太田述正コラム#12651(2022.3.26)
<皆さんとディスカッション(続x5120)/拡大江戸時代走馬灯–秀吉流日蓮主義の観点から>

<4iXAhcc.>(「たった一人の反乱(避難所)」より

あまりにもテーマが広すぎて、私もかなり書き込みには躊躇したのですが、とても丁寧なご回答を<コラム#12649で>いただき、ありがとうございました。
イスラム教やユダヤ教を他にも選択の余地があるなかでわざわざ自由意志で選ぶ(実際には親世代からの引継ぎで選択の余地も無いのでしょうが)というのは、確固とした形のあるものを引き継ぐ意思=独自の価値観の様な文化を越えたものが残っていく、ということでわかりやすいですし、タタールの軛の様な民族の苦難の歴史が幾世代にもわたり記憶されていく、というのも理解できます。
しかし世俗化された宗教しか持たない都市部に住む現代人と日本人においては、受ける教育や生活習慣、娯楽文化などにおいて似通ってきており、文明の違いがとてもわかりづらい、というのあります。

⇒「現代人」を削除すれば、その通りです。(太田)

すみません、なんだか話の終着点が自分でもわからなくなってしまったのですが、要はプロト日本文明の特異性についてはよくわかりました。

<B49f8.6k>(同上)

ユダヤ教は選択の余地はないし、イスラム教国でイスラム教以外の宗教を選ぶことは困難でしょ
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BF%A1%E6%95%99%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BF%A1%E6%95%99%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1</a>
<a href=’https://www.moj.go.jp/isa/content/930002623.pdf’>https://www.moj.go.jp/isa/content/930002623.pdf</a>

⇒成人がユダヤ教から他の宗教に改宗したりユダヤ教を捨てたりするのは事実上自由。
実際に、その事例は、枚挙にいとまがない。
<a href=’https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Jewish_conversion_to_Christianity’>https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Jewish_conversion_to_Christianity</a> (太田)

彼ら一神教の「宗教」は自分達「神」の側と敵の側に人間を二分することで集団を維持、あるいは拡大するための道具で自分達を染め上げてしまったから、
ユダヤ教のように「民族」のアイデンティティと一体にするか、イスラム教のように教義に従わないものは差別し弾圧して改宗を迫るかになる。

⇒キリスト教でも正教じゃあ、「「民族」のアイデンティティと一体に」なっているもの・・各地域の独立教会・自治教会」も多い。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A</a>

引き継ぐとか家業を継ぐみたいな緩い話じゃないですよね。

⇒現在じゃあ、イスラム圏でのイスラム教を除き、世界宗教については、どれも「引き継ぐとか家業を継ぐみたいな緩い話」になってるけどね。(太田)

<太田>

ウクライナ問題。↓

<今まで落とした唯一の主要都市も手放しつつある露軍。↓>
Kherson ‘contested territory again’ – US defence official・・・
<a href=’https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533′>https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533</a>
<ドンバス防衛だけまで、戦争目的を切り下げつつあるプーチン。↓>
First indication Moscow may be limiting war aims・・・
The Donbas region in eastern Ukraine is the main focus now says Moscow.
That includes Donetsk and Luhansk, held by Russian backed separatists since 2014 and officially recognised as independent by Russia just before this invasion began.・・・
<a href=’https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533′>https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533</a>
<でも、ひょっとしてその矮小化された戦争目的も達成できない?↓>
Ukraine will not surrender one inch of land to Russia – the west must understand this・・・
<a href=’https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/mar/25/ukraine-west-russia-kyiv-russian-offensive’>https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/mar/25/ukraine-west-russia-kyiv-russian-offensive</a>
<こんな露軍でも、米国からふんだんに武器供与を受けたおかげでナチスドイツ軍を打ち破った。 よって、ウクライナ軍は・・。↓>
「「味方が我々を爆撃…本当にXXだ!」ロシア将校の対話盗聴で分かった惨憺たる現状・・・」
<a href=’https://japanese.joins.com/JArticle/289224′>https://japanese.joins.com/JArticle/289224</a>
<少なくともタテマエ上は精神病院じゃないようで、よかったねえと言うべきか。↓>
Russian defence minister ‘suffers heart attack’ ・・・
<a href=’https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533′>https://www.bbc.com/news/live/world-europe-60856533</a>

コロナウィルス「問題」。↓

<Business as usual?>
「・・・死者は115人増えて計2万7615人となった。・・・」
<a href=’https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/’>https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/</a>

それでは、その他の記事の紹介です。

パーチパチ。↓

「坂本花織、世界フィギュア初V…浅田真央以来8年ぶり女王に・・・」
<a href=’https://www.yomiuri.co.jp/sports/winter/20220326-OYT1T50100/’>https://www.yomiuri.co.jp/sports/winter/20220326-OYT1T50100/</a>

あのさー、英国人なんだからさあ、せめて、日本の、核武装からじゃなく、再軍備から、論じてくんない?↓

Will Ukraine invasion push Japan to go nuclear?・・・
<a href=’https://www.bbc.com/news/world-asia-60857346′>https://www.bbc.com/news/world-asia-60857346</a>

日・文カルト問題。↓

<相変わらずだな。↓>
「・・・新たに報告された死者は323人で、前日比で70人少ない。死者の累計は1万4617人となった。・・・」
<a href=’https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220326000200882?section=society-culture/index’>https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220326000200882?section=society-culture/index</a>
<ディスるのかと思ったら客観記事だったわ。↓>
「急落する円の価値…ドル・円は6年ぶりの最安値–日本、景気浮揚のため低金利を維持–通貨緩和政策の継続で価値が低下–ウォン・円レートも一時100円1000ウォン割り込む・・・」
<a href=’http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/03/26/2022032680003.html’>http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/03/26/2022032680003.html</a>
<同じく。↓>
「「表現の不自由展」 4月に東京で開催=「少女像」出展・・・」
<a href=’https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220325004800882?section=society-culture/index’>https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220325004800882?section=society-culture/index</a>
<こーゆー日本の引き合い出し方はよろしい。↓>
「米国は北ミサイル発射1時間後に新たな対北制裁、日本は戦闘機を飛ばして追跡–北の挑発再開に機敏な対応見せる・・・」
<a href=’http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/03/26/2022032680028.html’>http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/03/26/2022032680028.html</a>
<同じく。↓>
「村上春樹が戦争に反対する方法・・・」
<a href=’https://japanese.joins.com/JArticle/289211′>https://japanese.joins.com/JArticle/289211</a>
<こーゆー日本の引き合い出し方はいけましぇん。↓>
「W杯進出を決めた日本に韓国メディアが「すでにお祭り騒ぎ」=韓国ネットからも厳しい指摘・・・韓国・OSEN・・・」
<a href=’https://www.recordchina.co.jp/b891527-s39-c50-d0191.html’>https://www.recordchina.co.jp/b891527-s39-c50-d0191.html</a>
<こういったハナシ、韓国の主要メディア、なんでとりあげない?↓>
・・・“Pachinko” isn’t the most obvious choice for an American TV adaptation. Spanning 80 years, Lee’s Korean American door-stopper, a finalist for a 2017 National Book Award, begins in the 1910s, an era of Korean (and Japanese) history few Americans are familiar with. It also deals with intra-Asian bias, a subject little understood in the West and one that mostly seems to get trotted out in discussions of race and racism as a cudgel against members of Asian diasporas.
Cast with mostly actors of Korean descent, the trilingual series — in English, Korean and Japanese, with the latter two in different-colored subtitles to signal the characters’ relationships to one another and their positions in changing settings — takes place in Busan, New York, Osaka and a handful of other Japanese cities, with a striving toward historical sweep that’s much more difficult to convey on the screen than on the page.・・・
<a href=’https://www.washingtonpost.com/tv/2022/03/25/pachinko-show-review/’>https://www.washingtonpost.com/tv/2022/03/25/pachinko-show-review/</a>
<そりゃ、そうだろ。↓>
「中国が後回しに?韓国次期大統領の“電話一本”に異例の注目・・・韓国・JTBC・・・」
<a href=’https://www.recordchina.co.jp/b891353-s39-c100-d0191.html’>https://www.recordchina.co.jp/b891353-s39-c100-d0191.html</a>

中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

<人民網より。
二、三点「訂正」すれば、杉山らの視点と一致するな。↓>
「「戦争帝国<米国>」が誘発したロシア・ウクライナ衝突・・・」
<a href=’http://j.people.com.cn/n3/2022/0325/c94474-9976097.html’>http://j.people.com.cn/n3/2022/0325/c94474-9976097.html</a>
<日中交流人士モノ。↓>
「蜷川実花氏の個展が北京で開幕 花の中を歩くような空間を演出・・・」
<a href=’http://j.people.com.cn/n3/2022/0321/c206603-9973968.html’>http://j.people.com.cn/n3/2022/0321/c206603-9973968.html</a>
<ここからは、レコードチャイナより。
一応、同じく。↓>
「福原愛さんの離婚原因が判明=中国ネットには「擁護」と「批判・・・捜狐娯楽・・・」
<a href=’https://www.recordchina.co.jp/b891318-s25-c30-d0193.html’>https://www.recordchina.co.jp/b891318-s25-c30-d0193.html</a>
<一応、一応、これもそう。↓>
「林外相、ゼレンスキー大統領の演説中にあくび=中国ネット「まさに“夢中”」「確かに退屈」・・・中国メディアの環球時報・・・」
<a href=’https://www.recordchina.co.jp/b891321-s25-c100-d0052.html’>https://www.recordchina.co.jp/b891321-s25-c100-d0052.html</a>
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一人題名のない音楽会です。
実に久しぶりに、庄司紗矢香の演奏をお送りします。
元気に活躍されているようで何よりです。
著名な曲ばかりなので解説は不要でしょう。

Beethoven Violin Concerto in D major, Op. 61 44:13
<a href=’https://www.youtube.com/watch?v=C1lpFbAp4NM’>https://www.youtube.com/watch?v=C1lpFbAp4NM</a>
Schumann Violin Concerto 3:14 ←一部だけですが・・。
<a href=’https://www.youtube.com/watch?v=qpSqYNanpV4′>https://www.youtube.com/watch?v=qpSqYNanpV4</a>
Thaïs Meditation 7:41 ←小さい音しか出ませんが・・。
<a href=’https://www.youtube.com/watch?v=0C8X16Ee4Js’>https://www.youtube.com/watch?v=0C8X16Ee4Js</a>
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–拡大江戸時代走馬灯–秀吉流日蓮主義の観点から–

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I  豊臣秀吉自身による布石

1 始めに
2 対九条家布石
(1)序
(2)九条稙通(たねみち。1507~1594年):九条家16代当主
(3)九条兼孝(かねたか。1553~1636年)
(4)九条幸家(ゆきいえ。1586~1665年)
(5)九条道房(1609~1647年)
(6)九条兼晴(1641~1677年)
(7)九条輔実(すけざね。1669~1730年)
(8)九条師孝(もろたか。1688~1713年)
(9)九条幸教(ゆきのり。1700~1728年)
(10)九条稙基(たねもと。1725~1743年)
(11)九条尚実(1717~1787年)
(12)九条道前(1746~1770年)
(13)九条輔家(1769~1785年)
(14)九条輔嗣(1784~1807年)
(15)九条尚忠(1798~1871年)
(16)九条幸経(1823~1859年)
(17)九条道孝(1840~1906年)
(18)貞明皇后(1884~1951年)

[東宮御学問所]

3 結果としての対二条家布石
(1)二条昭実(1556~1619年):二条家15代当主
(2)二条康道(1607~1666年)
(3)二条光平(みつひら。1625~1682年)
(4)二条綱平(つなひら。1672~1732年)(尾形乾山のパトロン。前出)
(5)二条吉忠(1689~1737年)
(6)二条宗煕(1718~1738年)
(7)二条宗基(1727~1754年)
(8)二条重良(しげよし。1751~1768年)
(9)二条治孝(はるたか。1754~1826年)
(10)二条斉通(なりみち。1781~1798年)
(11)二条斉信(1788~1847年)
(12)二条斉敬(なりゆき。1816~1878年)
4 対徳川家布石
(1)序
(2)秀忠

[家康の子供達]

(3)秀康
(4)忠吉
(5)信吉
(6)忠輝
(7)松千代
(8)仙千代
(9)義直
(10)頼宣と頼房

[西郡局・督姫母子と両池田家]

[排仏思想と日蓮主義を巡って]
○林羅山(1583~1657年)
○池田光政(1609~1682年)
○保科正之(1611~1673年)
○徳川光圀(1628~1701年)

[横井小楠コンセンサスと島津斉彬コンセンサス]

II  近衛家による布石
1 一条家取り込み
(1)一条内基(1548~1611年):一条家13代当主
(2)一条昭良(1605~1672年)
(3)一条教輔(兼輝)(1633~1707年)
(4)一条冬経(1652~1705年)
(5)一条兼香(1693~1751年)
(6)一条道香(1722~1769年)
(7)一条輝良(てるよし1756~1795年)
(8)一条忠良(1774~1837年)
(9)一条実通(1788~1805年)
(10)一条忠香(1812~1863年)
2 尾張徳川家への秀吉流日蓮主義の重畳的刷り込み
(1)序
(2)近衛家煕(1667~1736年)
(3)近衛家久(1687~1737年)
(4)近衛内前(1728~1785年)
(5)近衛経煕(1761~1799年)
(6)近衛基前(1783~1820年)
(5)近衛忠煕(1808~1898年)

[近衛忠煕の婚姻戦略]

3 対鷹司家策
(1)序

[鷹司松平家]

(2)鷹司兼煕(1660~1725年):鷹司家17代当主
(3)鷹司房煕(1710~1730年)
(4)鷹司尚輔(1726~1733年)
(5)鷹司基輝(もとてる。1727~1743年)
(6)鷹司輔平(すけひら。1739~1813年)
(7)鷹司政煕(まさひろ。1761~1841年)
(8)鷹司政通(1789~1868年)
(9)鷹司輔煕(1807~1878年)
4 対天皇家策
(1)閑院宮直仁親王(1704~1753年)
(2)閑院宮典仁親王(1733~1794年)
(3)光格天皇(1771~1840年。天皇:1780~1817年)
(4)仁孝天皇(1800~1846年。天皇:1817~1846年)
(5)孝明天皇(1831~1867年。天皇:1846~1867年)

III 徳川慶喜とは何だったのか
1 始めに
2 検証
(1)徳川治保(はるもり。1751~1805年)
(2)徳川治紀(はるとし。1773~1816年)。
(3)徳川斉脩(なりのぶ。1797~1829年)
(4)徳川斉昭(1800~1860年)

[一橋派]

[戊午の密勅]
○密勅
一、概要
二、黒幕
(一)朝廷外
(二)朝廷内
三、実質的名宛人
(一)水戸藩前藩主徳川斉昭説
(二)幕府と水戸藩説
(三)水戸藩説
四、密勅性
○内容
○背景
○影響
(一)長期的
(二)短期的

(5)徳川慶篤(よしあつ。1832~1868年)

[後期水戸学]
○藤田幽谷(1774~1826年)
○藤田東湖(1806~1855年)
○会沢正志斎(1782~1863年)

[吉田松陰]

[桜田門外の変・丙辰丸の盟約・坂下門外の変]
○桜田門外の変
○丙辰丸の盟約
○坂下門外の変

[本圀寺党(本圀寺勢)]

(6)徳川慶喜

IV 結論に代えて
——————————————

I  豊臣秀吉自身による布石

1 始めに

発足した明治維新政府がいの一番に打ち出した施策が豊国神社の復活だった(コラム#12172、12594)のは、果して、秀吉の唐入りの顕彰、と、秀吉の抱懐した秀吉流日蓮主義の維新政府としての抱懐の宣言、だけだったのだろうか、というのが私がふと抱いた疑問だった。
ひょっとして、近衛家だけでなく、秀吉自身も、明治維新的なものをもたらすための布石を打っていたのではないか、そして、倒幕・維新の元勲達は、秀吉に対し、彼の布石のおかげもあって明治維新が成ったことを感謝するとともに、可及的速やかに秀吉流日蓮主義を完遂させる、という決意を彼に報告したかったのではないか、と。
それは、亡くなるまで、秀吉は、耄碌しておらず、死期が迫った時点においてすら、秀頼の安泰だけを考えていたわけではない、と想定することが前提となる。
その上で、倒幕・維新の元勲達の思考過程を想像してみると以下のようなものではなかったか。
耄碌することがなかった秀吉は、血の繋がった秀次等の男系親族をことごとく殺すか失っている上、自身、秀頼という一人息子しか残せなかったことから、秀頼の男系子孫、つまりは自分の男系子孫、が断えてしまう可能性だって大ありだと思っていたはずだ。
そもそも、自分の死後、家康が秀頼を除去(殺害を含む)する可能性があることも予期していたはずだ。
秀吉は、自分の男系子孫が絶えてしまった場合でも、(しかも、近衛家にはさんざん不義理を重ねたので、同家が秀吉流日蓮主義完遂の志を抱き続けてくれないかもしれないということさえも念頭に置いた上で、)秀吉流日蓮主義完遂に向けての志を日本において絶やさず受け継がせてゆくにはどうしてらいいか、頭を巡らせたはずだ。
(秀吉が自身の秀吉流日蓮主義の遂行を最重要視していたからこそ、サボタージュを行った甥の秀次を絶対に許すことができず、本人とその一家をほぼ皆殺しにしたことを思え。
「「返す返す秀頼のこと 頼み申し候 五人の衆 頼み申し候 頼み申し候」
※年老いた秀吉が自分の死期を悟り、幼い息子・秀頼のことを五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜田秀家)に何度も頼んだ」
<a href=’https://www.imagineflag.jp/busho/hideyosi/meigen/index.html’>https://www.imagineflag.jp/busho/hideyosi/meigen/index.html</a>
のは、家康の目を秀頼除去だけに向けさせるための、秀吉による、自分の死を目前にした畢生のたぶらかし演技だったのだろう。)
そのような問題意識の下、倒幕・維新の元勲達に成り代わって、秀吉の壮年期から晩年期にかけての事績を改めて振り返ってみたところ、そのための布石だらけだった、というのが言い過ぎだとすれば、布石のように見えてきたものが続出した、のには我ながら驚いた。

