、我は真ならず謂はん。去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。鳴呼哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔つ。天なるか命なるか。維(ただ)霊来り格(いた)れ。(原文漢文)」・・・
 また、実家近衛家に奉ずるため、「藤夫人病中葬礼事略」を記している。・・・
 <尋子には、和歌の>家集として『香玉詠藻』があ<り、>また、漢詩二首が伝わっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90

⇒私は、光圀が、最初から日蓮主義者であって(コラム#12170)、しかも、池田光政を眺めてより強固な日蓮主義者になった、と見ている(コラム#12301)ところ、近衛信尋が、徳川将軍家の日蓮主義化を目論み、冷泉為景や松花堂昭乗(、更には島津氏)から得られた情報をもとに光圀に白羽の矢を立て、子の尋子に言い含めた上で、その存命中に尋子の水戸徳川家への送り込み工作を行い、水戸徳川家に内諾させることに成功していた、と見ている。
 光圀は、1654年の尋子との結婚後の1657年に駒込邸に史局を設置して『大日本史』の編纂作業に着手する・・当時はまだ世子の時代だった・・が、これは(生前の信尋から彼女が与えられていたミッションに基づく)尋子の働きかけを受けたものだったのではなかろうか。
 (「光圀が修史の志をたてたのは1645年<、>・・・18歳のときといわれ、翌年から学者を京都方面に派遣して古書の収集を始めた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-91827
ということになっているが、当時から光圀が歴史好きであったことは事実だとしても、『大日本史』の編纂の志の話はメーキングだろう。)
 その翌年、尋子は死去してしまうわけだが、光圀が「祭る文」をしたためるとともに以後正室を娶らなかった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90 前掲
のは、尋子が、天皇の孫でしかも(恐らくは光圀以上の)教養人であったという点で単なる正室ではなかっただけではなく、思想上の同志・・いや師?・・ですらあったとすれば、分からないでもない。
 そして、光圀が尋子の「実家近衛家に奉ずるため、「藤夫人病中葬礼事略」を記し」たのは、近衛家が尋子を通じて自分に託したミッションは、彼女との死別以降も、必ず果たす、という決意を示すためのものであった、とも私は見ている。
 さて、「その後、光圀は<1661年の>父頼房の死去により家督を相続し、公務が多忙となったため<、この>事業からは遠ざかっていたが、幕府では1662年・・・に林鵞峰に命じて編年体の史書『本朝通鑑』の編纂を開始しており、光圀は林鵞峰を藩邸に招いて面談し、編纂方針や正統問題について質問している。1672年には編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、「彰考館」と改めた。史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した明朝遺臣である朱舜水を招聘し、彼らより歴史の正統性の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将楠木正成の忠誠心を朱舜水に示唆された(そもそも日本の正史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは最大の選択「本朝の大事」だった)。さらに、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けていた。・・・1676年・・・6月には神武天皇から後醍醐天皇までの本紀が清書され、天和年間には『新撰紀伝』104巻として完成するが、光圀は南北朝合一の後亀山天皇期まで扱う必要性と内容上の不備を感じ、同年には彰考館に総裁を置いて機構を改革し、新館を新築して史館員も増員させ、国史以外にも詩文集など編纂事業が拡大していった。光圀は1690年・・・に西山荘へ隠棲すると、国史以外の各種事業を停止して本紀の完成を促進させ、1697年には「百王本紀」として完成させる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2 
という経過を辿るところ、光圀がしばらくこの「事業」から遠ざかっていたのは、「公務が多忙となったため」などではなく、父死去の2年前の1659年に尋子が亡くなった時点で、「事業」の実質的な主導者がいなくなったために、光圀が途方に暮れたためではなかろうか。
 1572年になって、ようやく光圀がこの「事業」を再開するに至ったのは、「師」の尋子を失ってしまった彼が、ようやく、この「事業」の意義を完全に理解し、自分が主導者たりうる、という確信を得るまでに時間を要したからではないか、とも。(太田)

8 近衛熙子/天英院

 ひろこ(1666~1741年)。「<近衛信尋の孫で、尚嗣の子である>基熙・・・<と>後水尾天皇の娘の(品宮)常子内親王・・・の長女・・・。幼少の頃より母・・・に連れられて頻繁に参内しており、皇室の親類や御所の女房たちの称賛を浴びて育った。特に東福門院や明正天皇の御所には多く出入りし、雛人形や道具類など数々の贈り物を賜ったという。
 ・・・1679年・・・、甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)<(注10)>と・・・婚礼の式を挙げた。

 (注10)1662~1712年。「徳川<家光の子の>綱重の長男として、江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中・お保良(長昌院)に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。
 [新見<(しんみ)氏は、>新見正吉と、その子正勝が、天正年間に徳川家康の配下となり、幕末までに8家が旗本として存続した。主な子孫に、甲府徳川家家老で江戸幕府六代将軍徳川家宣の養父新見正信、八十翁疇昔物語の著者新見正朝、長崎奉行や勘定奉行を務めた新見正榮、新見正路日記、新見文書の著者新見正路、その子で幕末の外国奉行新見正興、最後の飛騨郡代新見内膳などがいる。・・・菩提寺<は、真宗大谷派の>牛込願正寺(現在は中野区上高田に所在)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%A6%8B%E6%B0%8F ]
 生母<の長昌院>は・・・1664年・・・に死去している。
 [長昌院<(1637~1664年)は、>・・・後北条氏の旧臣・田中勝宗の娘とされるが、魚屋の伏見屋五郎兵衛(善兵衛)の娘などとする説もある。はじめは徳川秀忠の長女・千姫の女中であった松坂局に奉公する。やがて綱重に見初められて側室となり、・・・1662年・・・に虎松(後の徳川綱豊・後に徳川家宣)、・・・1663年・・・に熊之助(後の<上野館林藩主>松平清武)を生む。しかし<彼女>は綱重より7歳も年長で、しかも当時の綱重は摂政二条光平の娘・隆崇院との縁談が持ち上がっていた。そのため、虎松は家老の新見正信が、清武は藩士の越智清重がそれぞれ養った。また、<彼女>は清重に預けられるが・・・病没した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%8C%E9%99%A2 ]
 9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて綱豊と名乗った。・・・1678年・・・10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・順性院に育てられた。
 [順性院<(じゅんしょういん。1622~1683年)は、>江戸幕府3代将軍徳川家光の側室。甲府宰相・徳川綱重の生母。6代将軍徳川家宣の祖母。通称はお夏の方。父は京都の町人の弥市郎と言い、娘の夏が家光の子を出産したことで士分に出世<した。>・・・夏は元々徳川家光の正室・鷹司孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際家光の手がつき懐妊する。・・・
 同じく家光側室だった桂昌院とは犬猿の仲だったと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%80%A7%E9%99%A2 
 <桂昌院(1627~1705年)は、>・・・5代将軍・綱吉の生母。・・・父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。・・・部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、・・・局の指導を受けるようになる。長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、・・・綱吉を産んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%8C%E9%99%A2 ]

⇒近衛基熙(1648~1722年)が行ったところの、この熙子の、傍系の将軍候補者の誰かへの輿入れ、と、そのための誰が一番有力な将軍候補者であるかの見極め、と、仲立ち、の全部または一部に最も関与したのは、島津光久(1616~1695年)と徳川光圀(1628~1701年)だったのではなかろうか。
 光久は、「1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。・・・1637年<に>・・・薩摩鹿児島藩主<となり、>・・・1687年<に>隠居して孫・綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配した。・・・<また、その>徳川光圀<との関係だが、光圀>が江戸に後楽園を作って大名たちを招待した際、光久も招かれ<、>光圀が後楽の意味を説明している最中、・・・いきなり裸になり池に入って泳ぎ回った後「よくできた池でござる」と挨拶した<とされる、親しい間柄だった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%85%89%E4%B9%85
 なお、光圀は、当時、水戸藩主だった(隠居は1690年)ので、上の挿話からも分かるように江戸在住だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80

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[近衛家と鷹司家]

 鷹司家が、三代将軍家光とその子で四代将軍綱吉に正室を送り込んでいたのに、近衛基熙が鷹司家を情報源として活用したとは考えられない理由と、そもそも鷹司家が、私の言う近衛家プロジェクトにおいて、近衛家の代理や補助を務め得なかった理由とを説明しておこう。

 鷹司家は、もともとは近衛家の分枝だったのだが、「戦国時代の12代鷹司忠冬に嗣子がなかったため、1546年に断絶し、30年程中絶したが、1579年・・・に織田信長の口添えにより二条晴良の三男信房<(注11)>により再興した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6
ところ、信房の出身の二条家は、そもそも武家に取り入るのが身上の九条家(コラム#省略)の分枝である上、「足利義満の偏諱を受けた二条満基以来、足利将軍家および徳川将軍家から代々偏諱を受けており、五摂家のなかでは、最も親幕派とされ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%B6
ているので、信房が自分の子を徳川将軍家に送り込んだのは当然とも言える。

 (注11)鷹司信房(1565~1658年) 「諱の「信」の字は信長から偏諱を受けたものと考えられている。二条家は元々武家と距離が近く、先の足利将軍家や後の徳川将軍家とも密接であり、信房の次兄の二条昭実は・・・1575年・・・に信長の養女を娶っている。この縁もあり、信房を擁して鷹司家を再興する流れになったと考えられる。生家を継いだ昭実に加え、長兄の九条兼孝が九条家を継いだため、五摂家のうち3家の当主を兄弟で占めることになった。」
 <そして、その>女子<の>孝子(1602年 – 1674年) – 本理院、<を、>徳川家光御台所<に送り込んでいる。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF

 その信房の子の鷹司信尚(のぶひさ。1590~1621年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%B0%9A
の子の鷹司教平(のりひら。1609~1668年)が、「女子<の>鷹司信子(1651-1709) – 浄光院<を>徳川綱吉御台所<に送り込んだ>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3
のも、同じことだ。
 そこには、自分達の手で将軍家をどうこうしたいといった志は皆無で、ひたすら、二条家の家風に忠実に、武家に取り入り、自家の地位の維持向上を図る思惑しかなかったはずだ。
 もちろん、近衛家としても、本来自家の分枝であった鷹司家の家風を近衛流へと引き戻そうと試みたはずであり、教平の子の房輔(ふさすけ。1637~1700年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94
の子の鷹司兼熙(かねひろ。1660~1725年)の母親が長州藩主の毛利秀就(注12)の子で妻が松平頼重(注13)の子であったことから、日蓮主義の影響を強く受けていることに目をつけたと想像しているのだが、基熙は手懐けて自分の片腕に仕立て上げ、「1703年<に、彼>に関白職と藤氏長者を譲<っており、>1707年・・・には長男の家熈が関白・藤氏長者に就任している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99
 <また、>兼熙<は、>・・・<基熙の子である>近衛家熙の次男<の>・・・房熙<を>・・・<嫡男たる>養子<に迎え、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E7%86%99
基熙の期待に応え、近衛家分流への名実共の回帰を果たしている。

 (注12)ひでなり(1595~1651年)。「毛利輝元の長男。・・・正室は結城秀康の娘・喜佐姫(徳川秀忠の養女・龍昌院)・・・長州藩の初代藩主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%B0%B1
 (注13)よりしげ(1622~1695年)。「水戸藩主徳川頼房の長男として誕生。慶喜の9世祖父にあたる。・・・<同母弟が>徳川光圀<。>・・・讃岐高松藩の初代藩主。・・・後に実子の徳川綱方、徳川綱條が光圀の養子となり、水戸藩の家督は綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、・・・1673年・・・に家督を譲って隠居した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E9%87%8D

 しかし、房熙にも、その跡を継いだ実弟の尚輔にも男子がなく、結局、一条兼香の子の基輝が継ぐも男子がなく、鷹司家は再び断絶の危機を迎え、再び皇別摂家となる。

(参考:鷹司家)

鷹司信房-信尚————-教平-房輔———-|-兼熙=房熙(近衛家熙次男)=尚輔(房熙弟)
    -孝子(徳川家光室)  -信子(綱吉室)|-輔信
|-一条兼香-道香-八代君-徳川治紀-斉昭-慶喜
-鷹司基輝⇒「断絶」・皇別摂家へ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%B0%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E7%86%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E8%BC%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6

⇒鷹司家が本来近衛家の分流であった(上掲)ことを再度銘記されたい。
 ちなみに、一条家も、後陽成天皇と近衛前子の子である近衛信尋の同母弟が一条昭良として皇別摂家化していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B 前掲
ところ、一条道香(後出)の位置付けについても、この際、覚えておいていただきたい。(太田)
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 ・・・1680年・・・、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから<、綱豊は、>綱重の弟である上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊<(注14)>が家光に血が近い綱吉を強力に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。

 (注14)1634~1684年。「第3代将軍・徳川家光政権下の老中・堀田正盛の三男として生まれる。・・・1635年・・・に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となり、その縁から・・・1641年・・・、家光の嫡男・竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した。・・・1643年・・・、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。
 ・・・1651年・・・、家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、遺領のうち下野新田1万石を分与され、守谷城1万3000石の大名となる。・・・その後も4代将軍・家綱の時代に順調に昇進し、・・・1656年・・・に稲葉正則の娘と結婚、正則の後見を受けて・・・1660年・・・には奏者番となり、上野安中藩2万石を与えられた。同年に長兄の堀田正信が改易されたが、お咎めは無かった。・・・1670年・・・に若年寄となり、・・・1679年・・・に老中に就任し、2万石の加増を受けた。
 ・・・1680年・・・、家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を推したという。綱吉が5代将軍に就任すると大手門前の忠清邸を与えられ、・・・1681年・・・12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられる。就任後は牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げた。
 しかし・・・1684年・・・8月28日、従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺された。・・・幕府の記録によれば発狂のためとされているが、事件は様々な臆測を呼び、・・・正休もその場で殺害されていることから、将軍綱吉の関与も囁かれた。・・・
 正俊が暗殺される直前に綱吉は生類憐れみの令を布くことを表明しており、正俊はこれに反対していた。また、正俊には綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていたと推測される。そのため両者の間に溝が生まれたことから、「綱吉による陰謀説」がある。またこの事件以降、綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中との距離が生じた。そのため、両者を連絡する柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持つこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A
 正俊の養母の春日局(1579~1643年)の「父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三・・・である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80

⇒この堀田正俊の綱豊将軍就任反対理由を詮索した者がいなさそうだが、養母で、反日蓮主義者の光秀に仕え、天台宗の真正極楽寺真如同を墓所とした斎藤利三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E4%B8%89
https://shin-nyo-do.jp/
の家に生まれ、父を山崎の戦い後の処刑で失い、母方の親戚に当たる三条西公国に養育され、公家の教養を身に着けると共に、近衛家の事情にも通じるに至ったところの、春日局
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80
から、養子として、このような知識を伝授されていたことから、近衛家が娘を綱豊の下に送り込んだ狙いが読め、だから綱豊の将軍就任に反対したのであろう、と、私は見ている。
 また、正俊を殺害した稲葉正休(まさやす。1640~1684年)は、現在の東京都杉並区の日蓮宗の宗延寺に葬られているので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E4%BC%91
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BB%B6%E5%AF%BA_(%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA)
日蓮宗信徒であったはずであり、想像を逞しくすれば、常時在江戸の光圀(~隠居1690年、死去1701年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
から、反日蓮主義者の正俊殺害を「指示」されたのではなかろうか。
 正休が、「刃傷に及ぶ直前、茶坊主に先代以来の将軍家への御恩に報いるためという遺書を若年寄の秋元但馬守に届けさせた。」ことと、「正休自身も同席していた老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに滅多斬りにされて殺され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E4%BC%91
こと、このうち、大久保忠朝の(祖父で「小田原藩主の忠隣が改易に処された際、<父の>教隆も連座して天海に預けられ<た>」ことから、教隆も忠朝も墓所は天台宗寺院になっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%95%99%E9%9A%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%9C%9D 前掲
けれど、)大久保家の菩提寺は本来は小田原の日蓮宗の大久寺である
https://temple.nichiren.or.jp/0071037-daikyuji/
ことから、逞しくもう一つ想像すれば、忠朝が「1686年<に>祖父忠隣の領地であった小田原への<小田原藩主としての>復帰を果たす」(上掲)ところ、その実現への口添えを、日蓮主義者である光圀が約束した上で、忠朝に正休の口封じをさせたのではなかろうか。(太田)

