太田述正コラム#12397(2021.11.19)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その4)>(2022.2.11公開)

 地理的意味での欧州にも騎士道(chivalry)があったわけですが、
 Chivalry and religion were mutually influenced during the period of the Crusades. The early Crusades helped to clarify the moral code of chivalry as it related to religion. As a result, Christian armies began to devote their efforts to sacred purposes. As time passed, clergy instituted religious vows which required knights to use their weapons chiefly for the protection of the weak and defenseless, especially women and orphans, and of churches.
https://en.wikipedia.org/wiki/Knight
からも分かるように、騎士道の倫理は外から与えられたキリスト教の倫理であったところ、武士道の倫理は内にある人間主義であった、という違いが決定的です。
 つまり、「菊と刀」をもじって言えば、ベネディクトの指摘はあべこべだったのであって、騎士道は他律的な「恥」の倫理であるのに対し、武士道の方こそ自律的な「罪」の倫理なのです。
 すなわち、倫理にもとる言動を自分が行ったかどうかを、騎士は気にして、キリスト教教義に照らして・・聖書を読むなり神父に聞くなりして・・判断した上で、自分の言動を正したりするのに対して、武士は、自分自身の内にある人間主義を再活性化することに配意することによって、そんなことを気にしない済む、と、信じていたのです。
 私見では、聖徳太子は、将来創り出されるところの武士(縄文的弥生人)の場合、折に触れての神社の参拝だけでは、(縄文人とは違って、)内なる人間主義を再活性化するには不十分であると考え、仏教の中にその方法論ないし手がかりを探らせたのであり、かかる問題意識を踏まえて、(支那仏教にはその方法論が欠如していたけれど、)栄西から始まる仏僧を中心とした様々な日本人達が、神社での参拝・・自然の中で定められた手順(型!)で行う・・を日常生活の中に取り込む・・日常生活の中に自然と型を組み込む・・工夫を重ねたおかげで、武士道が成立するに至ったのです。
 そして、発想の原点が神道であったことから、武士道において武道の型が重視されることになったのですし、茶道は身を清める型として、華道は自然の中の華のアナロジーとして、書院造は里山付神社のミニチュア版として、能や歌舞伎は参拝(祝詞)の歌舞音曲化版として、それぞれ、武士のために生まれることになった、というわけです。(太田)
 
 「第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持た<ない。>

⇒まさか。(太田)

 西欧ではものとしての文化は主として石で作られているが、日本のそれは木で作られている。
 オリジナルの破壊は二度とよみがえらぬ最終的破壊であり、ものとしての文化はここに廃絶する<のだ。>・・・
 <日本で、>ものとしての文化への固執が比較的稀薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色的であるのは、こうした材質の関係も一つの理由であろう。
 そこではオリジナルの廃滅が絶対的廃滅でないばかりか、オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じないのである。

⇒ここ、典拠レスの思い付き、こじつけに過ぎません。(太田)

 このもっとも端的な例を伊勢神宮の・・・式年造営<(注2)>・・・に見ることができる。・・・

 (注2)神宮式年遷宮。「原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の2つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、714種1576点の御装束神宝(装束や須賀利御太刀等の神宝)、宇治橋なども造り替えられる。
 記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇の治世の690年・・・に第1回が行われた。・・・
 式年遷宮を行うのは、萱葺屋根の掘立柱建物で正殿等が造られているためである。塗装していない白木を地面に突き刺した掘立柱は、風雨に晒されると礎石の上にある柱と比べて老朽化し易く、耐用年数が短い。そのため、一定期間後に従前の殿舎と寸分違わぬ弥生建築の殿舎が築かれる。
 漆を木の塗装に用いるのは縄文時代から見られ、式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀頃には、既に礎石を用いる建築技術も確立されていた。現に、この時代に創建(または再建)された法隆寺の堂宇は、世界最古の木造建築としての姿を今に伝えている。
 定期的に膨大な国費を投じることとなる式年遷宮を行う途を選んだ理由は、神宮にも記録がないため不明である。
 また、式年遷宮が20年ごとに行われる理由についても、同じく確たる記録はないため不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

⇒「注2」を読めば、神宮式年遷宮が、三島の主張の「もっとも端的な例」などとは到底言えないのは明らかでしょう。(太田)

 歌道における「本歌取り」<(注3)>の法則その他、この種の基本的文化概念は今日なおわれわれの心の深所を占めている。」(34~35)

 (注3)「歌学における和歌の作成技法の1つで、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。・・・
 六条藤家の藤原清輔はこれを「盗古歌」(こかをとる)ものとして批判的に評価した。これに対して御子左家の藤原俊成はこれを表現技法として評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%AD%8C%E5%8F%96

⇒ここも、典拠レスの思い付きにほかなりません。↓
 「バロック音楽の時代の作曲家たちは、今と違って、先輩或いは師匠の作曲家に”敬意を表して同じメロディーを使って別形式の作品を発表している”のが殆んどです。(これをアレンジメントといいます)」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13142752223 (太田)

(続く)