太田述正コラム#12395(2021.11.18)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その3)>(2022.2.10公開)

 「日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。
 日本文化は、行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統を持っている。
 武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあいだ生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属していることは日本の特色である。

⇒三島は、「行動様式」で「型」のことを言っていることがすぐ後のくだりから分かりますが、「型」について、ほぼ同じことが、Kataの英仏語ウィキペディアに書かれています。↓
英:Kata are also used in many traditional Japanese arts such as theatre forms like kabuki and schools of tea ceremony (chadō), but are most commonly known in the martial arts. Kata are used by most Japanese and Okinawan martial arts, such as iaido, judo, kendo, kenpo, and karate.
https://en.wikipedia.org/wiki/Kata
仏:Les katas se retrouvent dans différents arts martiaux japonais comme le judo, le karaté, le kendo ou encore l’aïkido (qui ne s’enseigne quasiment que sous la forme de katas, que ce soit à mains nues ou aux armes), et au théâtre dans le nô, le kabuki ou encore le bunraku.
https://fr.wikipedia.org/wiki/Kata
 しかし、仏語ウィキペディアとは違って、英語ウィキペディアでは、支那、朝鮮、インド、東南アジア、の諸武道においても、日本の武道の型に相当するもの(言葉)があるとしている上に、欧州古武道においても型的なものがある・・In the Historical European martial arts and their modern reconstructions, there are forms, plays, drills and flourishes.[citation needed]・・とさえしているのは示唆的です。
 英語ウィキペディアの最後のくだりについては、典拠レスの可能性があるけれども、武道における型に相当するものは、少なくとも東アジアと南アジアにはどこでもある(あった)ようである以上、日本の特色は、正しくは、三島が言うように、「マーシャル・アート」(武道)が芸術と同様のジャンルに属している点にではなく、芸術が武道と同様のジャンルに属している点にある、と言わなければなりますまい。(太田)

 武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。
 能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、伝承のための手がかりをはじめから用意しているが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺激するフォルムなのである。
 フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色<なの>であ<る。>・・・」(34)

⇒今、気付いたのですが、私の、縄文的弥生性って武士道の属性だったんですね。
 茶道については以前にも、その武士との関係等を説明しています(コラム#省略)が、その淵源が、鎌倉時代の臨済宗の栄西にあることはよく知られています。
 次に華道ですが、その確立は「室町時代中期、京都六角堂の僧侶によるものとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%81%93
ところ、六角堂は頂法寺の通称であって、この寺は「天台宗系単立の寺院」です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA
が、室町幕府外様衆であった鞍智高春
https://www.google.co.jp/search?q=%E9%9E%8D%E6%99%BA%E9%AB%98%E6%98%A5&ie=UTF-8&oe=
に招かれて、1642年に京都頂法寺(六角堂)池坊の僧侶であった池坊専慶が「金瓶に草花数十枝を挿し、洛中の好事家が競って見物した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%9D%8A%E5%B0%82%E6%85%B6
というのが、華道の現存最古の記録であることが示しているように、武士の需要に応えたものである点が茶道と同じです。
 また、能(猿楽)については、「1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満<が>、・・・観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞し<て>彼らの芸に感銘を受け<、>観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護し<、>これがのち<に>観世座<になるのだが、>こ<うして>、彼ら<が>足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れ・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E6%A5%BD
結果、成立したものです。
 更に、歌舞伎については、「室町時代には、足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収して<おり、>1528年・・・には傾城局が設置され、遊女は室町幕府が定めた制度のもとに営業するようになっ<ていたが、>・・・豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得<るに至り、この>・・・1589年・・・に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%BB%93
ところ、「<いわゆる>出雲阿国<が>・・・1603年<から>・・・演じていた・・・かぶき踊り・・・は<、遊郭での>茶屋遊びを描いたエロティックなものであ<って、>・・・京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあ<り、>・・・1607年<に>・・・、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、<阿国の>消息<は>途絶えた<が、>・・・このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の歌舞伎が出来上がったとされ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD
ており、遊郭そのものが、私見では、地方に本拠があって京や江戸に「単身赴任」する機会が多かった、武士、の需要に応えるものとして始まったのであって、その遊郭を「舞台」に誕生した歌舞伎もまた、その草創期は武士の需要に応えるものであった、と言えそうです。
 私見では、武士は、天皇家によって縄文性を失わない弥生人、として創造されたものであって、「縄文性を失わない」手段を仏教等を手掛かりにして追求することも天皇家から武士(や仏僧)に与えられた課題であったことはご承知の通りです。

(続く)