 綱吉の実子・徳松が<5歳で>早世すると、水戸藩主・徳川光圀から強く次期将軍に推挙されたといわれ<、>・・・綱吉の娘婿の紀州藩主徳川綱教という後継候補も存在したが、3代将軍徳川家光の孫であることもあって<、綱豊は、>将軍世嗣に正式に定まり、「家宣」と改名して綱吉の養子となり江戸城西の丸に入ったのは<1704>年12月5日・・・、家宣が43歳の時だった。
 なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。
 ・・・1709年・・・、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、宝永通宝の流通と酒税とを廃止。生類憐れみの令も一部を残し順次廃止させた。ほか、柳沢吉保の辞職により側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用して、綱吉時代から始まった文治政治を推進し、琉球や李氏朝鮮との外交や宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。しかし在職3年後の<1712>年10月14日・・・に死去。享年51(満50歳没)。

⇒『大日本史』の完成(1715年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
目前の家宣の死は、その正室の熙子、そして、近衛基熙、及び、徳川光圀、らにとっては大きなショックだったことだろう。(太田)

 <長い「注14」を挟んだが、ここで話を元に戻すが、>家綱・綱吉と同様に家宣も後継者に恵まれず将軍職を継いだのは<熙子の子ではないところの、>3歳の徳川家継で、政治は引き続き間部や新井白石らに依存した。・・・
 家宣は死の床についたとき、側用人の間部詮房を通じて新井白石に将軍継嗣について相談した。「鍋松(家継)は幼く、古来幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。また天下の事は私すべきものではない。東照宮(家康)が御三家を立てられたのはこのような時のためであるから、自分の後は尾張殿(徳川吉通)に将軍職を譲って鍋松が成人した折には尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西之丸で政治を執ってもらい不幸にして鍋松が死んだ場合には尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、どちらが良いだろうか」との家宣の下問に対し、白石は両案ともに反対、鍋松を継嗣として譜代の者がこれを補佐することを進言した。家宣もその案を受け入れ、間もなく息を引き取った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3

 <熙子の>父の基熙にとってこの<綱豊(家宣)との>結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意なものであり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に水戸家の徳川光圀の養子の綱條との縁談があったが、基熙はこれを断っている。

⇒かねてから申し上げているように、天皇家や摂関家の日記は、いずれ事実上公開されることを意識して書かれており、書かれていることが真実ではないことも、ままあるのであって、この場合、基熙は、あえて実際とは真逆のことを書いた、と、私は見ている。
 その実、今度は、将軍になる可能性が一番ある徳川家の人間に熙子を送り込むべく、徳川光圀や島津家と相談し、家宣を選んだ、と。
 そして、熙子に与えたミッションは、次の次の将軍になる子を産むことであり、それができなければ、いずれ将軍になる人物を選び、その子ないし人物に、1676年に第一段階のものが概成していた『大日本史』・・命名は光圀の養子の水戸藩主綱條・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
を受納させ、その尊王論、南朝正統論(日蓮主義正統論!)を徳川幕府として認知させることだった、と。(太田)

 ただし、基熙の伯母の<尋子>は光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である。

⇒そんな遺誡、あったわけがなかろう。
 そもそも、既述したように、室町幕府第12代将軍義晴の正室は近衛尚通の娘で、その子の第13代将軍義輝の正室は近衛稙家の娘だ。
 だから、これは、徳川氏など、本来、近衛家が(反豊臣氏の思惑から)源氏へとでっちあげてやったところの、将軍になぞなれるわけがない田舎武家に過ぎない、ということを宣明したものだ、と、この日記を読んだ者が「解釈」してくれることを期待したものであって、更に、気の利いた者であれば、そんな徳川家の本家に愛娘を送り込んだということは、徳川本家に日蓮主義を浸透させることで内側から弱体化させるのが目的だったのかも、と考えてくれることを期待したのではないか。。
 然り、まさにこれは、既述した、近衛家の徳川幕府打倒の決意の片鱗を窺うことができる挿話なのだ。(太田)

 しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。

⇒だから、これは、これ以上ないほどのひどいウソであるわけだ。(太田)

 このため結婚前に、熙子は近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女となって嫁した。この養女縁組は幕府側から見ると、幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と時量以外には秘密であった。このため、熙子の扱いは近衛家の娘のままであった。

⇒基熙の日記辺りにだけ記されたフィクションだろう。(太田)

 綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供(長女の豊姫、長男の夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。そのことで彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かっている。

⇒これは、熙子が日蓮正宗の信徒であったことを意味する。
 恐らくは、自身は臨済宗信徒で通した、熙子の父の基熙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99
が、わざわざ熙子を日蓮正宗の信徒たるべく育てた、としか考えられない。(太田)

 ・・・1704年・・・12月、綱豊が名を「家宣」と改め、叔父の第5代将軍綱吉の世子として江戸城西の丸へ迎えられると、御簾中として西の丸の大奥へ入った。・・・1709年・・・1月に綱吉が病没すると、家宣は第6代将軍に就任。熙子は従三位に叙され、11月2日に御台所として本丸大奥に移った。
 これにより、当時朝廷において閑職にあった父の基熙は将軍の岳父となり、江戸時代最初の太政大臣に就任するなど権勢を振るった。このため、霊元法皇は基熙を呪詛する願文を上御霊神社に納め、皇室の影響力を高めるために皇女の八十宮吉子内親王<(注15)>を家継<(注16)>の御台所にしようと奔走するようになる。

 (注15)1714~1758年。「1715年・・・、時の江戸幕府将軍徳川家継と婚約する。当時夫となる家継もわずか6歳だった。
 ・・・1716年・・・には納采の儀を済ませるが、そのわずか2か月後・・・に家継が薨去したため、史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至ら<ず、>・・・僅か1歳7か月で後家となった。
 ・・・1726年・・・、親王宣下あって吉子内親王(よしこ ないしんのう)となる。
 ・・・1732年・・・出家<。>・・・
 京都では、吉子内親王の父である霊元法皇と天英院の実父・近衛基熙が指導権争いをしていた。家宣亡き後、幼君を戴いて正徳の改革を推し進めざるをえない苦しい立場にあった当時の事実上の政権運営者、側用人の間部詮房や学者の新井白石は、この史上最年少の将軍(徳川家継)に権威付けをするために皇女の降嫁を計画しており、・・・天英院<も>・・・月光院<も>・・・賛成<だった。>・・・
 一方、霊元法皇は長年幕府と対立関係にあったが、政敵である近衛基熙の権力基盤である幕府との関係に楔を打ち込むため、これに応じたのである。近衛基熈はこの婚約には反対であったが、天英院との関係からか表立った反対をせずに沈黙した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B 

⇒後でも取り上げるが、「注15」中の「天英院との関係からか」ではなく、天皇家と近衛家との間に亀裂が生じていることを幕府に気取られぬよう、基熙が熙子(天英院)に対し、反対しないよう「指示」した、ということだろう。(太田)

 (注16)1709~1716年。「1712年)、父・家宣が病に倒れたが、<既に少し触れたけれど、>このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣が死去すると白石は「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したという。
 徳川将軍家の慣例では、将軍家の世子は父である将軍から名字書出を受けて元服して、朝廷から大納言に任じられた後に将軍を継ぐことになっていた。ところが、鍋松が元服を済ませる前に父である家宣が亡くなってしまった。元服の際に名字書出を行って諱を定めるのは上位者の行為であり、徳川将軍家の世子である鍋松に対して諱を与えられる者がいなくなってしまった。そのため、幕府はその役目を担う人物を朝廷に求めた。そこで当時院政を行っていた霊元上皇が名字書出を行うことになった(当時の中御門天皇も13歳と幼かった)。幕府の要請を受けた上皇は12月12日に京都所司代松平信庸に対して「家継」の名字書出を記した宸翰を授け、同時に正二位権大納言に任じる消息宣下も授けた。宸翰と位記は21日に江戸に到着し、23日に江戸城の御座間に安置された。家継は徳川将軍唯一の朝廷(院)から諱を与えられた将軍となった。その後、翌・・・1713年・・・3月25日に江戸城に勅使と院使を迎え、大老の井伊直該を烏帽子親として元服の儀式を行った。この際に霊元上皇は烏帽子を、中御門天皇は冠を家継に贈っている。そして、4月2日、家継は将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。
 家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99

 大奥に入ると甲府時代とは一変し、夫婦で過ごす時間はごく限られるようになった。しかし、家宣が将軍職に就いた3年の間に夫婦で数え切れないほど吹上庭園を散歩したり、家宣が熙子の部屋を度々訪ねては、公式の手紙や文章を見せて意見を求めていることから 、夫婦仲は変わらず良好であったと思われる。
 ・・・1712年・・・に夫の家宣が病により没すると、熙子は落飾して院号を天英院と号する。側室の月光院<(注17)>(お喜世の方)が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り「一位様」と呼ばれた。家宣の遺言により本丸大奥に留まり、家継の嫡母としてその後見となった。同年12月5日には大奥の首座は天英院、次席は将軍生母となった月光院に決まる。・・・

 (注17)1685~1752年。「父は元加賀藩士で浅草<の浄土真宗>唯念寺の住職勝田玄哲<。>・・・
 和歌にも優れており、歌集『車玉集』を著している。
 生家の勝田家は町医者から幕臣(旗本)に取り立てられ、3千石もの大身で旗本寄合席となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%85%89%E9%99%A2
 「唯念寺<は、>・・・真宗高田派の寺院。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%BF%B5%E5%AF%BA_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)

⇒熙子が夫の家宣や月光院を、籠絡し、洗脳していたことが見て取れるところ、恐らくは、両人とも、信長流日蓮主義者にはなっていたことだろう。(太田)

 家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている。
 家継の早世後、紀州藩主徳川吉宗を第8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、吉宗より毎年一万千百両、米千俵を賜った。また吉宗に正室が不在だったこともあり、将軍家女性の筆頭としてその後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。・・・

⇒家継(1709~1716年。将軍:1713~1716年)が早世しなかったならば、熙子の薫陶で、やはり少なくとも信長流日蓮主義者にはなっていたことだろう。
 さて、「1697年・・・父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
ということから、前出の大久保忠朝が、吉宗シンパであると早期から目されていたことは確かであろうところ、1712年に亡くなっていた忠朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%9C%9D 前掲
も、草葉の陰で、少なくとも信長流日蓮主義者ではあったと私が見ている吉宗(コラム#省略)の将軍就任をさぞ喜んだことだろう。

 第8代将軍に徳川吉宗を指名したのは天英院だとする説がある。理由として、家宣と吉宗の考え方が一番近かったからだと言われている。天英院は当時の江戸城内の最高権力者であったが、彼女が吉宗を指名したことに幕閣や譜代門閥は驚嘆した。大奥の女性が将軍を指名したことはそれまで例がなく、また女性が政治に口出しをすることすら考えられなかったからである。そのため、最初は誰しも難色を示したが、天英院は御台所としての立場を最大限に生かし、「これは先代将軍家宣公の御遺志なのです」と次期将軍に吉宗を強く希望したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90

⇒お見事!
 「徳川吉宗<(1684~1751年)は、>・・・1705年<に>・・・紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任<すると、翌>・・・1706年・・・に二品親王伏見宮貞致親王の王女・真宮理子を御簾中(正室)に迎え<るも、>・・・1710年・・・に死別・・・<しているが、>熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を1702年・・・と1710年・・・<に、>紀州熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網を設けていた<ところ、まさにこういったことからも天英院に白羽の矢を立てられるに至ったところの、彼女の期待に見事に応え、>1716年<に>・・・将軍に就任すると、・・・それまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励し<、>・・・綱吉の代に禁止されていた犬追物、鷹狩の復活<を>行<うと共に、>・・・海防政策として・・・大船建造の禁を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。・・・<また、>「御庭番」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせ<、>・・・キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁<し>・・・、長崎を中心に蘭学ブーム<を>起こ<し>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
といった具合に、吉宗は、日蓮主義者として施政を行った。
 「<ちなみに、>吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどして<いる。>」(上掲)
 なお、私見では、以前にも指摘したことがある(コラム#省略)が、吉宗が、1720年に水戸藩主徳川綱條から『大日本史』の献上を受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
ことが最も重要であり、これは、天英院が予め、吉宗に受領することを将軍就任の条件として吉宗に確約させていた、と見る。
 そして、1720年に、吉宗は『大日本史』を幕府として受納する。
 (天皇が受納するのは、遥かに遅れて1810年だ。)
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-91827
 これは、非日蓮主義に立脚していた徳川将軍家が、少なくとも信長流日蓮主義家に、かつ、少なくとも吉宗が将軍であった間、転向したことを意味するのであって、徳川幕府は、それが立脚していたところの、原理主義的世俗主義なる「思想」(無思想)を自己否定することで、爾後、日蓮主義か否か、日蓮主義であった場合はそれが信長流日蓮主義なのか秀吉流日蓮主義なのか、等において、他の諸雄藩と同じ土俵で競わされることとになった、と言えよう。(太田)

9 安己君

 あこぎみ(1704~1725年)。「尾張藩6代藩主<の>・・・継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙<・・内前(後出)の祖父・・>の娘の安己君と婚約<(後に正室)>し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。・・・
 <ちなみに、安己君は、> 徳川家宣の御台所天英院<(近衛熙子)>の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 前掲
 近衛家熙(いえひろ。1667~1736年)は、父が近衛基熙で母が品宮常子(後水尾天皇皇女)で正室が女一宮憲子(霊元天皇皇女)。「書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の・・・1724年・・・に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。・・・自然科学にも精通し、・・・1731年・・・、雷鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している。」
 安己君(1704~1725年)は、家熙の町尻量子(おつま)との間の子。
 同母兄の房熙は、鷹司兼熙の養子になって<鷹司家を継いで>おり、また、同母姉の尚子(新中和門院)は中御門天皇の女御になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99

⇒徳川継友(つぐとも。1692~1731年)は、「<1713>年、兄・吉通、甥・五郎太の相次ぐ急死により第6代藩主となる。長い間「お控え」として、結婚もできず捨扶持を与えられた生活から一躍浮上した嬉しさからか、五郎太が没した翌日に側近や家臣を招いて壮大な酒宴を開き、これはさすがに不謹慎であると附家老・竹腰正武から諌められた<り、>・・・幼少より金銭を蓄積することに熱心、「性質短慮でけち」と領民の評判は今ひとつで、前述のように将軍位継承争いに敗れた後は、「尾張大納言」と「尾張大根」をかけて「切干大根」というあだ名があった(ただし、継友は大納言に任ぜられていない)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B
という有様だったし、安己君との婚姻前で、果して、結婚後、彼女が夫を日蓮主義者へと洗脳できるか未知数だったことから、天英院は、父の基熈及び弟の家熈と熟慮協議の上、「姪が嫁ごうとしている尾張家の継友ではなく、紀州家の吉宗を指名し、第8代将軍は吉宗に<し>た」(上掲)のだろう。
 しかし、安己君の尾張入りのおかげで、近衛家と尾張徳川家との縁ができ、継友が男子をのこさずに亡くなった後に第7代藩主となったところの、継友の弟の宗春の子の頼姫は<家熙の孫の>近衛内前の正室になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5 (太田)

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[徳川宗春の悲劇]

「幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香<(前出)>(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。

⇒近衛家の、基熙と熙子/家熙による『大日本史』工作はこうして徳川将軍家までの分は成功し、後は、徳川将軍家から天皇家に対して圧力をかけ続けさせ、天皇家に『大日本史』を受け取らせるだけになったというわけだ。(太田)

 尾張藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家・近衛家・清華家の広幡家・羽林家の正親町家と縁戚)を持っていた。

⇒天皇家/九条家 は 近衛家と対立していたのだから、こういう雑駁な記述は間違いでこそないが不適切だ。(太田)

 当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、尾張藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなる。

⇒尾張徳川家自身が、私が上述したところの、幕府と朝廷間のより根本的であってだからこそ深刻な対立で引き裂かれた、ということだ。(太田)

 そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが、実際は吉宗本人ではなく、老中松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の<1738>年6月9日・・・、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために尾張藩領は混乱を起こしてしまう。
 この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという。<また、>1739年・・・正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう。
 そして正月11日・・・、尾張藩の家老たちを江戸城に呼び出し、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌正月12日に将軍吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主浅野吉長(宗春の従兄)・水戸藩御連枝陸奥守山藩主松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる。」(上掲)

⇒近衛家の工作のとんだとばっちりで、宗春は悲劇の主人公になってしまったということだ。(太田)
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10 清閑寺竹姫/浄岸院

 1705~1772年。「権大納言清閑寺熈定<(注18)>の娘。・・・

 (注18)せいかんじひろさだ(1662~1707年)。「官位は従二位・権大納言。明正天皇・後光明天皇・後西天皇・霊元天皇・東山天皇の五代に仕えた。・・・1701年・・・2月には霊元上皇の使者として江戸へ下向し、浅野長矩による吉良義央への殿中刃傷に遭遇した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%96%91%E5%AF%BA%E7%86%88%E5%AE%9A

