太田述正コラム#12482(2021.12.31)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その14)>(2022.3.25公開)

「通商条約の無断調印が、幕府より朝廷に伝えられたのは・・・1858<年>6月27日である。・・・
天皇は・・・幕府への詰問と<抗議の>譲位の意向について、衆議のうえ、すみやかに幕府へ通達するようもとめた。・・・
8月6日、近衛と実萬が会見して対策を練り、その結果、水戸藩に勅を下し、徳川斉昭によって幕府役人の詰責、内政改革、海防を行わせようということになった。

⇒島津斉彬は「藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、その<1858>年の7月8日・・・、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日・・・に死去した」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC</a>
ところ、この出兵目的が、孝明天皇の時代錯誤的な攘夷志向を利用した幕府に対する事実上の宣戦布告であったことを承知していたところの、近衛忠煕が、斉彬と共にその際に併せて実現しようと考えていた、(既に始まっていた徳川家の内部抗争を助長することで幕府の弱体化を図った)水戸藩への密勅降下を、斉彬の出兵なしでも行おうとしたのではないでしょうか。(太田)

大老就任まもない井伊が、自派の基礎がためのために斉昭を圧迫し、幕閣と水戸藩の関係が険悪になっていたことから、反井伊として同藩が期待されたわけである。
決定の背後では、京都における一橋派の諸藩士や浪士たちが、密勅降下に向け、さまざまに策動していた。
実萬に対しても、元水戸藩士で薩摩藩の日下部伊三治<(注24)>(くさかべいそうじ)が、京都の水戸藩留守居鵜飼吉左衛門<(注25)>(るすいうがいきちざえもん)とはかり、幕府の条約調印・将軍後嗣の決定は違勅であり、徳川斉昭・徳川慶勝・松平春嶽の謹慎を解き、一橋慶喜を後嗣とし、斉昭を副将軍とする勅諚を幕府に下すよう入説していた。」(26~28)

(注24)1814~1859年。「元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれる。
はじめ水戸藩主・徳川斉昭に仕える。・・・1839年・・・、父の跡を継いで太田学館益習館の幹事を務めた。・・・1845年・・・、江戸幕府より斉昭が謹慎を受けた際にはその赦免運動に尽力している。・・・1853年・・・、長崎に来航したロシア使節プチャーチンと交渉するため派遣された川路聖謨の随員として長崎に赴く。
・・・1855年・・・、島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰し、江戸の藩邸に入る。・・・1858年・・・、将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都に赴き、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動。水戸藩士・鵜飼吉左衛門らと公家の三条実万に接触し、同年に水戸藩へ密勅が下ると、実万よりその写しを受け取り、木曽路を通って江戸の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかしこのことが幕府による安政の大獄を誘発し、子の裕之進とともに捕縛される。江戸の伝馬町の獄に拘留され、凄惨な拷問を受けた末、・・・獄中で病死した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB</a>
海江田訥斎連が薩摩藩から水戸藩に移った経緯は調べがつかなかった。
(注25)1798~1859年。「安政大獄で刑死した水戸藩京都留守居役。・・・[遠祖は甲賀流忍者といわれ、・・・尾張国中島郡小信中島村(現,一宮市)頓聴寺住職・鵜飼真教の次男として生まれ、後に水戸藩士で叔父の鵜飼知盛の養子になった。]・・・1843・・・年京都留守居役,大番組,・・・1844・・・年,藩主徳川斉昭の隠居謹慎に際し処罰解除を公家に訴え,免職。斉昭藩政復帰後の・・・1853・・・年に復職,水戸藩の朝廷工作に従事。日米修好通商条約勅許阻止に一応成功したが,井伊直弼ら南紀派のために徳川慶喜の将軍継嗣擁立の勅命獲得には失敗。・・・1858・・・年8月,水戸藩あての密勅(戊午の密勅)を朝廷より受領,息子幸吉に勅書を斉昭のもとに運ばせた。密勅降下を工作したなどのかどで死罪。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80-34315′>https://kotobank.jp/word/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80-34315</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80</a> ([]内)

⇒さしずめ、日下部伊三治は、斉彬と忠煕の間の連絡役だったのではないでしょうか。
その日下部が、忠煕の依頼を受けて、鵜飼吉左衛門と共に、実萬に対して事前に根回しを行い、その上で、忠煕が実萬に密勅話を「正式に」持ち掛け、同意させたのではないでしょうか。(太田)

(続く)