太田述正コラム#12464(2021.12.12)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その5)>(2022.3.16公開)

 「・・・1846<年>、ビッドル<(注11)>率いる米国艦隊が浦賀に来航し、通商を要求した。

 (注11)ビドル(James Biddle。1783~1848年)。米フィラデルフィア生まれでフィラデルフィア大卒、1800年、水兵として米海軍に入り、第一次バーバリ戦争
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E6%88%A6%E4%BA%89 >
、米英戦争、及び、英国とのオレゴン境界紛争
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%B3%E5%A2%83%E7%95%8C%E7%B4%9B%E4%BA%89 >
に参加。
 1830年、オスマントルコとの条約を米外交官達と締結。
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Biddle
 「1845年12月<(本来の西暦の日付。以下同じ)>、ビドルは米国が清と結んだ最初の条約である望厦条約 の批准書の交換を広<州>郊外の泮塘で行った。
 ビドルは、ジョン・カルフーン国務長官から清滞在中のケイレブ・クッシング公使に対する、日本との外交折衝を開始する旨の指令書を持っていた。しかし、クッシングはすでに帰国した後だった。また、彼の後任であるアレクサンダー・エバレット(Alexander H. Everett)は、日本への航海に耐えうる健康状態では無かった。このため、ビドルは自身で日本との交渉を行うことを決意した。
 1846年7月7日、ビドルは戦列艦・コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、日本に向かってマカオを出港し、7月19日・・・に浦賀に入港した<が、結局、>・・・交渉を中止し、7月29日・・・、両艦は浦賀を出港した。
 なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていた。・・・
 ビドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリのバルパライソに到着した。米墨戦争の勃発に伴い、・・・太平洋艦隊と合流し、先任であったビドルは太平洋艦隊の司令官となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%AB

 このとき朝廷より幕府に対して、一層海防を堅固にし、「神州[日本]に「瑕瑾」が生じないように指揮し、「宸襟[天皇の心]」を安心させよと命じる御沙汰書が下された・・・。
 明らかに幕政に容喙しているこの御沙汰書は、実萬が発議し、鷹司関白<(注12)>に諮って立案したとされる・・・。

 (注12)鷹司政通(1789~1868年)。「東山天皇の男系四世子孫。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は[水戸藩第7代藩主の]徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。・・・
 1823年)に関白に就任、・・・1842年・・・には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して・・・1856年・・・に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。
 ・・・1846年)に仁孝天皇が急逝した際には、喪を秘して政通を准摂政として事態の収拾を図った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。・・・1856年・・・12月9日には関白辞任後に内覧に留まった慣例より太閤の称号を孝明天皇から贈られる。義弟の水戸藩[第9代藩]主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。
 当初は開国論に立っており、ペリー来航に際しては「米国国書の内容は穏当で仁愛に満ちている」「往古には外国と国交を持っていた」「貿易は長崎のみで行えばよい」「惰弱な武士では外国との戦争は無理であろう」という見解を示していた。一方で開国の是非を決めかねている幕府に対しては「朝廷は通商を許可しろとか、あるいは撃ち払えなどと指図はしないが、人心が動揺しないようにしてもらいたい」と申し入れている。幕府が日米修好通商条約への事前勅許を求めてきた際には勅許を与えることを主張したが、・・・1858年・・・1月になると孝明天皇は条約への強い反対を表明する。同年2月22日の朝議で政通は孝明天皇に向かい「幕府と対立すれば承久の乱のような事態を招きかねない」と諫言するが聞き入れられず、2月27日には内覧辞退の意向を上奏する。孝明天皇はなおも意志を曲げず、翌日には辞退受理の意向を示し、3月4日には九条関白が以降は太閤と相談せずに天皇のみの意向を伺うことになった。政通の正式な内覧辞退は幕府との調整により7月27日まで延ばされたが、2月末の時点で政通の内覧は有名無実となっていた。こののち、廷臣八十八卿列参事件の前後に政通は一転して攘夷派となるが、これが安政の大獄において幕府から咎められ、落飾・隠居・慎の処分を受けて出家した。・・・
 妹<を>・・・養子<にして、>・・・第13代将軍徳川家定<の正>室<に送り込んでいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80 ([]内)
 家定の継室は一条秀子、その更に継室が近衛敬子(天璋院)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A

⇒次のオフ会「講演」原稿で検証しますが、江戸時代に入ってから、近衛家の血筋に再び戻った以降の鷹司家は、皇別摂家となってからも、近衛家の別動隊であり続けた、というのが、私の仮説であるところ、政通は、近衛家の意向も汲んで、正室を水戸徳川家から迎えたり、既に、『大日本史』史観が公定日本史史観になっていたことを踏まえ、天皇が日本の権力の基本を行使する体制、つまりは、天皇が最高権力者である体制、への移行(復帰)を孝明天皇の下で開始したり、したということではないでしょうか。(太田)
 
 これに対して、筆頭老中阿部正弘は、朝廷を抑圧するようなことはせず、幕府はその後、外事に関しては、そのつど朝廷に奏聞することとなった。
 奏聞とは、天皇に文書や口頭にて申し上げることをいう。」(18)

⇒これは、たまたま正弘が、ということではなく、徳川幕府も、『大日本史』史観を朝廷と共有するに至っていたからだ、と解してよいのではなでいしょうか。
 そんなクリティカルな時期に、最高権力者たる天皇が、不適切な権力行使を始めたところ、それに対して、一体どうしたらよいのか、という、深刻な問題が出来したわけです。(太田)

(続く)