 <竹姫の>父熈定の妹・大典侍局(寿光院<(注19)>)は5代将軍徳川綱吉の側室であったが、子に恵まれなかったため、姪にあたる竹姫を自身の養女とすることを望んだ。

 (注19)大典侍(おおすけ。?~1741年)。「桂昌院付きの女中として仕えた。または、大奥総取締・右衛門佐局の紹介で・・・江戸へ下向して大奥上臈になったと伝えられている。・・・やがて綱吉の寵を受け、その側室となった。この折に名を「大典侍<(おおすけ)>」とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%85%89%E9%99%A2

 ちょうど綱吉も紀州藩主徳川綱教に嫁いだ一人娘の鶴姫を・・・1704年・・・に亡くしたばかりということもあってか、・・・1708年・・・に大典侍局の養女として江戸城北の丸に迎えられる。将軍の側室が養女をとるのは異例のことで、当時大きく話題になったという。
 同<1708>年7月に会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、同年12月、久千代は早世してしまう。
 さらに・・・1710年・・・には有栖川宮正仁親王と婚約し、結納まで済ませるも、・・・1716年・・・にまたしても入輿を前に親王は没してしまう。
 8代将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室にと望まれたというが、5代綱吉の養女である竹姫は吉宗にとって仮にも大叔母にあたるため、当時大奥の首座であった6代家宣の正室(御台所)・天英院から「人倫にもとること甚だしい」と反対され、この縁談話は中断した。

⇒実家の近衛家から、竹姫を島津継豊の正室にするよう動いて欲しいとの要請を受け、天英院がこのような因縁をつけた、と見る。(太田)

 代わりに吉宗は竹姫を自身の養女として新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に立て続けて2度も婚約者が没しているともなれば不吉な噂も立ち、さらに一説には竹姫と吉宗は男女関係にあったともいわれ、どの大名家・公家も敬遠して婚家探しは難航した。
 ・・・1729年・・・になってようやく薩摩藩主島津継豊との縁組がまとまった。天英院が実家の近衛家を通してまで<して>縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家でもついに断りきれなかったといわれる。

⇒近衛家と島津家が協同した出来レースだったはずだが、そういうメーキングをしたのは、島津家をして幕府からできるだけ多くのものをせしめるさせるためだろう。(太田)

 しかし、将軍家息女の婚家先には多くの経済的・精神的負担がかかるため、財政難の薩摩藩にとってはこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に、長男益之助が誕生したばかりであったため、島津家は、もし竹姫に男子が誕生しても、継嗣にはしないなどの条件をいくつも要求した。
 吉宗もこれを無条件に受け入れ、結婚当時は夫・継豊が四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の姫」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを吉宗から許されるなど異例の厚遇を受けた。また、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に6890坪を無償で下賜される。他に、婚姻後に継豊は従四位上・左近衛中将に昇進し、玉川上水を芝の薩摩藩邸に分水することが許されるなどの特別な利権を多く獲得した。
 しかし、後に隠居した継豊が鹿児島に帰国したのに対し竹姫は江戸に留まり、その10年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った。
 継豊との間に一女(菊姫)を儲け、後に福岡藩主黒田継高の子重政に嫁いでいる。また竹姫は嫡母として益之助(次代藩主島津宗信)の養育や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わった。重豪は薩摩の気風を嫌い、言語・作法を京・上方風に改めるべき命を出すなど開化政策を推進するが、これは竹姫の影響を受けたからであると言われている。竹姫は島津家へ嫁いでから44年間、継室として、徳川家と島津家の婚姻関係の強化に努めた。・・・
 浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(<1748>年、輿入れ前に房姫が死去。<1749>年には房姫の妹邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。この婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まっていくのである。
 浄岸院の死後、その遺言として、当時の薩摩藩主・重豪の娘茂姫(広大院)と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組が行われた。この縁組はのちに、天璋院篤姫が島津分家の出身でありながら、島津本家(斉彬)養女・近衛家養女という格式を踏みながら、徳川将軍家(家定)の正室になる前例を作った。
 浄岸院やその他のこれらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2

⇒より正しくは、「近衛家/島津家の幕府に対する発言力が更に増すこととなり」、だ。(太田)

11 島津篤姫/近衛寔子/広大院

 「島津継豊<(1702~1760年)は、>・・・1746年・・・11月、長男の宗信に家督を譲って隠居したが、その後藩主となった宗信と次男の重年が継豊に先立って死に、孫(重年の子)である島津重豪(初名は忠洪)が11歳で8代藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%99%E8%B1%8A
 「島津宗信<(1728~1749年)は、>・・・正室はな<い>(婚約者に徳川宗勝の娘・房姫)<ままなくなり、>・・・後を弟の重年が継ぐこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%97%E4%BF%A1
 「島津重年<(1729~1755年)は、>・・・1750年・・・に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件がおこり、用人の皆吉続安ら遠島者10人を出す。
 ・・・1753年・・・に幕命により、木曾三川の治水工事(宝暦治水)を命じられ、家老の平田靱負を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、・・・1755年・・・に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳で兄と同様に父に先立ち没し<、その>・・・長男<が>・・・10歳で藩主に就任したが、元服時に同じく徳川家重より偏諱を授かって重豪と改名した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E5%B9%B4

 以上のような背景の下、広大院(1773~1844年)は、「島津重豪<を実父として、>・・・鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫・・・といった。<篤>姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。・・・<篤>姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。
 10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。<篤>姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の・・・1789年・・・である。
 <篤>姫は・・・1781年・・・10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また、<篤>姫は家斉が将軍に就任する直前の・・・1787年・・・11月15日に島津家と縁続きであった近衛家の・・・近衛経熙の養女とな<り、>・・・経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を・・・改めて「近衛寔子(このえ ただこ)」として結婚することとなった。
 重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。
 この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。・・・
 1837年・・・、夫・家斉が隠退して大御所となって西の丸に移ると茂姫も西の丸に移り、「大御台様」と称せられるようになる。
 ・・・1841年・・・<寔子は>、夫・家斉の死去に伴い落飾して「広大院」を名乗る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2

(参考:微視的関係系図)

島津継豊-|-宗信*
  || -|-重年-重豪*————————–篤姫/近衛寔子(養父近衛経熙)/広大院
||      ||     ||
|| || ||
|| ||8代将軍徳川吉宗-宗尹-|-治済-11代将軍徳川家斉
|| || |-保姫(慈照院)
|| ||————————-||
|| ||————————-||
||
竹姫/浄岸院(権大納言清閑寺熈定の娘/3代将軍徳川綱吉養女/8代将軍徳川吉宗養女)

 *は浄岸院が養育

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88

 この広大院の「洗脳」により、「徳川家斉<(1773~1841年)は、>・・・<日蓮主義者どころか、>日蓮宗を信仰<することとなり、>・・・<欧米勢力の東漸の象徴たる>異国船<の>打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大<させ、また、>・・・在職期間50年は、江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長記録であるが、その生涯で一度も<反日蓮主義者であった家康を祀る>日光社参はしなかった。<更に、秀吉の唐入り出兵の際、朝鮮が歯向かったことからか、>・・・家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使<を>江戸時代最後の朝鮮通信使と<した上、その折も、>対馬での応接にとどめ、江戸へ招かなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
といったことを、以前にも記したことがある(コラム#省略)が、このように、日蓮主義者としての姿勢を貫くこととなった。
 なお、「感応寺は、家斉の愛妾・お美代の方の実父・日啓の願いにより、・・・1835年・・・に再興されたもので、家斉とともに茂姫も尊崇した」とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2
が、日蓮宗信徒の系譜は、お美代→家斉→広大院、というのが私のかつての説であった(コラム#省略)ところ、そうではなく、天英院(前出)→浄岸院(非信徒日蓮主義者)→島津継豊/重豪(どちらも非信徒日蓮主義者)→広大院→家斉、だったのではないか、というのが私の新説だ。
 また、「徳川将軍としての従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来であ<り、また、>征夷大将軍と太政大臣の両職に就任した人物もいるが、両職を現職で兼務したのは家斉だけである(太政大臣就任の1827年から将軍を退任する1837年まで10年間両職を兼務。太政大臣は1841年の死去まで在職)<、更に、>・・・内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番に歴任した武家は家斉だけであ<るところ、>生涯で一度も上洛したことがないまま太政大臣に就任した武家も家斉だけである」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 前掲
が、これらは、家斉が、転落した天皇家(後述)を軽蔑し、軽んじていたからこそだ、とも私は見ている。
 1791年の尊号一件(次のオフ会「講演」原稿で後出)の時に、光格天皇が採った正当な措置を撤回させたのは、1787年に将軍に就任してからまだ日が浅く、時の老中松平定信の意向に逆らえなかったからとされているが、そのわずか2年後の1793年に家斉は、尊号一件の関係者でもあったところの父親の治斉と協力して、定信を罷免しており(上掲)、本件に関しては、家斉自身が光格天皇を貶めることには大いに賛成だった、と見ており、だからこそ、定信罷免後も、本件で方針転換をしなかったのだろう。
 なお、本件に限らず、定信が老中として行って定信罷免後も維持された諸施策は、家斉も賛成だったということであり、朝鮮通信使の件もそうだが、昌平坂学問所の設置、就中、学問吟味=官吏登用試験、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
を維持したのは、それが幕臣の文官官僚化、ひいては幕府の軍事力の劣化をもたらすことをある程度覚悟の上で、藩士達を文官官僚化させるわけがないところの、薩摩藩(/近衛家)、を中心とする外様系の勢力に幕府を打倒させ易くした、とさえ、私は想像するに至っている。
 いくら何でも穿ち過ぎだと思われるむきもあるかもしれないが、それらが、家斉(1773~1841年。将軍:1787~1837年)自身の知恵によるというよりは、彼の舅の重豪(~1833年)から、重豪の子で家斉の正室である広大院(1844年)経由でインプットされ続けたところの、家斉の立場やレベルに合わせるべく、方便を含んだところの、「知恵」によるものである可能性が高い、とまで言えば、納得していただけるかもしれない。
 (重豪は、吉宗による幕臣の「武」の復活努力が笛吹けども踊らず状態で推移していることを見てとり、かねてより、歴代将軍はともかくとして、幕府そのものの日蓮主義化は不可能だと見きわめ、近衛経熙とも相談の上、島津家/近衛家の方針を、将来におけるその打倒を期した幕府の弱体化、へと明確に方針転換を行っていたのではなかろうか。
 そしてもちろん、日蓮主義と共に、こういった情報や情勢認識を、重豪は、溺愛していた曽孫の斉彬(1809~1858年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
に全て注ぎ込んだことだろう。)
 案の定、家斉は、嫡男(次男)の「家慶とは不仲」(上掲)であったこともあって、家慶を将軍にして「<自分>が大御所となってからも権力を握り続け<たものの、結局、>家慶は<日蓮宗ではなく、徳川本家の本来の宗旨である>浄土宗を信仰し」(上掲)、かくして、吉宗から始まったところの、徳川将軍家の日蓮主義化は、家斉が日本の最高権力者であった半世紀余を最後に頓挫してしまい、徳川幕府の命運はここに決した、と言ってもよかろう。
 (これは、次回のオフ会「講演」原稿マターだろうが、水戸徳川家出身の慶喜はもちろんだが、紀州徳川家出身の家茂も日蓮主義者であったはずであるところ、いかんせん、家茂が将軍になった時点までに徳川幕府の滅亡はもはや回避できない状態に陥っていた。)
 いずれにせよ、家斉の事績で最も重要なのは、(吉宗も実現できなかったところの、)『大日本史』の天皇(光格天皇)への献上を(恐らくは、広大院の口を借りた彼女の実父重豪の家斉への進言に基づき、かつ、朝廷における彼女の養父近衛経熙の根回しによって、)1810年に実現した
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-91827
ことだろう。
 これは、家斉が将軍に就任した1787年4月15日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
の直後の「1787年・・・6月、天明の大飢饉<に係る>御所千度参りが行われると、<光格>天皇は事態を憂慮し、幕府に民衆救済を申し入れた。ただしこれは、幕府が定めた禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
ことで、光格天皇に恩を売ったおかげで、その直後の1788~1791年の尊号一件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
の発生にもかかわらず、同天皇が、一貫して基本的に家斉に好感を抱き続けたためだろう。
 (これについても、老中首座の松平定信の進言というよりは、広大院の口を借りた重豪の家斉に対する進言に従ったものだったのではないか。)
 しかし、これにより、(「転落」によって既に損なわれていたところの、)北朝系の当時の天皇家の権威は著しく損なわれることになり、逆に近衛/島津家の権威はますます高まった、と言えよう。(太田)

12 島津(源)篤姫/近衛(藤原)敬子/天璋院

 省略(コラム#省略)。

(参考:巨視的関係系図)

8代将軍徳川吉宗-|—一橋初代宗尹-|-一橋2代治斉—11代将軍家斉-12代将軍家慶-13代将軍家定
↑ |~浄岸院(養女)|—————慈照院 || ||
    ↑       || || |-広大院 ||
    ↑     薩摩藩5代島津継豊-|-7代重年-8代重豪-|-9代斉宣-|-忠剛—–天璋院
↑ ↑ |-6代宗信   |-南部信順 |-10代斉興-11代斉彬
    ↑       ↑
(1716年吉宗将軍指名・1729年浄岸院島津家送り込み)
近衛基熙(1648~1722年)-|-近衛熙子/天英院(1666~1741年) (広大院養女) (天璋院養女)
|     || ↑ ↑
| 6代将軍徳川家宣-7代将軍家継 ↑ ↑
|-家熙-家久-内前——————-経熙-基前———–忠熙

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2 等

⇒ここでも、日蓮宗信徒の系譜は、南部信順→斉彬→天璋院、という私の旧説(コラム#省略)、広大院~天璋院→斉彬、という私の新説(コラム#省略)、を更に改め、重豪(非信徒日蓮主義者)→斉彬→天璋院、及び、重豪(非信徒日蓮主義者)→南部信順、という私の最新説を提示しておきたい。
 なお、日蓮主義者が日蓮宗信徒である(になる)場合とそうでない場合があるわけだが、そもそも日蓮主義者が日蓮宗信徒である必要はないことに加えて、墓所を見れば分かるように、徳川家は浄土宗であるように、どの武家にも家の宗旨があり、それが日蓮宗ではない場合に、宗旨替えを表立っては行いにくいはずであり、例えば、島津家の場合は宗旨は曹洞宗だったので、重豪は宗旨替えをしなかったのだろうし、その伝で行くと、斉彬が日蓮宗に宗旨替えをしたのは、既に「有事」になっていた当時の日本で、島津家が日蓮主義の遂行を目指していることを誰の目にも分かるようにするためだったと考えられる。
 また、家斉が宗旨替えができたのは、日本の最高権力者であって、彼が誰にも掣肘されなかったからだろう。
 更に付け加えれば、貴族出身の女性達の宗旨替えが比較的簡単にできたように見えるのは、そもそも、当時は、姓も名字も嫁入り前のものを維持したことからも、嫁入り前の宗旨を変えて夫の宗旨に合わせなければならない、ということがなく、従ってまた、その宗旨を(夫のそれとは異なる)宗旨に変えることもできないわけではなかった、ということではなかろうか。
 ここでも注意を喚起しておくが、日本は、一貫して、その基調は、女性優位社会なのだ。(太田)

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[近衛家の墓所]