2 対九条家布石

(1)序

「貞明皇后の武勇伝については、あの志の低い九条家・・同皇后は同家出身・・に、突然志高き近衛家が憑依したかのような話であるわけで、一体全体どうしてそんなことになったのかについても、残された私がぜひとも解明しなければならない諸事柄のうちの一つだ。」(コラム#12458)と、前回の東京オフ会「講演」原稿に書いたばかりだが、これについては、案ずるより産むが易しで、「始めに」で述べた問題意識を持った途端に解明できてしまった。
いかに、「九条家は武家べったりの家だ」という、あながち間違っていない私の先入観が、江戸時代から後の九条家に対する私の評価を歪めてしまっていたのかに我ながら愕然とした、と、反省を込めて申し上げておきたい。
結論を先に申し上げれば、江戸時代に入ってまもなく、九条家は、志の低い家から高い家へと大転換を遂げていたのであり、その布石を打ったのは秀吉だったのだ。
このことを踏まえれば、「近衛前久・信尹構想」(コラム#12456)は、「近衛前久・信尹/豊臣秀吉」構想、と言い換えるべきことになる。
「/」は、この近衛父子と秀吉が互いに無関係に、しかし、秀吉流日蓮主義の普及という共通の目的のために抱懐した構想である、という含意だ。
すなわち、秀吉は、武家べったりであり続けてきたことから、近衛家(鷹司家を含む)の「仇敵」であったところの、九条家(一条家、二条家を含む)を、秀吉流日蓮主義信奉家へと改造する布石を打っていたのだ。
それに成功すれば、有力武家との通婚に熱心な九条家だけに、多数の有力武家群に秀吉流日蓮主義を信奉させたり、信奉済みの場合にはその信奉度を高めたりすることにもなる、と、彼は考えたのだろうが、それは、(近衛家の努力もこれあり、)見事に成功し、約350年後に、秀吉流日蓮主義が、九条家出身の貞明皇后が主導する形で、完遂されることになるのだ。
本件については、便宜上、16世紀から振り返ることにする。

(2)九条稙通(たねみち。1507~1594年):九条家16代当主

「官位は従一位・関白<、藤氏長者。>・・・1555年・・・、従一位に叙せられるが、まもなく出家して行空、恵空を名乗る。その後は粗末な庵に住み、風雅と修行(後述)に勤しんだと伝わる。・・・
若い頃は経済的に困窮し、堺や九州あたりに住んだこともある・・・
<また、>関白および藤氏長者となっ<て>一年ほどの在席の後、経済的困窮のため未拝賀のままに翌年の<1534>年11月末に辞任。経済的困窮から摂津や播磨方面に居住する。・・・
娘婿である十河氏を助けるために、自らも出陣したことがある。・・・
男子には恵まれず、二条家に嫁いだ実妹・経子(つねこ)の孫である兼孝を養子に迎え、・・・1574年・・・5月には、家領・家伝記録類を兼孝に譲った。また、顕如を猶子としており、こののち・・・1549年・・・に証如から金銭的援助を受けたり、養孫の代に至り東本願寺と西本願寺の両者を結び付<ける>などの本願寺と九条家との縁が生じることとなる。・・・
<当時は、>「三好家・九条家」対「将軍家・近衛家」という勢力関係があった。・・・
当時三好家中の実力者であった松永久秀の孫が、稙通の門下でもある松永貞徳である。・・・
文化人的なつながりから、貴族社会だけではなく、細川幽斎や前田利益などの武家社会、連歌師の里村紹巴・・・らとも交流があった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%A8%99%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%A8%99%E9%80%9A</a>

⇒近衛家に比して著しく貧窮状態にあった九条家だったが、九条稙通は、一世代ほど後の近衛前久(1536~1612年)に比してもさほど遜色のない、文武にわたる教養人だったようだ。
引き続き志が低いまま貧窮していた九条家の、この稙通によるところの、カネが目当ての浄土真宗接近が、明治維新後に思わぬ果実を日本にもたらすことになる。(後出)(太田)

(3)九条兼孝(かねたか。1553~1636年)

「父:二条晴良<(注1)>
母:位子女王(伏見宮貞敦親王の娘)
養父:九条稙通
妻:高倉熙子(高倉永家の娘)
長男:九条幸家(1586-1665)
次男:増孝(1569-1644)
女子:八条宮智仁親王<(注2)>室」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AD%9D</a>

(注1)はるよし/はれよし(1526~1579年)。「二条家第14代目当主。・・・関白・藤氏長者<。>・・・父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女<で稙通の実妹である>九条経子。・・・
能書家として有名だった。・・・
室:位子女王 – 伏見宮貞敦親王の娘
長男:九条兼孝(1553-1636) – 九条稙通養子、九条家を継ぐ
二男:昭実(1556-1619)
男子:義演(1558-1626) – 足利義昭猶子
男子:鷹司信房(1565-1657) – ・・・1546年・・・に断絶した鷹司家を・・・1579年・・・に再興<することになる。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%99%B4%E8%89%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%99%B4%E8%89%AF</a>
(注2)1579~1629年。「1586年・・・、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし・・・1589年・・・、秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。・・・
正室:京極常子(京極高知の女)
側室:九条兼孝女<(上出)>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
京極高知(1572~1622年)は、京極高吉、京極マリアの子。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5</a>
京極マリア(1542~1618年)は、浅井久政の次女で、淀殿、江、の父である浅井長政の姉。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2</a>
京極高次(1563~1609年)は、京極高知の兄で、妹(姉説も)・竜子(松の丸殿)が豊臣秀吉の側室となり、淀殿の妹の初(常高院)を正室とした。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1</a>

⇒九条兼孝が、智仁親王と縁戚関係にあったことと、その智仁親王がかつて豊臣秀吉の猶子であって、かつ、京極氏と縁戚関係にあったこと、更に、その京極氏と淀殿と江の出身の浅井氏とが縁戚関係にあったこと、更に、その京極氏に淀殿の妹で江の姉である初が嫁いでいたこと、に注目して欲しい。
秀吉が、自分の姉の孫で江の子ある豊臣完子(さだこ)を天皇家ないし高い格式の公家に嫁がせようと思ったら、九条家が最もそれにふさわしく、かつ送り込み易かったわけだ。(太田)

(4)九条幸家(ゆきいえ。1586~1665年)

「祖父の九条稙通はこの<甥の子であるところの「>孫<」>に期待をしたらしく、源氏伝授を<甥(実妹の子)で養子の>兼孝ではなく幸家に伝授しようとした。しかし、稙通と幸家の歳は79も離れていたため、賀茂社の賀茂尚久に「返し伝授」を託した。尚久は稙通の願いを叶えて・・・1619年・・・、幸家34歳の時に源氏三ヶ秘決を伝授している。更に、この秘決は・・・1635年・・・<、幸家の>跡取り息子の九条道房に受け継がれた。・・・
正室には<豊臣秀次の弟の>豊臣秀勝<と淀君の妹のお江の間>の娘・完子(さだこ<。1592~1658年>)を娶<る。>・・・なお、この高度に政治的な婚姻を仕立てたのは豊臣秀吉の未亡人の淀殿<・・お江の秀忠<(注3)>との結婚後、完子を人質を兼ねた猶子としていた・・>である。さらに岳母・江が徳川秀忠の正室として再嫁したことから、徳川将軍家御台所の婿という姻戚関係となり、朝廷と幕府の仲介役としても貴重な存在となる。幕府の後援もあり、・・・1608年・・・には藤氏長者となり関白職に任ぜられた。・・・1613年・・・にいったん辞職するが、・・・1619年・・・再び関白となり、義妹・徳川和子の入内に尽力した。・・・
長男・二条康道・・・:二条家第16代当主
次男・九条道房・・・:九条家第19代当主
長女・序君・・・:東本願寺宣如光従室。琢如の母
次女・通君・・・:西本願寺良如光円室
三男・松殿道基・・・:松殿家第12代当主
四男・栄厳・・・:東大寺別当、随心院住持、大僧正
三女・日怡・・・:瑞龍寺<(注4)>2世<・・1世は、秀吉の姉にして秀次、秀勝の母である日秀・・>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E5%AE%B6</a>

(注3)「母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。
秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康が切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉に養子(事実上の人質)として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。・・・
1590年・・・1月7日、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛した。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた<1589>年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており、更に上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている。・・・
この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる。ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』<1589>年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており、秀忠の元服と一字拝領は同日以降であった可能性もある。・・・
秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌・・・1591年・・・に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている。・・・
1595年<、>・・・秀次の切腹によりお拾が秀吉の後継者に定まると、9月17日にお拾の生母の淀殿の妹である於江与が秀吉の養女として秀忠と再婚する。また秀吉から、羽柴の名字を与えられる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0</a>
「大姥局<(1525~1613年)は、>・・・夫の川村重忠は最初今川家に仕え、今川家の人質時代の若き松平元康(のちの徳川家康)の世話役であったが、今川家衰退後は夫共々小田原北条氏に仕え、そののち甲斐武田氏の配下で駿河方面の担当であった穴山氏に仕えた。夫の重忠の死後しばらくは駿河国岡部で暮らしていたが、豊臣秀吉の招きにより、子を連れて上方へ向かった。現在の境遇を聞いた秀吉からの要請もあって、生母を幼くして亡くしていた家康の子・秀忠の乳母(養育係)として徳川家に召し出された。のち草創期の江戸幕府(江戸城)の大奥で権勢を振るう。化粧領として武蔵国内に2千石を与えられた。
法華宗門徒であったらしく、池上本門寺の有名な五重塔(重要文化財)は・・・1608年・・・に<彼女>の発願、寄進により建立された。法名は正心院日幸尼。・・・
秀忠は国内最高の権を持つ江戸幕府の征夷大将軍でありながら一方では恐妻家で、嫉妬深い正室の江(崇源院)には頭が上がらず、側室を持つことも許されなかったと伝わるが、江の目をかいくぐり、大姥局の侍女であった静(のちの浄光院)に手を出し、妊娠させてしまう。これを知った大姥局は静を庇護し、静に対して圧力をかける崇源院の手の者から匿い、無事に出産させた。この際に生まれた子・幸松は大姥局と懇意にしていた見性院(武田信玄次女、穴山梅雪正室)の養子となった。
この幸松はのちに秀忠に内々に認知されたが徳川家中にいることはできず、見性院の縁故から旧武田家臣である高遠藩保科氏の養子となり家督を継ぐなど紆余曲折を経た後、その存在が異母兄である将軍徳川家光の知る所となり、家光により重用され、幕府の重鎮となった。江戸時代初期の史上において名宰相と名高い保科正之(会津松平家家祖)である。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%A5%E5%B1%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%A5%E5%B1%80</a>
(注4)「智(とも)は実子のいない弟・豊臣秀吉に、長男の秀次を養子として出していた。しかし・・・1595年・・・、秀次は秀吉と対立し蟄居先の高野山で自害してしまった。その後、秀次の妻子は三条河原で処刑され、智の夫であり秀次の実父である三好吉房も流刑となった。
唯一残された智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家し、以前から帰依していた日蓮宗による寺院を建てようとしたところ、・・・1596年・・・、話を聞いた後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣を賜って創建された。これにより瑞龍寺は日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院及び勅願所となり別名を村雲御所と称して、以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。
江戸時代には嵯峨から西陣の堀川今出川付近の地(現・西陣織会館と西陣産業会館がある場所)に移転する。その後、・・・1788年・・・の天明の大火により全焼するが、中興の祖・9世・日尊尼が・・・1824年・・・から28年の歳月を掛けて再建を果たした。・・・
歴代門跡は、開山である日秀尼か開基である後陽成天皇かのいづれかの血脈である者が多い」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)</a> ([]内も)

⇒(高台院自身と同様、)淀殿自身に日蓮宗ないし日蓮主義への思い入れがあった形跡はないので、淀殿が自分の判断でそのような計らいをしたわけではなく、単に秀吉の命に従ってそうしただけだろうが、実母の江に捨てられたに等しかった完子にとって、実父豊臣秀勝(1569~1592年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D</a>
の父母であるところの、自分にとっての父方の祖父の(「1600年・・・に本圀寺に一音院を建立し、子供たち、孫たちの菩提を弔い、晩年は法華の行者となった」)三好吉房(1534~1612年)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%90%89%E6%88%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%90%89%E6%88%BF</a>
と、祖母の(「日蓮宗の尼僧<として、>瑞龍寺中興三大比丘尼の1人」となった)日秀(1534~1625年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC</a>
は、身近にいた二人だけの血の繋がった直系尊属であって、恐らくは彼らとの密接な交流を促され、この二人の影響を濃厚に受けさせられた結果、「日秀<には>・・・完子との関わりもあったらしく、完子や千世鶴と共に藤堂高虎と面会したり、完子の末娘が日秀の生前からの願いにより瑞龍寺を継いだりしている。」(上掲)どころではなく、完子は、嫁ぐ前から、三好吉房と日秀の影響で熱心な日蓮宗信徒になっていたに相違ないのだ。
そして、完子を熱心な日蓮宗信徒にすることはもちろんのこと、秀吉が亡くなった1598年に、九条幸家(1586年~)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E5%AE%B6</a>
も完子(1592年~)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90</a>
も生まれていて、しかも、どちらも既に死亡率の高い乳児期を脱しており、この二人を娶せよ、と、秀吉は、少なくとも北政所と淀殿に遺言してから亡くなったと見てよかろう。
秀吉は、近衛家が日蓮主義信奉家であることから、近衛家の「天敵」で、近衛家と並ぶ摂関家二大代表格であることから、九条家を日蓮主義家化することができれば、本来日蓮主義家であるべき天皇家もまた、真正日蓮主義家化する、と踏んだ、と見るわけだ。
そして、秀吉の生前から話が進められた可能性があるところ、1604年に完子は九条忠栄(後の幸家)に嫁いだ、と。
なお、蛇足ながら、保科正之は、日蓮宗信徒のおかげで生きながらえることができたというのに、自分を引き立ててくれた異母兄の家光への恩義の方が勝ったのだろうが、会津藩に、秀吉流日蓮主義とは無縁の、佐幕だけの藩論を残したことが、幕末における会津藩の悲劇をもたらすことになったわけだ。(太田)

(5)九条道房(1609~1647年)

「九条幸家の次男として生まれる。母は豊臣完子。・・・
正室は鶴姫(松平忠直の娘)。なお、道房と鶴姫は従兄妹である(母親同士が異父姉妹)。
子は<全て正室との間に>5女があり、婿養子九条兼晴の正室待姫のほか、愛姫(浅野綱晟室)、令姫(東本願寺常如光晴室)、梅姫(松平綱賢室)、八代姫(浅野綱晟継室)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E6%88%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E6%88%BF</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%A6%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%A6%82</a>

⇒九条道房は、豊臣家と縁こそ深いものの日蓮宗とも日蓮主義とも縁遠かった浅野家だった・・「秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、<浅野>長吉<(後に改名して長政)>は<、>「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF</a>
長政の逸話から始まり、-幸長(長政の子)-長晟(幸長の弟)-光晟(長晟の子)、までそうだ・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%85%89%E6%99%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%85%89%E6%99%9F</a>
が、綱晟(光晟の子)になって様変わりし、綱晟には日蓮宗信徒の戒名である法号
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F</a>
<a href=’http://inoue-bukkou.com/ownerblog/5421/’>http://inoue-bukkou.com/ownerblog/5421/</a>
が付けられている等から、彼が日蓮宗信徒になっていることが分かる。
これは、九条道房の女子の愛姫が正室、もう一人の女子の八代姫(前者の同母妹)が継室、として、綱晟の下へと送り込まれた結果であるとしか考えにくい。
愛姫は法名から、八代姫は墓所から、どちらも日蓮宗信徒ではない
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F</a> 前掲
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E9%99%A2_(%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%8C%BA)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E9%99%A2_(%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%8C%BA)</a>
が、恐らくはどちらも日蓮主義者だったのだろう。
(綱晟と愛姫の子である浅野綱長が日蓮宗信徒だったかどうか調べがつかなかった・・それ以降の歴代藩主がどうやら日蓮宗信徒ではなかったことから、恐らく綱長も信徒ではなかったのではないか。但し、彼及び爾後の歴代藩主も秀吉流日蓮主義者ではあり続けたと思われる・・が、綱長の正室は、徳川綱誠<(尾張藩3代藩主)>の養女、徳川光友<(尾張藩2代藩主)>の三女だし、女子の一人が九条師孝(後出)の室、もう一人が一条兼香(後出)の室になっている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E9%95%B7</a>
ことがその傍証だ。)
(ちなみに、尾張徳川家の初代の義直の正室は浅野幸長(上出)の女子の春姫だった。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4</a> )
尾張徳川家との結び付きは、同家が御三家の中でも極め付きの尊皇家であった・・初代の義直の家光供奉拒否事件(コラム#省略)を想起せよ
<a href=’https://fouche1792.exblog.jp/2849084/’>https://fouche1792.exblog.jp/2849084/</a>
・・ことから、九条家の意向もあり、尾張徳川家を秀吉流日蓮主義家にしようという狙いがあったのではなかろうか。
もう一つ注目すべきは、道房が、女子を東本願寺(浄土真宗大谷派)の常如の正室にも送り込んでいることであり、これは、彼が、浄土真宗の東西両本願寺の隠れ秀吉流日蓮主義化に着手し始めたものだと解されよう。(太田)

(6)九条兼晴(1641~1677年)

「1641年・・・に鷹司教平の三男として生まれ<、>九条道房の養子とな<る。>・・・
父:鷹司教平
母:冷泉為満<(注5)>の娘
養父:九条道房
妻:待姫(九条道房の娘)
男子:九条輔実(1669-1729)
家女房
男子:二条綱平(1672-1732)(二条光平養子)
生母不明の子女
男子:住如(1673-1739)(<西>本願寺<14世綱平の>養子<として、15世となる。>)<(注6)>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E6%99%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E6%99%B4</a>

(注5)藤原惺窩の下冷泉家(コラム#12455)ではなく、上冷泉家。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6</a>
(注6)「妻は寂如の娘<。・・・養父>寂如の10男である直丸(第16世湛如)を養子に<して跡を継がせた。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%A6%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%A6%82</a>

