太田述正コラム#12393(2021.11.17)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その2)>(2022.2.9公開)

 「・・・私は・・・ごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによって世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦時中の一億玉砕<(注1)>思想に直結することに興味を抱いた。

 (注1)「太平洋戦争における日本軍のスローガンの一つ。本土決戦にあたっては国民すべて玉砕の覚悟で臨め、といった・・・。・・・
 玉砕は、玉のように美しく砕け散ること、指導層が提唱する大義、名誉などに殉じて潔く死ぬこと。太平洋戦争における日本軍部隊の全滅を表現する言葉として大本営発表で用いられた。対義語は、瓦全(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為に生き永らえること。<支那>の古書「元景安伝」の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(勇士は瓦として無事に生き延びるより、むしろ玉となって砕けた方がいい)」を語源とする。」
https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%8E%89%E7%A0%95
 「「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%A0%95

 一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、という思想である。

⇒三島は、単に「瓦全」の反対語である「玉砕」を「積極的「全滅」」という意味へと(一部大本命発表と同様に)矮小化する一方で、戦後思想が概ね「生き永らえる」ことを至上命題とする「瓦全」の思想だというのに、「消極的「全滅」」に意義を見出すところの、戦後思想中の絶対少数の思想、だけを摘出して、「積極的「全滅」」という意味での「玉砕」とを比較しています。
 これは、一種の詭弁です。(太田)

 戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のように、戦後思想へ伝承されている。

⇒私見では、「戦時中の現象」というより「戦前の現象」ですが、それは私の言う縄文モードなのであって、(帝国陸軍が新兵教育に苦労したように)「瓦全」の思想はその一つの表れであり、その思想は、陽画のまま「戦後思想へ伝承されている」のです(コラム#省略)。(太田)

 このような逆文化主義は、・・・戦後の文化主義と表裏一体であり、文化というもののパラドックスを交互に証明しているのである。

⇒三島が、この文脈の中で「文化」を持ち出すことに、私は違和感があります。(太田)

 そもそも世界文化や人類の文化という発想の抽象性はかなり疑わしい。
 殊に日本のような特殊な国柄と歴史と地理的位置と風土を持つ国においては、文化における国民的特色の把握が重要である。

⇒三島は、彼が日本文明ではなく日本文化という言葉しか使っていないところからも、日本文明の中に普遍的なものを見出していないようですね。
 御承知のように、私は、(私の言う)弥生性は農業革命以降の世界の(インダス文明や日本文明等を除く)諸文明において普遍的なもの、そして、(私の言う)縄文性は農業革命より前の世界の諸社会とかつて存在したインダス文明等、と、日本文明が備える、かつての普遍的なもの、と考えているところ、(私の言う)縄文的弥生性は、弥生性が普遍的なものとなったところの、農業革命以降の世界の中で、かつての普遍的なものである縄文性を維持するための必要悪として、日本文明が意識的に自らのうちに創出したユニークなもの、とも考えているわけです。(太田)

 ・・・文化は・・・一つの形(フォルム)であり、・・・源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する<のが、>・・・日本的な・・・フォルム<であり、>・・・日本文化<なのだ。>

⇒三島が、「菊」と「刀」を、相互に異質なものと考えていなことは明らかですね。
 もとより、「刀」は私見では縄文的弥生性であって、弥生性とは一味も二味も違うわけですから、その限りにおいては、「刀」は「菊」と全面的に異質ではないことは確かですが・・。(太田)

 文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である。」(32~33)

⇒なるほど、三島は、商売柄でしょうか、文学ないし言語、を、特別視、優位視している、ということのようです。
 それに対して、私は、日本文明の日本文明たるゆえんはその縄文性にあると考えているところ、その核心たる(私の言う)人間(じんかん)主義は、文学とか言語よりもはるかに根源的な人間存在のあり方に根ざすものなのであって、言うなれば、言語を生み出すより前の現代人類や、言語を習得するより前の赤子、にも備わっているものであると見ており、三島の言語観、文学観、ひいては日本文明(日本文化)観、に私が強い違和感を覚えるのは、この点に由来している、と言えそうです。(太田)

(続く)