 表記が下掲に載っている。↓
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80
 (以下、断り書きなき「」内はこれ↑による。)
 驚くべきことに、第1代の近衛基実から第15代の稙家までは概ね不詳だ。
 例外は、第2代の基実と第5代の基平であり、前者は「普賢寺近くに墓所がある」、後者の「墓所は御室西谷の新光明寺にあった深心院法華堂(廃絶)」とある。ちなみに、新光明寺は、「浄土宗西山派西谷流の発祥地の寺院」だ。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%96%B0%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA
 日蓮宗が成立してからは、第9代の道嗣が、確証がないのだろう、「菩提寺は<日蓮宗の>本満寺という」だ。
 さて、第16代近衛前久と第17代信尹(父子)は、「墓所は東福寺海蔵院にあったが、のち大徳寺に移された。」ところ、どちらも臨済宗の寺だ。
 第18代信尋からは、(一部不詳があるが、)一貫して(最初から)大徳寺だ。
 前久と信伊の墓所を大徳寺に移したのも信尋だろう。
 ちなみに、大徳寺は、「後醍醐天皇<が>・・・、建武元年(1334年)に・・・大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
 しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。・・・1386年・・・には、十刹の最下位に近い第9位となっている。このため第二十六世養叟宗頤は、・・・1432年・・・足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
 その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
 ・・・1453年・・・の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
 ・・・1582年・・・6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が盛大に執り行われている。翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、・・・1589年・・・には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
 江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA
という寺だ。
 稙家までは、「近衛家<は、>・・・藤原氏の菩提寺である法相宗興福寺の一乗院門跡を管轄した。一乗院と関係が深い真言宗大覚寺門跡も戦国時代の義俊以降は幕末まで皇族でなければ近衛家出身者だった。黄檗宗を含む臨済宗と関係が深く、大徳寺を主な菩提寺とする。宇治・万福寺は近衛家領が収公されて建てられた。天台宗実相院が門跡寺院になれたのは静基が近衛家出身であるためである。近衛家出身の僧としては日蓮宗本満寺開山日秀や修験道本山派の教団形成の立役者となった聖護院門跡の道興がいる。浄土真宗東本願寺の歴代住職は維新まで近衛家の猶子となった。専修寺住職の常磐井家は近衛家の子孫である。法華寺や三時知恩寺も近衛家の女性が多く入寺した。日蓮宗本満寺は近衛家の邸宅を寺にしたものと伝え、浄土宗不断光院は邸宅の持仏堂という。 また宇佐神宮が近衛家を本所と仰いだ。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%8
という具合に、近衛家は、関係が深い宗派がたくさんあったことから、特定の仏教宗派にコミットした形になるのを避け、寺の敷地外に墓所を設けた結果、場所が殆ど分からなくなってしまった、ということではないか。
 前久以下が、臨済宗の寺に決め打ちすることにしたのは、日蓮宗の寺にしたかったけれど、いささかどぎつ過ぎるので、武家に最も人気のあった臨済宗の寺にしたのではないか。
 もとより、それはそれで意味があったはずであり、発足したばかりの近衛家が、天皇家と共に、最初の武家政権である鎌倉幕府の成立に尽力した(コラム#省略)という史実を改めて想起させつつ、私見に言うところの、近衛家を公家でありかつ武家たらしめようとした前久の決意、を近衛家の子孫へ伝えるためではなかろうか。
 なお、信尋が、臨済宗の諸寺のうち、大徳寺を選んだ理由は自ずから明らかだろう。
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(取敢えず、完)

III 天皇家の転落

1 始めに

 天皇家は、既に明治天皇の時、時代の客観的要請とのズレ、and/or、志の低さ、という意味でおかしくなっていたのではないか、という思いがした瞬間(コラム#省略)以来、このような天皇家の転落はいつから始まり、どのような経過を辿ったのか、という問題意識が私に生じた。
 以下は、私の取敢えずの追究結果だ。

2 後奈良天皇 

 1497~1557年。天皇:1526~1557年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒この天皇については、以前の(コラム#12103での)説明を読み返していただきたいが、現時点で改めて評価すれば、北朝系の、現在までに至る諸天皇中、初期の諸天皇は別にして、後出の後光明天皇とただ2人だけの、名実共に日蓮主義者であったし、だからこそ、というか、それに加えて、傑出した天皇だった、と、思う。(太田)

3 正親町天皇

 1517~1593年。天皇:1557~1586年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒この天皇についても、以前の(コラム#12103での)説明を読み返していただきたいが、やはり現時点で改めて評価すれば、まともな日蓮主義者であったとは考えられない、という点で、上記2天皇以外の並みの北朝諸天皇・・繰り返すが、初期の諸天皇は別だ・・の一人に過ぎなかった、といったところか。
 唯一の取り柄は、キリスト教排斥の口火を切ったことだが、その一方で、「本願寺法主・顕如<からの>莫大な献金<の見返りに>、・・・門跡の称号を与え・・・、本願寺の権勢<を>増<進させた>」(上掲)ことは大いに咎められるべきだろう。
 近衛前久・信伊父子は、この正親町天皇とその孫の後陽成天皇の日蓮主義のまがい物性が、北朝の歴代諸天皇の通奏低音であって、後奈良天皇は、突然変異的な特異な例外である、と、結論付けるに至った、と、現在の私は見ている次第だ。(太田)

4 後陽成天皇

 1571~1617年。天皇:1586~1611年。「後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者としていた。ところが・・・1598年・・・に秀吉が没したのちの10月、病気がちなことを理由として皇弟の八条宮への譲位を望んだ。

⇒後陽成天皇は、唐入りがらみで、秀吉個人には含むところが大いにあったけれど、秀吉亡き後の豊臣家に対してはむしろシンパシーを大いに抱いていた(コラム#省略)ことに注意。(太田)

 多数の公卿からは譲位に対して賛同を得られたが、前関白の九条兼孝から良仁親王の廃太子に反対する意見が述べられた。一方、武家では従来は徳川家康が秀吉猶子の八条宮譲位に反対したとされるが、近衛信尹消息から家康は八条宮譲位に賛同、前田利家・前田玄以は良仁親王に譲位等と意見が分かれたことが記されている。最終的には家康から譲位は無用との奏上がなされた。天皇はやむなく八条宮への譲位を断念したが、3年後に家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子の政仁親王を立てた。
 ・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いの際には、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせた。これにより歌道尊重の帝王として名を残している。

⇒ここまでは、家康は後陽成天皇に対して非道とまで言えるようなことはしていない。(太田)

 戦後、家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌を京都所司代に任じて天皇の動きを監視した。

⇒関ケ原の戦い後ではあるが、これも、後陽成天皇が抱いていた、豊臣家に対する大いなるシンパシーを踏まえれば、当たり前の措置だろう。(太田)

 ・・・<後陽成天皇は、>1603年・・・、家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。

⇒これは、後陽成天皇が家康の源への改姓を認めた時(コラム#省略)に既に決まっていたことだ。(太田)

 朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて更なる監視態勢を整えた。

⇒これも、室町幕府の先例に従っただけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E5%A5%8F
のことだ。(太田)

 ・・・1607年・・・2月と・・・1609年・・・7月には、宮中女官の密通事件が相次いで発覚した(猪熊事件)<(注1)>。・・・

 (注1)「猪熊家は知行200石を有した公家で山科家の分家であった。その猪熊家の当主左近衛少将・猪熊教利は、天下無双とたたえられるほどの美男子で、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられた。また、当時流行したかぶき者の精神を汲んだ彼の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と称され、京都の流行になるほどだったという。しかし、かねてから女癖が悪く、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」と称されていた。・・・
 1607年・・・2月には、女官との密通が露顕し、激怒した後陽成天皇から勅勘(天皇からの勘当)をこうむる。猪熊は京都から追放処分とされ、いったん出奔したが、いつの間にか京へ戻ったという。その後も素行はおさまらず、仲間の公卿を誘って女官と不義密通を重ねていた。・・・
 1609年・・・7月、後陽成天皇の耳に達し、逆鱗に触れることとなる。・・・
 後陽成天皇は、乱交に関わった全員を死罪に処せと命じたが、従来の公家の法に死罪はなかった。しかも当時、江戸幕府の力は公家の支配にも浸透しつつあり、捜査権も幕府が有していた。事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が調査に当たることとなった。
 調査が進むにつれ、思いのほか大人数が関わっていることが判明し、すべてを死罪とすれば大混乱を生ずることが懸念された。また国母(後陽成天皇の生母)新上東門院(勧修寺晴子)からも寛大な処置を願う歎願が所司代に伝えられた。・・・
 9月23日・・・、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。死罪<は>左近衛少将 猪熊教利<と>牙医 兼康備後(頼継)<、>配流<10名、>・・・恩免<2名。>・・・この処分案に対し、天皇は非常に不満であったが、諸公卿・新上東門院など朝廷の主立った面々が賛成し、刑が確定した。・・・
 周囲の説得により手ぬるい幕府の処分案に同意せざるを得なくなった後陽成天皇は、ままならぬ状況に絶望し、これ以降しばしば譲位を口にするようになる。・・・
 なお、・・・およつ御寮人事件<(後出)>の四辻与津子は、猪熊教利の妹にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ・・・この一件により天皇は女院とも意志の隔たりを生んで側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、やがて退位するに至った。

⇒ということは、女御(皇后)の近衛前子<(注2)>も「寛大な処置を願」ったわけであり、恐らくは、父の前久や異母兄の信尹にも相談の上、そうしたものと思われる。

 (注2)「1586年・・・12月に豊臣秀吉の猶子となり、後陽成天皇に入内。従三位に叙され、女御となる。摂家からの入内は久しく無く、南北朝期以来の女御再興となった。・・・後水尾天皇の生母で、明正天皇の祖母。父は近衛前久、母は若狭武田氏か。・・・近衛信尹養子<となった>・・・近衛信尋<の母でもある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90

 但し、その時点では、近衛家の当主になったばかりの、信尋は、実の父と母/前久/養父信尹、のどちらに与するわけにもいかず、沈黙を保った、と、想像される。(太田)

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[猪熊事件当時の近衛前久と信尹]

 前久(1536~1612年):

 「1587年・・・以降、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。・・・1600年・・・の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど、かつての活躍を伺わせる行動をしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

 信尹(1565~1614年):

 「(592・・・年薩摩国に配流されたが,慶長1 (96) 年赦免されて帰京。出家して法名は三藐院 (さんみゃくいん) 。・・・
 <1605>年には関白・氏長者になった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9-16243
 「~1606年<。>・・・藤氏長者は五摂家のなかでも執柄(しっぺい:摂関の唐名)にある家が継承する<ことになっていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85

 「今大路家による「愛宕山教学院祐海書牒」(国文学研究史料館蔵)という津軽為信の武勇を称えた文書が残っています。それには、「為信の武勇を称えて、藤原氏を名乗ることが許された」とあります。その日付が<1606>年9月であることの疑問は、信尹が氏長者の任にあったときと説明できます。
 家康は、<1606>年、徳川幕府の推挙なくして、武家に官位を与えないように、朝廷に申し入れています。関ヶ原以前に、津軽為信が従四位下右京大夫に、<その長男の>信建が従四位下宮内大輔に叙位されています。天下人不在のドサクサに近衛家の力でなされたことでしたが、これをされては、武家の秩序が乱れます。」
http://www.nebutayuraiki.com/history_12.html

⇒そもそも近衛前久は隠棲してから既に久しかったところ、信伊も、氏長者を下りた1607年時点では、後陽成天皇の実子の近衛信尋に家督も譲っていて、恐らくは出家していたのではないかと思われ、近衛家が猪熊事件に関与しなかった、というか、関与できなかったことが、後陽成天皇の孤立をもたらした、と、見る。(太田)
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 猪熊事件を機に・・・1613年・・・に公家を取締るための公家衆法度が制定され、また、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、官位の叙任権<(注3)>や元号の改元<(注4)>も幕府が握る事となっていく。

 (注3)「安土桃山・・・時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つである。また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守や、明智光秀が使った日向守もこの一つと考えられる。
 豊臣秀吉が公家の最高位である関白として天下統一を果たすと、豊臣氏宗家を摂関家、豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家格とする家格改革を行うなど、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところが、ただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の高位への任官が相次いだために、官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。その結果、大臣の任用要件を有する公家が不在となってしまい、秀吉が死去した際(1598年)には、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D
 (注4)室町期の「元号」<は、>・・・南北朝以降ではとくに「武家方」の意向が強まり、「公武」の合作により決定されたといってよい」
https://core.ac.uk/download/pdf/235256087.pdf

⇒公家衆法度の制定は実質的な意味はあまりなかった(コラム#省略★)し、官位の叙任権や元号の改元についても、前者は秀吉政権のそれを合理化したものに過ぎず、後者も新しいものではない。(太田)

 <そんなところへ、>家康は政仁親王への徳川秀忠の娘和子(のちの東福門院)の入内を後陽成天皇へ求めた。当初、後陽成天皇は<将軍の子が入内した>先例のないことを理由として入内を認めなかったが、度重なる求めの末、これに応じた。・・・

⇒家康・秀忠側は、・・将軍でこそなかったが、当時の武家中の第一人者であった平清盛の子の平徳子(後の建礼門院)が高倉天皇の下に1171年に入内したこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BE%B3%E5%AD%90
が前例であると主張したのではないかと想像される。
 なお、「北山院<(1369~1419年)は、>・・・日野康子の院号<であるところ、>・・・<彼女は>足利義満夫人<で、>権大納言日野資康(すけやす)の女(むすめ)で<あり、かつ>、・・・義満の正室業子の姪<であり、>義満の第二夫人、二位殿と称したが、1405年・・・7月に業子が死去すると、かわって<義満>の正室とな<り、>翌年12月後小松天皇生母の通陽門院(三条厳子)が没すると、義満の意向で国母に准じ准三后(じゅさんごう)の宣下を得て北山院と称し、翌年3月盛儀をもって入内(じゅだい)の式を遂げた。・・・皇族や後宮以外で院号をうけた唯一の例。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E9%99%A2-50975
は、前例として家康・秀忠側が持ち出すには、いささか迂遠過ぎたと思われる。
 本件に関しても、(源への改姓の件で家康に対して貸があった)近衛家が関与できなかったことが、後陽成天皇の抵抗が腰砕けに終わった原因の一つだったのではないか。(太田)

 1611年・・・、退位に反対する幕府を押し切り、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。
 ・・・1614年・・・11月、大坂冬の陣が開始されると、12月に上皇は武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。だが、家康はこれを拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒後陽成天皇は、弥生モードから縄文モードへのモード転換を行いたいと思っていたけれど、モード転換の前に信長流日蓮主義が完遂されて欲しいとも願っていたが、秀吉が秀吉流日蓮主義を実施に移したので、天皇家存続を至上命題とする立場からそれに反対し、その試みを挫折に終わらせると共に、モード転換を実現した、というのが私のこれまでの説だったけれど、既に述べたことのまたも繰り返しになるが、近衛前久・信伊親子は、既に当時、そのようには考えてはおらず、信長自身の信長流日蓮主義は本気であって、しかも、秀吉流日蓮主義に転換する可能性さえあったのに対し、後陽成天皇に関しては、そのモード転換意思こそ本物だったけれど、その信長流日蓮主義の方は口先だけで、本心は日蓮主義に思い入れなどないことを見抜き、北朝の(初期の諸天皇以外の)歴代天皇も(後奈良天皇を除き)皆同じであった可能性が大であって、その北朝を支えることにしたところの、後醍醐天皇当時の近衛家の自分達の祖先たる近衛家本流は間違っていたと反省し、もちろん、自分達が秀吉の近衛家に対する約束違反を咎めて秀吉による秀吉流日蓮主義の遂行を挫折させたことについても痛烈に反省した上で、近衛家/島津家は、今後は天皇家に一切期待することなく、自分達独自に秀吉流日蓮主義の再実施・完遂を期して、秘匿しつつ着実に努力を続ける決意をした、という新しい自説に私は切り替えた次第だ。(太田)

5 後水尾天皇

 1596~1680年。天皇:1611~1629年。「江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として<1613>年6月16日・・・には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の<1615>年7月17日・・・には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。
 天皇が即位すると大御所・徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ、・・・1614年・・・4月に入内宣旨が出される。しかし、入内は大坂の陣や・・・1616年・・・の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。
 [また、この間、徳川家に言われるがままに、1615年には(実は喜んで?)豊国大明神の神号を剥奪し、家康が亡くなった翌年の1617年に(不満ながら?)東照大権現の神号を授与した。(コラム#12327)]
 ・・・1618年・・・には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・四辻与津子<(注5)>との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると、入内は問題視される。

 (注5)?~<1638>年。「後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。・・・
 甥の上杉定勝は、志駄義繁(志駄義秀嫡男)を使者として、高野山清浄心院で<彼女の>追福供養を行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E4%B8%8E%E6%B4%A5%E5%AD%90
 上杉定勝(1604~1645年)は、「出羽国米沢藩の第2代藩主。・・・生母で景勝の側室である四辻氏の実家・四辻家は西園寺家の一門で、公家の名門(羽林家)である。四辻氏は定勝を生んで100日余り後に死んだため、直江兼続・お船の方夫妻が養育に当たった。・・・<その女子は>吉良義央正室・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D

 ・・・1619年・・・9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏・広橋兼勝と共にこれを追及した。そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任を問い丹波国篠山に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後国に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。これに憤慨した天皇は譲位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。
 ・・・1620年・・・6月18日、和子が女御として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。<(注6)>

