太田述正コラム#12335(2021.10.19)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その21)>(2022.21.11公開)

 「『覇王の家』<(注42)において、>・・・司馬・・・遼太郎・・・は、家康は若い頃は律儀で初々しい自尊心と勇気を抱いていたが、晩年は徳川家の保全のみを考える謀略の王だったと述べている。

 (注42)「徳川家康を主人公とし、今川家で過ごした幼少期から、豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いまでを中心に・・・天下を取るまでを・・・描いている。『関ヶ原』や『城塞』といった司馬作品で描かれた関ヶ原の戦い、大坂の陣などは触れられていない。これらの作品とは異なり、小心で極めて慎重だが悪意を持たない人物として徳川家康が描かれている。・・・
 1970年1月から翌年9月にかけ「小説新潮」に連載された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%AE%B6

⇒私は・・私もと言うべきか・・随分司馬作品は読んだけれど、『覇王の家』は読んでいないのですが、家康の評価にあたっては、彼の旗印・・厭離穢土 欣求浄土・・の解釈がカギになるのではないか、と思っています。
 そして、現時点では、この旗印だけで、私は、信長、秀吉は天才で、光秀、三成は鈍才であったのに対し、家康は並才だった、と、取敢えずは考えている(コラム#12329)わけです。
 三鬼の『覇王の家』における家康の評価についての説明が正しいとして、私は、並才であった家康は、その生涯を通じて、並才なるが故に変えられなかったし、現に変らなかった、のではないか、と見たいところであり、司馬の家康評価には首肯し難いものがあります。
 なお、古くからの太田コラム読者は先刻ご承知でしょうが、私が、かねてより、司馬の、明治維新以降の日本史観に対して批判的であることを付け加えておきます。(太田)

 <ちなみに、>本書は、1973年に新潮社から刊行され<ている。>・・・
 ・・・1614<年>に始まる大坂の陣で、豊臣方の誘いに応じた大名は皆無であった。
 既にこの時点で、秀吉に取り立てられた子飼いの大名を含めて、すべての大名は幕府の支配に服していたのである。
 元和偃武<(注43)>から明治維新に至る2世紀半ほどの間・・・の時代の平和は、幕府を中心とする強固な組織に支えられたもので、常に臨戦態勢にあったことを見落としてはならない。

 (注43)「1615年・・・5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。
 同年7月、江戸幕府は朝廷に元号を慶長から元和と改めさせたことで、天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。
 偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」に由来し、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めることを指している。初出の使用時期は不明だが、江戸時代中期以降の儒者の創語だと推定されている。・・・
 戦国時代の終期にはいくつかの見解が存在するが、その一つが大坂の陣での豊臣氏の滅亡により、元和偃武によって戦国時代が終了したとの考え方である。
 支配体制や軍事史とは別に、文学史では、乱世を描いた「中世文学」の時代を、保元の乱に始まり、大坂城落城までとして元和偃武に終わる、との説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6

⇒「中世文学の時代」と、私の言う第一次弥生モードの時代が、概ね一致していますね。(太田)

 たとえば、大御所家康の命日に将軍が東照宮に詣でる「日光社参」<(注44)>は、完全武装した大軍を率いて行われた。

 (注44)「日光社参<は、>江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%85%89%E7%A4%BE%E5%8F%82-592231
 「<将軍の>日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば、安永5年(1776年)の将軍・家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた。
 これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E7%A4%BE%E5%8F%82

⇒「注44」で引用した、標準的な2典拠には、(このシリーズでは初出ではないところの)「完全武装した大軍」的な話は登場しません。
 断定は避けたいと思いますが、そうであったのは、この日光社参を65年ぶりに復活し、「譜代大名と旗本らで約13万3,000人。・・・「人足」が約22万8,000人。合計36万人。<そして、>・・・32万6,000頭の馬」で行われたところの、8代将軍吉宗によるもの
https://intojapanwaraku.com/culture/118296/
だけだったのではないでしょうか。
 これには、(私は吉宗を隠れ日蓮主義者であったと見ている(コラム#12170)ところ、)文官化しつつあった徳川方の大名達や幕臣達の弥生性を覚醒させる狙いがあった、と、私は見ています。(太田)

 また、改易処分を受けた大名が居城を幕府に引き渡すとき、大名は城を出て菩提寺などに入って恭順の意を示すのが一般的であるが、城を受け取る幕府側の使節は、戦闘になることを想定し軍備を整えて臨んだのである。」(196、198、200)

⇒これについては、自信は全くありませんが、「藩によっては改易に納得せずに領地の明け渡しを拒むケースもあったため、収城使は兵を率いて城へ向かうことが多かったようです。」
https://shirobito.jp/article/957
という典拠なしの文章に遭遇したので、「軍備を整えて臨んだ」ケースが全てではなかった可能性があります。(太田)

(続く)