⇒二条綱平(1672~1732年)は、「パトロンとして尾形光琳・乾山兄弟に目を掛けており、・・・1699年・・・、乾山に京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%B6%B1%E5%B9%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%B6%B1%E5%B9%B3</a>
人物だが、尾形乾山(1663~1743年)の墓所は日蓮宗の京の泉妙寺と江戸の善養寺にある
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BD%A2%E4%B9%BE%E5%B1%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BD%A2%E4%B9%BE%E5%B1%B1</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%A6%99%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%A6%99%E9%99%A2</a>
<a href=’http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/zenyoji/’>http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/zenyoji/</a>
ので、彼は日蓮宗信徒だったと見てよく、恐らく、その兄の光琳も同様だったのではないか。
いずれにせよ、綱平が乾山に異常なほどの便宜を与えていることから、綱平自身が日蓮主義者であった可能性は極めて高く、これは、綱平の父親の兼晴が、養父の九条道房とその女子である正妻の待姫の薫陶によって日蓮主義者になっていたからだ、と考えざるをえない。
もう一つ、恐らくは、養父の九条道房の「長期計画」に従い、兼晴は男子の住如を、養父の場合とは違って、今度は西本願寺(浄土真宗本願寺派)に送り込んで、同派の隠れ日蓮主義化を図ったわけだ。(太田)

(7)九条輔実(すけざね。1669~1730年)

「九条兼晴の子として生まれる。母は九条道房の娘・待姫。・・・
絵画が得意で、京都上善寺の弁天十五童子は彼の遺作といわれている。・・・
正室:賢宮益子 – 後西天皇皇女
長男:九条師孝(1688-1713)
女子:輔子(輔姫) – 徳川吉通正室・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%AE%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%AE%9F</a>

⇒だから、綱平の兄で、待姫の実子である輔実は、間違いなく日蓮主義者だったはずだ。
特筆すべきは、九条輔実が、女子の輔子を尾張藩第4代藩主の徳川吉通の正室に送り込んでいることだ。
これは、浅野家を通じて秀吉流日蓮主義化の種を蒔いた尾張徳川家を、筋金入りの秀吉流日蓮主義家へと鍛え上げるためだったのではなかろうか。(太田)

(8)九条師孝(もろたか。1688~1713年)

「父:九条輔実
母:益子内親王(後西天皇の第十皇女)・・・
妻 浅野綱長の娘
子 養子:幸教<(実弟)>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%AD%9D</a>

⇒九条輔実の男子の師孝は、浅野綱長(前出)の女史を正室に迎えており、これで九条家と浅野家との関係は盤石になったが、彼女との間には子が生まれていない。

(9)九条幸教(ゆきのり。1700~1728年)

「父:九条輔実、母:家女房
養父:九条師孝(実兄)・・・
妻 徳川三千君(徳川吉通の長女)
子 稙基、宗基」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E6%95%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E6%95%99</a>

⇒九条師孝の実弟で九条家を継いだ幸教は、正室として、徳川吉通の女子を迎えており、九条家と尾張徳川家との関係も盤石になった。

(10)九条稙基(たねもと。1725~1743年)

「父:九条幸教
母:徳川三千君(徳川吉通の長女)
妻 婚約者:頼(徳川宗春の四女)・・・稙基没後近衛内前後室となり勝子と名乗る・・・
猶子
男子:法如 – 良如の十男・寂円の子」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%A8%99%E5%9F%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%A8%99%E5%9F%BA</a>

⇒注目すべきは、九条稙基が亡くなった時に、恐らくは、近衛家久(1687~1737年)・内前(1728~1785年)父子
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D</a>
が、稙基の実母の徳川三千君(信受院)、と協議の上、稙基の婚約者だった頼を内前の正室に迎えたことだ。
これは、九条家が築いてきた尾張徳川家との紐帯を近衛家が一時的に代わって受け継ぐことを意味するのであって、この時点で、水戸徳川家-近衛家/島津氏-九条家‐尾張徳川家、という、秀吉流日蓮主義に基づく大同盟が成立した、と、言ってよかろう。(太田)

(11)九条尚実(1717~1787年)

「父:九条輔実
母:家女房
兄:九条師孝
兄:九条幸教
姉:九条輔姫 – 尾張藩4代藩主・徳川吉通の正室
妻:不詳
生母不明の子女
男子:九条道前
男子:松殿忠孝
猶子
男子:文如 – 法如の子・・・

始めは尭厳と名乗り、門跡である[真言宗の]随心院に入り、権僧正に任じられる。27歳の時に兄・九条幸教の子・稙基が没したため、・・・1743年・・・5月9日に還俗し九条家を継ぐ。なお、当時の関白である一条兼香は有職故実を知らない尭厳が摂関家の当主になることに反対して桜町天皇の弟である政宮(後の遵仁法親王)に九条家を継がせようとしたが桜町天皇と幸教未亡人である信受院からの反対を受けて失敗に終わり、他の摂関家と相談して尭厳が将来摂関に就くこと及び尭厳の子孫が九条家を継ぐことを認めないことを相続の条件としようとしたが、江戸幕府から尭厳の相続に特別な条件を付けるべきではないという意見が出されたため、これも認められなかった。・・・
当時の<・・も?(太田)・・>九条家の財政は厳しく、・・・1765年・・・には江戸幕府に対して知行を返上して代わりに2万両の拝領を得ようとするが失敗に終わっている。また、実子の九条道前と松殿忠孝は早世し、更に晩年には嫡孫の九条輔家にまで先立たれて体調を崩し、出仕もままならない状態であったという。 」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%AE%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%AE%9F</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E5%BF%83%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E5%BF%83%E9%99%A2</a> ([]内)

⇒九条家は再び困窮状態に陥っていたわけだが、尾張徳川家も、近衛家との関係もこれあり、しばらくの間、援助するのを控えていたとみえる。(太田)

(12)九条道前(1746~1770年)

「妻 恭姫(譲子)([尾張藩第8代藩主]徳川宗勝の八女)
子 輔家」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%89%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%89%8D</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D</a>

⇒再び、尾張徳川家から正室を迎える運びになったわけだが、恐らく近衛家がそのお膳立てをしたのだろう。(太田)

(13)九条輔家(1769~1785年)

「父:九条道前
母:徳川宗勝八女・恭姫(譲子)
妻:不詳
養子
男子:九条輔嗣 – 二条治孝の次男」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%AE%B6</a>

⇒ところが、九条家は、ここで、事実上、断絶してしまうわけだ。(太田)

(14)九条輔嗣(1784~1807年)

「父:二条治孝
母:徳川翰子(徳川宗翰の次女)
養父:九条輔家」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%97%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%97%A3</a>

⇒九条輔嗣の実父の二条治孝(1754~1826年)は、「関白である鷹司政熙が辞意を示した際、後桜町院の外戚で左大臣でもある治孝が後任の有力候補であった(後桜町院は天皇に治孝の関白就任を求めていた)。しかし、光格天皇に「非器」と評価され、江戸幕府も同様の見解を示したため、関白は一条忠良に超越されてしまい、その代償に検討された准三宮宣下も、摂関家一列の反対で実現しなかった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%BB%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%BB%E5%AD%9D</a>
という冴えない人物だったが、輔嗣が水戸藩の第5代藩主の徳川宗翰(むねもと。1728~1766年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0</a>
の実孫であることに着目して、近衛家が、輔嗣の九条家への養子縁組を斡旋したのではないか。
そもそも、徳川宗翰の女子の二条家との縁組は、水戸徳川家と縁が深い近衛家が、九条家系の摂関家である二条家攻略目的で仕組んだものだ、と、私は見ている次第だ。(太田)

(15)九条尚忠(1798~1871年)

「父:二条治孝、母:樋口信子(樋口基康の娘)
養父:<異母兄の>九条輔嗣・・・
正室:唐橋姪子(梅園・寿香院) – 松梅院禅泰の娘、唐橋在熙養女
側室:菅山(<1809>年6月28日・・・ – 明治14年(1881年)8月16日) – 南大路長尹の娘
六女:夙子(英照皇太后) – 孝明天皇女御
長男:九条道孝 – 幸経養嗣子。表向きは幸経の長男。
家女房
三男:隆芳 – 大乗院門跡(興福寺別当大僧正)→松園尚嘉(松園家始祖)
五男:増縁 – 随心院門跡附弟→鶴殿忠善(靏殿家始祖)
七男:鷹司煕通 – 鷹司輔煕養子
十一男:二条基弘 – 二条斉敬養子
養子
養子:九条幸経 – 鷹司政通の子。
養女:鷹司祥子 – 鷹司政熙の娘。広如の妻

実兄の権大納言・九条輔嗣に養育された。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継ぐこととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。・・・1858年・・・、アメリカを始めとする諸外国との通商に際して、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派についた。
しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した(関白の地位にあっても、その最も基本的な職務である内覧職権が停止されれば、事実上の停職処分に相当した)。
その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、・・・1862年・・・6月には関白・内覧をともに辞し、出家・謹慎を命じられて九条村に閉居した。・・・1867年・・・1月、尚忠は謹慎・入洛禁止を免除され、12月8日には還俗を許された。明治元年(1868年)9月18日、准后宣下。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0</a>

⇒九条尚忠、その養子の幸経、尚忠の実子の道孝、は、いずれも、一貫して佐幕的姿勢をとったわけだが、私は、これを、(後に述べるように、この頃までに摂関5家は一体化していたところ、その頭目たる)近衛忠煕の指示に基づき、損な役割をあえて引き受けたものであると見ている。
それは、孝明天皇以下、朝廷が、一枚岩の形で(孝明天皇等ごくわずかの人々を除いてそれが無理筋だと分かっている)攘夷論を引っ提げて幕府を追い詰めた場合、その歴代が天皇家から送り込まれてきていたところの、輪王寺宮門跡
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E9%96%80%E8%B7%A1-1216435′>https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E9%96%80%E8%B7%A1-1216435</a>
を、幕府側が説得し、早い時点で、還俗させた上で、天皇として推戴し、その錦の御旗の下で、孝明天皇の朝廷を打倒することを試み、しかもそれに成功する恐れがあったからだ、と。
現に、最後の輪王寺宮の北白川宮能久親王(注7)は、後の戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されており、その折に、彼が天皇として擁立された、という少数説まであるくらいであることを想起せよ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a> ←事実関係 (太田)

(注7)1847~1895年。「伏見宮邦家親王の第9王男子。・・・孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たり、また、義父に当たる、北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の甥、でもある。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

(16)九条幸経(1823~1859年)

「鷹司政通の三男として生まれ、九条尚忠の養子となる。・・・
妻は姫路藩主酒井忠学の次女・酒井肫子(あつこ・・・)・・・
尚忠の長男である九条道孝のほか、尚忠の猶子であった日栄(伏見宮邦家親王第10王女)を養子としている。・・・<但し、前述したように、道孝は>表向きは幸経の長男。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C</a>
村雲日栄(1855~1920年)は、[1868年(?)から]瑞龍寺門跡」(コラム#12592(未公開))
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
村雲日栄は、伯母の日尊(伏見宮貞敬親王の女子。1807~1868年)の跡を継いだもの。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

⇒九条幸経は、近衛基前との「約束」に基づき、鷹司家を近衛家の別動隊に戻すことにした鷹司政煕(コラム#12506(未公開))、の子であったところ、日栄の件は、この鷹司政煕が、(恐らくは、近衛基前から依頼を受け、)自分の女子の景子を妃として送り込んでいた伏見宮邦家親王
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
との間で話をつけた上で、これは名誉なことだよとでも言って、九条幸経の養父の九条尚忠に依頼して、そのような運びになったものだろう。
これは、日栄を、政通の下で、尚忠の子で養子にした道孝と一緒に生活させ、二人に意識の上で姉弟意識を植え付けた上で、日栄を日尊の下に送り出し、その後も、道孝を日栄と交流させ続け、日栄の影響を受けて道孝を秀吉流日蓮主義者へと仕立て上げることを狙ったものであったと見る。
(ちなみに、鷹司政煕の嫡子の鷹司輔煕(すけひろ。1807~1878年)は、九条尚忠の子の煕通を養子にして鷹司家を継がせている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95</a>
が、これは、幸経の九条家への送り込みとのバーターだったのではなかろうか。
そして、この「九条幸経・・・は<、近衛忠煕の指示に従って、>世界情勢を考慮して開港はやむを得ないと主張した。」(コラム#12640)ところだ。(太田)

(17)九条道孝(1840~1906年)

「公式には九条幸経と正室酒井肫子(酒井忠学の次女)との間にもうけた長男とされたが、実際には九條尚忠が側室菅山(南大路長尹娘)との間にもうけた長男である。・・・
1867年・・・には左大臣となる。大政奉還前は、父の尚忠と同じく幕府との協調を推進。そのことから、王政復古の大号令が出された時は、それを追及されて参内停止処分に処せられたものの、1868年(明治元年)に許され処分を解かれた。

⇒秀吉流日蓮主義者になっていたと想像されるが、維新までは、道孝は、猫をかぶったまま、九条家に割り当てられた役割に沿った政治的言動を行い続けたのだろう。(太田)

同年、摂政関白廃止後、藤氏長者に任じられ、明治維新の戊辰戦争で新政府軍(薩長同盟)の奥羽鎮撫総督府総督に就任し、奥羽鎮撫総督府下参謀の長州藩藩士・世良修蔵(奇兵隊軍監、仙台藩士が処刑)および薩摩藩藩士・大山綱良(初代鹿児島県令、西郷隆盛の盟友として西南戦争で処刑)と共に仙台藩藩主・伊達慶邦の仙台城下に入った。のち佐竹氏の秋田藩に移って東北地方を転戦し、京都守護職・松平容保の会津藩と会庄同盟を結んでいた江戸警護役(職)・庄内藩藩主・酒井忠篤の庄内藩などと戦った。明治維新後、明治天皇の相談役となる。

⇒道孝は、直接、及び、(道孝と同じく秀吉流日蓮主義者化していたと想像される)姉の英照皇太后を通じて、明治天皇の秀吉流日蓮主義者化が不可能であることを自覚させられたはずだ。(太田)

岩崎弥太郎の勧めで日本初の海上保険会社である東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)の創設に関わった。華族制度創設時に旧・摂関家当主として公爵に叙され。1890年(明治23)2月、帝国議会開設にともない貴族院公爵議員に就任し、死去するまで在任した。
1888年(明治21年)、<女子の>籌子が大谷光瑞と結婚した。1895年(明治28年)<もう一人の女子である>範子が山階宮菊麿王の妃となった。1900年(明治33年)、<そして、更にもう一人の女子である>節子が皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃となった。翌年に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が誕生した。
籌子、範子、節子及び嫡男の九条道実は、いずれも側室である野間幾子(中川の局)との間の子である。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D</a>
「孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母<である>・・・英照皇太后<(1835~1897年)は、>・・・<同父母>姉」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E</a>

⇒当初は、姉の英照皇太后、と、明治天皇の実母にして嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛の(これまた、天誅組の主将・中山忠光を同母弟として持つ、秀吉流日蓮主義者であったと想像される)中山慶子(1836~1907年)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%85%B6%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%85%B6%E5%AD%90</a>
そして、しばらくしてからは民間への秀吉流日蓮主義普及活動に従事していた近衛篤麿(1863~1904年)とも、相談しつつ、嘉仁親王の妃への、自分の女子達のうち最も優秀であった節子の送り込み計画を練り、実行に移し、成功したのだろう。(太田)

(18)貞明皇后(1884~1951年)

「当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。
九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E</a>

⇒明治天皇が、嫡母の英照皇太后(~1897年)(と実母の中山慶子(~1907年)?)が推したであろう、九条節子に対し、九条家/鷹司家/近衛家の思惑を知ってか知らずか、皇族だし美人でもあるとして、禎子女王に固執したのを、禎子女王の父親の伏見宮貞愛親王の実母が鷹司政煕の女子の鷹司景子(1814~1892年)であった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%99%AF%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%99%AF%E5%AD%90</a>
ことから、鷹司政煕の嫡子である輔煕の養子で鷹司家を継いだところの、九条尚忠の子の鷹司煕通(1855~1918年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E7%85%95%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E7%85%95%E9%80%9A</a>
が、「叔母」の鷹司景子に頼み込んで、肺病の疑いあり、ということにしてもらって、彼女の子の 伏見宮貞愛親王(1858~1923年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
を説得し、その女子で景子の孫にあたる禎子女王(1885~1966年)にお后候補を辞退してもらった、と、私は見ている。
「肺病の疑いあり」がウソだったことは、「山内豊景侯爵に降嫁した」禎子女王が、「直心影流薙刀術の使い手であり、・・・1955年(昭和30年)には全日本薙刀連盟の初代会長とな<り、>1983年(昭和58年)、故人として高知県スポーツの殿堂に入る」という生涯を送って80歳の長寿を全うしたこと
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E7%A6%8E%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E7%A6%8E%E5%AD%90</a>
からも明らかだろう。
この貞明皇后が、秀吉流日蓮主義を完遂させたことは、御存じの通りだ。
以下、付けたりだ。(太田)