 (注6)「禁中並公家諸法度11条には、関白や武家伝奏の指示に従わない公家を流罪に出来る規定が設けられていたが、秀忠は武家伝奏と結んでこの規定を行使した。また、これをきっかけに江戸幕府による朝廷に対する様々な干渉が行われるようになった。なお、与津子が産んだ賀茂宮は・・・1622年・・・に死去、<1619>年6月に生まれた文智女王は・・・1631年・・・に権大納言左大将鷹司教平に嫁ぐが離縁、出家して大和に隠棲した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%A4%E5%BE%A1%E5%AF%AE%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 ・・・1625年・・・11月13日、皇子である高仁親王が誕生する。
 ・・・1626年・・・10月25日から30日まで二条城への行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛、拝謁した。
 ・・・1627年・・・に紫衣事件、家光の乳母である福(春日局)が無位無冠の身でありながら朝廷に参内する(金杯事件)など天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は・・・1629年・・・11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。
 紫衣事件については、以下の通り。↓
 「江戸幕府は・・・1615年<の>禁中並公家諸法度<の中で>、朝廷が・・・<その>収入源の一つでもあった<というのに、>・・・みだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。・・・にも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、・・・1627年・・・、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
 ・・・1629年・・・、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
 この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。
 ・・・1632年・・・、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。
 <1641>年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 金杯事件については、以下の通り。↓
 「斎藤福<(1579~1643年)は、>・・・1629年<に>家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。しかし無位無官の武家の娘という身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号]、及び天酌御盃をも賜る。その後、・・・1632年・・・7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80 

⇒1629年に無通告退位を行うくらいなら、処罰した6名の赦免・復職を命じる1620年の大赦の時に決行しておれば和子の入内を白紙化することができたし、1929年の福の参内を拒否し通しておれば矜持を維持できた、のに、とも思うのだが、近衛家の「不在」がかえすがえすも惜しまれる。
 (1627年の紫衣事件の時、に無通告退位を決行するわけにはいかなかった。その前年の1626年に、和子との間に高仁親王(注7)が生まれており、幕府が同親王の天皇即位を強行する可能性が高かったからだ。)

 (注7)後水尾天皇<の>皇子<で>母は中宮・徳川和子<であった>・・・高仁親王<は、>・・・徳川将軍家の血を引く天皇としての即位が期待され、早くから儲君として位置づけられて・・・1629年・・・を目途に後水尾天皇から譲位を受ける予定だったが、その前年にわずか3歳で薨御した。
 江戸幕府はやはり正親町天皇の儲君のまま薨去した誠仁親王(後陽成天皇の父)の先例に倣った葬儀を行うように朝廷に伝えたが、それが京都に伝わる前に高仁親王は、数え7つに満たない皇族は葬儀を行わないという慣例に従って薨御の翌日には般舟院に葬られていた。
 当時中宮和子は懐妊していたが、幕府はこの頃深刻化していた紫衣事件を理由に後水尾天皇が譲位することを回避するために、3か月半後・・・に生まれた若宮を八条宮智仁親王の養子に出して皇位継承から外さざるを得なくなった(ただしこの皇子は生後9日で夭折している)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 なお、後水尾の実母の中和門院(近衛前子。~1630年)は、1629年にはまだ存命であり、高仁親王が生まれた時の乳母も、八条宮智仁親王に差し出された若宮が生まれた時の乳母も、彼女が指名した可能性が大であり、この1629年に、高仁親王とこの若宮が相次いで亡くなったのは、この乳母両名に対し、中和門院が殺害を命じた可能性があるのではなかろうか。
 「1612年・・・には後水尾天皇が即位する<と、>大御所・家康は和子の入内を申し入れ、・・・1614年・・・4月に入内宣旨が出され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90
ことを踏まえ、その時、まだ存命だった、異母兄近衛信尹(~1614年11月25日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
から、中和門院に対し、遺言的な秘密要請があったのではないか、と。
 東福門院は、7名の子をもうけたが、うち男は2人にとどまったところ、夭折したのは5人の女のうちの1人だけなのに対し、男は2人とも夭折してしまった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90 前掲、等
、というのは不自然な気がする。
 しかも、最後にもうけた女については、「<1633>年に菊宮が誕生しますが、半年後死去します。・・・東福門院は以降懐妊したものの流産されこれを最後に懐妊しなくなります。」
http://kyosoushi.blog72.fc2.com/blog-entry-153.html?sp
というのだから、当時としては「高齢」出産だったという特殊事情によることを思え。
 (何も乳母が直接手を下す必要はないのであって、毒殺者なりが措置をするタイミングさえ設けてやればいいわけだ。
 いずれ、孝明天皇を取り上げる際に再訪するが、孝明天皇毒殺説が根強く唱えられている
https://biz-journal.jp/2021/06/post_231516_3.html
ことを想起せよ。)
 ここまでくると、いささか穿ち過ぎであるとの誹りは甘受するが、近衛前久と信伊がどちらも早期に引退したこと、信伊が前子の産んだ男子、つまりは後陽成天皇の男子、を、(後水尾天皇の了解をとって)近衛家の後嗣に選んだこと、によって、徳川家からは、近衛家が天皇家と一体化したように見えるように取り計らい、徳川家に影響力がある近衛家が、独自に天皇の助力ができない状況を意図的に作り出し、天皇家の転落を図った、という可能性だって否定できないと思う。(太田)

 この事を事前に知ら<さ>れていたのは腹心の中御門宣衡<(注8)>のみであったとされる・・・。

 (注8)「中御門尚良/宣隆/宣衡/成良【1590-1641】 権大納言。」
https://nakuyo-neuneu.com/keizu/102082006/
 「中御門家(なかのみかどけ)は、藤原北家勧修寺流、勧修寺庶流の公家・華族。公家としての家格は名家。江戸時代の家禄は、260石。幕末には200石。明治維新後、華族に列し伯爵を経て侯爵。・・・著名な人物<は、>寿桂尼<。>・・・尚良<は、>・・・14<代当主。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%B6
 「寿桂尼(じゅけいに<。?~>1568年)は、・・・駿河国の戦国大名・今川氏親の正室。・・・父は権大納言中御門宣胤<(9代当主」)>。兄に中御門宣秀<(10代当主)>、・・・。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%A1%82%E5%B0%BC
 
⇒家康の最初の正室で、長男信康の母であった築山御前の母は、今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF
寿桂尼の実孫だった可能性がある。
 家康は既に亡く、秀忠の時代になっていたが、後水尾天皇が、強行退位の決断を<(東福門院を除けば)>宣衡だけに知らせたのは、いや、そもそも、宣衡を腹心にしていたのは、近衛家が事実上不在だった当時において、宣衡が、徳川家と浅からぬ関係のある、唯一の貴族の家たる中御門家の当主だったからだろう。
 この宣衡、退位に反対した形跡がないが、いざという時には、自分が責任を一切負う覚悟だったのではないか。(太田)

 一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために譲位して治療を受けたとも言われているが(辻善之助等に代表される通説の「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗としての譲位」に対し反論する洞富雄の説)、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録・・・が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった。
 以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も、・・・1634年・・・の将軍・徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる<が、>その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。

⇒本来は、この時点で、天皇家に気概があったならば、だが、天皇家が徳川家と修復不可能な敵対関係に入っていても不思議はなかった。(太田)

 その一方で、本来は禁中外の存在である「院政」の否定を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して・・・1679年・・・に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒東福門院(和子)の人柄(注9)、そして、遡れば、和子入内を受け入れさせられたことが、天皇家と徳川家の関係修復のよすがとなった・・だからこそ、皮肉なことに、この入内は、私に言わせれば、近衛家が見放したところの、天皇家の転落、を決定的なものにした・・、というわけだ。

 (注9)「後水尾天皇<が>・・・修学院離宮を建てた費用の大半が和子の要請により幕府から捻出された物とされる。
 後光明<(ごこうみょう)>天皇の崩御直後にその弟の後西<(ごさい)>天皇の即位を渋る(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも彼女の尽力によるとされる。
 夫・後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。
 茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指(三井記念美術館所蔵)が現存する。
 宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる。和子の注文した小袖のデザインは後に年号から“寛文小袖”と言われるようになった。
 ・・・1650年・・・には、二十二社の上七社の一つである平野神社の「接木の拝殿」として知られる拝殿を寄進している。
 手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90

 姻戚関係を取り結ぶことが意外な副産物をもたらした珍しいだろう。
 その怪我の功名で、後水尾天皇は、文化面で日本に影響を与えた最後の天皇になりえたと言えよう。
 天皇家の転落に憤りつつもなすすべがなかった後水尾天皇について、近衛家の当主としての近衛信尋は前久・信伊の遺志に従い、単に眺め続けたと思われるところ、それは、後水尾の同母弟としての近衛信尋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
もまた、後水尾と義姉の和子が仲が良かったことから最終的には後水尾が転落に甘んじる心境になる・・清和源氏を称する徳川将軍家の上に立つという意志も見て取れる、その遺諡による自身への追号(前述)がささやかなる、対徳川家の最後っ屁になった・・、と見切っていたからではなかろうか。(太田)

6 明正・後光明・後西天皇

 (1)明正天皇
 
 めいしょうてんのう(1624~1696年。天皇:1629~1643年)。「後水尾天皇から譲位の<通知>を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布したが、その二条目には、女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の暁には譲位すべきとある(「女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」)。

⇒和子(東福門院)が、積極的に夫の後水尾をカバーしていることが見て取れる。(太田)

 明正天皇の在位中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなかったとされる。女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。幕府は、・・・1637年・・・には、摂政二条康道の関白への転任を認めない姿勢を示し、女帝の親政を否定した。
 ・・・1642年・・・9月2日、東福門院の意向で藤原光子(後の壬生院)所生の素鵞宮(後光明天皇)を儲君に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌<1643>年、21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り、太上天皇となった。譲位直前の9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付した。そこでは、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への行幸は可、新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可とし、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。

⇒「尾張藩主の義直や紀州藩主の頼宣には、かつて謀反の疑いがかけられるなど<したことから、家光とは>溝があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%88%BF
とか、「慶安4年(1651年)の慶安の変の際に、老中・松平信綱と大目付・中根正盛が隠密集団を活用して、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主・徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力を崩壊に追い込んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%AF%86
といった、話があるけれど、詳細について調べがつかなかったし、そもそも、「武功派」がいかなるものであったのかも、藤野保『徳川幕閣–武功派と官僚派の抗争』(中公新書。1965年)という本
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B9%95%E9%96%A3%E2%80%95%E6%AD%A6%E5%8A%9F%E6%B4%BE%E3%81%A8%E5%AE%98%E5%83%9A%E6%B4%BE%E3%81%AE%E6%8A%97%E4%BA%89-1965%E5%B9%B4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E9%87%8E-%E4%BF%9D/dp/B000JAC5GS
の存在を知ったに留まるのだが、仮にかかる抗争があったのが事実ならば、明正天皇が、退位後、婚姻することこそ先例に照らしありえないとしても、事実婚等によって子をなし、その子が男子である、という事態はありうるところ、その男子を新「徳川」将軍候補として担ぎ上げる武功派勢力が出来する可能性がありうるわけで、かかる事態を回避すべく、家光(~1651年)が実妹の東福門院に要請し、院もその要請に積極的に応じ、夫の後水尾上皇を説得し、我が子の明正上皇に妊娠する機会を絶対に与えないよう措置した、ということではなかったか。(太田)

 こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている。

⇒いや、そうではなく、そんな必要がないほど天皇家の権威を衰えさせることに成功した、と、幕府が(誤って)判断した、ということではなかろうか。(太田)

 のちに出家して、太上法皇となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (2)後光明天皇

 ごこうみょうてんのう(1633~1654年。天皇:1643~1654年)。「母親<は、>園光子(壬生院)<。>・・・
 東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。
 ・・・1654年・・・9月20日、痘瘡により崩御。宝算22。・・・
 崩御前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子に迎えている。突然の崩御のため、後年には幕府による毒殺説も生じた。
 1651年・・・9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。

⇒後光明天皇は、「惺窩の功績」中の、陽明学の紹介部分に感銘を受けた、と、想像される。(太田)

 また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような経学への傾倒に対し、和歌や『伊勢物語』・『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕いており、・・・1646年・・・に神宮例幣の儀を再興した。釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。
 天皇は剣術を好んだが、京都所司代の板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めた。すると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに対して、重宗は大いに閉口し、幕府も畏服したという。
 天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという。なお漢詩は生涯に、歴代天皇のうち第二位となる98首遺した。しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある。
 父の後水尾院が病に罹ったので天皇は見舞いを思い立ったが、所司代の重宗から「朝覲行幸には幕府への伺いが必要である」と横槍が入った。天皇は行幸を中止し、禁中の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという。
 平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で徳大寺公信<(注10)>より酒の飲み過ぎについて諫言された。

 (注10)きんのぶ(1606~1684年)。母は織田信長の娘で妻は長州藩主毛利秀就の養女(岩国領主吉川広正の娘)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%BF%A1

⇒この公信の存在のおかげで、後光明天皇は、より日蓮主義主義への理解を深めたと思われる。(太田)

 天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという。
 仏教を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いであった。開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利が有るのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた。・・・
 大葬の時、禁中に出入していた魚屋奥八兵衛の進言によって、従来の火葬<(注11)>(荼毘)を改めて土葬の制を採用した。

 (注11)「浅香勝輔は先行する火葬事例を確認しながらも「8世紀以降、仏教文化とともに、わが国の火葬習俗は始まったとするのが穏当」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC

 その後、昭和天皇に至るまで、歴代天皇は土葬された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒前述したように、朝廷が毒殺手段を用いたのだとすれば、幕府の方も毒殺手段を用いたとしてもおかしくないわけであり、後光明天皇が(も?)毒殺された可能性はあると思う。
 実際、後光明天皇が長命であったならば、天皇家は転落の趨勢を反転させていた可能性はゼロではない、という気さえする。(太田)

 (3)後西天皇

 ごさいてんのう(1638~1685年。天皇:1655~1663年)。「母親<は、>藤原隆子<。>・・・
 後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎとして・・・即位した。
 1663年・・・、10歳に成長した識仁親王に譲位。
 治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている・・・。また、・・・徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする<噂話もある>。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説・江戸幕府説が挙げられ、さらに有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある。
 近年これに対して、譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒後西天皇は文字通りの繋ぎの天皇だった。(太田)

7 霊元天皇

 1654~1732年。天皇:1663~1687年。「兄の後西天皇から譲位されて践祚した。・・・
 東福門院や板倉重矩など朝幕の有力者が次々と世を去り、・・・1680年・・・には後水尾法皇が崩御、さらに将軍徳川家綱の死とそれにともなう大老酒井忠清の失脚によって、枷の外れた霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進める事となった。霊元の関白を軽視した朝廷運営に、鷹司房輔は「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆いている。・・・

⇒鷹司家が、依然、最も親幕時代だった時の房輔の言など聞き流せばいいのだが・・。(太田)

 1683年・・・、五宮朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われた。これは・・・1348年・・・の直仁親王立太子以来335年ぶりの出来事であり、霊元の強い要請を受けた幕府が、今後行われる皇太子の諸儀式に別途支出を行わないことを条件に承認したものであった。・・・1684年・・・2月25日には譲位の意向を伝えたが、この際は幕府から拒否された。しかし<、>・・・1686年・・・閏3月に譲位は了承された。
 ・・・1687年・・・、朝仁親王への譲位が行われることとなった。霊元天皇はこれに伴い、長年中断していた即位式と共に行われる大祭大嘗祭を行うことを強く要望した。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足であるとした、左大臣近衛基熙<(注12)>をはじめとする強い反対派が存在した。

 (注12)1648~1722年。「近衛家21代当主。後陽成天皇の男系三世子孫である。・・・1664年・・・11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。・・・1665年・・・6月、18歳で内大臣に任じられ、・・・1671年・・・には右大臣、さらに・・・1677年・・・に左大臣へすすんだ。
 いよいよ関白就任の一歩手前にまで迫ったが、・・・1680年・・・、基熈の後ろ盾とも言うべき後水尾法皇が崩御し、霊元天皇が親政をおこなうようになった。霊元天皇は幕府嫌いで有名だったが、基熈は「親幕派」とみられていたので天皇から疎まれるようになる。
 そして・・・1682年・・・には関白職に右大臣一条兼輝を越任させるという贔屓人事が行われ、以降基熈は霊元朝では干され続けた。・・・1686年・・・に辛うじて従一位を賜っているのみであった。しかもその一方で、幕府の方から好かれていたのかと言えば全くの逆で、時の将軍徳川綱吉は、自分の後継問題で緊張関係にあった甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の正室・熈子が基熈の長女であった事から、綱豊の舅である基熈に対しても冷淡であり、この時期はまさに沈滞期であった。
 しかし・・・1687年・・・に霊元天皇が東山天皇に譲位して、仙洞御所より院政を開始したのを見計らって、一条兼輝を失脚させることに成功。・・・1690年・・・1月にようやく念願の関白に就任し、東山朝において権勢をふるい、霊元上皇が朝廷権威の復興を企図したのに対し、「親幕派」としてことごとくこれに反対した。また、東山天皇が成長すると、上皇の院政を疎ましく考えるようになり、反対に基熈への依存を強めるようになる。また、幕府も上皇の動きを警戒して、東山天皇への影響力を有する基熈との距離を縮めていった。

