太田述正コラム#12472(2021.12.26)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その9)>(2022.3.20公開)

「これをうけ、勅許の奏請に向けた幕府の対朝廷工作が開始されるわけだが、その過程は、・・・13代将軍徳川家定の後嗣問題と絡み合いながら展開した。・・・
一橋派の工作は朝廷にも及んでおり、島津家の縁家である近衛忠煕や<三条>実萬が、慶喜擁立のため動くなど効果をあげていた。
一方、南紀派は、井伊の謀臣長野主膳<(注18)>が朝廷工作のため入京したところ、一橋派の工作が意外に浸透していることに驚き、鷹司に代わって関白に就任した九条尚忠<(注19)>(ひさただ)の抱き込みに集中する。

(注18)1815~1862年。「出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。・・・
1841年<以降、>・・・伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居<し、>ここで国史、和歌などを教授した。・・・経緯は明らかではないが、・・・1842年・・・11月20日に門人と彦根に出て、夜に井伊直弼を訪ね朝方に帰り、これが3日続いてようやく去った。直弼は主膳に傾倒し、弟子となった。・・・その後は京都に上って九条家に仕え、妻の瀧女は今城家に仕えた。関白・九条尚忠は孝明天皇の女御・夙子(英照皇太后)の父である。また九条家は、井伊家とは格別な関係にあった。一方で、今城定章の娘で千種有文の姉である今城重子が孝明天皇の寵姫(典侍)であった。・・・
やがて井伊直弼が兄井伊直亮の死を受けて彦根藩主を継ぐと、主膳は直弼に招聘されて藩校・弘道館国学方に取り立てられ、さらに直弼の藩政<、そして後には幕政>に協力した。・・・
安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、直弼に次いで恨まれる存在となる。
直弼が安政の大獄を行ったのは、島田左近などを通じて朝廷内部の動向に関する情報収集に当たっていた主膳が、戊午の密勅降下を察知することに失敗し、水戸藩士の「悪謀」を過度に進言したことが要因になった、と言われている。・・・
1860年・・・、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も、主膳は彦根藩の藩政に参与したが、直弼の遺児で藩主を継いだ直憲からは疎まれ、家老・岡本半介に直弼時代の功績や厚遇などを嫉視されて対立する。そして文久2年(1862年)、文久の改革で井伊家が問罪されると、半介の進言を聞き入れた直憲の命によって・・・捕縛され、・・・斬首・打ち捨ての刑に処された。・・・
長野主膳は、直弼の妾だった村山たかを妾とした。たかには、直弼の妾になる以前からの連れ子多田帯刀がおり、安政の大獄時は母子で主膳を助けて志士弾圧活動を行った。主膳の失脚後、多田帯刀は暗殺されて粟田口に梟首され、たかもまた、命までは取られなかったものの、生きながらにして三条河原に縛り付けられて晒された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E4%B8%BB%E8%86%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E4%B8%BB%E8%86%B3</a>
(注19)1798~1871年。「二条治孝の十一男として誕生。・・・
実兄の権大納言・九条輔嗣に養育された。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継ぐこととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。・・・1858年・・・、<米国>を始めとする諸外国との通商に際して、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派についた。
しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した(関白の地位にあっても、その最も基本的な職務である内覧職権が停止されれば、事実上の停職処分に相当した)。
その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、・・・1862年・・・6月には関白・内覧をともに辞し、出家・謹慎を命じられて九条村に閉居した。・・・1867年・・・1月、尚忠は謹慎・入洛禁止を免除され、12月8日には還俗を許された。・・・
正室:唐橋姪子(梅園・寿香院) – [北野天満宮社僧・]松梅院禅泰の娘、唐橋在熙養女・・・
六女:夙子(英照皇太后) – 孝明天皇女御・・・
養子:九条幸経 – 鷹司政通の子。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%A9%8B%E5%A7%AA%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%A9%8B%E5%A7%AA%E5%AD%90</a> ([]内)
九条幸経(ゆきつね。1823~1859年)は、「東山天皇の男系五世子孫である。・・・鷹司政通の三男として生まれ、九条尚忠の養子となる。・・・37歳で死去。尚忠の長男九条道孝が養嗣子となって跡を継いだ。・・・
<もう一人の>養子<に、>日栄 – 伏見宮邦家親王の王女<がいる。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C</a>
伏見宮邦家親王(1802~1872年)は、「1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族 11宮家全ての最近共通祖先であり、第125代天皇明仁の母方の高祖父(香淳皇后(昭和天皇后)の曽祖父)にあたる。・・・1817年・・・、光格天皇の猶子となり親王宣下を受け・・・邦家と命名される。・・・1835年・・・鷹司政熙の女景子(ひろこ)と結婚する。天保12年(1841年)父宮の貞敬親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。・・・
第10王女:万佐宮・村雲日栄(1855–1920)<が、>九条尚忠のち九条幸経養女<を経て>瑞龍寺門跡<になっている。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

⇒「注18」から透けて見えて来るのは、井伊直弼の師であり分身ともなった長野主膳の国学等がどうやら独学だったらしいこと、かつ、主膳が素性の明らかではない人物だったことであり、そんな人間に朝廷を含む京に係る工作員をやらせた直弼の知性の底の浅さと政治家としての感覚の鈍さです。
もとより、そんな直弼のような人間を大老に指名した将軍家定、遡れば、そんな家定に将軍を継がせた家慶、つまりは、徳川本家、に、その究極的責任があるわけですが・・。
また、「注19」からは、九条尚忠に九条家の武家権力者擦り寄りの悍ましい伝統が見事なまでに受け継がれていることが見て取れます。
しかし、同時に、そんな九条家にも、二方向から近衛家の手が伸びて来ていたこともまた、「注19」から見て取れるのが面白いですね。
近衛家の別動隊の鷹司家から九条家に、尚忠の養子として、鷹司政通の子の幸経を送り込ませることに成功し、かつ、その幸経に伏見宮家の邦家親王・・政通の父の鷹司政熙をして、その女子を正室として送り込ませていた・・の(その正室の子ではないが)女子を養子にとらせ、その女子を更に日蓮宗の僧に仕立て上げているのですから・・。
残念ながら、幸経が若くして亡くなってしまったため、鷹司家を用いたところの、この近衛家の努力、は一見挫折したかのように見えるけれど、その先、一体、どういう経緯で最終的にその努力が報われることになったのかを解明するのは、私のこれからの課題です。(太田)

(続く)