太田述正コラム#12321(2021.10.12)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺2)(その1)>(2022.1.4公開)

1 始めに

 前コラムに登場した蜂須賀家政のことが気になり、蜂須賀家の日蓮主義との関りを調べてみました。

2 蜂須賀正勝と家政

 まず、家政の父親の蜂須賀正勝(小六。1526~1586年)からです。↓

 「1553年・・・父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。・・・1556年・・・、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。・・・

⇒家政は、道三の日蓮主義の影響を強く受けていた、と、見たいところです。(太田)

 <その後、>豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣<となる>。播磨龍野城主。<こうして、>徳島藩主蜂須賀家の家祖<となる>。・・・
 家政によって亡骸は楼岸の龍雲山安住寺に葬られた。
 安住寺は元々は美濃国厚見郡鏡島の古刹で、兵乱で荒廃していたために、正勝が大坂の同地に移し・・・再興したものである。・・・家政によって四天王寺の脇に移動されて、これが国恩寺となり、正勝の墓も改葬された。・・・
 戦後の・・・1971年・・・に徳島県徳島市眉山町の万年山に移されて改葬された。
 家政は阿波徳島にも江岸山福聚寺を築かせたが、これは後に改号して大雄山興源寺となった。このため正勝の墓所は現在は徳島県徳島市の万年山にあり、位牌所が下助任町の興源寺とされている。このほか家政は那賀郡大原村に吉陽山桂国寺を建て、・・・正勝の菩提を弔わせた。また、高野山の奥の院にも阿波徳島蜂須賀家墓所があり、歴代藩主の墓がある。出身地である愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺にも家政との合同墓碑が後年造られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D
 「興源寺・・・は、・・・臨済宗妙心寺派の寺院。・・・正勝のほか、藩祖蜂須賀家政、徳島藩初代至鎮から13代斉裕までの墓が営まれている。ただし、7代宗英の遺体は京都の清浄華院に埋葬され、興源寺の墓には遺髪を納める。10代重喜の時に万年山(徳島市佐古山町)に儒教式の墓を新たに造営し、8代宗鎮の遺体は万年山に改葬された。8代及び10代から13代までの藩主については万年山と興源寺の両墓制となり、遺体は万年山に葬られ、興源寺の仏教式の墓には遺髪を納めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E6%BA%90%E5%AF%BA_(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%B8%82)
 「蓮華寺(れんげじ)は、愛知県あま市蜂須賀にある真言宗智山派の寺院。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%8F%AF%E5%AF%BA_(%E3%81%82%E3%81%BE%E5%B8%82)

⇒この↑ように、家政の日蓮宗との直接的な縁を目を皿にして探したのですが、正勝は、日蓮主義者だった可能性こそ高いけれど、日蓮宗信徒でなかった、ということになります。
 次に、肝心の蜂須賀家政(1558~1639年)です。↓

 「1592年・・・からの朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣する。特に・・・1597年・・・の南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、浅野幸長を助け出すという武功を挙げた。ところが、家政たちが十分な追撃を行わず、さらにこの後、黒田長政ら諸大名と連名で本土に戦線縮小案を上申したことが、秀吉の逆鱗に触れる。家政は本土に呼び戻され、領国での蟄居と蔵入地の没収という処罰を受けた。

⇒ネットに少し当たった限りでは、この事件で、「蔵入地の没収」までされたのは、家政のほかは、早川長政だけだったようです。↓

・福原長堯(ながたか)。「石田三成の妹婿。・・・慶長の役では、軍監として朝鮮に渡った。蔚山城の戦い後の追撃に際して、蜂須賀家政、黒田長政、毛利高政、早川長政、竹中重隆の軍令違反を秀吉に厳しく報告し、文治派と武断派の決裂を決定的とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
・黒田長政(キリシタン大名だったが棄教していた)。「1597年<の>・・・第一次蔚山城の戦い<で>、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
・毛利高政(キリシタン大名)。「1600年)、関ヶ原の戦いでは、石田三成に催促に応じて西軍に与し、大坂・淀の橋の警固、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加した。しかし領国では隣国の黒田如水に日隈城が包囲されており、城代・毛利隼人佐は西軍諸将への増援要請が無視されたことから、黒田側の説得に応じて無血開城してしまった。これに従って、高政も東軍に投降した。戦後、藤堂高虎のとりなしもあって改易を免れ、減封もされなかった。これは、東軍に加わって苅安賀城を守り、関ヶ原の際に福島正則隊に加わって戦死した森勘解由の名跡を高政が継いだと言うから、彼の死の功績に免じたものであろう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%AB%98%E6%94%BF
・早川長政。「長政は朝鮮での働きに落ち度はなかったと判断され、・・・1599年・・・閏3月19日、に府内城主に2万石で再び返り咲いた。・・・関ヶ原の戦いでは西軍に所属。・・・大坂夏の陣では真田信繁の寄騎として戦い、最終決戦の5月7日は天王寺口に布陣した。大坂落城後の消息は不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%95%B7%E6%94%BF
・竹中重利(しげとし)。「関ヶ原の戦いでは、初め西軍に与して大坂久法寺町橋や近江瀬田橋を警備し、丹後田辺城攻めにも兵を派したが、後に<長政の父の、やはりキリシタン大名だったが棄教していた>黒田如水に誘われて東軍に転向して所領安堵された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E5%88%A9

 家政は、早川長政とは対照的に武断派に加わったわけですが、後述するところの、彼のその後の生き様から見て、加藤清正ら「武断派」の中では例外的に、福原への私憤を石田三成への私憤へと転化させただけの「ノンポリ」であったように思われます。(太田)

(続く)