⇒直感的に霊元天皇は、近衛家が天皇家に冷たい視線を送ってきていることに気付き、同家に対して敵意をぶつけてきたのだろうが、それに対して、基熈は見事に立ち回った、と言えよう。(太田)

 ・・・1703年・・・自らの片腕だった鷹司兼熈に関白職と藤氏長者を譲る。また・・・1704年・・・、将軍綱吉は遂に男子誕生を断念して家宣を後継者として迎え、家宣と正室・熈子が江戸城に入った。・・・1706年・・・、綱吉・家宣の招待で摂家としては異例の江戸下向を行い、綱吉や家宣夫妻と会見する。その際、基熙は東山天皇が慶仁親王(後の中御門天皇)を後継に立てる意向である事を綱吉・家宣に伝えている。・・・1707年・・・には長男の家熈が関白・藤氏長者に就任している。
 ・・・1709年・・・5月、将軍綱吉の薨去で家宣が将軍に就任、将軍家との関係も深まった。6月には東山天皇は中御門天皇に譲位して院政を開始、10月には太政大臣に就任する。この座は豊臣秀吉が死去して以後長く空位(実際には徳川家康・秀忠父子が就任しているが、ともに実際の朝廷の政務に当たった事は無い)で、江戸時代に入ってからは基熈が実質上初めての就任であり、東山上皇・家宣双方からともに厚い信頼を受けていた基熈であったからこそ可能となった就任といえる。12月には健康問題を理由に太政大臣を辞職するが、その9日後に東山上皇が疱瘡に倒れて崩御してしまう。
 翌・・・1710年・・・には再度の江戸下向を強行し、再び家宣・熈子夫妻と会見する。それから2年以上もの間神田御殿に滞在し、将軍や幕閣から政治・有職などの諮問を受けた。これは新井白石が朝鮮通信使の問題や儀礼問題について基熙の意見を求めたからだとされているが、一方、東山上皇の余りにも突然の急死により霊元上皇の院政再開が確実となったことで、基熙としても朝幕関係の再構築と東山上皇の生前の意向であった新宮家(後の閑院宮)創設問題の早期実現を願う立場から望んでいた江戸下向でもあった。こうした基煕の関東接近を憎んだ霊元上皇は、下御霊神社に呪詛の願文を自ら認め(霊元院宸筆御祈願文)、その中で基煕を「私曲邪佞の悪臣」と悪し様に罵っている(ただし、この祈願文の作成年代を基熈没後の・・・1732年・・・とする山口和夫の説もある[<。すなわち、>これは基熈の孫で家煕の子に当たる当時の関白近衛家久を指したものと見・・・る<わけだ>])。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]。
 また、御台所となった熈子の意向で姪にあたる家熈の娘・尚子が中御門天皇の女御として入内する事になったために近衛家以外の他の摂家が反発して霊元法皇に接近するようになった(なお、当時の養子縁組によって鷹司教平の男系の孫が揃って近衛家以外の4つの摂家の当主であり、互いに親密であった)。ただし、尚子の入内の決定および、中御門天皇の元服の加冠を行う摂政太政大臣に近衛家熈を任命したのは他ならぬ霊元上皇であり、正徳期に入ると基熙の日記からも上皇への批判がほとんど見られなくなる。これは近衛家当主が2代連続の太政大臣任命の栄誉に預かり、なおかつ天皇の后を輩出したことによって、この決定を行った上皇とこの決定によって名誉心を満足させた基熈の間で和解の機運が生じて協調関係へ転換していったのではないか、とする指摘もある。
 とかく親幕派・公武合体を進めた公卿として知られるが、一方で家宣の死後に新井白石の斡旋で行われた霊元上皇皇女の八十宮(吉子内親王)の将軍徳川家継への降嫁(これは一転して幕府との関係改善に乗り出した霊元上皇と近衛熈子(出家して天英院)の排除を策する家継生母月光院との思惑の一致による側面もあった[要出典])には朝廷の尊厳を損なうとして強く反対するなど朝臣として幕府とは距離をとることも忘れなかった。<(注13)>

 (注13)1714~1758年。「<1715>年9月29日・・・、時の江戸幕府将軍徳川家継と婚約する。当時夫となる家継もわずか7歳だった。
 <1716>年閏2月18日・・・には納采の儀を済ませるが、そのわずか2か月後の<1716>年4月30日・・・に家継が薨去したため、史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至らなかった。しかも本人は数え3歳で後家となった。<1726>年11月28日・・・、親王宣下あって吉子内親王となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B 

 また、武家官位の濫発によって綱吉生母の桂昌院や側近の柳沢吉保が分を超えた高位に叙せられた事に関しても強く憤慨している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99

 更に神仏分離を唱える垂加神道<(後出)>を支持してその教義に基づく大嘗祭を行おうとする一条冬経<(注14)>と神仏習合を唱える吉田神道を支持する近衛基熈という対立構図も存在していた。

 (注14)1652~1705年。「<近衛信尋>同様、祖父の一条昭良は、後陽成天皇の・・・皇子として生まれ、<信尋は信伊の養子となったのに対し、昭良は>一条内基の養子となり、一条家を継承した。・・・母は備前国岡山藩主池田光政(左近衛権少将)の娘・通姫。・・・正室<は>紀州藩主徳川光貞の娘<。>・・・
 1682年・・・2月18日、鷹司房輔が関白を辞職した。朝廷序列の順序を考えれば、左大臣である近衛基熙を関白に任命すべきであったが、霊元天皇は基熙を疎み、慣例を無視して2月24日に右大臣の冬経を従一位関白・藤氏長者に任命するという異例の人事を強行した<1687年>3月21日、年少の東山天皇の即位により関白から摂政に転じた。・・・1689年・・・3月27日に天皇の成長に伴い再び摂政から関白に転じたが、・・・1690年・・・1月13日幕府と結んだ基熙に関白の座を追われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C

⇒一条冬経が垂加神道を支持していて、霊元天皇もそうであった可能性が高い(コラム#11259)としても、近衛基熈が吉田神道を支持していたかどうかはネット上にすぐに典拠を見出せなかったこともあり、基熈は、単に、昔ながらの神仏習合的な神道を念頭に、霊元と冬経の過激な反仏教姿勢をとるカルトたる垂加神道支持に対して異を唱えた、ということではなかったか。(太田)

 幕府が理想とする上皇は朝廷に口出しせず、諸事質素であった明正上皇の姿であり、霊元も譲位後は「本院御所之格(明正上皇と同じ格)」であることが求められた。さらに霊元の素行に不信感を持っていた幕府は「当今之御まねヲ不被候儀二仕度候(東宮は霊元天皇の真似をしないようにしたい)」という考えもあり、新天皇が霊元の影響を受けないことを望んでいた。京都所司代土屋政直は天皇の機嫌を損ねて譲位の手続きが延引することを恐れており、綱吉も大嘗祭の再興には不安感を持っていたものの、大嘗祭の再興に関しては臨時支出を求めないという霊元側からの申し出もあり、最終的に大嘗祭を容認した。
 こうして・・・1466年・・・以来219年ぶりの大嘗祭が行われたが、大嘗祭前後の節会が3日から1日に変更され、天皇が鴨川で禊を行う御禊行幸が幕府の反対で行われないなど、極めて簡略化されたものとなった。近衛基熙は御禊行幸の中止は神慮にかなわないとして反対し、霊元の兄尭恕法親王もこの大嘗祭は朝廷も幕府も誰一人納得しておらず、神を欺くものであると強く批判した。このため、次の中御門天皇即位の際には大嘗祭は行うことはできず、再び中絶することとなる。霊元はこの他にも石清水八幡宮放生会や賀茂祭の再興を行っている。
 霊元は太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し、以後仙洞様とよばれるようになる。霊元の院政は後水尾院政と異なり、朝廷の機構を掌握するのではなく、仙洞御所に別個の機構を確立して、そこから朝廷機構に指示を下すというものであり、以降江戸時代の院政の慣行となる。仙洞御所では霊元の意思で選定された院評定が合議を行い、霊元に任じられた院伝奏が幕府と連絡を取り扱った。また朝廷の主宰者であるという意識を強く持っており、東山天皇が成人するまで本来天皇が行う儀式である四方拝を仙洞御所にて行っている。
 これら霊元の姿勢は朝廷執行部との確執を生んだ。・・・1693年・・・1月には霊元と対立した近衛基熙が関白となり、・・・1691年・・・には前関白一条冬経から朝廷執行部への政務の移譲を迫られた。霊元はこれに対し、一般的な政務は移譲するが、重要事項には変わらず関与し続ける方針を示した。さらに院伝奏と院評定に宛て、関白・武家伝奏・議奏の朝廷執行部が霊元と天皇に忠誠を誓う誓詞を出すよう要請した。関白近衛基熙が「天魔の所為」と憤り、武家伝奏千種有維が「落涙の他言語なし、あい共に天を仰ぐのみ、朝廷の零落この日か」と嘆くなど、仙洞御所と朝廷執行部の亀裂はいよいよ深まった。この事態は幕府にとっても容認できるものではなく、ついに・・・1693年・・・10月23日には、霊元は一切政務に関与するべきではないという将軍綱吉の意志が伝えられた。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。
 東山天皇と近衛基熙が取り組んだのは、霊元の影響力排除であった。基熙は幕府と連携し、・・・1700年・・・までに霊元派の公家を重職から排除している。また将軍綱吉も積極的に朝廷支援を行うようになり、・・・1705年・・・には禁裏御料を1万石増進し、・・・1706年・・・には仙洞御料を3千石増進している。
 ・・・1710年・・・、9歳の中御門天皇に位を譲り院政を開始していた東山上皇が疱瘡で急逝し、霊元上皇の院政が再開された。
 しかし近衛基熈は綱吉のあとを継いだ将軍徳川家宣の岳父であり、霊元も融和的にならざるを得なかった。基熈の子摂政近衛家熙を<1710>年12月に太政大臣としたほか、・・・1712年・・・8月、家煕の娘である尚子を中御門天皇の女御にすることを許し、・・・1716年・・・には女御として入内させている。
 <1712>年10月、徳川家宣が急逝すると、幼君の権威を強化するため、幕府は朝廷の権威にすがろうとした。霊元は幕府の要請に応じ、後継者である鍋松のために「家継」の名を与えた。更に・・・1714年・・・4月の徳川家康百回忌には、自筆の経文を下賜している。9月には皇女八十宮吉子内親王と家継の婚約を実現させたが、こちらは家継死去のために実現しなかった。こうして霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった。
 しかし霊元自身の近衛家に対する憎悪は残っており、<既述したが、>・・・1732年・・・2月に書かれ、下御霊神社に奉納された自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた「私曲邪佞の悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熈の孫で家煕の子に当たる当時の関白近衛家久を指したものと見られている。
 ・・・1713年・・・8月、落飾して法皇となる。法名は素浄。これ以降、天皇が法皇になった例は無く、最後の法皇となった。
 ・・・1717年・・・、幼年を理由に行われてこなかった(霊元上皇・法皇が代わりに行って来た)中御門天皇の四方拝実施と共に院政は終了する。・・・

⇒一条冬経はその姻戚関係や言動から、また、霊元については、その一条冬経を重用したことから、どちらも日蓮主義者であった可能性が高いということに一見なりそうだが、垂加神道を支持していた可能性が高く、実際、仏教排除の言動があったにもかかわらず、自ら法皇になってしまった、ということからだけでも、仮に霊元が日蓮主義者を標榜したとしても、それはポーズに過ぎなかったと私は見ているところ、むろん基熙もそう見ていたはずであり、近衛家の天皇家無視の姿勢は継続することになったと考えられるところ、これも繰り返しになるが、そのような基熙を始めとする近衛家の姿勢に対して霊元は反発し続けた、ということだろう。
 こんな霊元によって、天皇家の転落基調はもはや挽回不可能になった、と言えよう。(太田)

 <なお、>霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である『新類題和歌集』の編纂を烏丸光栄・三条西公福・水無瀬氏成・高松重季・武者小路実陰に命じた。
 また、桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。
 有栖川流書道は、この天皇の書風から派生したことでも知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒霊元天皇/上皇は、「文」に関しては申し分がないが、およそ「武」には関心がなさそうであり、この点が、後光明天皇とは大違いだ。(太田)

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[近衛家と赤穂事件]

 「近衛基熈<が、>・・・1665年・・・から死去<する>まで書き続けていた日記『基熈公記』では、赤穂<事件に係る1701年3月14日の松之大廊下の刃傷>事件についての記述で浅野長矩の吉良義央への刃傷についての感想を基熈は「珍事々々」と面白げに書いており、また事件を聞いた東山天皇の様子について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している。幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう高家肝煎の義央を東山天皇や基熈も内心では嫌っていた証拠でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99
という話を知り、調べてみると、以下のことが分かってきた。↓
 「浪人の身となった際に内蔵助が隠棲した「山科閑居」<の>・・・「山科は御料と呼ばれる朝廷の土地。その土地を内蔵助に斡旋したのが、叔父で近衛家に仕えていた進藤源四郎です。さらに内蔵助の4代前には近衛家出身の 志茂が大石家に嫁いでいる。つまり、大石家と近衛家は姻戚なのです」(・・・歴史研究家で作家の泉秀樹<(注15)>氏・・・)

 (注15)1943年~。慶大文卒。「新聞社勤務を経て、以後、作家・写真家として活動する。1973年 小説『剥製博物館』で第5回「新潮新人賞」受賞。歴史に関する著作が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E7%A7%80%E6%A8%B9

 また、・・・<1703>年12月14日<の>・・・討ち入りのための情報収集や資金面でバックアップした遠縁(曾祖父の弟の長男)の大石無人は一時、近衛家に居候をしていたと言われている。
 「討ち入りの資金は、無人が基煕を通じて入手した朝廷の資金だった可能性があります」(泉氏)
 四十七士は朝廷の放ったテロリストだったと泉氏は見ている。」
https://www.news-postseven.com/archives/20161208_473637.html?DETAIL
 「1682年・・・<大石>五左衛門<に>・・・従兄弟の赤穂藩家老・大石頼母助<・・良重。大石良雄の父の良欽の弟。頼母助は通称
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%87%8D ・・>
から京の左大臣近衛基熈への仕官の書状が届<き、>・・・五左エ門はこの話を受け<ている>。・・・
 <さて、>1692<年、>・・・奥州弘前藩4代藩主・津軽越中守信政が、有職に明るく京の公家衆の事情にくわしい若侍を捜しもとめていた。・・・
 <この>津軽家と近衛家とは縁戚の関係にある。
 [「<津軽家の祖先の大浦家の>大浦政信は近衛尚通の猶子であると・・・近衛信尋から・・・認められ、系図上において近衛家は津軽家の宗家とされ<ていた、ということを思い出して欲しい。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%B0%8F ]
 <かかる背景の下、>津軽信政は近衛基熈に対し、自分の意にかなう若侍がおれば譲りうけたいとの願いの書状を送っ<た>。
 <そこで、>近衛基熈は・・・<一緒に召し抱えていた>大石五左衛門の嫡男、与一郎を推挙すること<に>した。・・・
 <信政は、与一郎が、>山鹿流兵学をもってなる赤穂藩所縁の大石家の嫡男である・・・<と>知って<うれしく思った。>
 山鹿流兵学において弘前藩は西の松浦平戸藩とならぶ一大学閥を形成しており、・・・津軽家と浅野家は同門の士であ<ったからだ。>・・・
 <翌1693年、>与一郎は正式に弘前藩士<となり、>・・・大石郷右衛門良麿と改名する。
 以後、大石家は赤穂藩の浅野大石家と弘前藩の津軽大石家の二系統に分離する。」
https://books.google.co.jp/books?id=v8Q3DwAAQBAJ&pg=PT28&lpg=PT28&dq=%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C%EF%BC%9B%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6&source=bl&ots=L1w4mj-2bw&sig=ACfU3U2TnAoXJIPJSFVcfvbY0saOYSEi0A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwis15PYttb0AhWLaN4KHcT7Bq4Q6AF6BAglEAM
 ちなみに、大石良欽・良重の父の「大石良勝<(1587~1650年)は、>・・・関白豊臣秀次の家臣・大石良信の次男として誕生。母は近衛家家臣・進藤長治の娘・志茂。・・・
 はじめ僧になるため石清水八幡宮の宮本坊に入れられていたが本人はこれを嫌がり、・・・1600年・・・に京都を脱走して江戸の浪人となった。・・・1604年・・・、下野国真岡藩主・浅野長重に仕える。300石の小姓であったが、・・・1615年・・・の大坂夏の陣における天王寺合戦において著しい武功をあげたため、1500石の筆頭家老となり、また良勝の子孫も代々筆頭家老の地位を約束されるという永代家老家とされた。・・・
 娘も2人おり、それぞれ近衛家家臣・進藤長定と赤穂藩士・進藤俊式に嫁いでいる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E5%8B%9D 

