太田述正コラム#12391(2021.11.16)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その1)>(2022.2.8公開)

1 反革命宣言(1969年)

 「・・・なぜわれわれは共産主義に反対するか?
 第一にそれは、われわれの国体、すなわち文化・歴史・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇は、われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。・・・

⇒私見では、共産主義の目指す社会、すなわち、農業革命以降の社会における原始共産主義的社会(狩猟採集時代の社会的な社会)に(遅くともヤマト王権時代以降の)日本社会は最初から近似していて、時代を経るに従って更に近似してきて現在に至っている・・これまでこういう言い方をしたことはない・・のですから、両者を二律背反的に対置する三島は間違っています。(太田)

 言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものをもっていない。

⇒議会主義的民主主義がイギリス流議院内閣制と米国流大統領制を包含した上位概念だとして、確かにそれは複数政党制を伴っていますが、それは、国内における階級・階層的分断ないし地域的分断を反映しているところ、原始共産主義社会にそんな分断があったとは考えられず、原始共産主義社会的な戦後日本においても欧米的な複数政党制・・実質的な複数政党制・・は成り立ち得ない、というのが私の見方であることはご承知であると思います。(太田)

 われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出す・・・

⇒私の考える天皇(天皇制)は、そんな受動的な存在ではなかったですよね。(太田)

2 文化防衛論(1968年)

 昭和元禄などというけれども、文化的成果については甚だ心もとない元禄時代である。
 近松も西鶴も芭蕉も<おらず、>華美な風俗だけが跋扈している。・・・

⇒三島は、「共産主義」についても、マルクス主義とスターリン主義がごっちゃになっている印象でしたが、定義をしていないからそんなことになるのです。
 ここでも、三島は、「文化」を定義していません。
 ここで彼が挙げる例からすると、「文学」が代表するところの営み、なのかなあ、という誤った印象を与え、それを「防衛」すると言うけれど、「文学」的なものを「防衛」するとはこれいかに、と、私のような読者を困らせます。(太田)

 日本文化とは何かという問題に対しては、終戦後は外務官僚や文化官僚の手によってまことに的確な答えが与えられた。
 それは選良政策に従って、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだった。
 平和愛好国民の、華道や茶道の心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢えてする建築文化は日本文化を代表するものになった。
 そこには次のような、文化の水利政策がとられていた。
 すなわち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだった。
 すなわち「菊と刀」の連環を絶ち切って、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧することだった。

⇒「菊」と「刀」は少なくとも表見的には相互に異質なもののはずであり、ベネディクトの「菊と刀」の「菊」と「刀」もそうだったと思うのですが、三島は、和事と荒事の両性具有の「菊」の「荒事」の側面を「刀」としているように私には読めます。
 「菊」と「刀」の定義をしなかった三島の責任ですが、なまじ、「菊と刀」のことを知っている者ほど、三島が何を言っているのか、何を言いたいのか、分かりにくくなってしまっています。(太田)

 占領政策初期にとられた歌舞伎の復讐のドラマの禁止や、チャンバラ映画の禁止は、この政策のもっともプリミティヴな、直接的なあらわれである。
 そのうちに占領政策はこれほどプリミティヴなものではなくなった。
 禁止は解かれ、文化は尊重されたのである。
 それは種々の政治的社会的変革の成功と時期を一にしており、文化の源泉へ退行する傾向は絶たれたと考えられたからである。

⇒三島は、今度は、「刀」を「菊」の源泉、としているようにも読めます。(太田)

 文化主義はこのときにはじまった。
 すなわち、何ものも有害でありえなくなったのである。
 それは文化を主として作品としてものとして鑑賞するような寛大な享受者の芸術至上主義である。
 そこにはもちろん、政治思想の趣味的な関与ははばまれていない。
 文化は、ものとして、安全に管理され、「人類共有の文化財」となるべき方向へ平和的に推進された。」(10~11、24、27~28)

⇒何を言っているのか、さっぱり分かりません。(太田)

(続く)