太田述正コラム#12313(2021.10.8)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その16)>(2021.12.31公開)

 「<秀吉の死後も>関白職は空位のままに置かれていた・・・。
 しかし、・・・関ヶ原の戦いで家康が勝利を収めたことで事態は一変した。・・・
 その後の関白職は、九条兼孝・・・近衛信尹・鷹司信房・九条忠栄と目まぐるしく交替し、秀頼に付け入る隙を与えなかった。
 さらに秀頼<(注34)>は、・・・1607<年>正月11日に突如として右大臣を辞任した。・・・

 (注34)「淀殿は父である浅井長政に似て当時の女性としては大柄。女性の平均身長が149センチであった時代に168センチの身長がありました。一方の豊臣秀吉は当時の男性平均身長157センチを大きく下回る140センチの身長。2人の身長差は30センチ弱あったことになります。豊臣秀頼は秀吉が56歳のときに淀殿との間にできた子ども。母に似たのか、成人後は[身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC ]ありました。・・・淀殿と秀頼とともに自害した大野治長。彼は淀殿の乳母をつとめた女性の息子にあたり、生涯を豊臣家に捧げた人物。・・・20人以上の側室を抱えていたにもかかわらず長い間子どもに恵まれなかった秀吉の子どもを2人生んだのが淀殿(ひとり目の息子・鶴松は3歳で死去)。さらに身長の低い豊臣秀吉から、秀頼の父親は別の人物なのではないかと囁かれ、うちひとりが常に淀殿の側にあった大野治長ではないかと言われています。」
https://machi-log.net/?p=46626
 「秀吉には長浜城主時代に石松丸秀勝と女児がいたという説もあり、その場合に淀殿との間にしか子供が生まれなかったという説が崩れることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC 前掲

⇒「1606・・・年に家康が武家官位推挙権を朝廷より獲得し<てい>た」
https://sengoku-his.com/673
以上、(豊臣家は公家ではなく武家であることも朝廷に飲ませたとの前提の下、)これは、家康の差し金でしょう。(太田)

 同じ日付で権大納言九条忠栄が右大臣に就任した。
 忠栄は翌・・・年・・・に関白に昇進するので、それを前提とした人事である。・・・
 秀頼は、ややもすればひ弱で武将としての資質を欠いたマザコンのように思われがちであるが、実は背が高く屈強な体躯の持ち主で文武両道に優れた逸材であったことが、最近の研究によって明らかにされている。

⇒「最近の研究」なるものをネット上で探したのですが、「『明良洪範』<(注35)>などは「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス」(たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)と記している。」
https://www.inari.or.jp/midokoro/hideyori/
https://sengoku-his.com/673 前掲
という一文に遭遇しただけでした。

 (注35)めいりょうこうはん。「江戸中期成立の逸話・見聞集。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏,諸大名その他の武士の言行,事跡等720余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?‐1707,俗姓真田)の著。25巻,続編15巻。成立年不詳。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E8%89%AF%E6%B4%AA%E7%AF%84-1210782

 私は、やはり、秀頼がうどの大木だったと考えています。
 いい話も悪い話も殆ど残っていないということは、淀殿らが(悪い話しかないので)厳しい緘口令を敷いていたのだろう、と。
 関ケ原の戦いの時に号令を下すなり参戦したりなどをしなかったことについては、信憑性は分からないけれど、「朝廷は、関ヶ原の約一ヶ月前、八月十六日に広橋兼勝と勧修寺晴豊を勅使として豊臣家に下し、出陣の不可を伝えました。それについて西洞院時慶は日記(『時慶卿記』)に次のように記しています。
〈天下無事ノ義、禁裏仰セ出サレ候。広橋大納言、勧修寺宰相ノ両人、大坂ヘ明日差シ越エラルト〉」
https://aberyutarou.com/contents/143568
という話があるようですが、大坂の陣の時、一切、陣頭指揮を執らなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC 前掲
のは、完全にアウトでしょう。(太田)

 このとき秀頼は正二位という位階を帯びていたが、この位階は失っておらず、死ぬまで正二位であった。
 官職も位階も天皇から授けられるが、位階はその人に付随するもので、みずから辞退したり放棄したりすることはできない。
 無位無官となるのは、出家して仏門に入るときである。
 関白職に就く望みを絶たれ、右大臣と言う官職さえも奪われ、無官の身に貶められた秀頼は、このとき大坂城で何をしていたのであろうか。
 それは寺社の修造と豊臣家の先祖供養である。」(146~147)

(続く)