 以下、私見を記す。
 まず、上掲諸引用へのコメントだ。
一、松之大廊下の刃傷事件を東山天皇が喜んだとすれば、近衛基熈はやはり天皇家は度し難いと改めて感じたに違いない。
 というのも、「江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として勅使を幕府に遣わせていた。・・・<1701>、3月11日、東山天皇の勅使・柳原資廉・高野保春および霊元上皇の院使・清閑寺煕定が江戸城内の伝奏屋敷に到着、浅野内匠頭以下赤穂藩士、吉良上野介らが接遇にあたった。14日は儀礼の最終日で、将軍徳川綱吉が本丸御殿内の白書院で勅使に奉答する予定であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のに、この儀式を台無しにしたのだから、刃傷は、勅使を派遣した東山天皇本人及びその父の霊元上皇に対して無礼を働いたことになり、だからこそ浅野内匠頭は、綱吉によって切腹を申しつけられた、のだからだ。
 他方、基熈は、まさに天皇家に対して無礼が働かれたからこそ、そして、もちろん、儀典の際の将軍の代理であるところの、高家の吉良上野介が辱められたことが将軍が辱められたことを意味することから、正当に快哉を叫んだわけだ。
二、「大石家と近衛家は姻戚」は間違いで、単に縁が少なからずあったくらいの話だろう。
三、天皇家が関わった形跡が皆無である以上、卓見ではあるけれど「四十七士は朝廷の放ったテロリストだった」のではなく、「四十七士は近衛家が放ったテロリストだった」だろう。
四、近衛基熈は、討ち入りの結果、浅野大石家が断絶することになったとしても、津軽大石家は残るし、近衛家としても、津軽家を通じて、同家を保護する、程度のことは大石良雄に伝えたのではないか。
五、山鹿素行繋がりは、本件に関しては無視してもよかろう。
 「素行<が>・・・朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身とな<り、>・・・1653年・・・に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
という関りこそ、素行と赤穂藩との間にはあったけれど、同藩で兵学等を講じたという記録はなく、大石良雄や大石良重が山鹿素行から学んだ形跡も全くない上、そもそも、上野介と素行は親友の間柄だったからだ。(上掲)
六、但し、大石家が、秀次の家臣を先祖に持ち、かつ、近衛家と縁が少なからずあったことから、日蓮主義を抱懐していた可能性は大いにあろう。
 その上で総括だ。
 どうして、上野介に対して近衛基熈はテロリストを送り込んで1703年に殺害したのか?
 基熈は1679年12月に娘の熙子を徳川綱豊(後の家宣)と結婚させていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
が、その後、1690年に関白・藤氏長者就任を果たしてその絶頂期にあり、徳川光圀(~1701年)とタッグを組んで、男子のいなかった綱吉に対して、綱豊を後継者として指名するよう働きかけていたと思われ、大胆に想像すれば、それを渋る綱吉を脅迫するためだったのではなかろうか。
 大藩の米沢藩が守る上野介(典拠省略)があっけなく殺害され、その背後に近衛家がいることが、幕府の諜報能力からして少なくともその後には判明したと思われる以上、1684年に自分を将軍に就任させてくれた、堀田正俊(当時大老)、が城中で刺殺されるという事件(前出)も経験させられている綱吉に対するこの脅迫は、頗る効果的であったに違いない。
 その甲斐あってか、その翌年の「1704年・・・、将軍綱吉は<、>遂に・・・家宣を後継者として迎えることにして、家宣と正室・熈子が江戸城に入<る運びになった>」(上掲)というわけだ。
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8 東山天皇

 1675~1710年。天皇:1687~1709年。「東山天皇は父<霊元>と対立した朝幕協調派の関白近衛基熙を信任しており、父霊元上皇の介入を防ごうとし・・・た。・・・

⇒基熙を朝幕協調派と決めつけるのは完全な誤りであることはご承知の通りだ。(太田)

 1701年・・・3月、東山天皇が江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。
 近衛基熙の日記によると、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している。 また、「帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、参内禁止の処分を行った」と記される。・・・

⇒東山天皇は、父の霊元上皇の自分への介入を不快に思っていて、その父と対立した基熙を信任するという単純な人物であったところ、父同様、反幕府ではあったわけだ。(太田)

 東山天皇の御代は、朝幕間が融和し、また後水尾上皇以来の朝儀復興への努力が開花した時代であった。武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻す嚆矢となり、御料(皇室領)はこれまでの1万石から3万石になり、朝廷は財政面でも著しく好転した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「<また、>久しく中絶していた立太子礼と大嘗祭だいじょうさいを再興した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87-14862

⇒しかし、幕府側からは、譲歩を引き出す目的で役割分担をし、霊元天皇は北風、近衛基熙は太陽、をそれぞれ演じた、と、見えていた可能性はある。
 この幕府の「誤解」もあって、東山天皇、ひいては天皇家は、ささやかながら、幕府から「給与」の増額等を勝ち取ったわけだが、この小成に甘んじてしまうことになる。
 先回りして言えば、既に近衛家から見放されていた天皇家は、小成に甘んじるところから始まって、徳川将軍家へのシンパシーが生じ、ついには徳川将軍家の家風・・反日蓮主義・・に染まってしまい、そのまま現在に至ることになったのに対し、近衛家の方は、一貫して、島津氏との一体性、換言すればその反徳川将軍家性、を維持し続けると共に、秀吉流日蓮主義を堅持し、「秀吉流日蓮主義再遂行」のための布石を打ち続け、やがて幕府も見放して倒幕に転じ、明治維新以降は、日本政府による秀吉流日蓮主義完遂において決定的な役割を果たし、縄文的弥生性に係るその7世紀半に及ぶ歴史を閉じることになる。
 蛇足ながら、東山天皇には、「武」についてはもちろんない上、「文」についての事績も「歌集に「東山院御詠草」<がある>」(上掲)程度しかない。(太田)

9 中御門天皇

 1702~1737年。天皇:1709~1735年。「9歳で即位したため、はじめ父東山上皇が、ついで祖父霊元上皇が院政を行った。・・・
 朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌、書道に秀で<ていた。>・・・
 在位期間は、第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当する。この時代の幕府との関係は比較的良好で、弟にあたる直仁親王が閑院宮家を創設し、さらに霊元上皇の皇女八十宮吉子内親王を徳川幕府7代将軍家継の元へ降嫁させる話も出ていた。しかし、家継の急死で沙汰止みになっている。・・・
 天皇は朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌、書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒天皇家に、早くも、徳川将軍家へのシンパシーが生じていることが窺える。
 なお、「文」についての事績は、父に比べればあると言える。(太田)

10 桜町天皇

 1720~1750年。天皇:1735~1747年。「中御門天皇の第一皇子。母は関白太政大臣近衛家熙の娘<である>女御近衛尚子<(注16)>(新中和門院、徳川家宣の猶子)。・・・

 (注16)ひさこ(1702~1720年)。「近衛家熙の娘。・・・異母兄に関白太政大臣近衛家久がいる。なお入内に際し、正室の近衛熙子が伯母にあたる縁から、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の猶子となっている。
 当初、家宣と煕子の嫡男である鍋松(後の第7代将軍徳川家継)との婚約が進められていたが、熙子・家熙姉弟は鍋松より7つも年上の尚子とでは年齢的に不釣り合いと考えるようになり、これを解消する意図も含めて尚子を天皇への入内を計画した。これに天皇の祖父である霊元上皇も賛同し、<1712>年・・・に上皇の裁可という形で尚子の入内が決定した。・・・第一皇子・昭仁親王(のちの桜町天皇)を出産するが、難産のため産後の肥立ちが悪く、・・・没。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%AD%90

 関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努め<た。>・・・
 聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。
 烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒この天皇は、なまじ「文」に秀でていたこともあり、「文」と無縁ではないけれど、非生産的であるところの、儀典、の復興に入れ込み過ぎたことによって、天皇家の「仕事」を不必要に拡大し、結果として、爾後、仮に「武」に関心を持つ奇特な天皇が出現したとしても、「武」に携わる心理的・時間的な余裕をなくしてしまっただけではなく、本来の「文」の研鑽をすることすら困難にしてしまった、と言えるのではなかろうか。
 なお、近衛家が尚子を入内させたのは、天皇家が立ち枯れ的な自然死をしてしまっては、将来の倒幕の際の旗印がなくなってしまうので、せめて、本来の「文」のテコ入れをして生きながらえさせようと企んだのだと思われる。
 しかし、この試みは、尚子が若くして亡くなってしまったことで不完全燃焼に終ったわけだ。(太田)

11 桃園・後桜町天皇

 (1)桃園天皇

 1741~1762年。天皇:1747~1762年。「父桜町天皇の譲りを受けて即位。・・・1758年)、宝暦事件が発生し、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87

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[宝暦事件]

 「桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。<にもかかわらず、従前通り、>政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。
 その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説(垂加神道)を奉じる竹内敬持(竹内式部)<(注17)>が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。

 (注17)たけのうちのしきぶ(1712~1768年)。「1728年・・・頃上京して山崎闇斎門下の玉木正英・松岡仲良に師事して、儒学・垂加神道を学んだ。・・・家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授して最盛期には700-800人の弟子を有したとされ、またそのうちの1人である徳大寺公城に1745年・・・頃に召し抱えられた。また、摂家の二条宗基も竹内の教えを受けてその支援者となるが、1754年・・・に急死してしまい、竹内は大きな後ろ盾を失うことになる。・・・
 1766年(明和3年)山県大弐らによる明和事件の際、関与を疑われ、翌1767年・・・八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%95%AC%E6%8C%81

 幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講である伏原宣条を説き伏せて天皇へ式部の学説を進講させた。特に徳大寺と久我は天皇の教育実務を担当していること、天皇や近習たちによる学習会そのものは『禁中並公家諸法度』第一条の「天子諸藝能之事、第一御學問也」の精神に適うものとされて桜町天皇の頃より盛んになっていたため、当初のうちは問題視されなかった。やがて・・・1756年・・・には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。
 公家の中には、諸藩の藩士の有志を糾合し、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放する倒幕計画を構想する者まで現れた。
 <1756>年12月、武家伝奏の柳原光綱が竹内式部と彼の元に出入りする天皇近習達の動きに不審を抱き、時の関白・一条道香<(注18)>に対して京都所司代への相談を提案している。

 (注18)1722~1769年。「<1746>年関白。<1747>年から桃園天皇の摂政,関白をつとめ・・・<1757>年辞任。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%81%93%E9%A6%99-1054531

⇒徳川幕府によって天皇家も公家も虐げられたところ、下級公家達は貧窮にあえぐ状態にまで落ちぶれており、それに憤った下級公家達が、新興カルトにかぶれ、クーデタを夢見た、ということだろう。(太田)
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[垂加神道]

 山崎闇斎(1618~1682年)。「祖父の山崎浄泉(1557―1624)は播磨国宍粟(しそう)郡山崎村の人。初め木下肥後守家定(1543―1608)に仕え、・・・父の浄因(1587―1674)も木下家に仕え、のち京都に隠居、医を業とした。

⇒浄因は、文禄・慶長の役で肥前名護屋城に駐屯した、足守藩の2代藩主の木下利房(1573~1637年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%88%A9%E6%88%BF
や、その子で槍術の達人であった3代藩主の木下利当(1603~1662年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%88%A9%E5%BD%93
に仕えたのだろうが、闇斎は、父の浄因から、武士の何たるか、や、日蓮主義、について耳学問をしたはずであるところ、その所説からして、日蓮主義者になったとは思えない。(太田)

 ・・・京に成長した闇斎は、幼少のとき比叡山に送られて侍童となり、15歳で妙心寺の僧となる。土佐藩主山内家の一族湘南和尚(?―1637)の勧めにより、土佐の吸江寺(きゅうごうじ)に転住、将来を嘱望されたが、ここで交わった谷時中(たにじちゅう)、野中兼山など海南朱子学の人々の影響を受けて・・・『闢異』を著して仏教を激烈に排撃<し、>・・・帰儒還俗した。1655年・・・38歳で初めて京に講席を開き、・・・『四書大全』などの後世の学説を排して,専ら朱子の原著に戻り,これを内面的に考究体認することを重視<する>・・・純正朱子・・・学を唱導、・・・佐藤直方(さとうなおかた)、浅見絅斎など多数の門人を養成した。
 1657年<までに>・・・神儒並行の思想的立場をいちおう確立した彼は、翌1658年江戸に東遊し、帰途伊勢神宮に参拝する。1665年・・・には4代将軍家綱の後見役会津藩主保科正之の賓師(ひんし)となり、ここにおいて・・・純正朱子学を武家社会に広布しようとする闇斎の目的はほぼ達成された。同時に正之は・・・家臣服部安休(はっとりあんきゅう)(1619―1681)を鎌倉に幽居中の吉川惟足(よしかわこれたり)のもとに遣わして神道を就学させた。ついで正之は、惟足を藩邸に招いて自らも神道の奥秘を伝授され、土津(はにつ)の霊社号を受けた。闇斎も東下の途中伊勢神宮に参拝、1669年・・・10月には大宮司の河辺精長(かわべきよなが)(1602―1688)から中臣祓(なかとみのはらえ)の秘伝を受ける。1671年8月には吉川惟足から吉田神道<(注19)>の秘伝を受け、垂加霊社の号を授けられ、・・・垂加神道を創始して,神儒一致を主張した。・・・

 (注19)「伊勢神道は、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって・・・唱えら<れたところ、>・・・[『神道五部書』(偽書とさ・・・る)を根本経典とする。また、儒教・道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。伊勢神道は、元寇により日本が神国であると再認識し、・・・絶対神の存在を強調することで、神を仏の上位におき、反仏、排仏の姿勢を示した ・・・
 その思想は、外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、内宮の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)とし、内宮に対抗する要素があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E9%81%93
 「吉田神道<は、>・・・吉田兼倶<が、>・・・吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた<と称しつつ、>・・・反本地垂迹説(神本仏迹説)<に立脚した>・・・汎神教的世界観を構築し<たところの、>・・・仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つはじめての神道説<。>・・・
 吉田神道と同様に反本地垂迹説の立場をとっていた伊勢神道(度会神道)が南朝と結びつくことで勢力を失っていた<ところ、>・・・吉田神道によって、反本地垂迹説は完成に導かれ、より強固なものとなった。・・・
 活発な宣教運動により、日野富子らの寄付によって虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祭神とする神道の総本山を自称する斎場所太元宮を完成させ、朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられ<、>・・・江戸期には、徳川幕府が・・・1665年・・・に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E9%81%93

 1673年・・・正之の葬に会して会津に下向した彼は、このとき以後毎年の東下をやめ、京において著述と教育に専念した。・・・
 神儒兼学に反対する弟子と神道派との間に確執が生まれ,双方の学脈が明治期まで継承された。闇斎は名分を強調したが,特に節義を重視した浅見絅斎の学脈から尊皇思想が主張されるなど,幕末尊皇運動の源流のひとつになったともいわれる。闇斎は朝鮮の朱子学者李退渓を高く評価して紹介したことでも知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E-21864

⇒神道を教義宗教化しようとすること自体が、度会家行や吉田兼倶や山崎闇斎がエセ神道家であることを意味する、というのが私の考えだ。
 実際、山崎闇斎はともかく、「注19」を踏まえれば、前二者はエゴに基づき教義をでっちあげたとすら言ってもよかろう。
 山崎闇斎は、儒者が表芸で神道家が裏芸といったところだし、エゴは感じられないので、前二者とは違うが、儒者と言っても、朱子学者なのだから、表芸の方についても、私は、全く評価しない。
 (なお、保科正之については、次のオフ会「講演」原稿あたりで取り上げたいと思っている。)(太田)

