太田述正コラム#12349(2021.10.26)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その4)>(2022.1.18公開)

 「・・・気になるのが、戦国大名や織豊大名の研究者が、藩誕生の歴史的意義をほとんど認識していないことだ。
 戦国大名の領国支配は、自力救済原理と当事者主義が貫徹していた。
 それを自己否定して織豊大名が誕生したことまでは、共通認識になっている。
 しかし、織豊大名領国から藩誕生のメカニズムについては、まったくといってよいほど研究がない。
 にもかかわらず、戦国大名領国制から藩誕生までを連続的に展望しているのである。・・・

⇒惜しいなあ藤田さん、あと一声・・いや二声かな。
 ヤマト王権誕生から現在まで、日本の歴史を動かしてきた「メカニズムについて・・・、まったくといってよいほど研究がない」ことこそが、日本史学界の根源的にして最大の問題なんですがねえ。(太田)

 小著において、藩とは関ヶ原の戦いの後に京都に近い徳川方の最前線に、国替のうえで配置された大大名家、具体的には譜代幕閣である井伊直孝<(注7)>の彦根藩(30万石)や、外様ながら家康側近である藤堂高虎<(注8)>の藤堂藩(32万石)から始まるとの仮説に立っている。」(vii)

 (注7)1590~1659年。「直孝の生母とされる印具道重の娘・養賢院(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは・・・<死去一年前の>1601年・・・であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。・・・
 1614年・・・からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された。大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任せられたが、同じ赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを敵の策にはまってしまい信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出す大被害を生じさせた(真田丸の戦い)。後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が「味方を奮い立たせた」と庇ったため処罰はされなかった。
 井伊家では直政の死後、家督を兄・直勝が継いでいたが、直勝は家臣団をまとめ切れず、それを憂慮した家康の裁定によって・・・1615年・・・、直孝は井伊家の家督を継ぐよう命じられ父の遺領18万石の内、彦根藩15万石を継承し、直勝には上野安中藩3万石が分知された。井伊家の家臣団は井伊谷以来の家臣は直勝に、甲斐武田氏の遺臣などは直孝に配属された。
 同年の大坂夏の陣においては藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将・木村重成と長宗我部盛親を打ち破り(八尾・若江の戦い)、冬の陣での雪辱を遂げた。また秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し発砲して自害に追い込むという大任を遂げた。・・・
 1632年・・・、秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の後見役に任じた(大政参与)。これが大老職のはじまりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。徳川家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷にお迎えした。これらと家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として彦根藩井伊家固有の御用となった。朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担うなど、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。
 清に滅ぼされた南明政権の鄭芝龍の救援出兵要請を受けるかどうか幕府内で話し合った際は、その頃大量に発生していた浪人を送り込んで出兵すべきと主張した家光や徳川頼宣に対し、豊臣秀吉の朝鮮出兵を引き合いに出して強く反対し、出兵しないことに決まった。その後、鄭芝龍の息子・鄭成功からも出兵要請が幕府にあったが、棚上げにされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%AD%9D

⇒直孝の父直政の菩提寺はその遺言により1602年に創建された彦根の曹洞宗の長松院で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%BE%E9%99%A2_(%E5%BD%A6%E6%A0%B9%E5%B8%82)
直孝本人の菩提寺は、1584年に臨済宗から曹洞宗に転じていた江戸の豪徳寺であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%BE%B3%E5%AF%BA
井伊家は日蓮主義とは無縁だったように思えます。
 家光については、機会があれば、改めて取り上げたいですが、「家光は全て重臣任せであった」とする海音寺潮五郎説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
に取敢えず従うことにすることとし、鄭芝龍支援出兵を日蓮主義者である頼宣に乗せられて家光もそれを主張したけれど、定見がないので、非日蓮主義者の井伊直孝の反対を押し切ることができなかったのでしょう。(太田)

(続く)