「良子の家系に色盲の遺伝疑惑があるとして、山縣は久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、皇室と政界は婚約派と反対派に分かれ水面下で勢力争いを繰り広げることとなった。なお、当の良子には色盲の記録は無く、現在の皇室に遺伝しているかも定かではない。
騒動の背景は、色盲への恐怖や差別感だけではないとも言われている。それぞれの幕末の出自までに遡り、明治維新に貢献した長州藩閥の山縣が、同じ立場のライバルである薩摩藩の血が入った良子(母方の祖父が島津忠義)を排除したかったのではないか、といった藩閥的風評も上がった。」
<a href=’https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68405?imp=0′>https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68405?imp=0</a>
「<良子女王の兄の久邇宮朝融王と叔父の島津忠重・・島津忠義の色覚異常の側室の子で、良子女王の母俔子の同父母弟・・>は色覚異常にもかかわらず海軍軍人となっている。・・・
<ちなみに、良子女王の弟の邦英王も色覚異常だった。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9</a>
島津忠重は海軍少将にまで、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E9%87%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E9%87%8D</a>
また、久邇宮朝融王は海軍中将にまで、なっている。
この「1917年(大正6年)、・・・朝融王と酒井忠興の娘酒井菊子は婚約する。しかし、久邇宮家側が一方的に婚約解消を望み、宮内省をまきこむ騒動となる。菊子との婚約は既に勅許を得たものであり、また久邇宮家と言えば先の裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王の婚約の際には婚約解消を断固拒否したばかりであった(これを宮中某重大事件という)。
久邇宮側の婚約破棄の理由は「菊子に節操にかんする疑いがある」とのことであったが、宮内省が噂の出どころを調査した結果、事実無根であることが解った。にもかかわらず朝融王と邦彦王は性格不一致を理由にともかく婚約破棄を強行する。だが天皇の裁可を覆すことは前例がなく、久邇家側の言い分があまりに一方的であったため、大きな問題となった。皇族の結婚は天皇の許可を得て行われることが通例で、たとえ皇族といえど覆すのは難しかった。正式な婚約ではなかったものの、勅許を得たものであり、そもそも先の宮中某重大事件とはこれがために無事婚約と至ったのである。宗秩寮総裁の徳川頼倫、宮内大臣の牧野伸顕らの説得にも関わらず、久邇宮邦彦王は婚約破棄の方針を貫く。結局、1924年(大正13年)11月、宮内省は酒井家側から婚約辞退の申し出をさせることで事態を収拾させた。当時摂政であった裕仁親王(昭和天皇)は、邦彦王に訓戒の言葉を伝えている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E8%9E%8D%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E8%9E%8D%E7%8E%8B</a>

⇒その、貞明皇后が、皮肉なことに、このように、嫡嗣たる迪宮裕仁の妃選びに大失敗をしてしまったわけだ。(太田)

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[東宮御学問所]

「学習院初等学科を卒業した裕仁皇太子が進学する、東宮御学問所-。その創設は殉死した学習院長、乃木希典(まれすけ)の発案だとされる。
乃木は、天皇に必要な資質として、陸海軍に君臨する大元帥としての一面を重視していた。しかし学習院中・高等学科には軍人志望以外の生徒も多く、軍事教育を行う環境ではないと考えたのだろう。
乃木の構想では、生活指導や教育全般を担当する将官1人を主任とし、補佐の佐官2人、衣食住に関わる尉官3人を置いて御学問所を運営。学友は6~8人の少人数で陸海軍志望者に限るという、軍事的色彩の強いものだった。また、主任の将官は東宮仮御所内に居住するとされ、おそらく乃木自身が、その役を担う覚悟でいたようだ。
だが、乃木は殉死した。その代わりに、乃木の名声に匹敵する人物として、元帥海軍大将の東郷平八郎に白羽の矢が立ったのである。
東郷は当時66歳。すでに軍務の一線からは退いており、最後のご奉公の思いで大任を引き受けた。・・・
なお、宮内省の意向もあり軍事的色彩は弱められ、宮相となる波多野敬直が副総裁に就任したほか、評議員の一人に東京帝大総長の山川健次郎が選ばれた。・・・
問題は倫理、すなわち学問としての帝王学を誰が教えるかだ。
将来の天皇の思想形成に直結する科目である。哲学の専門家なら誰でもいいというわけにはいかない。
当初、候補にあがったのは現職の東京帝大総長、山川健次郎と、一高(現東京大教養学部)の名校長といわれた元京都帝大文科大学長(文学部長)、狩野亨吉(かのう・こうきち)だった。しかし2人が固辞したため人選は難航し、東宮御学問所の授業が始まっても決まらなかった。
当時東宮侍従だった甘露寺受長によると、人選を急ぎたい東宮大夫の浜尾新(元東京帝大総長)が、山川にこう相談したという。
「大学教授の中で、適任者はいないでしょうか」
山川が答えた。
「お恥ずかしい話ですが、大学教授の中には一人もいません。しかし民間に、一人だけいます」
このとき、山川が推したのが、杉浦重剛である。
安政2(1855)年に近江国膳所(ぜぜ)藩の儒者の家に生まれ、文部省留学生としてイギリスで化学を修学、27歳で大学予備門(のちの一高)校長に抜擢された英才だ。東京英語学校(のちの日本中学、現日本学園)を設立する一方、雑誌「日本人」などの刊行に尽力し、東京朝日新聞の論説記事も長年執筆するなど、教育・言論界で幅広く活躍した。
だが、当時は持病の神経衰弱のため、長期にわたり転地療養を繰り返しており、新聞にも故人扱いされるほど世間から遠ざかっていた。
この杉浦が、東宮御学問所を活気づかせ、さらには皇太子妃選定にも大きな影響を及ぼすことになる--。」
<a href=’https://www.sankei.com/article/20180916-USLIUDPRLRJGDDB263NU2BTHDQ/?953217′>https://www.sankei.com/article/20180916-USLIUDPRLRJGDDB263NU2BTHDQ/?953217</a>
「杉浦重剛<(1855~1924年)は、>・・・明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家・政治家。・・・
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文(蕉亭)<の>・・・次男として生まれる。・・・数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。・・・
明治9年(1876年)、第2回文部省派遣留学生に選抜されて櫻井錠二らと共に渡欧。化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンセスターの王立農学校に入るが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄した。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、明治13年(1880年)5月に帰国。・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E9%87%8D%E5%89%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E9%87%8D%E5%89%9B</a>

⇒(あの保守的で頭の固い、島津久光のひ孫であって、しかも私には性格破綻者に見える久邇宮朝融王、と、文字通りの精神障害者(双極性障害者?)であった杉浦重剛とがタッグを組んでごり押しをして良子女王を後の昭和天皇に「押し付けた」ことが、色覚異常などどうでもいいくらいの深刻な遺伝子的悪影響を昭和天皇の子孫である上皇や今上天皇(の女子の愛子様)や秋篠宮(の子供達)に与えることになった、と、言えるのかもしれない。
もとより、(私見では非秀吉流日蓮主義者である)乃木希典が院長の学習院に裕仁の初等教育を委ね、恐らくは、裕仁の中等・高等教育は東宮御学問所を設置して行うことも乃木と合意済みであったところの、(私見では非秀吉流日蓮主義者である)明治天皇の責任こそ最も大きいが・・。(太田)

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3 結果としての対二条家布石

(1)二条昭実(1556~1619年):二条家15代当主

「正室:若政所
側室:さこの方(赤松政秀の娘、信長養女)
継室:三の丸殿(織田信長の娘)
子 康道、正雲院・・・

1575年・・・3月、織田信長の養女であるさこの方(赤松政秀の娘)を妻とする。・・・
1584年・・・12月に左大臣・藤氏長者となり、翌年に正親町天皇の関白となるが、羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)が内大臣となるのに伴い、左大臣を辞した。
同年(1585年)5月、近衛信輔と関白の地位をめぐって口論(関白相論)となり、7月に関白職を秀吉に譲った。
秀吉死後の・・・1599年・・・、秀吉の晩年の側室だった三の丸殿(信長の六女)を娶った。
・・・1605年)、准三宮の宣下を受ける。江戸幕府との関係も良好で、・・・1613年・・・に養子に迎えた九条忠栄(幸家)の子に、徳川家康の偏諱を賜って康道とした。以後、二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となった(二条家は室町時代には足利将軍家からも偏諱を受け、五摂関家の中では武家と一番親しい家柄であった)。
・・・1615年・・・、後水尾天皇により関白、藤氏長者に再任され(30年ぶりの再任は極めて異例)、禁中並公家諸法度の制定にも関与して、大御所・家康および将軍・徳川秀忠とともに連署している(ただし、実際の関白・氏長者任命日(7月28日)が予定よりも遅れたために、禁中並公家諸法度への連署の日付(7月17日)の方が先になってしまっている。このために一般には「前関白」と認識されている事が多い)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F</a>

⇒一見、九条家系でも最も武家べったりの二条家の当主らしく、織田家、次いで豊臣家、そして徳川家、との緊密な関係構築に大童の生涯を送ったように見える二条昭実だが、織田家、次いで豊臣家との広義の縁戚関係を通じて秀吉流日蓮主義に染まった可能性が大であり、そうだとすれば、私が推測したところの、秀吉に関白就任をされてしまった経緯が、近衛家との合作の世間向けの御伽噺であったのかもしれない。
仮にそうだったとすれば、二条昭実が、豊臣完子直伝の秀吉流日蓮主義に染め上げられたところの、九条幸家との話し合いで、その子の康道を養子にもらい受けたゆえんも説明がつく。(太田)

(2)二条康道(1607~1666年)

「父:九条幸家
母:豊臣完子 – 豊臣秀勝の娘
正室:貞子内親王(後陽成天皇皇女)
男子:二条光平(・・・1625年・・・ – ・・・1682年)・・・」
生母未詳
女子:華山仙禅師(? – 寛文11年(1671年)) – 慈受院
女子:瑞照院日通(? – 寛文12年(1672年)) – 瑞龍寺」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BA%B7%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BA%B7%E9%81%93</a>

⇒瑞龍寺門跡は、秀吉の姉ので秀次の母の日秀、九条幸家と豊臣完子の女子の日怡、そして、二条康道の女子の日通、と受け継がれ、更に、鷹司教平の女子の日寿、へと受け継がれていく
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)</a>
が、この時点で、九条家-二条家-鷹司家(-近衛家)、の、秀吉流日蓮主義信奉家同盟が成立していることが見えて来る。(太田)

(3)二条光平(みつひら。1625~1682年)

「父:二条康道
母:貞子内親王 – 後陽成天皇の皇女、後水尾天皇の同母妹
正室:賀子内親王 – 後水尾天皇の第六皇女、明正天皇の同母妹
女子:隆崇院 – 九条兼晴の養女、徳川綱重<(注8)>正室
養子
男子:二条綱平 – 九条兼晴の子
女子:紅玉院 – 綾小路俊景または山科言行の娘、鷹司孝子養女、徳川綱重継室
猶子
男子:永悟法親王 – 後西天皇皇子」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%85%89%E5%B9%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%85%89%E5%B9%B3</a>

(注8)徳川綱重(1644~1678年)は3代将軍徳川家光の三男(二男は夭折。長男は4代将軍家綱(1641~1680年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%80%E6%9D%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%80%E6%9D%BE</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1</a>

<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D</a>
には保良(長昌院)という、綱重より7歳年長の側室がいて、それぞれが、後の徳川家宣、松平清武となるところの、男子を生んでいたが、まだ綱茂に正室がいないことに、恐らくは島津家からの情報で知った近衛家が、二条光平に対し、保良が日蓮宗信徒である
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%8C%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%8C%E9%99%A2</a>
<a href=’https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/nippori001.html’>https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/nippori001.html</a>
から、綱重を秀吉流日蓮主義者に仕立て上げられるかもしれない、と、二条光平の女子を九条家を経由させることで更に箔付けした上で綱重の正室に送ることを提案し、光平がそれを飲んだのではなかろうか。
ちなみに、家綱には、徳川和子(東福門院)によって伏見宮貞清親王の第三王女が送り込まれていいて、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B</a>
そもそも、摂関家には手が出せなかった。
この「実績」の下、綱重と保良の子の家宣の下に、近衛家から近衛基煕の女子の煕子が正室として送り込まれ、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3</a>
煕子の尽力で、6代将軍家宣の死後、7代将軍吉宗を紀州徳川家から、「条件付」で迎え、『大日本史』の将軍家による受納を実現させる運びとなる(コラム#省略)わけだ。(太田)

(4)二条綱平(つなひら。1672~1732年)(尾形乾山のパトロン。前出)

(5)二条吉忠(1689~1737年)

「父:二条綱平(1672-1732)
母:栄子内親王(1673-1746) – 霊元天皇皇女
正室:利子(栄君、直姫)(1693-1749) – 前田綱紀六女
女子:二条淳子(1713-1774) – 有栖川宮職仁親王妃
女子:二条舎子(青綺門院、1716-1790) – 桜町天皇女御、後桜町天皇母
妾:家女房
男子:二条宗熙(1718-1738)
妾:理性院
女子:瑞妙院日護尼(1717-1746) – 瑞龍寺7世
男子:隆遍(1721-1777) – 興福寺別当
男子:祐常(1723-1773) – 園城寺長吏
女子:二条喜子(1728-1745) – 多米姫、二条宗基室」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%90%89%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%90%89%E5%BF%A0</a>

⇒女子を瑞龍寺の門跡に就けていることに注目。(太田)

(6)二条宗煕(1718~1738年)

「父:二条吉忠
母:家女房
妻:不詳
養子
男子:二条宗基 – 九条幸教<(前出)>の子」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%97%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%97%E7%86%99</a>

(7)二条宗基(1727~1754年)

「父:九条幸教
母:徳川三千君(尾張藩主・徳川吉通の長女)
養父:二条宗熙
妻:二条喜子(二条吉忠の娘)
妻:家女房
男子:二条重良(1751-1768)
男子:二条治孝(1754-1826)
女子:五千姫(本願寺文如室)(1750-1809)」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%9F%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%9F%BA</a>

⇒これで、二条家と尾張徳川家も縁戚関係になったわけだ。(太田)

(8)二条重良(しげよし。1751~1768年)

(9)二条治孝(はるたか。1754~1826年)

「早世した兄・重良の跡を継いだ。・・・
父:二条宗基
母:家女房
正室:徳川翰子(嘉姫) – <水戸藩5代藩主>徳川宗翰の次女
長男:<二条家当主>二条斉通(1781年 – 1798年)
三男:<九条家当主>九条輔嗣(1784年 – 1807年) – <九条家当主>九条輔家養子
六男:二条斉信(1788年 – 1848年) – 兄斉通の跡を継ぐ
側室:樋口信子 – 樋口基康の娘
十一男:<二条家当主>九条尚忠(1798年 – 1871年) – 兄九条輔嗣の跡を継ぐ
家女房
四男:西園寺寛季(1786年 – 1856年) – 西園寺賞季養子
五男:胤麿 – 三条実起養子
男子:増護(? – 1875年)- 随心院門跡
男子:道永(? – 1821年) – 理性院
男子:信観
十九男:松殿隆温(1811年 – 1875年) – 二条斉信養子、大乗院門跡、のち還俗(奈良華族)
女子:隆子(彰君) – 乗蓮院、<一橋家当主>徳川治国正室
女子:利子(恒姫)
女子:親子(誠君) – 西本願寺大谷光摂室
女子:保子(脩君) – <一橋家当主>徳川斉敦正室
女子:嬉子(昌君) – 西本願寺大谷光摂次室
女子:軌子(五百君) – 花園公熙養女
女子:福子(徳君) – 宝林院、黒田斉清正室
女子:多喜子(興姫) – 播磨本徳寺昭堯室
女子:武子(理君) -乙瀬重信正室
女子:広子(篤君) – 河内顕證寺摂真室
女子:育子(英君)
女子:柔子 – 越前誠照寺室
女子:近子(嶺君)(1804年 – 1849年) – 仏光寺随念真導室、のち、仏光寺執行法務
女子:純姫(純君)
女子:遂子(千萬君) – 甘露寺国長養女、鍋島直与継室
女子:最子(光君) – 松平頼縄継室
女子:常子(喜久君) – 播磨本徳寺昭明室」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%BB%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%BB%E5%AD%9D</a>

⇒二条家は、更に水戸徳川家とも縁戚関係になったわけだ。(太田)

(10)二条斉通(なりみち。1781~1798年)

(11)二条斉信(1788~1847年)

「父:二条治孝
母:徳川翰子(徳川宗翰の次女)
正室:徳川従子 – <水戸藩7代藩主>徳川治紀の三女
次男:二条斉敬
五女:二条広子 – 有栖川宮幟仁親王妃・・・」

⇒二条家の水戸徳川家との縁戚関係は盤石なものとなった。
また、ある意味当然のことながら、二条家は、「本家」の九条家とは養子の送り込みによって完全に一体化したと言えよう。
注目すべきは、同じ徳川治紀の今度は四女の徳川清子が鷹司政通(1789~1868年)の正室になっている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A</a>
ことだ。
つまり、幕末の、余りにもクリティカルな時期に、近衛家/島津氏、と、九条家–鷹司家、と、尾張徳川家/水戸徳川家、の、縁戚関係を通じた盤石の同盟が成立したことになる。
なお、鷹司輔煕(1807~1878年)が一条忠良の女子の一条祟子を正室に迎えている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95</a>
ので、一条家もこの同盟の一員になった、と言ってよさそうだ。
つまり、幕末期において、摂関5家は結束しており、この摂関家総体が、島津氏・尾張徳川家・水戸徳川家、と、盤石の同盟関係・・縁戚関係を通じた血盟関係と言うべきか・・にあったというわけだ。
なお、このような観点からすれば、一体化した摂関家総体が、一条忠香に今出川公久の娘を養子にして、水戸徳川家出身の徳川慶喜の正室に送り込ませた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A6%99</a>
のはイミシン、ということになる。
また、13代将軍徳川家定に、「関白鷹司政煕の二十三女<を>兄の関白鷹司政通の養女として」正室に送り込み、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BB%BB%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BB%BB%E5%AD%90</a>
次いで、「一条忠良<が>十四女」を継室として送り込み、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%AD%90</a>
更に、今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛<の女子を>・・・島津斉彬<が>養女<としたものを>・・・近衛忠煕<が>養女<として>」継室の継室として送り込んだ
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2</a>
のは、上記血盟による、徳川将軍家安楽死作戦を象徴している、といったところか。
(この対家定作戦に関しては、島津斉彬の役割は、意外や意外、単にわき役だった、とさえ言えるのかもしれない。)
(太田)

(12)二条斉敬(なりゆき。1816~1878年)

