太田述正コラム#12317(2021.10.10)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その18)>(2022.1.2公開)

 「1615<年>7月17日、幕府は天皇と公家の行動を制約する全17ヶ条の「禁中幷公家諸法度」<(注37)>を制定した・・・。」(173)

 (注37)「徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡後の<1615>年7月17日・・・、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられた。呼称を変更したのみで内容の変更はされておらず、その内容は江戸幕府終焉まで変わらなかった。これは何度も改定が行われた武家諸法度とは対象的である。・・・
 また、<1632>年11月17日・・・には、後水尾上皇の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「若公家衆法度」が制定された。この制定過程に幕府は間接的な関与しか行わなかったものの、その役割は禁中並公家諸法度を補完して、公家の統制を一層進めるものとなった。・・・
 第一条の条文・・・天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。・・・は鎌倉時代の順徳天皇が記した有職故実書『禁秘抄』に書かれている文章の抜粋である。
 これについて橋本政宣<(コラム#12092)>は・・・江戸幕府への「大政委任」の法的根拠を与えたと解説する。・・・
 これに対して田中暁龍は・・・一条兼香(江戸時代中期の摂関)が示した第一条解釈・・・を引用しながら、朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ、幕府側の論理である大政委任の法的根拠と解釈することで出来ないとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
 橋本政宣(1943年~)は、國學院大文(史学)卒、同大院博士課程中退、東大史料編纂所入所、同教授、國學院大博士(文学)。神職。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%94%BF%E5%AE%A3
 田中暁龍(としたつ。1961年~)は、東京学芸大修士、現在、桜美林大教授(史学)。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a43085.html
 「大政委任論・・・を理論化したのは14歳で将軍に就いた徳川家斉を補佐する老中・松平定信であったとされている。定信は・・・1788年・・・8月、家斉に対して「御心得之箇条」・・・の中で「六十余州は禁廷より御預り」したものであるから「将軍と被為成天下を御治被遊候は、御職分に御座候」と説き、若い将軍に武家の棟梁としての自覚を促すとともに、将軍は朝廷から預かった日本六十余州を統治することがその職任であり、その職任を果たすことが朝廷に対する最大の崇敬であるとした。
 定信は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものであり、さらに武家も公家も同じ天皇の国家である日本に住む「王臣」であるという論法から、将軍すなわち幕府は武家や庶民に対する処分と同様に公家に対しても処分の権限を持つと唱え、尊号一件に際して公家の処罰を強行した。
 もっとも、「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、・・・1863年・・・3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。ただし、孝明天皇は家茂の義兄で、かつ江戸幕府との関係を重視する立場(佐幕主義)であったため、この時点では直ちに影響を与えるものは無かった。
 しかし裏を返せば、幕府の権限は全て本来は天皇が有していたものであり、幕府はそれを委任されたものに過ぎないという論理も成立してしまい、天皇が幕府の上位に立つものと解する余地を与えることになった。さらに、本来朝廷が担っていた国家統治に対する責任を幕府が全面的に引き受けることを意味することになり、19世紀に入って国内における経済・社会問題や外国船の来航など内外の問題が深刻化すると、幕府がその政治的責任を問われることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96

⇒「注37」の最後の引用から分かるように、松平定信もまた、徳川幕府の存続を揺るがしかねない「大政委任論を唱えたわけですが、彼の、老中時代の諸施策等も併せ考えると、日蓮主義者だった可能性が高いところ、その出自(注38)を見るとさもありなんという気がします。

 (注38)松平定信(1759~1829年)は、「生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で・・・近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。・・・御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川・・・宗武の正室は近衛家の出身<の>・・・近衛通子・・・であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛・・・通子・・・(宝蓮院殿)が養母となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

 なお、蛇足ながら、「並」だと思っていたところ、「幷」
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0006207400
が、この法令の本来の字だったとは知りませんでした。

(続く)