太田述正コラム#1476(2006.10.29)
<渡辺京二「江戸という幻景」を読んで>

1 始めに

 日本の江戸時代の先進性については、マクファーレンも瞠目していたわけですが、渡辺京二「江戸という幻景」(弦書房2004年6月)を読んで、改めてその思いを新たにしました。
 この本に出てくる、当時の先進的な日本の姿をご紹介しましょう。部分的に私の言葉に直してあります。
 なお、私は、「江戸時代の生の空間と人びとの存在洋式<は>近代のそれとまったく異質であり、二度と引き返せない滅び去った世界である」(12頁)という渡辺の見解には必ずしも同意できない、ということを最初にお断りしておきます。

2 渡辺の指摘

 幕末に日本を訪れた外国人は、当時の日本人、とくに農民の生活を豊かで幸せなものと感じたし、日本民衆が東洋的専制の下で奴隷的に隷従しているどころか、驚くべき自由を享受していると記したものだ(8頁)。
 当時の文明は、社会生活の和合のため各人に自己抑制を要請すると同時に、真率で飾りのない、しかも無邪気で人なつこい感情の披露を尊ぶ文明でもあった(24頁)。
 当時の人々は、ことに触れて赤児のような純真きわまりない感情を流露する人々だった(44頁)。
 当時の文明は、情愛を基本的な気分とするものだった。乞食に情をそそぎ、精神薄弱者にも生きる空間を与えた(54頁)。旅人の中に病人や事情のありそうな者がいると、必ず誰かが面倒を見た(52??53頁)。この情愛は、牛馬・鶏から犬・猫のたぐいに至るまで及ぼされた(46頁)。
 外国人は、当時の日本人の宗教心の薄さと、特に武士階級の「無神論」に注目した(59頁)。迷信も軽侮されていた(76頁)。
 幕末の人々は、死をいたって気軽なものとみなし、時には冗談の種にさえした(81頁)。ただし、中世のように死と生を徹底して見据える視線は消失した。江戸の面白さは徹底を回避して、とことんはぐらかすところに生まれる(86頁)。
 当時の人々にとって、仕事は決して労役ではなく、生命活動そのものだった。そして、家は、おのれの生命活動たる仕事を、天の意志として定位するためのシステムだった(100頁)。また、結婚の第一義的な意味は、家を受け継いで手落ちなく経営してゆく上での協力者の採用というところにあった(102頁)。
 武士の場合は、奉公の主眼は武・・銃刀及び膂力を使って敵を殺害すること・・にあるという覚悟を、たとえ財務・行政・司法畑を歩んだ吏僚であっても忘れなかった(114頁)。
 遊女の身が悲惨とは誰も全く思わなかった(153頁)。
 夫が一方的に妻を離縁して追い出すことはできず、訴訟に訴えなければならなかったし、妻の飛び出し離婚も少なくなかった(105頁)。
 恋は未婚の男女間、もしくは婚姻外の出来事だった。外国人はびっくりしたものだが、夫婦間に恋愛感情が持続するというのは当時の人々にとって想像外のことだった(108頁)。
 武家の主従は、それほど窮屈で隷属的な関係ではなかった(195??196頁)。将軍と老中の間すら決して隷従的なものではなかった(209頁)。武士と庶人の間もそれほど階級的にかけ隔たったものではなかった(198頁)。家の永続と反映を主とする考えから、跡継ぎを血のつながりによってよりも、当人の才器によって選ぶという習慣が、武家・商家・農家とを問わず、多くの庶人の子の社会的上昇をもたらしていた(203頁)。更に幕末になると、多くの庶人が士分に登用されたし、庶人の子が学者となり幕府に召されたのはずっと以前からだ(203頁)。武士が藩籍を離脱するのもかなり自由だった(204頁)。
 一揆が起こったのは、領主とは領民を育み慈しむものだとする理念に、領主ないし藩政がそむいたと判断された時に事態を是正するためだった(204頁)。幕府は、強訴・逃散は禁じたが、越訴は事実上認めていたし、罰されても軽罪だった(243頁)。強訴・逃散についても、処罰は重い場合も軽い場合もあり、全く処罰されないこともあった(243??244頁)。
 藩主は家臣団の意向に制約されていて、それと対立すれば幽閉されることがあったことを笠谷和比古氏が明らかにした(215頁)。
 文政年間に、ある外国人は、日本の裁判は厳しいが、社会のあらゆる階級に対して平等であって、最も厳格なる清潔さと公平さをもって行われていると推量されると記し、また、安永年間に、別の外国人は、日本のように法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない、と記している(219頁)。 幕府の役人は天下を預かる重責を自覚して身をただし、庶人の師表でなければならぬという建前であったから、役人の庶人に対する乱暴や職権濫用には裁判でぬかりなく制裁が科された(225頁)。幕府の裁判は民衆の間に多くの信頼と「御威光」とを有していた(232頁)。幕府で実際に裁判を担ったのは、評定所留役勘定組頭を長とする評定所留役達だったが、彼らは清潔で賄賂をとるようなことは一切無かった(240頁)。

3 コメント

 さあ、どれくらいご存じでしたか?
 書かれたものとしては、読んだことがある話も初めての話もあるけれど、何のことはない、映画やTVで見る時代劇の世界そのままじゃないですか、という声が聞こえてきますね。
 そこなのですよ。
 冒頭に渡辺さんの見解には必ずしも同意できない、と申し上げたのは・・。
 時代劇の世界にわれわれが何の違和感もなく入っていけるのは、江戸時代が、まさに日本の現在にも生き続けているからであり、江戸時代が、ある意味では、現在の日本人にとって理想の社会でもあるからだ、と私は思うのです。