「二条斉信と徳川従子(水戸藩7代藩主・徳川治紀の娘で斉昭の姉)の次男として誕生。徳川慶喜の従兄弟でもある。・・・
黒船来航以来の政局にあたっては叔父の徳川斉昭と同調し、日米修好通商条約締結の勅許も不可を唱えた。・・・1858年・・・に大老となった井伊直弼の主導により、紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)が14代将軍に決定すると、将軍宣下の使者として江戸へ下向。直弼との面会を望むが断られる。同年より始まった安政の大獄では処罰の対象となり、翌・・・1859年・・・2月に10日間の慎(つつしみ)を命じられた。しかし、翌月には内大臣に昇進。・・・1862年・・・にはさらに右大臣に進んだ。
京都の地で尊王攘夷運動が高まりを見せると、青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)などと共に公武合体(親幕)派と目される。<1862>年12月に国事御用掛に任ぜられ、三条実美や姉小路公知ら攘夷派の過激公卿、およびそれを支援する長州藩と対立。・・・1863年・・・、前関白の近衛忠煕や朝彦親王と共に薩摩藩および京都守護職の会津藩主松平容保を引き入れ、八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放(七卿落ち)に成功した。もとより公武合体を強く欲していた孝明天皇の信頼はますます篤く、同年9月には内覧を命じられ、12月には従一位・左大臣に昇進。あわせて関白となるよう詔勅が下され、拝受した。
以後、朝彦親王と並んで孝明天皇を補佐し、長州処分問題、条約勅許問題、一橋慶喜の徳川宗家相続問題などの重要な政務を取り仕切り、親幕派公卿として活躍。このため、王政復古派の公卿から反撥され、・・・1866年・・・8月には中御門経之・大原重徳ら22名の廷臣が列参して、朝政改革を奏請する事態に発展、斉敬および朝彦親王の罷免を要求するに至った。このため、斉敬は国事扶助の任に耐えずとの理由により辞表を奉呈するが、2人に対する孝明天皇の信頼は篤く、辞意は認められなかった。かえって翌月、22名の廷臣が譴責処分を受けることとなった(廷臣二十二卿列参事件)。ひとまず危機は乗り越えたものの、肝心の孝明天皇が同年暮れに崩御。斉敬の地位は安泰ではなくなる。
翌・・・1867年・・・正月、明治天皇が践祚すると、引き続き摂政に任ぜられ、国政に当たったが、この頃より次第に王政復古派が復権。ついに10月には慶喜が大政奉還を行い、朝廷に政権を委ねるに至る。12月9日の王政復古の大号令により天皇親政が宣言され摂関は廃止された。それに伴い斉敬も朝彦親王と共に参朝を停止された。翌・・・1868年・・・8月には赦されたが、その後朝政には参与することは無かった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC</a>

⇒二条斉敬は、近衛忠煕・・その背後には、島津斉彬と徳川斉昭・慶喜父子、がいる・・を中心とする全摂関家の協議の下、水戸徳川家との縁戚関係故に自然に見えることから、常に、孝明天皇に同調して同天皇を補佐する役割を演じ続けた、というのが私の、つい最近までの私の見方だったが、現在ではそれを更に一歩進め、二条斉敬は、孝明天皇に、攘夷佐幕というスタンスを採るように仕向け続けることによって、尊王討幕運動を掻き立てる一方で、幕府に輪王寺宮を擁しての孝明天皇打倒機運の醸成をさせない、そしてそうすることで、幕府を最小限の流血と時間で瓦解させる、という際どい役割を演じ続けた、と見るに至っている。(太田)

4 対徳川家布石

(1)序

以上のように、秀吉が、九条家に対して布石を打っていたことは間違いなさそうであるとの心証が得られたわけだが、その秀吉が、(近衛家に先だって、)徳川家を秀吉流日蓮主義信奉家へと改造するための布石も打っていた、と想定し、そういう目で、徳川家と、広義の豊臣家との縁戚関係等を振り返ってみたところ、これについても、図星だった。

(2)秀忠

「豊臣秀吉の側室となったお江の姉・茶々は、豊臣秀吉との間に「豊臣秀頼」を授かりました。そして豊臣秀吉は、お江に対して「女の子が生まれたら豊臣秀頼に娶らせよ」と言って徳川家に嫁がせます。
相手は「徳川秀忠」で、徳川家康の嫡子です。
つまり、徳川秀忠と結婚して授かった娘を豊臣秀頼と結婚させることができれば、徳川家を丸々豊臣家に取り込めることになるのです。・・・
お江が徳川秀忠のもとに嫁ぐ際、彼女は娘の完子を連れて行きたいと願います。しかし、それを許さなかった豊臣秀吉は母娘を引き離し、茶々に養育させることにしました。こうして大切な娘まで奪われ、お江はひとり徳川家へと足を踏み入れたのです。」
<a href=’https://www.touken-world.jp/tips/46509/’>https://www.touken-world.jp/tips/46509/</a>

⇒典拠が付いていないが、「徳川家を丸々豊臣家に取り込めることになる」かどうかはともかくとして、当たらずとも言えど遠からずではないかと思う。
なお、秀忠と江の間に千姫が生まれたのは1597年で秀吉が亡くなる前年
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%A7%AB</a>
なので、この時に秀吉が家康に千姫を将来秀頼(1593~1615年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC</a>
に娶せることを命じた、と、見てもよいのではないか。
輿入れは、1603年だった。(上掲)(太田)

「完子<は、>・・・1604年・・・6月3日、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が没している」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90</a>

⇒秀忠の乳母さえ秀吉が指名して送り込んだと見られる(上出)ところ、この乳母は、間違いなく、日蓮宗信徒で秀吉の指名だったはずだ。(太田)

「豊臣秀頼<の>・・・乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC</a>

⇒宮内卿局は、その父親の青木俊矩も夫の木村重茲も、それぞれの墓所からも日蓮宗信徒ではなかった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF%E5%B1%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF%E5%B1%80</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%BF%8A%E7%9F%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%BF%8A%E7%9F%A9</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%8C%B2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%8C%B2</a>
ことからして、本人も日蓮宗信徒であったとは思えないし、右京大夫局は、素性が全く分からない
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E5%B1%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E5%B1%80</a>
し、正栄尼は、「父は明智光秀、浅井長政など、様々な説がある」が、光秀も長政も日蓮宗信徒ではないし、彼女の肖像画が伝わる寺も日蓮宗の寺ではない
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%A0%84%E5%B0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%A0%84%E5%B0%BC</a>
ことから、彼女もまた、日蓮宗信徒であったとは思えない。
また、大蔵卿局も、その戒名からして、日蓮宗信徒ではなかった。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%8D%BF%E5%B1%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%8D%BF%E5%B1%80</a>
(なお、幼くして亡くなった豊臣鶴松の乳母は不明だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E9%B6%B4%E6%9D%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E9%B6%B4%E6%9D%BE</a> )
秀吉が、秀忠・・恐らく・・や完子の場合とは違って、秀頼には日蓮宗信徒の乳母を付けなかったのは、信長に倣って、日蓮主義者ではあっても、日蓮宗信徒にならなかった自分同様、秀頼にもそうであって欲しかったからではなかろうか。
しかし、果して、秀頼が日蓮主義者にはなったかどうかすら、永遠に不明になってしまった。
また、秀吉は、完子を日蓮宗信徒にするのには成功したけれど、秀忠を日蓮宗信徒にするのには失敗したわけだが、恐らくそれは、家康が、秀忠にそうならないように訓育し、かつ、崇伝や天海に予防的脱マインドコントロールを行わせたからではなかろうか。(太田)

—————————————————————————————–
[家康の子供達]

参照用だ。

正室:築山殿(清池院) – 関口親永娘
長男:松平信康(1559~1579年) ←切腹
長女:亀姫 – 奥平信昌室
継室:朝日姫(南明院) – 豊臣秀吉妹
側室:西郡局(蓮葉院)※ – 鵜殿長持娘
次女:督姫 – 北条氏直正室のち池田輝政継室
振姫(孝勝院)*※ – 伊達忠宗室
側室:小督局(長勝院) – 永見吉英娘
次男:結城秀康(1574~1607年) – 越前松平家祖 ←秀吉養子
松平忠昌*
側室:西郷局(竜泉院) – 西郷清員養女、戸塚忠春娘
三男:秀忠 – 江戸幕府第2代征夷大将軍 ←嫡男
四男:松平忠吉(1580~1607年)
側室:於竹(良雲院) – 市川昌永娘
三女:振姫 – 蒲生秀行室のち浅野長晟室
側室:下山殿(妙真院) – 穴山信君養女、秋山虎康娘
五男:武田信吉(1583~1603年)←母は甲斐武田氏支流の秋山虎泰の女子
側室:茶阿局(朝覚院)
六男:松平忠輝(1592~1683年)
七男:松平松千代(1594~1599年) ←夭折
側室:於亀(相応院) – 志水宗清娘
八男:松平仙千代(1595~1600) ←夭折
九男:義直(1601~1650年) – 尾張徳川家祖
側室:於久(普照院) – 間宮康俊娘
四女:松姫
<以下、後述。>
側室:蔭山殿(養珠院)※ – 江川英長養女、正木頼忠娘
十男:頼宣* – 紀州徳川家祖
十一男:頼房 – 水戸徳川家祖
側室:於梶(英勝院)※ – 太田康資娘
五女:市姫

※ 日蓮宗信徒
* 英勝院養子/猶子
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7</a> に加工
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E5%8D%83%E4%BB%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E5%8D%83%E4%BB%A3</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%BA%80%E3%81%AE%E6%96%B9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%BA%80%E3%81%AE%E6%96%B9</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BB%99%E5%8D%83%E4%BB%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BB%99%E5%8D%83%E4%BB%A3</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8C</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%8B%9D%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%8B%9D%E9%99%A2</a>
—————————————————————————————–

(3)秀康

養子にした。

(4)忠吉

布石を打っていない。(正室は井伊直政の女子、政子。)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89</a>

(5)信吉

「豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶<らせ>た。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%89</a> 前掲
しかし、高台院の実家の係累に日蓮宗信徒は見当たらない。

(6)忠輝

布石を打っていない。(正室は、伊達政宗の女子、キリシタンの五郎八姫。)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D</a> 前掲

(7)松千代

布石を打っていない。

(8)仙千代

布石を打っていない。

(9)義直

母親は、仙千代の母親でもある、於亀(1573~1642年)だが、彼女は、「石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である京都<の八幡市の浄土宗>正法寺
< <a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)</a> の住職、>志水宗清の娘〔で、石清水八幡宮神主、田中甲清の娘を母とする。〕・・・初めは[斎藤道三家臣を経て徳川家康家臣となっていた]竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む。夫と死別後、<徳川家の>奥勤めに入る。その後〈豊臣家臣の〉石川光元の側室となり石川光忠を生むが、離縁後の・・・1594年・・・、22歳の時、家康に見初められ側室に入<った人物だ。>」(注9)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%BA%80%E3%81%AE%E6%96%B9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%BA%80%E3%81%AE%E6%96%B9</a>
<a href=’https://ncode.syosetu.com/n7661el/1/’>https://ncode.syosetu.com/n7661el/1/</a> (〔〕内)
<a href=’http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takekosi.html’>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takekosi.html</a> ([]内)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%BF%A0</a> (〈〉内)

(注9)「家康は・・・京伏見に在する時が多くなったが、家康の居城は江戸城であり、時たま行き来する。その時、石清水八幡宮に詣で正法寺(京都府八幡市)で休憩するのを常とした。・・・
そこで、実家に戻っていたお亀の方が、家康の接待に選ばれた。
家康は、お亀の方の行き届いた接待ぶりに好感を持った。
そして、住職や近習と談笑している時に垣間見た姿を頼もしく思う。
幼い男子、正信を軽く抱き上げ、ふくよかな身体で機敏に走り廻る姿だ。・・・
隠居城、伏見城が完成し、秀吉が政務を執るようになると、家康も伏見城下の屋敷に常駐する事になる。
そして、江戸に帰るのは秀吉の許可を得たときだけで、ほとんど帰れなくなる。
広大な徳川家伏見屋敷が築かれ本拠となった。ここで、天下第二の大大名の屋敷として威容を整える。
奥御殿の陣容も充実させなければならず、側室・侍女など主要な女人は江戸から呼び寄せるが、それだけでは不足した。
その時、家康の頭に浮かんだのがお亀の方だ。
正法寺住職、志水宗清家にお亀の方を召し抱えたいと伝える。」
<a href=’https://ncode.syosetu.com/n7661el/1/’>https://ncode.syosetu.com/n7661el/1/</a>
「<於亀は、>晩年には、志水家菩提寺の正法寺に千両・・・寄進し、本堂、大方丈、唐門を建立した。・・・正法寺・・・は<、>江戸時代、尾張藩の庇護を受け、隆盛を極めた。・・・
<また、>1610<年>、石清水八幡宮領を「検地令免許、守護不入」の地とする徳川家康の朱印状が石清水八幡宮に届けられた。これは、石清水八幡宮の権威によることも大きかった・・・が、尾張藩の祖義直を産んだ亀女の働きによることが大きかったと考えられる。また、これを裏付けるように、・・・1611<年>8月12日、亀女から石清水八幡宮社務三家へ書状が届けられ、そこには八幡宮社領が検地免除されたことを喜ぶとともに、そのお礼に八幡宮山上山下惣衆から家康に対し菖蒲革10枚が贈られたことに対するお礼の言葉が述べられている。これを初めとして、毎年正月に八幡宮社士惣中から年頭礼として菖蒲革3枚を献上するため、江戸へ参府されている。」
<a href=’https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/densetsu/densetsu_kamejo.html’>https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/densetsu/densetsu_kamejo.html</a>

⇒仮にこのような、家康と於亀とのなれそめが事実ないし半ば事実だとして、それは、家康にとって、初めての「恋愛結婚」だったということになり、私は今なお眉唾でいるのだが、それというのも、ここにも秀吉がからんでいてもおかしくない、と思っているからだ。
秀吉は、自分の血を分けた後継者が秀頼一人であり、自分に殆ど子供ができなかったことから、秀頼に男子ができない可能性があるし、そもそも、秀頼が成人するまでに、鶴松のように亡くなってしまう可能性もあると考えていたはずだ。
他方、自分の最大のライバルである家康は、既に男子が何人もいる上に、経産婦を漁っては男子を更に増やす努力を行っており、そのこと自体が、秀吉にとっては脅威だったと思われる。
で、どうせ、家康の男子がどんどん増えていくのなら、せめて、その中で(豊臣家の大義に自らをアイデンディファイするはずである)日蓮主義者を増やそうと企み、そのために日蓮宗信徒たる経産婦を家康の下に送り込む算段をした、と見ない方が不自然だろう。
うまく運べば、家康の子孫が豊臣家を裏切らない可能性が大きくなるし、仮に豊臣家が断絶したとしても、徳川家が代わって日蓮主義を追求してくれるかもしれない、と。
しかし、この仮説は、於亀自身には日蓮主義に繋がるものが見当たらないので、残念ながら、彼女のケースに関しては当てはまらなさそうに思う。
で、於亀が生んだ義直自身についてなのだが、彼は秀吉死後の生誕であり布石は打てなかったように見えるけれど、代わって、豊臣家と徳川家の双方に顔が利いた近衛家が、秀吉に代わって布石を打った可能性が大だ。
まず、義直の正室は、北政所の甥の浅野幸長、と、その正室(たる池田恒興の娘)、との間の女子である、春姫(1603~1637年)、である(注10)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E9%99%A2</a>
ところ、母方の祖父の池田恒興と母、及び、父の浅野幸長、から日蓮主義の何たるかを叩きこまれ、かつ父の影響で一時期だけキリシタンになっていた春姫・・織田氏の菩提寺たる単立の萬松寺が春姫の唯一の墓所である
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E9%99%A2</a>
こともあり、そう見てよいのではないか・・から、義直が強く影響を受けた・・「春姫には子供がなかったが、謹厳実直な義直は側室を置こうとはしなかった。しかし尾張徳川家の存続という責務も果たさねばならず、土井利勝は公命により側室を置くことをすすめ<、>・・・後に義直の跡は側室の子である徳川光友が継いでいる。」(上掲)ところ、この「謹厳実直」さは、一夫一妻制のキリシタン的だ・・と想像されるところ、要は、義直は、キリシタン的な日蓮主義者になったのではなかろうか。
その上でだが、義直と春姫の1608年の婚約のマッチメーカーは、豊臣家と徳川家の双方に顔が利く、近衛前久(1536~1612年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85</a>
・近衛信尹(1565~1614年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9</a>
父子だったのではなかろうか。

(注10)「1608年・・・、幸長の娘・春姫(高原院)が家康の九男・尾張大納言徳川義直と婚約した。・・・
・・・1612年・・・2月、義直の居城となる名古屋城普請(所謂、天下普請)に、幸長・加藤清正・福島正則・池田輝政ら、20大名が携わった。同じ年、義直と春姫の縁組が公表されたが、義直の病気などのために婚儀は順延となった。同年4月19日、弟の長晟に対して、豊臣秀頼から知行2,000石を加増するという書状があったので、幸長は幕府に伺いを立てている。
・・・1611年・・・3月28日、後陽成天皇の後水尾天皇への譲位に際して、秀頼が二条城に登城して千姫の祖父・家康と会見することになり、秀頼の親族の福島正則・加藤清正・幸長が警護役に指名されるが、正則が罹患を理由に辞退したため、清正と幸長の2人で家康と秀頼の対面の場に同席してその警備を行った。4月7日、父・長政が亡くなった。長政の隠居料5万石は、下の弟の長重に与えられた。清正は肥後国へ帰国し、6月24日に亡くなった。
・・・1613年・・・8月25日、幸長は和歌山で病死した。享年38。幸長には男子がなかったため、次弟の長晟が家督を継いだ。晩年は病気平癒を願ってキリスト教を信奉していたという。春姫にも洗礼名があった。なお、春姫と<その姉で>松平忠昌の正室となった花姫は子女を儲けることが無かったため、幸長直系の子孫はいない。
・・・1615年・・・2月15日、尾張藩より成瀬正成・竹腰正信が使いとして浅野家に来て、幸長の死で破談になったと噂されていた春姫と義直の祝言を4月に行うと告げた。しかし3月1日に祝言は6月に延期するという知らせが駿府の家康のもとから来た。ところが、やはり4月に行うということになって、4月12日に婚儀が執り行われた。白銀2000両などが家康への持参金として支払われ、驚くほど豪華な婚儀であった。また14日には豊臣秀頼も祝儀として刀・呉服などを下賜した。これは大坂夏の陣が始まる直前であり、戦端が開かれる前に婚儀を行うか、開かれた後に行うか揉めたわけである。1か月も経たぬ5月8日に大坂城は落城して豊臣家は滅亡したが、徳川家の親族に鞍替えした浅野家は末永く存続した。・・・
加藤清正と同じく徳川家康の天下を認めつつも、終生にわたって豊臣家に忠誠を誓い続けた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7</a> 前掲
「松平忠昌<(1598~1645年)は、>・・・越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8C</a>
英松院 「1607年・・・1月に、家康最後の子である五女・市姫を30歳で産む。市姫は仙台藩主伊達政宗の嫡男・虎菊丸(のちの伊達忠宗)と婚約するが、4歳で夭折する。不憫に思った家康は蔭山殿(万)の産んだ鶴千代(のちの徳川頼房。水戸藩・徳川家初代藩主)、越前藩主結城秀康の次男である虎松(のちの松平忠昌。越後高田藩などを経て福井藩を相続。)、外孫であった振姫(姫路藩主池田輝政の娘)らの養母とした。振姫はのち、伊達忠宗に嫁ぐ。」墓所は相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)の浄土宗英勝寺と静岡県三島市の日蓮宗妙法華寺。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA</a>

