太田述正コラム#12365(2021.11.3)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その12)>(2022.1.26公開)

 「・・・大和の場合は・・・<1580>年11月7日に筒井氏が一国を領知するようにとの朱印状を信長から得る。
 そのうえで、同月11日に信長の上使から郡山城<(注18)>を渡されている・・・。

 (注18)「郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり複雑な動きを繰り返してきたが、1559年・・・松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して筒井氏から離反していく。
 筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、・・・1570年・・・3月から・・・1571年・・・8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。
 その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、・・・1580年・・・11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
 その少し前、・・・1579年・・・8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し・・・1583年・・・4月に「天守」が完成 する・・・。織田信長は・・・1580年・・・8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。・・・。1581年・・・から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も1584年・・・に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。
 1585年・・・豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだ<。>・・・
 1591年・・・豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も1595年・・・に死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。
 五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。・・・関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物は徳川家により伏見城に移築された。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD)
 ちなみに、大和国の国府は、13世紀からは、平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD
ことから、旧国府の近傍に建てられた城だったことになる。

 <一見、>・・・中世的な本領や当知行の安堵のようにもみえるが、一国規模の仕置を通じて、天下人信長によって国主大名以下に対して領知権が預けられたことが重要なのだ。
 あわせて、信長が知行高を石高とし、それを軍役に結びつけたことが画期的だった。
 城割と検地によって、大和一国は明確に織田領になったのであり、筒井氏は信長から正式に国主大名として領地・領民・城郭を預けられたのである。
 このようにして、近世知行制度が導入されたのだった。
 管見の限り、朱印状で国主大名に一国を宛行うのは<1580>年の筒井・明智・細川が初見である。
 その後の事例としては、<1581>年4月19日付で信長が丹羽長秀与力の溝口秀勝<(注19)>に領知宛行状・・・で若狭国人逸見昌経(へんみまさつね)の遺領を宛行い若狭高浜城主としている・・・。・・・

 (注19)1548~1610年。「幼少時より丹羽長秀に仕えたが、・・・1581年・・・に織田信長から・・・、直臣として若狭国大飯郡高浜城(現福井県大飯郡高浜町)5,000石を与えられた。
 ・・・1582年・・・、本能寺の変で信長が横死した後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属した。・・・1583年・・・、賤ヶ岳の戦い後、越前国北ノ庄城に入封した丹羽長秀の与力として、加賀国江沼郡大聖寺城(現石川県加賀市大聖寺町)4万4000石を与えられた。
 ・・・1585年・・・4月、長秀が死去し、その長男・長重が家督を継いで北ノ庄城主となるが、閏8月、若狭に転封となり、代わって北ノ庄城に入封した堀秀政の与力として引き続き配属された(この時、秀吉より朱印状を与えられ、独立した大名となったといえる)。
 <1586>年11月14日・・・、秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名し、豊臣姓を授与された。朝鮮派兵の際は、肥前国名護屋城を守備した。・・・1598年・・・、越後蒲原郡新発田城(現新潟県新発田市)6万石を与えられた。
 ・・・1600年・・・、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝が煽動する上杉遺民一揆の鎮圧に努めた。戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D

⇒溝口秀勝は、後に大名になったとはいえ、当時は、わずか5,000石の信長直臣になったに過ぎなかったのですから、「一国規模の仕置」の話の中に、この話が突然出現すると頭が混乱してしまいます。
 強いて言えば、「国司の権限が大幅に強化され、受領化するとともに、郡司の権限は大幅に縮小され、全国的に郡衙が衰退<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E8%A1%99
前の、郡司への任命と郡家(上掲)の提供の復活、といったところでしょうか。(太田)

 検地が十分には展開していないこの段階では、秀吉の段階のような領知宛行状と知行目録がセットで発給されるまでには至らなかったが、その方向性は確実に認められる。」(35~36)

⇒「一国規模の仕置」の話に関しては、かつての「令制国の・・・国府に<は、>明確な外郭線が存在<せず>、都市域は付け足し程度で官衙域を包み込むほどの広がりを持たない<が、>・・・計画的な道路の敷設は認められ<、>・・・国司館は、守館、介館など、国司の為に用意された公邸であ<ったところ、>元々<は>国司は国庁で政務を執ったが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BA%9C
という次第であったところ、この公邸たる国司館が、公邸たる城郭で置き換わっただけのことでしょう。(太田)

(続く)