 「垂加神道<は、>山崎闇斎によって創唱された神道説。闇斎は・・・吉田神道・伊勢神道を学び,それに朱子学の居敬窮理の思想を結びつけ,道徳的性格の強い神道説とした。・・・
 理気一体の大極にして,天地開闢神であるクニノトコタチノカミが,人体神である天皇と唯一無二であるとする天人唯一の理を唱える。・・・理想は天照大神に,実践方法は・・・猿田彦神・・・にとった。熱烈な信仰と強い尊王愛国の思想をもち,幕末まで大きな影響を与え,その門流からは,浅見絅斎(けいさい),谷川士清(ことすが),竹内式部,山県大弐らが輩出した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9E%82%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E9%81%93-82827
 「居敬窮理<は、>朱子学における学問修養の方法を示す語。居敬も窮理も程頤(ていい)(伊川(いせん))が提唱したのを朱熹(朱子)が継承して朱子学の理論体系のなかに組み入れた。居敬は主敬、持敬ともいい、敬という状態に心を保つこと。敬とは程頤が「主一無適(しゅいつむせき)」と説明したとおり、心が一つのことに集中してふらつかないことで、雑念のない清澄厳正な精神状態をいう。窮理とは、事物にはみなそのあり方を規定する理(その事物の本質として不可欠な条件でもある)がある、その事物の理を窮め知ることをいう。理を窮めるには一木一草の理に至るまでいちいち全部知り尽くす必要があるが、そういう努力を積み重ねれば、ある段階で「豁然(かつぜん)貫通」してすべての理を一挙に了解しうるものとした。そして居敬のためには静坐(せいざ)を、窮理のためには読書(経書を中心とする)を主要な方法として説いた。朱熹はこのように居敬という心の修練の面と窮理という知的な理解の面との両面を説いたが、両者は車の両輪のごとく、心を敬という高度の緊張状態に保つことによって、初めて真理を正しく追究することができ、理を正しく理解することによって初めて高邁(こうまい)な心境を養い育てることができ、あわせて学問修養が成就すると考えた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%85%E6%95%AC%E7%AA%AE%E7%90%86-53323
 このうち、山崎闇斎は、「敬を根底として,静坐による心身の修養に基づく倫理的実践を最も重視した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E-21864 前掲
 「<クニノトコタチノカミは、>『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記される。別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)ともいう。
 『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神として<いる。>・・・
 伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E
 「猿田彦神<(さるだひこのかみ)は、>瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国(宮崎県)高千穂の峰にくだったときに、その道案内をつとめ、のち、伊勢国(三重県)五十鈴川のほとりに鎮座したといわれる。鼻がひじょうに高く、身長はきわめて高く、恐ろしい顔つきをしていたという。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8C%BF%E7%94%B0%E5%BD%A6%E7%A5%9E-512504

⇒垂加神道の教義など、一応、紹介はしたが、およそ論評にも値しない代物だ。(太田)
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 一条家は代々垂加神道を支援してきたが、道香は垂加神道を嫌悪しており、特に仏教排斥を公然と唱える竹内説は過激派・異端派とみなしていた。一条道香は京都所司代松平輝高と公啓法親王(輪王寺門跡)にこの問題についての相談を持ち込んだが、彼らは事態を深刻に考えていなかったらしく解決には至らなかった。
 翌・・・1757年・・・3月、一条道香は在任期間の長期化などを理由に近衛内前<(注20)>に関白を譲るが、依然として竹内式部と天皇近習達への警戒を続け、7月に一条は近衛に対して近習たちによる天皇への神書講義を中止させるように求めた。

 (注20)うちさき(1728~1785年)。「1757・・・年3月関白に任じられる。<1762>年7月後桜町天皇の践祚により摂政。・・・1768・・・年5月太政大臣。・・・1772・・・年関白に再任。<1778>年2月関白,太政大臣両職を辞す。・・・,<1773~74>年に起きた朝廷の勝手向きにかかわる不正事件に際し,公家並びに地下官人の罷免権は朝廷にあることを江戸幕府に確認させた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D-16237

⇒近衛家は、垂加神道を全く評価しておらず、評価する一条家を苦々しい思いで眺めて来ていたはずなので、ここは、「転向」した道香に同調してあげたのだろう。(太田)

 近衛は右大臣九条尚実と共に天皇の説得に乗り出し、8月16日になって天皇は近衛の説得と「実母」とされていた青綺門院(二条舎子)が仏教排除を唱える竹内説に反発しているという話を聞いて、神書講義の中止を約束した。
 ところが、9月になると天皇は青綺門院に神書講義の再開の許可を求めた。驚いた青綺門院は関白の近衛内前の同意があれば良いと天皇に述べつつ、武家伝奏の広橋兼胤を近衛のもとに遣わして同意をしないように求めた。ところが、・・・1758年・・・に入って、近衛は天皇に自分の家礼でもある西洞院時名が講師をして自分がその内容を確認することを条件に内密で行うことを認めると伝え、天皇はそれを受け入れた上で3月25日に神書講義を再開した。

⇒この近衛内前の姿勢には、私は、島津藩が宝暦治水事件(後述)で反幕意識を高揚させていたことが影響していると見ていて、桃園天皇に、やや邪道のやり方ではあれど、反幕意識を注入しようとした、と見る。(太田)

 ところが、5月になってその事実を知った一条道香は同じ摂関家の九条尚実と鷹司輔平、天皇の「実母」である青綺門院、天皇の「生母」である大典侍姉小路定子(後の開明門院)、定子の実兄である議奏姉小路公文らに実情を報告した上で、5月29日に一条・九条・鷹司が近衛を詰問した。近衛は事実関係は認めたものの、天皇と関白の信頼関係に関わることとして天皇への中止の申し入れを拒絶したため、6月5日に予定されていた講義は実施された。激怒した一条は翌6日に九条・鷹司と共に青綺門院に進講の中止を要請し、中止を求める九条執筆の三公連署状を近衛に叩きつけた。驚いた近衛は天皇にその旨を伝え、姉小路公文の諫言もあって天皇は再度の中止を決めた。なお、当時の摂関家のうち、二条重良は当時8歳であったため本事件には関わっていない。ただし、・・・1754年・・・に28歳で急死した先代の二条宗基は竹内式部の門弟として近習たちに近く、かつ養子とは言え青綺門院の甥(妹婿でもある)として外戚の待遇を受けて次期関白の有力候補者でもあった。そのため、二条宗基が健在であった場合、竹内式部や近習たちが彼の庇護を受けてこの事件の流れが全く別のものになってしまった可能性があったとする指摘もある。
 しかし、天皇は再び神書講義再開を求め、近衛は天皇と摂関家の間で妥協点を求め続けていた。これに我慢しきれなくなった一条道香は6月25日に公卿の武芸稽古や兵具調達の噂を理由に式部を京都所司代に告訴し、28日に式部は町預とされた。幕府からの圧力を口実に近習たちの一斉排除を狙ったとみられている。しかし、一条と共に講義の中止を求めていた武家伝奏の柳原と広橋は幕府の介入によって却って朝幕関係が悪化することを警戒し、京都所司代も具体的な物証のない段階でのこの告発は朝廷内の権力争いに幕府に巻き込むものではないかと見て、積極的な捜査を行わなかった。近衛も取りあえず式部の門弟である公家を自主的に謹慎させて様子を見ようとした。しかし、突然自主的な謹慎を要請された近習らはこれを式部の拘禁と共に摂関家の陰謀とみなして、天皇に対して自分たちの無実を訴える内奏を始めた。

⇒九条家から分かれ、「序列は近衛家に次ぎ、九条家とは同格、九条流の二条家、近衛流の鷹司家の上位に列した」九条流の一条家だが、時の幕府と癒着する家風はまさに九条家のものだ。(太田)

 7月18日、天皇寵愛の掌侍であった梅園久子は天皇の身辺に置いてあった文書が目に入り、その内容の重大さから急いで中身を書き写して青綺門院に届出、その日のうちに近衛内前や一条道香にも伝えられた。それは一条道香を告発する近習の勘解由小路資望の内奏書であった。23日に近衛邸に近衛内前・一条道香・九条尚実・鷹司輔平が集まった。彼らは他の近習たちも同様の行動を起こしていると推測し、天皇と摂関家の全面対決に発展する前に天皇に近習たちの排除を迫ることで合意した。また、同日には竹内式部が正式に京都町奉行に拘束されている。
 7月24日、近衛内前・一条道香・九条尚実・鷹司輔平が御所の御学問所で天皇と面会した。摂関家を代表して内前が竹内式部とその門弟が幕府に対する批判的な言動を行っていることを指摘し、また式部が町奉行所に拘束されたことを理由に門弟である近習やその他の公家の蟄居・遠慮処分をすべきであると述べた。天皇がそれを拒否すると、他の出席者が門弟たちからの内奏書を見せて貰いたいと要求した。天皇は西洞院時名の内奏書を常御所から持ち出して出席者に提示したが、既に勘解由小路資望の内奏書の存在を知っている面々は(西洞院の)1通だけではないと納得せず問答となった。その後、近衛内前が一旦退出して、姉小路定子より彼女が確保した内奏書の束を受け取ると御学問所に戻り、その内容を読み上げ始めた。その中には近習たちがその立場を利用して、摂関家の人々が天皇に面会できないようにしたり、儀式などの準備をサポタージュして政務を混乱させるなど、摂関家を朝廷から事実上排除する具体的な方法を述べているものもあった。それを聞いた九条と一条が近習たちの即時処分を要求し、近衛もそれがなければ摂関家はその他役付と共に職務放棄をすることを宣言した。ここに至って天皇も処分を近衛に一任することを認めた。これを受けた近衛はその日のうちに天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。
 この日の様子を伝えた近衛・一条・九条の日記は現存(鷹司のものも存在していたが現在は散逸)しており、これを素直に辿ると天皇「実母」の女院と「生母」の大典侍の支持を受けた摂家一同が内奏書という物証を摘発し、そこに書かれていた「宮廷クーデター」計画を暴露した上で、摂関家以下の「集団ボイコット」をちらつかせながら天皇を恫喝して処分を認めさせたことになる。一方、桃園天皇の御記(日記)にも同日条が現存しているが、内奏書を突きつけた摂関家の要求に対して不同意ながらこれに応じたこと、特に徳大寺・正親町三条・西洞院・髙野の4名は忠臣であるのに退けられるのか、と無念の思いを記している。
 ところが、京都所司代からは竹内式部の処分がまだ終わっていないのに、幕府の許可も得ず式部の門弟である公卿を多数処分するのは幕府を無視しているのかという抗議が入れられ、更に江戸幕府からも摂関家に対して同様の詰問が入ることになり、一転して摂関家側が苦境に立たされることになる。8月20日、近衛邸にて近衛・一条・九条・鷹司と武家伝奏の柳原・広橋が会議が開き、今回の処分はあくまでも天皇の意向であること、天皇と摂関家・女院の関係を引き裂いて竹内門弟の近習たちが宮廷の実権を掌握する企みがあり、実際に物証と言える内奏書が存在することなどを記した回答書を京都所司代に提出すると共に、今回の処分は事前に報告すべきであったのにしなかったのは武家伝奏に落度があった旨を伝え、最終的には幕府もこれを追認することになった。
 ここで重要なのは、摂関家が江戸幕府に対して処分の理由として挙げ続けたのは、「宮廷クーデター」計画の発覚であった。実際に竹内式部の思想に焦点を当てると、仏教排斥を唱える竹内を嫌悪する一条と関心が低く竹内門弟である西洞院による進講に陪席してしまった近衛では明確な温度差があった。

⇒内前を含め、近衛家の当主が、そんな感度の悪い人物であることは、ほぼありえない。(太田)

 また、前述のように公家達の処分の主導的役割を果たしたのも摂家であり、江戸幕府は事後報告を受けてそれを追認したのが実情であった。しかし、幕末以降、この事件の背景として当時の朝廷の権力動向よりも、竹内や近習たちの尊王論や倒幕計画に焦点が当てられることになる。
 一方、式部は京都所司代の審理を受け翌宝暦9年(1759年)5月重追放に処せられた。宝暦10年(1760年)4月には先に追放されて永蟄居となっていた・・・7名に加えて、遠慮の処分を受けていた今出川公言・高倉永秀・西大路隆共・町尻説久・町尻説望・桜井氏福・裏松光世の7名を加えた14名が落飾を命じられた。

⇒だから、宝暦事件と呼ばれるわけだ。(太田)

 この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する・・・1762年・・・以後の事である。一方で、摂関家内部でも一条道香と近衛内前の確執が激しくなっていった。一条は桃園天皇の神書講義が近衛との密約の上で再開されて事態を長期化させたことに不満を抱いていた。一方の近衛も一条の執政期の綱紀の緩みが事件の根幹にあると見ていた。宝暦事件後、天皇の近習など近侍する役職から竹内式部の門弟だけでなく、一条家の家礼を排斥されて近衛家の家礼が占めるようになり(禁裏小番の最終的な人事権は天皇にあり、近衛と天皇の間で合意があった可能性が高い)、<1759>年10月には事件で永蟄居になった者の嫡子に出仕を許そうとした近衛に対して一条が激しく反発して撤回に追い込まれている。更に・・・1762年・・・の元日に蔵人頭の松木宗済(後の宗美)が失策を重ねて職務放棄をしたことで非参議への昇進という名目で罷免されると、一条は正親町公功を、近衛は櫛笥隆望を後任として推挙して政治工作を繰り広げ、最終的には櫛笥が後任に選ばれている(なお、正親町は一条家の家礼、櫛笥は近衛家の家礼である)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒近衛家の「復権」は、宝暦事件の正の遺産だと言えよう。(太田)
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[宝暦治水事件]

 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事である。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川を分流する工事であり、三川分流治水ともいう。・・・
 1753年・・・12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。また、地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。・・・
 1754年・・・1月16日、薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。・・・
 当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年・・・1月21日に幕府へ送った。

⇒そもそも、薩摩藩は、それまでも当初から一貫して(、近衛家と共に、)徳川幕府を見下す意識を抱いていた、と思われる。(太田)

 同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
 同年2月16日に大坂に到着した平田はその後も大坂に残り、工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日に美濃大牧(岐阜県養老郡養老町)に入った。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い、着工した。
 1754年・・・4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが、平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側からも現場の責任者が地元の庄屋との揉め事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに人柱として1名が殺害された。
 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制し、さらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。ただし、経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは、当時は普通のことであった。
 1754年・・・8月、薩摩工事方に赤痢が流行した。粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ、33名が病死した。
 1755年・・・5月22日に工事が完了し、幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日5月25日早朝、美濃大牧の本小屋(大巻薩摩工事役館跡)で平田は割腹自殺した。辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」であった。
 [翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳で兄と同様に父に先立ち没した。・・・
 <この重年の一人っ子が、後の、あの重豪だ。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E5%B9%B4 ]
 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、大坂の商人からは22万298両を借入していた。返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒爾後の約100年間、近衛/島津家はは、従来にも増して、徳川幕府打倒のための布石を打つことに努力を傾注することになった、と、見る。(太田)
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 (2)後桜町天皇

 1740~1813年。天皇:1762~1771年。「異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主らが秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。
 この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。

⇒時の関白の近衛内前が、そういうストーリーを流布させることで、倒幕の旗印として利用価値がある天皇家を復権させる布石として、禁中並公家諸法度に風穴を開けたのだろう。(太田)

 また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。・・・
 在位9年の後、<1771>年11月・・・、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。
 しかし・・・1779年・・・、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとしたが、結局現関白九条尚実の推す<閑院宮>典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。
 皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに・・・1789年・・・の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。・・・
 ・・・1787年・・・6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。・・・
 1813年・・・、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
 古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好まれ、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙・高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒久しぶりに、少なくとも「文」に秀でた天皇が再出現したわけだが、それが、中継ぎの女性天皇であったことは、天皇家の男子嫡流達の転落ぶりを炙り出すことになったような・・。(太田)

12 後桃園天皇

 1758~1779年。天皇:1771~1779年。「<1768>年2月19日・・・に立太子。皇太子が天皇の子(皇子)でないのは熙成親王(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2020年現在最後の例。天皇の甥が皇太子(皇太甥)になった例は益仁親王(光明天皇の甥でのちの崇光天皇)以来430年ぶり。<1771>年11月・・・、伯母後桜町天皇の譲位を受けて即位。
 在位中の・・・1773年・・・には、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われた(安永の御所騒動)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%A1%83%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒その座に座っているだけの天皇が大部分になってしまって久しく、ついに、朝廷の規律まで弛緩してきてしまっていた、ということだろう。(太田)

(続く)

IV 終りに

 今回は、二本立ての予定が三本立てになってしまい、一本目は一応完結した形になっているものの、二本目な中締めに近く、また、三本目は全く完結しておらず、「終り」という項を立てるのも憚れるのだが、予定変更について一言。
 今回の「講演」原稿は、一本目と三本目だけで、平板なものになりそうだなと思っていたところ、オフ会申し込みフォーム作成直後に、二本目の必要性に気付き、結果的にそれが、今回の「講演」原稿の中心になった次第。 
 二本目については、今まで気付かなかった自分を責めると共に、日本史という最良質の推理小説を解く面白さを堪能した。
 私の筆力もあって、今回は、いつも以上に読み通すのが結構しんどいのではないかと危惧しているが、そんな人は、赤穂事件の囲み記事だけでも目を通して欲しい。
 (これ、最初に書けって? ゴメンなさい。)
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太田述正コラム#12456(2021.12.18)
<2021.12.18東京オフ会次第>

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