これに加えて、こちらの方はまず間違いないと思っているのだが、近衛信尋による(於亀の石清水八幡宮のご縁を活用したと思われるところの、)松花堂昭乗(1582~1639年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97</a>
の義直の下への送り込み、と、昭乗を通じて信尋(1599~1649年)自身が義直(1601~1650年)(生没年はそれぞれのウィキペディアによる)の友人になること、が相俟っての、義直への日蓮主義の重畳的刷り込みだ(コラム#12176、12455)。

(10)頼宣と頼房

これに対し、紀州徳川家の祖となった頼宜、と、水戸徳川家の祖となった頼房、を生み、両家、とりわけ後者の日蓮主義志向性の基盤を与えることとなったところの、萬、を、1593年に、家康の側室・・継室の朝日姫(1543~1590年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A7%AB</a>
が亡くなって以降、家康は正室を迎えていない・・に差し向けた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2</a>
のは、(近衛家とは無関係で、)まさに秀吉であった可能性があるのではなかろうか。
「蔭山殿(於<萬。1577~1653年)は、>・・・蔭山氏広養女のち江川英長養女、徳川家康側室・・・秀吉の小田原征伐の際、蔭山氏広が母親と於万を連れて逃れた」(上掲)とあることを手掛かりに、調べてみた。
まず、(1551~1622年」)は、「<三浦氏の末裔を称する
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5</a> >安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主。・・・里見義堯の娘を後室として迎え、・・・1587年・・・には北条氏と交渉し、小田原で人質となっていた直連と為春を上総に呼び戻した。なお、前室は<1584年に(上掲)>蔭山氏広の室となり、於万(蔭山殿)は氏広の養女として育てられた。
・・・1590年・・・、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、秀吉の命令で徳川家康が関東に移封されたため、里見氏は上総国を失うことになり、勝浦正木氏も上総国の所領を捨てて安房国に去った。鴨川市内の成川には環斎屋敷と伝えられる館状の遺構が残っており、安房に退去した後に住した館跡とされる。
・・・1592年・・・に剃髪し、日嘯(日正)と号して法華経を寄進している。娘の於万が家康に見初められ側室として寵愛を受けるようになると、・・・1598年・・・に家康より徳川氏への出仕を求められたが、頼忠は固辞し、代わりに次男の為春が出仕に応じている。また娘の於万が家康の側室となってからは、頼忠は里見氏から一門扱い・・・という格別な待遇を与えられる。・・・1603年・・・には長男の直連が松平忠吉(徳川家康の四男)の家臣となった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E5%BF%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E5%BF%A0</a>
次に、蔭山氏広(?~?年)は、「蔭山氏の始祖は足利持氏の7男とされる蔭山広氏で・・・蔭山氏広の妻は北条氏隆の娘(北条氏堯の娘とも)であり、前夫の正木頼忠との間に生まれた娘を養<った。>」
<a href=’https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/kageyama’>https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/kageyama</a>
足利持氏の戒名
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F</a>
やその嫡男の成氏の墓所
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F</a>
からして、蔭山氏は当初日蓮宗信徒ではなかったが、その後、代々日蓮宗を信仰する
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2</a> 前掲
ようになったようだ。
最後に、江川英長(1561~1632年)は、「父と同じく後北条氏に仕えたが、しばしば三河国の徳川家康を訪ねて親交があった。だが笠原隼人という同僚に徳川家と昵懇であると讒言されたため、笠原を殺して三河国に出奔した。北条氏規の口添えがあり、家康に仕え戸田尊次の下に配属された。
・・・1582年・・・の北条氏と徳川氏の戦いであった「天正壬午の乱」ののちの講和条件のひとつとして、北条氏から「江川家の跡取りなので返還して欲しい」と申し入れがあり、・・・1583年・・・に家康の次女督姫が北条氏直の正室として入嫁した際に、これに従って・・・帰った。
・・・1590年・・・小田原征伐の際し、再度出奔して徳川軍に加わった。<後北条方として>韮山城に籠城した父英吉と通じて、開城和睦の交渉を行った。戦後は父も赦免され、江川家は旧領を与えられた。・・・1596年・・・に伊豆代官を命じられた。ただしこの頃、韮山城の城主として内藤信成がおり、その他の者の所領もあったため、英長が伊豆一国を支配していたわけではない。
・・・1593年・・・、蔭山氏広の養女(正木頼忠の娘)・蔭山殿が、英長の養女として家康にお目見えし、家康の側室となった。
大坂の陣には子の江川英政と共に出陣した。また鎌倉時代より伝わる造酒の室の修理を許され、後に家康・秀忠父子に酒(江川酒・江川樽)を献じて賞された。
・・・72歳で死去した。家督と領地および伊豆韮山代官職は子の英政が相続した。
韮山代官の采配する地は当初は5千石以下であったが、元禄年間以降に周辺の代官職の役割と支配地を次々統合することとなり、時代により増減はあるものの、伊豆国および周辺国の徳川家直轄領(天領)を支配経営する一大役職となった。韮山代官の現地代官所は旧・韮山城の一角に建てられた江川家屋敷に併設された。以降の韮山代官職は職務不正により罷免された中断時期がありつつ、幕末まで江川家が相続した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%95%B7</a>
幕末のあの有名な江川英龍の墓所が韮山にある日蓮宗の寺院であること
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D</a>
から、当該寺院が江川の墓所であって、江川氏歴代は日蓮宗信徒であったと思われる。
さて、萬に関して、「大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、徳川家康が喜んでいることを<萬>が為春に知らせた古文書が残る。・・・三浦為春はのちに<萬>の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩の御附家老となった。・・・義弟に江戸幕府旗本の蔭山貞広<がいるが、>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2</a> 前掲
「為春<は、>・・・妹の於<萬>(養珠院)が・・・徳川家康の側室と・・・なると、・・・隠居した父に代わって・・・1598年・・・に召し出され、3,000石を与えられた。また、家康から正木姓を改めて三浦姓に復することを許され、以後は三浦為春と名乗り、三浦氏の祖とされる三浦為通の官名に肖って長門守と称し<、>・・・1603年・・・に妹・於<萬>が産んだ家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられ、・・・1608年・・・2月20日には常陸国内に5,000石を賜<り、>翌・・・1609年・・・に頼宣が駿府藩50万石に転封されると、遠江国浜名郡に8,000石を領し<、>同年9月、家康の命を受け、前年に加藤清正の五女・八十姫と婚約していた頼宣の結納使となり、清正の領国である肥後国に下って納幣<し、>大坂の陣では頼宣に従って出陣<し、>戦後は頼宣と共に京都に滞在し、京都では日蓮宗(法華宗)の僧で不受不施派の祖となった日奥の教化を受け<、>・・・1619年・・・には紀州藩55万5,000石に転封された頼宣の紀伊入国に随行した。為春は紀伊国那賀郡貴志邑1万5,000石を治める「万石陪臣」となり、貴志城を築城し<、>子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれ」、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5</a> 前掲
「貞広は徳川家康に召されて小姓として出仕し、後に武蔵国児玉郡に1,000石を与えられ<、>・・・1615年・・・、2代将軍・秀忠に従って参内し、従五位下・因幡守に叙され<、>それまで蔭山氏は紀氏を本姓としていたが、この時に源氏に復姓し<、>後に書院番に転じ、・・・1633年・・・常陸国鹿島郡に200石の加増を受けて計1,200石を領した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%AD%E5%B1%B1%E8%B2%9E%E5%BA%83′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%AD%E5%B1%B1%E8%B2%9E%E5%BA%83</a>
ということなので、萬は、実家とも(実)養家とも良好な関係を維持したまま家康の下に送り込まれたと思われる。
で、妄想であるとの誹りを甘んじて受けるが、例えば、秀吉が、姉の日秀を通じて日蓮宗の人脈を使って、由緒正しい美人の日蓮宗信徒の経産婦たる女性を捜し出した上で、江川英長に、その娘を家康へ側室として送り込むよう頼み込んだが、それが秀吉/日秀の差し金であることが絶対に分からないように工作した、といったことが考えられよう。
その目的は、家康に、生母が日蓮宗信徒である男子を作らせることだったと見るわけだ。

—————————————————————————————–
[西郡局・督姫母子と両池田家]

そもそも、家康には、日蓮宗信徒の、(しかし、女子しか生まなかったところの)側室、が既にいたのだから、日蓮宗信徒だから拒否する、ということは考えにくかったはずだ。。
その既にいた信徒の側室とは、西郡局だ。
西郡局(にしのこおりのつぼね。1548~1606年)は、「上ノ郷城主・鵜殿<(うどの)>長持の娘。・・・1560年)の上ノ郷城落城後に徳川家康の側室となり、・・・1565年・・・に家康の次女・督姫を産んだ。
・・・1583年・・・督姫は天正壬午の乱の和睦の条件として北条氏直の正室となった。
しかし・・・1591年・・・に氏直が死去したため豊臣秀吉の周旋<(注11)>で、・・・1594年・・・、池田輝政に再嫁した。

(注11)「秀吉は池田輝政に崇源院(秀吉の側室・淀殿の実妹)を嫁がせようと家康に相談したが、家康が「浅井の娘(崇源院)を秀忠と縁組させたいので、(その代わりに)輝政には私の娘(督姫)を嫁がせる」と頼んだため、秀吉が受け入れたという。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF</a>

⇒この典拠は村川浩平「池田輝政の男子について」(1992年)(上掲)となっていて・・但し、同じ村川の『日本近世武家政権論』(2000年)としているものもある
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF</a>
・・、村川の典拠が何だったのかまでは調べていないが、恐らくは、徳川家側の典拠ではないか。
というのも、「<秀吉の>時代、輝政は豊臣一族に準じて遇されていた」(上掲)のだから、そこに、当時「秀吉の実の甥で養子の・・・豊臣秀勝」の未亡人であった江
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2</a>
を嫁入りさせることを、秀吉が家康に相談する必要などさらさらないからだ。
「1590年・・・に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の[1591年の]死去により婚礼には至らなかった」秀忠
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%AB</a> ([]内)
に、1594年に江を娶せる話を秀吉が家康に持ちかけ、その際、「バーター」で、督姫を、事実上の豊臣一族である池田輝政にもらい受けたいとも申し入れ、家康が飲まされた、と見る。(太田)

西郡局は鵜殿氏が信仰していた法華宗に帰依しており、家康が上ノ郷城を落城させた際に焼失した長應寺を一族の日翁に再建させている。
西郡局は・・・1606年・・・5月14日に伏見城で没し家康の命により娘婿の池田輝政が葬式を執り行い、京都の<日蓮宗>本禅寺に葬られた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A1%E5%B1%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A1%E5%B1%80</a>
督姫(とくひめ。1565/1575~1615年)は、「督姫は氏直との間に2女を生む。
・・・1590年・・・、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌・・・1591年・・・に氏直が死去したため、父の下へ戻った。・・・1594年・・・12月27日、・・・池田輝政に再嫁し・・・5男2女をもうけた。
・・・1609年・・・4月2日に、息子の池田忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府の家康に会いに行った。・・・このとき督姫は母・西郡局のために、自分が家康と同じ浄土宗に変わることを条件に、輝澄を日蓮宗にすることを家康に願い出て認められた。・・・

⇒夫の輝政はもちろん、先妻の男子である利隆も、また、自分の男子5人のうち輝澄以外も、日蓮宗信徒にはなっていないのは、家康がそれを禁じたからだろう。
にもかかわらず、督姫が男子のうち一人だけを何がなんでも日蓮宗信徒にさせたのは、池田家の諸流中一つだけは代々日蓮宗信徒にさせることで、少なくとも池田家の本家筋が代々日蓮宗を保護してくれることを期待したのだろうが、日蓮宗信徒になった輝澄(1604~1662年)は、せっかく播磨国の山崎藩主になったというのに、御家騒動の責任を問われて改易になってしまう。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%BE%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%BE%84</a>
しかし、利隆の子である池田光政(1609~1682年)は、叔父の輝澄(上掲)、及び、その子で従兄弟の播磨福本藩主で日蓮宗信徒の池田政直(1634~1666年)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%9B%B4_(%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E8%97%A9%E4%B8%BB)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%9B%B4_(%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E8%97%A9%E4%B8%BB)</a>
から薫陶を受けたのではないかと想像されるが、筋金入りの日蓮主義者になっている(コラム#9663)。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF</a>
ちなみに、光政の女子の靖厳院が一条教輔に嫁ぎ、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%8E%B3%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%8E%B3%E9%99%A2</a>
その男子一条兼輝は、近衛基煕と政争を繰り広げるが、鷹司房輔の子の兼香に家督を譲っている(後出)。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C</a>

さて、「1616年・・・、輝政の長男・池田利隆は継母の督姫の後を追うように死去した。利隆の遺児・池田光政は岡山藩主となり、後に本多忠刻と千姫(秀忠の娘で督姫の姪にあたる)の長女・勝姫を正室に迎えた。・・・
池田家は利隆系と<督姫の子の>忠継系に分かれ、それぞれの子孫が岡山藩と鳥取藩の藩主となっていく」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E5%A7%AB</a>
わけだが、「輝澄を日蓮宗にすることを家康に願い出て認められた」のは、秀吉死後の話であるものの、秀吉は、生前、家康が自分の男子たる子孫が(恐らくは日蓮主義者になることを阻止するために)日蓮宗信徒になることを禁じていたことを知っていて、家康に、もう一人、日蓮宗信徒たる側室を送り込むことで、家康の子孫の中から、日蓮宗信徒は無理でも日蓮主義者が出現することを狙って、萬に白羽の矢を立て、彼女を家康に送り込むお膳立てをしたのではなかろうか。
その場合、可能性として、秀吉が、姉の日秀の日蓮宗人脈を通じて江川英長に話を通じ、英長から、日蓮宗信徒仲間の、正木頼忠と蔭山氏広と話をつけたことが考えられよう。
仮にこの私の想像が事実であったとしても、果して、その程度のことで、「家康の子孫の中から、日蓮宗信徒は無理でも日蓮主義者が出現すること」を期待できたのだろうか?
それは、日蓮宗の一派と言える創価学会ですら、折伏による会員(信徒)拡大がなされなくなっている現在では想像し難いことではあるが、徳川幕府成立前後の時代の日蓮宗はまだ強力な伝播力を維持していた以上は、当然期待できたのだ。
一例を挙げよう。
秀次はもちろんのこと、菊亭晴季の娘の一の台(秀次事件で斬首)も、日蓮宗信徒であった気配はない。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%8F%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%8F%B0</a>
この二人の子である隆清院が側室となった真田信繁も日蓮宗信徒ではなかった。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81</a>
ところが、隆清院自身は、「大坂の夏の陣では娘と秀次の母瑞龍院の許に身を寄せ、難を逃れ・・・京の菊亭家で没した」ところ、法名からして日蓮宗信徒になっている。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E6%B8%85%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E6%B8%85%E9%99%A2</a>
つまり、日蓮宗信徒の家に寄寓するだけで、寄寓者は折伏されて同信徒になってしまう、ということだ。
その伝で、隆清院と信繁の子で、「出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室」となった顕性院も、熱心な日蓮宗信徒になっている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%80%A7%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%80%A7%E9%99%A2</a>
ところだ。
以上を踏まえれば、「どうして、(池田輝政の子孫でもあって、岡山、因幡の両池田家<、とりわけ実母を通じて後者、>と縁が深い)島津斉彬は、光政・光圀流の日蓮主義者であることにとどまらず、日蓮宗信徒になったのか、にもかかわらず、どうして、斉彬の遺志を継いだ薩摩藩の人々は、光政・光圀流の日蓮主義であるところの、廃仏毀釈、を薩摩藩から始め、全国に及ぼしたのか、が、問題になります。それは、いずれ、私の日本通史が幕末~維新期に差し掛かった時まで、私自身の宿題にしておきましょう。」(コラム#12301)への回答はもはや明らかだろう。
池田光政は本来日蓮宗信徒になっていてしかるべきだったのに、家康の事実上の禁制からなれなかったので、事実上の日蓮宗信徒、すなわち(秀吉流)日蓮主義者、としてのみ生きたところ、備前岡山藩の池田光政の祖父の池田輝政の子孫であった島津斉彬は、この光政、や、自分の直系の先祖にあたる因幡鳥取藩の池田家の歴代藩主達、の、日蓮宗信徒になれなかった「無念」、を晴らすためにも、自身が日蓮宗信徒に改宗したのであり、また、そのことにより、自分が秀吉流日蓮主義者であることを、紛れもない形で、公家達や全国の武士達、等に宣言し、暗に倒幕・維新を彼らに呼び掛けたのだ。
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[排仏思想と日蓮主義を巡って]

明治維新後の廃仏毀釈の起源が日蓮主義との関係で前から気になっており、江戸時代に限定して少しだけ調べてみた。
いささかまとまりのないものになってしまったが御宥恕いただきたい。

○林羅山(1583~1657年)

