太田述正コラム#12333(2021.10.18)
<2021.10.16東京オフ会次第(続々)>(2022.1.10公開)

O:次回の「講演」では家康を取り上げるとして、次々回以降、その先の江戸時代を通史でどのように取り上げるか、いや、通史を諦めるとしても、何か取り上げるべき人物や事件があるのか、頭を悩ませている。
 人に関して言えば、いわゆる名君の一人である保科正之
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B
や、老中として有名だが名君でもあった松平定信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
が例えば思い浮かぶし、事件に関して言えば赤穂浪士の討ち入りを赤穂藩の浅野家の本家の浅野家の家風から読み解く、といったことが例えば思い浮かぶが・・。
C:並才だった家康が作った徳川幕府が、どうして260年も続いたのだろうか。
O:基本的には、やっぱり、それも運がよかったからだろう。
 (外敵に関して振り返ってみよう。)
 17世紀前半に英国がオランダによって、一旦東アジアから叩き出され、インド亜大陸にしばらくの間、精力を集中するほかなくなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東アジアでは、スペイン・ポルトガル連合王国が17世紀半ばに解消された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB
ことに伴い、蘭・西・葡の鼎立状態となり、地理的意味での欧州勢力のうちのどれも日本に志向する余裕がなくなり、その状態が結構長く続いた、というわけだ。
 (ロシアは、東漸して、17世紀半ばまでにオホーツク海に到達していたが、それ以降は、清との勢力争いに精力をとられ、日本に志向するどころではなかったし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%9C%B2%E5%9B%BD%E5%A2%83%E7%B4%9B%E4%BA%89 
1689年に露清間でネルチンスク条約が結ばれたが、これは清側に有利な条約であって、ロシアはオホーツク海で不凍港を獲得することに失敗したため、引き続き、日本に志向することは困難な状態が続いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84 ←日本への言及部分以外)
B:しかし、やがて、(英国が東アジアに復帰し、更に)ペリーがやってきて、運がよかった時代は終わったわけだ。
O:その頃までには、徳川幕府の幕臣達は、文官化してしまっていたが、一応武士ではあったことが幸いした。
 彼らがペリーと一戦を交えようなんてことは全然考えなかったのは、(もとより、アヘン戦争(1840~1842年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
の情報も得られていただろうが、)彼我の武器の差が分かり、戦ったらどれくらいの被害を殆ど一方的に日本側が蒙るかが想定できたからだ。
D:維新の争乱の最中に豊国神社再興の決定がなされ、大正に入ってから秀吉に正一位の贈位が行われ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
次いで信長にも正一位の贈位が行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
というのはまことに面白い。
O:維新の時に、家康の神号剥奪まで踏み込まなかったのは不徹底だった。
D:維新に「大功があった」徳川慶喜への配慮ではないか。
E:Windowsの検索機能を使って太田コラムに検索をかけてもなかなかうまくいかないが、太田さんはどうやっているのか。
O:太田コラムは秀丸エディターを使って書き、保存しているが、秀丸エディターの検索機能を使っている。
 動作条件を超えた分量になったものだから、二分割しているのだが、先般、合体させても、読むだけだったら、問題なくできることが分かったので、検索機能くらいなら使えるのだと思うが、惰性でいまだに検索をかける時は二分割したものを使っているため、検索の際には2度手間をかけている次第だ。
B:呉座勇一や亀田俊和の、フォロワー達等とのやり取りをその後も読むことがあるが、歴史学者にあるまじき態度であり、そのたびに眉を顰めている。
O:前にも言ったように、(一般向けの日本の歴史本を書いて小遣いを稼ぎつつ名前を売りたいなんて動機なら、それこそどうしょうもないが、)日本の歴史が大好きだ、とか、日本史に係る新しい説を唱えてみたい、程度のモチベーションじゃあダメなのであって、自分にとって何が何でも解明したい、日本史上の謎があって、その解明なくしては死ぬに死ねない、くらいの思いがあれば、まことにもって望ましいのだが・・。