太田述正コラム#12307(2021.10.5)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その13)>(2021.12.28公開)

「事件は・・・1633<年>に表面化した。・・・
 柳川一件<(注29)>と呼ばれる。・・・

 (注29)「柳川氏は調興<(しげおき)>の祖父調信(しげのぶ)一代で<対馬藩の>家臣の筆頭にまでのし上がった存在で、調興の代には朝鮮関係から宗氏の家政まで擅断(せんだん)するようになっていた。また、調興は人質として幼少から徳川家康・秀忠の膝元に置かれており、幕府要路に強力な人脈をもっていた。義成と調興の確執は、調興がそのような地位を足場に幕臣化しようとした点に発しており、1615年・・・に義成が<宗氏の>家督を継いでほどなくその兆しがみられ、31年・・・に双方が幕府に訴えたことから争論となった。その際明らかになった日朝関係上の不正には、それまでの朝鮮使節来日の際の国書の改竄・取り替え、国王使(将軍使)を詐称しての使節の朝鮮派遣などがあるが、これらは宗氏あるいは柳川氏の罪というよりは、中世以来の日朝関係の諸慣例を放置していた幕府の姿勢に起因したものである。
 争論は当初調興の有利が噂されたが、1635年将軍家光の親裁によって義成の無罪、調興らの有罪が決定した(調興は津軽に流罪、そのほかにも死刑・流罪)。この裁定には、義成室が日野資勝(ひのすけかつ)娘で家光室の鷹司氏と親類にあたることが影響しているといわれるが、それだけではなく、当時の幕府の対外政策、大名統制策の基本路線に沿ったものであった。一件後、将軍の国際的称号を日本国大君(にっぽんこくたいくん)とし、外交文書に日本年号を使用すること、対馬以酊庵(いていあん)へ京都五山の長老を輪番で派遣して外交文書を管掌させる以酊庵輪番制の設定など、日朝関係上の諸体制が整備された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E4%B8%80%E4%BB%B6-400757
 「1635年・・・以降、朝鮮使節は・・・徳川将軍<について、その>・・・別称を用いて「日本国大君」と記していたが、1711年・・・6代将軍家宣側近の新井白石が・・・折たく柴の記(1716頃)<の>中<で>「大君といふは、彼国<(朝鮮)>にして、その臣子<たる>・・・王子・・・の嫡子・・・に授くる所の職号にこそあれ」<と記したように、>・・・名分論の立場から『殊号事略』を著してその非を説き、これを廃止して「日本国王」に改めた(殊号事件)が、朝鮮側にも対馬藩にも反対の意向があって、白石失脚後、旧に復した。幕末開国期には欧米諸国との交渉にあたり同じ別称が用いられ、オランダ語ではTijcoen、英語ではオールコックの日本見聞記『大君の都』の表題にもあるようにTycoonと書いて、天皇を意味するDairi(内裏)、Mikado(御門)と区別した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%9B-91033

⇒「注29」後段で紹介されている白石の論理は、天皇が将軍を任命する以上、間違っていることは明白であり、むしろ、どうして、幕府が、この白石の提案を受け入れたのかが問題になります。
 本件は宿題にしておきたいと思います。(太田)

 このとき宗義智は没しており、子の義成<(注30)>が島主の座に就いていた。

 (注30)1604~1657年。「検地や菩提寺である万松院の創建、朝鮮通信使の待遇簡素化による財政節減、銀山開発などを積極的に行なって藩政の基礎固めに専念した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E6%88%90
 義父の日野資勝(1577~1639年)は、「後水尾天皇譲位に際して,幕府の譴責を受け辞任した中院通村にかわり,父輝資が武家昵近衆として徳川家康の知遇を受けたことから,・・・1630・・・年武家伝奏となり朝幕間の斡旋に努める。16年まで在職。その日記『資勝卿記』は,10年にわたる武家伝奏在任期の記録も残され,江戸前期の朝幕関係を知る貴重な資料。資勝は,また後水尾院の立花会の重要メンバーであり,当時ブームとなった椿栽培においても珍種「日野椿」の栽培で知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E5%8B%9D-14898

 重臣の柳川氏は、調信の没後は子の智永(としなが)が継いだが既に隠居しており、孫の調興<(注31)>(しげおき)が家督を握っていた。

 (注31)1603~1684年。「柳川氏は、祖父の柳川調信は元・商人といわれており、宗氏一族の津奈調親への仕官を経て、17代当主・宗義調に仕えた。その交渉能力から重臣となり、特に豊臣秀吉の九州平定や、文禄・慶長の役での朝鮮との折衝にあたった。そのため、秀吉から宗氏へ九州本土に与えられた領地1万石(初め薩摩国、後に島津氏へ配慮し肥前国へ交換)のうちから1千石を知行地とした。以降、柳川氏は対朝鮮外交の実務を担い、江戸幕府からも重視され、幕閣本多正純の介入でさらに1千石が加増された。このような中で、調興は江戸で生まれ育ち、・・・1613年・・・に幼くして家督を相続。徳川家康、秀忠の小姓に任ぜられるなど、幕府直臣であるかのような待遇にあり、自身もその意を強くしていた。
 その後、藩主・宗義成と対立し、直臣の旗本となることを画策する。所領2000石での旗本を目指す調興に対して、そのうち1000石はあくまでも対馬藩領とする義成との対立は激化し、正室である義成の妹を離縁、・・・1631年・・・には幕府に訴え出るもおさまらず、・・・1633年・・・に対馬藩の国書改竄を幕府に直訴した(柳川一件)。
 ところが・・・1635年・・・、3代将軍・徳川家光による裁定の結果、調興は敗訴し流罪を命じられ弘前藩預かりとなる。老中・土井利勝の配慮で、家臣7名の供を許され、弘前城南西に広大な屋敷を与えられた。一流の文化人として藩主・津軽信政の敬意を受け賓客として遇され、以後半世紀近くを津軽の地で過ごした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E8%AA%BF%E8%88%88

 年齢は調興が一つ上で、ともに30歳を僅かに超えたばかりの・・・年頃である。・・・
 調興は、宗氏が国書偽造という違法な手段をを用いて朝鮮外交を取り仕切り、幕府に無断で国王使を派遣して莫大な利益を得たことなどを暴露し、積年の弊害を訴えた。・・・
 1635<年>3月、江戸城で将軍家光から・・・予想外の・・・判決が下された。・・・」(123~125)

⇒どうして幕府がこういう判決を下したかについて、三鬼は縷々説明をしていますが、引用は省きます。
 私見では、縄文人の上に弥生人が柔らかく乗っかった時から、その時に形成された日本文明においては、エージェンシー関係の重層構造が、デフォルトの広義の統治構造になったのであって、徳川幕府が、改易や移籍という伝家の宝刀を保持しつつも、(対馬藩のこの例が物語っているように、)諸大名に事実上高度の自治を許したのは、広義の統治構造のデフォルトがそういうものだったからです。
 この統治構造の欠点は、総動員体制の構築が容易ではないことであり、明治維新後、日本が、一旦、このデフォルトの統治構造を廃棄し、欧米型の、換言すれば支那型の改善形たる、統治構造に大転換を遂げたのは、この欠点を放置できないほど、日本を取り巻く国際情勢が緊迫するに至った、と、武士等、意識の高い多くの日本国民が認識したからです。(太田)

(続く)