「神儒一致思想<が>江戸時代に儒学者の林羅山によって提唱されてから多数の儒学者によって説かれるようになったが、儒教の立場から神道を説く者は古くから存在していた。北畠親房の『神皇正統記』や度会家行の『類聚神祇本源』などにその思想が見られる他、清原宣賢の神道説には宋学の理論が取り入れられていた。
江戸時代に入ると、藤原惺窩が神道と儒教は本来同一のものであると説いている。林羅山の神儒一致思想はその師である惺窩の論を継承し発展させたものである。羅山が自ら理当心地神道と称した神儒一致思想の特徴としては、徹底した排仏思想が基本にあることが挙げられる。羅山が登場するより前の神儒一致思想には排仏思想は見られない。・・・
<ちなみに、>神儒一致思想には儒教に重きを置くものと神道に重きをおくものがある。林羅山や貝原益軒、三輪執斎などの説は前者の傾向が強いが、雨森芳洲、山鹿素行、熊沢蕃山、二宮尊徳、帆足万里、徳川斉昭、藤田東湖などの説は後者の傾向が強い。・・・
徳川斉昭や藤田東湖は神道と儒教に優劣をつけることはしなかったが、東湖は神道には天照大神の神訓に由来する道義が存在すると主張した。斉昭が指導したいわゆる後期水戸学の特徴としては、易姓革命を否定し、尊王の立場をとったことが挙げられる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93</a>

⇒林羅山がどうして廃仏思想を唱えたのかまでは調べがつかなかった。(太田)

○池田光政(1609~1682年)

池田光政による、この家康ヨイショは、自分が秀吉流日蓮主義者であることを隠蔽するためにわざと、しかも、ど派手に、行った、と見る。↓

「光政は岡山城の鎮守として東照宮(現在、玉井宮東照宮)を勧請しており、これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであった<。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF</a>

⇒熊沢蕃山の招聘は、陽明学が、万物一体の仁を唱えることから、秀吉流日蓮主義と親和性がある(注12)上、朱子学推しの幕府への批判の含意もあった・・蕃山は朱子学者でもあることから、朱子学も尊重しているとの言い訳が可能・・のだと思う。(太田)

(注12)「<当時の日本は、>,内は島原の乱(1636)が起こって鎖国政策は強化され,外は清国の朝鮮侵略があって,日本侵寇も予想憂慮された。・・・

⇒欧米勢力の脅威に蒙古的脅威という二重の脅威にどう対処するか、を熊沢は考えたわけだ。(太田)

4代将軍家綱の文治主義的政治に蕃山は期待し,朝廷復興に努力したが,容れられず,京都追放処分(1667)を受ける。

⇒蕃山は、尊王攘夷思想の萌芽的な考えを抱いていたのだろう。(太田)

5代将軍綱吉には批判的で,大老堀田正俊に幕府へ出仕するよう要請されるが,拒否。ただし清国の侵寇近しとの判断から,大和郡山在住期の・・・1686・・・年幕政改革案を含む総合的防衛策を幕府に上申。そのため古河藩へ幽閉となり同地で客死する。

⇒蕃山は、尊王の念が薄い幕府への出仕を拒みつつ、富国強兵策の萌芽的なものを幕府に提言したのだろう。(太田)

この上申書が著名な『大学或問』と同内容とみられ,蕃山の経世策が集約されている。賢君による「仁政」の論以下,兵備,治山治水,農兵制,貿易制限,宗教政策,文教政策論などを展開。

⇒時代が時代だけに、蕃山に、殖産興業(工業)論はないわけだ。(太田)

これらのうち,治山治水と教育制度とは岡山藩出仕時代,主君池田光政の下ですでに実行ずみで,模範的先駆的施策として天下に知られた。治山治水事業の遺跡は・・・1660・・・年に民政指導のために招かれた豊後岡藩(大分県)や古河藩領(茨城・栃木)に現存する。その事業の背景には自然破壊を強く警告する「天人合一」の政治哲学があり,蕃山の日本文化独自性論の根底には「時処位」(時代,国土,地位)の思想がある。

⇒熊沢の思想、というか、熊沢が(朱子学と共に)抱懐した陽明学の核心部分に人間主義があった、ということだろう。
ちなみに、光政は、「光政は熊沢蕃山の提言で陽明学を修めようとして近江の中江藤樹を招聘しようとしたが、藤樹は老母の病を理由に断った。この返答で光政はますます藤樹を気に入り、何度も手紙を交わして意見交換したり、参勤中に近江に立ち寄ったときは藤樹を歓待して話を交わし、藤樹の没後は位牌を西の丸に祀るほど尊敬したという。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF</a> 前掲 (太田)

この「時処位論」はのちに古学派に影響を与える<。>・・・
熊沢蕃山(1619‐91)と荻生徂徠(1666‐1728)は,それぞれの異質性はありながら,経世済民論の先駆者とみてよい。君臣関係はもとよりいっさいの人間の道徳的関係を〈自然の理〉として絶対化し,富への欲望を封建道徳ときびしく対立させた官製の朱子学<、>・・・単なる名分論<であるとも言える朱子学>ではなく,利用厚生論<を唱えた>・・・蕃山は〈仁政ヲ天下ニ行ハン事ハ,富有ナラザレバ叶ハズ〉〈人君仁心アリトイヘ共,仁政ヲ不行バ徒善(むだ)也〉と述べ,富・人君のあり方を既成の規範から解放した。・・・
死後1世紀を経た18世紀末には新井白石と並称された。その影響は儒学者以外にも広く思想家,文人におよび,文楽,浄瑠璃,歌舞伎などの主役に仕立てられて民衆にも人気があった。・・・
蕃山の儒学は朱子学と陽明学の折衷的なものであり、老子の影響もみられる。
神道、和学にも造詣が深く、『源氏物語』の特色ある注釈書『源語外伝』も著している。

⇒源氏物語研究は彼の人間主義研究の一環だったのだろう。(太田)

彼は、兵農分離に基づく幕藩体制下の武士がしだいに商品経済にからめとられていく状況に強い危機感を抱き、武士の土着、参勤交代の緩和などを主張した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500′>https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500</a>

⇒ここは残念な部分であり、蕃山は、中央集権化ではなく、地方分権化(封建制回帰)を、というアナクロニズムの人だったわけだ。(太田)

「陽明学者熊沢蕃山を招聘した。」(上掲)

「神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。」(上掲)

⇒熊沢蕃山に廃仏思想はなさそうだ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1</a> 及び上掲
日蓮宗も、広義の仏教宗派である以上、廃仏思想とは無縁であり、単に、日蓮宗以外の仏教諸宗派を排斥するだけだが、非日蓮宗信徒家たる近衛家に始まる日蓮主義は日蓮宗以外の仏教諸宗派排斥を伴っておらず、その点は、信長流日蓮主義でも秀吉流日蓮主義でも同じだ。
ところが、池田光政が、幕臣たる林羅山の公的ではなく私的な説であるところの廃仏思想を借用し、秀吉流日蓮主義を、それをマークIとすれば、廃仏主義を伴うところの、秀吉流日蓮主義マークII、へと改変させたわけだ。
これは、極め付きに重要な事柄であって、これが水戸学を経由して島津斉彬コンセンサスとなり、倒幕・維新を成し遂げることになる、と見てよさそうだ。(太田)

○保科正之(1611~1673年)

江戸初期の3名君と言えば、池田光政、保科正之、徳川光圀、とされているところ、この文脈で、一応、保科正之(前出)にも触れておこう。
「家光は死の床にある時、有力大名を呼びだし、大老酒井忠勝が将軍最後の言葉として「新しい将軍の政を身を挺して助けるように」と申し渡したが、その際に家光は寝床に横になったままであった。これに対して正之を枕頭に呼び寄せた際だけ、家光は堀田正盛に抱きかかえられながら起き上がり、自らの口で「肥後よ宗家を頼みおく(=肥後守(正之)よ、我が息子(=家綱)を頼むぞ)」と遺言した。これに感銘した正之は・・・1668年・・・に「会津家訓十五箇条」を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を特に固く守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍を中心とする官軍と戦った。・・・
生前より吉川惟足を師に<吉川>神道<(注13)>を学び、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前の・・・1666年・・・に神仏習合を排斥して領内の寺社を整理していた。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。・・・1675年・・・、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B</a>

(注13)「吉川惟足は師である萩原兼従から吉田神道を受け継ぎながら、それをさらに発展させ、道徳的な側面の強い「吉川神道」を唱えた。
吉川神道は、官学、朱子学の思想を取り入れており、神儒一致としたうえで、神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。
吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした「行法神道」と天下を治める理論としての「理学神道」に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。そのうえで神道を宇宙の根本原理とし、国常立尊等の神々が、すべての人間の心の中に内在しているという神人合一説を唱えた。
会津藩主・保科正之など多くの大名が吉川神道に共鳴し、吉川家は寺社奉行の神道方に任命された。吉川惟足に学んだ山崎闇斎は垂加神道を唱えた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93</a>
「将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、1682年・・・幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した。
子孫は代々、会津藩からも初め50俵、後に30俵の合力米が給付されていた<。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%83%9F%E8%B6%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%83%9F%E8%B6%B3</a>

⇒新興宗教にかぶれるような人物は、それだけで名君であるはずがない、というのが私の保科正之評価だ。
しかし、家綱(1641~1680。将軍:1651~1680年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1</a>
が、事実上の後見役たる保科正之の影響で自身もこの新興宗教にかぶれてしまい、その結果として、この新興宗教の教祖に全神道の監督権限が与えられることになった結果、皮肉にも、爾後この新興宗教の布教力が大幅に削がれ、無害化したのではなかろうか。
そのこともあって、この新興宗教の、紀州徳川家・加賀前田家による信任にせよ、正之より後の会津藩主家による信任にせよ、形だけのものに過ぎなかった可能性が高い、と、私は見ている。
いずれにせよ、この新興宗教にも、そして、正之にも、(前述したように、彼には幼少期に日蓮宗に触れる機会があったにもかかわらず、)秀吉流日蓮主義のかけらも見出すことができない。
繰り返すが、そのことが、幕末において、会津藩の最後の藩主の容保と同藩に悲劇をもたらすことになったわけだ。
さて、吉川神道や山崎闇斎の垂加神道については、それが「神仏儒」のうち、「仏」を削ぎ落しているという点に注目すれば、羅山の理当心地神道の焼き直しであったところの(当時における)新興宗教であった、と言ってよさそうだ。
更に付言すれば、残った「神儒」から、更に「儒」を削ぎ落したものが国学
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6-63736′>https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6-63736</a>
であり、国学のうち、学問志向であるのがその本流で、神道志向であるのがその傍流であって、平田篤胤の、やはり当時の新興宗教と言ってよい、復古神道(上掲)は後者の流れである、と見てよさそうだ。
なお、「復古神道<は>,幕末の尊王攘夷運動や明治維新の思想的支柱となった。」(上掲)との指摘は間違いだと思う。
また、熊沢蕃山については、コトバンクは、「彼の思想の継承者は<い>ない」(前掲)としているのに対し、ウィキペディアは、「幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。<ちなみに>、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。」(前掲)としており、対照的だが、コトバンクの方が正しいと思う。
ちなみに、(今後改めて取り上げたいと思っているが、)丸山眞男は、「儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた<とするとともに、>・・・明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し[要出典]、特に日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価し<た>」ところだ
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7</a>
が、これでは、(その妥当性はともかくとして)「明治維新」の思想に関する説ではあっても、そのいわば必要条件であったところの「尊皇攘夷運動」の思想に関する説ではないことを自ら認めてしまっているに等しい。
(決して奇しくもではないと思うのだが、荻生徂徠は徳川綱吉や徳川吉宗の諮問にあずかった人物であり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0</a>
また、本居宣長は御三家の一つの紀州藩に仕官した人物で「「東照るかみのみことの安国としづめましける御代はよろづ代」という歌を詠み、徳川幕藩体制を賞賛している」人物であって、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7</a>
どちらにも反徳川家ないし倒幕的な志向は皆無だ。(宣長の大政委任論について、コラム#12450参照。)
付言すれば、紀州徳川家は、秀吉流日蓮主義の強い影響下にあったところ、藩主の吉宗が将軍になってから、同主義が水で薄められてしまった、というのが私の見解だ。
但し、紀州藩の支藩の西条藩では、秀吉流日蓮主義が薄められることなく受け継がれ続けた(コラム#省略)。
いずれにせよ、このように、明治維新の思想について説が定まらないのは、第一に、今まで誰も、日蓮宗、就中、私の言う秀吉流日蓮主義、に着目しなかったからだ。
第二に、江戸時代が、武士、つまりは軍人、を支配階層とする社会だったことの意味、意義を、戦後の反軍思想・・丸山眞男の場合は戦前からの、筋金入りの反軍だった!・・で毒されている・・自分の個人的な好き嫌いを歴史解釈に直接投影させてはならないのに投影させてしまっているという意味で毒されている・・ために真に理解できていないからだ、と思う。
そもそも、そんなことでは、(最初から近代であったアングロサクソンはさておき、欧州の)「近代」とは何かがそもそも理解できていないはずだ。
丸山が言っている「近代」的「思惟」の「近代」の何たるかを彼自身が理解できていないはずだということだ。
なぜならば、「近代」のほとんどすべてが戦争(軍事)の産物なのだから・・。
なお、この流れで付け加えておくが、反軍思想の丸山がゴリゴリの秀吉流日蓮主義者だった福澤を、そのことに全く気付かずに「高く評価」したことに至っては、丸山が学者の名にすら値しない人物だったことを物語っている。(太田)

○徳川光圀(1628~1701年)

「19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景<・・藤原惺窩の子(コラム#12455)・・>と知り合い、以後頻繁に交流する、このとき人見卜幽は光圀について「朝夕文武の道に励む向学の青年」と話している。・・・

⇒もともと秀吉流日蓮主義者であった光圀の日蓮主義者度を確固たるものにすべく、近衛家が冷泉為景との間を取り持ったというのが私の見方であるわけだ(コラム#12455)。(太田)

1661年・・・7月、父・頼房が水戸城で死去。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。・・・

⇒池田光政は、(幼少時の因幡鳥取藩主時代を経て、)1632年6月に備前岡山藩主になっており、光圀は、光政の秀吉流日蓮主義マークIIを継受して、このことや以下の諸事を行った、と、私は見ている。(太田)

1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。・・・1665年・・・、寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた(現在の常磐共有墓地 と酒門共有墓地)。一方で、由緒正しい寺院、長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社(那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。・・・
1693年・・・から数年間、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。・・・
・・・1665年・・・、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の・・・1682年・・・死去し、瑞竜山に葬られた。・・・

⇒儒教をカムフラージュのために用いた点でも、光圀は光政と同じだ。(太田)

貞享<(1684年から1688年まで)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E4%BA%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E4%BA%AB</a> >から元禄<(1688年から1704年まで)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84</a> >の初めにかけて、建造した巨船「快風丸」を使い、三度にわたる蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達した。米・麹・酒などと引き換えに、塩鮭一万本、熊やラッコ、トドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。・・・

⇒「1639年にイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海に達し、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(・・・Semyon Shelkovnikov)がオホーツクに町を建設した。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどの探検隊が、ヤクーツクを拠点として、ゼヤ川やアルグン川から農耕が可能なアムール川流域への南下を開始し、清露国境紛争が起きた。1643年にオランダ東インド会社のマルチン・ゲルリッツエン・フリースが択捉島と得撫島に上陸し、領有権を宣言した(オランダ領千島)。・・・1648年、セミョン・デジニョフがチュクチ半島(デジニョフ岬)、ベーリング海峡、アナディリ川を発見していた。1649年、オホーツクに砦が建設された。1651年、アムール川畔のアルバジンに砦が建設された。1654年と1658年の「清露国境紛争」(中: 雅克薩戦役、朝: 羅禅征伐・・・)で清軍が攻撃してアルバジン砦を破壊。1689年にネルチンスク条約を締結。国境がスタノヴォイ山脈に定められた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2</a>
といった北方情勢の少なくとも一部についての情報を光圀は得て、安全保障目的で蝦夷地探検を命じたのだろう。(太田)

1693・・・年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させた(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。・・・
1696年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に出家する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた僧・日乗らと交流し<た。>・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80</a>

⇒光圀は、晩年になって、自分が秀吉流日蓮主義者であることを、世間に対して公然と表明したわけだ。(太田)
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[横井小楠コンセンサスと島津斉彬コンセンサス]

表記中の二つのコンセンサスの関係について説明したことがないので、以上述べてきたことも加味して、ここで簡単に説明しておく。
幕臣達の大部分は行政官化してしまい、まともな軍人ではなくなっていたわけだが、武士は、軍人として、安全保障のプロでなければならないとの意識を持ち続けた武士達は幕臣以外を中心にたくさんおり、彼らは、ロシアから始まったところの、広義のゲルマン文化集団の(ポルトガル、スペイン、オランダによる初東漸の後の)再東漸に危機意識を抱き、危機意識が不十分故に必要な富国強兵策を採らない幕府に怒って倒幕を決意するに至ったのであり、彼らのほぼ全員が私の言う横井小楠コンセンサス信奉者(日本の安全保障追求者)になり、彼らのうちの秀吉流日蓮主義(マークII)信奉者(日本の短期的安全保障の犠牲の下で、日本を含む世界の長期的安全保障を追求する者)達の主導の下、倒幕・維新が成し遂げられたのだ。
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II  近衛家による布石

1 一条家取り込み

(1)一条内基(1548~1611年):一条家13代当主

一条家は、「序列は近衛家に次ぎ、九条家とは同格、二条家、鷹司家の上位に列した」家
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6</a>
であり、近衛家が取り込みを図らない方が不思議だ、と思って調べてみた結果は、これまた図星だった。
「一条内基・・・<は、1585>年近衛信輔<(後の信尹)>との間で関白相論となり、結局豊臣秀吉が関白<に>な<った>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%85%E5%9F%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%85%E5%9F%BA</a>
ということになっているが、既述したように、それは、秀吉を関白にするために、二人が相談してそういうストーリーにしたものだ、と、私は見るに至っている。
そう考えて、初めて、内基が、どうして、その10数年後に、近衛信尹の異母弟の近衛前子(と後陽成天皇)の子である九宮(昭良)を、1609年に養子として一条家を嗣がせたかが説明できるというものだ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85</a> 及び上掲
これは、近衛前久・信尹親子の働きかけを受けたものだ、と。

(2)一条昭良(1605~1672年)

織田信長の弟織田長益(有楽斎)の「嫡子<で>・・・関ヶ原の戦い後も父とともに豊臣秀頼に仕えた・・・<織田>頼長」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A</a>
の長女を正室正室に迎えており、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7</a>
秀吉流日蓮主義者になったと思われる。
そもそも、この正室を迎えた時期は、昭良の年齢からして、常識的には1815年の夏の陣の後ではないかと想像され、頼長が大名に列する可能性がなくなってからだし、仮に冬の陣や夏の陣の前だったとすれば、豊臣家と徳川家が決定的に対立関係に入っていた頃でありなおさらのこと、一条家(と近衛家)の側に相当に覚悟があった、と言わざるをえまい。

(3)一条教輔(兼輝)(1633~1707年)

上出の頼長の女子たる正室の子ではなく側室の子だが、何と池田光政の女子(一応、徳川家光の養女)の通姫を正室に迎えている。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%95%99%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%95%99%E8%BC%94</a>
仲を取り持ったのは九条家だろうが、その九条家に依頼したのは近衛家では?

(4)一条冬経(1652~1705年)

教輔と通姫の子。
ところが、一条冬経は、新興宗教である垂加神道(前出)にかぶれて、そういう類のものが嫌いな近衛基煕と対立関係に陥ってしまう。
しかも、男子ができなかったので、本来は近衛家の別動隊だったけれど、16世紀に断絶してから二条家から分岐する形で再興されてからは有力武家、そして、徳川幕府成立後はとりわけ幕府、べったりになってしまっていた鷹司家の鷹司房輔の男子の兼香を養嫡子に迎え、近衛家は切歯扼腕状態となる。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C</a> ←事実関係

(5)一条兼香(1693~1751年)

案の定、兼香もまた、養父冬経の影響で垂加神道にかぶれてしまう。
養家の義姉に[日蓮宗の瑞龍寺貫首になった]日顕がいた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99</a> ←事実関係
というのに、「<1720>年、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応などについて検討している。この議論は10年余り続いた末に、<1731>年になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。」
<a href=’http://yourei.jp/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99′>http://yourei.jp/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94</a> ([]内)
という始末だ。
この1731年には、関白は近衛家久だった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7</a>
が、彼は、当時右大臣だった兼香の、霊元法皇(1654~1732年。天皇:1663~1687年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
とのタッグによる反対論を封じ込められなかったのだろう。
ちなみに、兼香の家族は以下の通りだ。↓
「正室:泰姫 – 浅野綱長娘
継室:智子 – 池田綱政養女、池田軌隆娘
家女房
長男:一条道香
女子:俊姫(顕子) – 徳川宗尹御簾中
次男:鷹司基輝
女子:絢君(郁子) – 徳川宗翰御簾中
女子:愛君(重子) - 徳川宗将御簾中
女子:恭礼門院富子 - 桃園天皇女御・後桃園天皇生母
三男:良演 - 大僧都法印
四男:醍醐兼純
養子
鷹司輔平 – 閑院宮直仁親王第四皇子、鷹司基輝養子」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99</a>

⇒正室を、浅野家から迎えつつも、その正室を早くに亡くしたのだろうか、かつまた、継室を迎えた岡山藩池田家は、綱政が光政の男子であったというのに、母が本多忠刻と千姫の娘(円盛院)であったこと
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%9B%E9%99%A2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%9B%E9%99%A2</a>
もあってか、一条兼香は、秀吉流日蓮主義など忘れてしまったかのような人物としてその生涯を送ったわけだ。(太田)

(6)一条道香(1722~1769年)

「正室:池田静子 – 池田継政養女、池田政純三女
長女:八代君(正禮夫人) – 徳川治保御簾中
家女房:香蓮院
三男:一条輝良・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%81%93%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%81%93%E9%A6%99</a>

⇒道香の長女が嫁いだのは、「水戸藩中興の祖といわれ<ており、>第2代藩主徳川光圀にならって学問奨励にも尽力し<、>停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあた<り、かつ>また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにして<いて、>町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている<上>、立原翠軒ら彰考館の総裁3人を政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした・・・水戸藩の第6代藩主・・・徳川治保<(はるもり)>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D</a>
だったわけだが、この輿入れは、水戸徳川家と縁が深い近衛家が、一条家の性根を叩き直すために画策して実現させたものだと見ている。(太田)

(7)一条輝良(てるよし1756~1795年)

「父:一条道香
母:家女房
正室:懿姫 – [紀州藩の第8代藩主]徳川重倫の娘
側室:家女房
男子:一条忠良・・・
養子
女子:蜂須賀幸子 – 醍醐輝久正室、蜂須賀重喜三女
女子:蜂須賀宗子 – 醍醐輝弘正室、蜂須賀休光の娘、蜂須賀至央養女・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%BC%9D%E8%89%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%BC%9D%E8%89%AF</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%80%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%80%AB</a> ([]内)

⇒秀吉流日蓮主義信奉氏であるところの蜂須賀氏と誼を通じているところからみて、一条輝良も秀吉流日蓮主義者だったのだろう。
私の妄想であるとの批判は甘受するが、どうやら、近衛家による起死回生の一連の対一条家画策は成功したように見える。(太田)

(8)一条忠良(1774~1837年)

「父:一条輝良
母:家女房
正室:細川冨子 – 従三位、邰、細川斉茲の娘
四男:一条忠香
男子:久我建通 – 久我通明の養子
生母不明の子女
嫡男:一条実通
十四女:一条秀子 – 澄心院、徳川家定継室
女子:知君 – 寛彰院、池田斉輝正室
女子:通子 – 松平頼学正室
女子:盛君 – 英彦山座主熈通室
女子:良子 – 興正寺門主華園摂信室
女子:崇子 – 鷹司輔煕室 など」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E8%89%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E8%89%AF</a>

⇒忠良が、十四女を岡山藩の世嗣の池田斉輝に正室として嫁がせたのは頗る重要だ。
この池田斉輝(1797~1819年)は、脈々と秀吉流日蓮主義信奉藩であり続けたところの鳥取藩の藩主池田重寛の女子が実母であり、早世し、最終的に、これまた秀吉流日蓮主義信奉藩であり続けたところの薩摩藩の藩主の島津斉興とその正室の(池田重寛の女子である)弥姫の子で斉彬の同母弟の久寧(池田斉敏)が養子に迎えられて岡山藩を継いでいる。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%96%89%E8%BC%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%96%89%E8%BC%9D</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B2%BB%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B2%BB%E9%81%93</a>
つまり、岡山藩もまた、一条家が介在することによって、恐らく近衛家の協力の下、その秀吉流日蓮主義信奉藩化がなった、ということになる。
そして、摂関家群同士で秀吉流日蓮主義を互いに刷り込み合うべく、一条忠良は、女子を鷹司家に正室として送り込んでいる。
もう一つ注目すべきは、鷹司家が送り込んだ正室が亡くなった後、13代将軍の徳川家定に、一条忠良が継室を送り込んでいることだが、この意味についての私見は既述した。

(9)一条実通(1788~1805年)

18歳で亡くなる。

(10)一条忠香(1812~1863年)

一条実通の異母弟・・但し、一条忠良の正室の子・・だ。

「父:一条忠良
母:細川富子 – 従三位、邰、細川斉茲の娘
正室:一条順子 – 伏見宮邦家親王第二王女
女子:明子 – 柳沢保申正室
側室:新畑民子 – 花容院、一条家典医の娘
三女:美子 – 明治天皇皇后、昭憲皇太后
側室:家女房
男子:一条実良
養子
女子:峯 – 三条実万の娘、細川韶邦正室
女子:一条美賀子 – 今出川公久の娘、徳川慶喜正室
女子:一条輝子(千代) – 醍醐忠順の娘、輝姫、慶喜の婚約者だったが疱瘡のため破談し後に毫摂寺善慶の室」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A6%99</a>

⇒私は、昭憲皇太后が日蓮宗信徒になったのは、貞明皇后の影響であるとの説を紹介してきた(コラム#省略)ところだが、明治の皇后美子(昭憲皇太后)と大正の貞明皇后は小さい頃から日蓮宗(法華経)に帰依していて、それを宮中に持ち込んでいる。」
<a href=’https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42567?page=3′>https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42567?page=3</a>
という説もあるようであり、仮にこの説が正しいとすると、生母が日蓮宗信徒であったわけでもなく、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%95%91%E6%B0%91%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%95%91%E6%B0%91%E5%AD%90</a>
日蓮宗信徒の家に里子に出した様子もなく、また、彼女の学問師範を務めた若江薫子(わかえにおこ。1835~1881年)も墓所からして日蓮宗信徒ではなかった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E8%96%AB%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E8%96%AB%E5%AD%90</a>
以上、出身の一条家自身が隠れ日蓮宗信徒家になっていたと考えざるをえない。
しかし、仮にそうだったとすると、明治天皇も大正天皇も、結婚当初から日蓮宗信徒たる正室を迎えながら、日蓮宗信徒どころか、日蓮主義者にすらならなかったことになり、山縣有朋らの、秀吉流日蓮主義信奉者達は、さぞかし、呆れ、嘆き続けたことだろう。
なお、明治天皇よりも3歳も年長の美子を正室(女御⇒皇后)に選んだ人物が誰だったのか、私は恐らくは近衛忠煕だと想像しているのだが、ネット上では何の手がかりも得られなかった。(太田)

2 尾張徳川家への秀吉流日蓮主義の重畳的刷り込み

(1)序

近衛家と水戸徳川家との関係については、前回のオフ会「講演」原稿(コラム#12455)参照。
さて、尾張藩第4代藩主徳川吉通(よしみち。1689~1713年)の正室は九条家から迎えていたところ、近衛家は、その尾張徳川家に、代わって正室を送り込み、尾張藩への秀吉流日蓮主義の重畳的刷り込みを行っている。

(2)近衛家煕(1667~1736年)

6代藩主徳川継友(つぐとも。1692~1731年)は、「<1713>年、兄・<4代目>吉通、甥・<5代目>五郎太の相次ぐ急死により第6代藩主となる。
第6代将軍・徳川家宣は、継友(当時は通顕)の兄で尾張第4代藩主であった徳川吉通を第7代将軍にしようとした。吉通兄弟の父である尾張第3代藩主・徳川綱誠は、尾張第2代藩主・徳川光友と第3代将軍・徳川家光の長女・千代姫の実子であり、尾張徳川家は、もっとも将軍家に近い血筋でもあった。しかし、間部詮房や新井白石らの反対があり、家宣の実子で生き残っていた鍋松が第7代将軍・家継となる。尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律もあった。吉通が薨去し、第7代将軍・家継が危篤に陥ると、将軍候補は紀州徳川吉宗と、尾張徳川継友の2人に絞られた。継友は吉通と同じく、将軍家に最も近い血筋であった。しかも、関白太政大臣・近衛家煕の次女である安己姫と婚約していた。安己は大奥の実力者・天英院(近衛熙子)の姪であり、姉近衛尚子は、中御門天皇の女御になることが決まっていた。間部はじめ家継の幕閣たちは、継友に従四位下・左近衛権少将・大隅守という官位を与えており、継友は大奥からも幕閣からも、そして朝廷からも推されているように見られた。ところが、天英院は姪が嫁ごうとしている尾張家の継友ではなく、紀州家の吉宗を指名し、第8代将軍は吉宗になった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B</a>

⇒天英院はその父近衛基熙が甲府藩主の徳川綱豊(後の将軍)徳川家宣に娶せたものであり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99</a>
安己君は、天英院の同母弟の近衛家熙の女子で、天英院と家熙姉弟が尾張藩主の徳川継友に娶せたものだ。
その目的は、私見では、どちらも、将軍になりそうな人物を「洗脳」して『大日本史』を幕府として受納させるためであり、まず、家宣については将軍就任後わずか3年で死去した
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3</a>
ので失敗し、次に家宣の子・・但し、天英院の実子ではない・・の鍋松(家継。1709~1716年。将軍:1713~1716年)に期待したが7歳未満で死去
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99</a>
してしまったので、またも失敗したが、並行して、天英院と近衛家煕姉弟が安己姫を徳川継友に婚約させて将来継友を秀吉流日蓮主義者化する手はずを整えると共に、尾張徳川家に半隠れ秀吉流日蓮主義家である紀州徳川家の吉宗にもアプローチしたところ、吉宗が、将軍就任後の「大日本史」受納を確約したので、継友を将軍候補から外した、と、私は見ている(コラム#省略)次第だ。(太田)

(3)近衛家久(1687~1737年)

近衛家熈の子の家久は尾張徳川家の御連枝の高須藩主の徳川宗睦(むねちか/むねよし。1733~1800年)・・継友、宗春の従兄弟・・に女子の好君を娶らせていたところ、宗睦が尾張藩8代藩主に就任し、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6</a>
これで、近衛家と尾張徳川家との関係は盤石になった。

(4)近衛内前(1728~1785年)

近衛家熈家久の子の近衛内前は、継友の弟で7代藩主徳川宗春(1696~1764年)の女子の勝子を正室に迎えている。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E5%89%8D</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5</a>
これは、(将軍にしてもらえるかもという期待を抱いたであろう)綱友に肩透かしを食らわせた罪滅ぼしを行うことによって、せっかくの近衛家と尾張徳川家との絆を維持するためだった、と見てよかろう。(太田)

(5)近衛経煕(1761~1799年)

内前の子の経煕は、正室を天皇家(有栖川宮)から迎え、また、女子が2人しかできず、一人は東本願寺に嫁がせ、もう一人は毛利家攻略に使おうと毛利親著と婚約させたが、彼女が輿入れまでに亡くなってしまい(コラム#12648(未公開))、もはや、尾張徳川家との絆の維持に配意する術がなかった。
(なお、経煕は、島津重豪の女子を、将軍になることが決まった家斉に、自分の養子の形で送り込んでいる。(コラム#省略))
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E7%86%99</a> ←事実関係

(6)近衛基前(1783~1820年)

近衛基前は、尾張藩の支藩の高須藩の5代藩主で尾張徳川家世子となった徳川治行の女子を徳川宗睦の養女の形で許婚としたがこの女子が亡くなったので、今度は、同じ高須藩の7代藩主の松平義当の女子で同じ徳川宗睦の養女の形で前田斉広<(なりなが)>の正室になっていた琴姫(注14)を維君として正室に迎えている。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BD%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BD%93</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95</a>

(注14)「初め正室の琴姫とは・・・1803年・・・12月結婚したが、2年後の・・・1805年・・・8月、琴姫は病気を理由に実家高須藩の市ヶ谷藩邸に移ったまま戻らず、翌・・・年8月離縁した。後に近衛基前に再嫁している。継室の・・・鷹司政煕の二女<の>・・・夙姫とは・・・1807年・・・12月に結婚した。前田家は後添えはもらわぬと称していたというが、斉広は慣例を破って継室を迎えた。また、初めての公家からの正室であった。・・・
前田斉広<の>六女<は、>・・・<鷹司政煕の嫡男の>輔煕<の>婚約者<になったが、彼女は嫁ぐ前に亡くなっている。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83</a>
なお、義当の実父は、尾張藩第8藩主の徳川宗勝だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D</a>

また、基前は、11代将軍・徳川家斉の十九男で尾張藩11代藩主になった徳川斉温(なりはる。1819~1839年)の継室に、養女にした鷹司政煕女子の定子を送り込んでいる。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D</a>
これは、尾張徳川家と近衛家との関係を鷹司家に事実上譲ることで、鷹司家をかつての近衛家の別動隊に戻すためのものだろう。
結果としてであれ、いわば、前田氏から正室を奪ったに等しい近衛家は、大藩の藩主である前田氏が、反摂関家、ひいては(もともと佐幕藩だが)佐幕、に偏り過ぎないよう、鷹司家の女子を前田斉広へと裏で斡旋することで後顧の憂いを軽減すると同時に、鷹司家が裨益するようにすることで、同家の別動隊化の促進をも図ったのだろう。
以上からも分かることは、近衛家は、幕末期においても、尾張徳川家との縁戚関係の維持、と、鷹司家の近衛家別動隊への引き戻し、に執念を燃やし続けたことだ。

(7)近衛忠煕(1808~1898年)

基前と琴姫改め維君の子。
「正室:島津興子 – 郁姫、薩摩藩主・島津斉興の養女、前藩主・島津斉宣の娘・・・
生母不詳の子女
女子:近衛総子 – 一条実良正室
六女:信君 – 津軽尹子、津軽承昭継室
養子
男子:近衛篤麿 – 近衛忠房の子
女子:藤原敬子 – 島津斉彬養女、島津忠剛の娘、徳川家定正室・天璋院篤姫
女子:広幡忠礼室 – 達如の娘
女子:近衛備子 – 綱姫、鷹司政熙二十四女、伊達慶邦正室
女子:文孝 – 廣厳心院秀山尼大禅師、圓照寺第9代門跡
女子:寧子 – 寧姫、島津斉彬の五女、島津忠義後室」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>

⇒倒幕・維新の秋来たれり、と、忠煕は自覚していたのだろう。
もともと、一体だった島津氏と津軽氏との関係を、島津氏を中心に念押しの一体化を図っている。
また、一条家に女子を嫁がせることによって五摂関家の一体化の仕上げもやっている。
この関連で、鷹司家の近衛家の別動隊化が成功していたことも分かる。(太田)

—————————————————————————————–
[近衛忠煕の婚姻戦略]

「忠熙<(1808~1898年)>が生存していた頃、近衛家では3月の桃の節句に雛壇を儲けず、緋毛氈を畳に敷き、その上に雛人形を並べていた。その理由は、内裏雛は一般に天子様を象った物とされるが、天子様は神であり、そのお姿を写すのは不敬であるので天子様であろうはずはない。あの人形は公家を象った物に相違なく、ならば公家のトップである近衛家の人間がそんな物を檀上に飾って下から仰ぎ見なければならない道理はないということであった。・・・

母:維君 – 徳川宗睦の養女、松平義当の娘
正室:島津興子 – 郁姫<(いくひめ)>、薩摩藩主<で郁姫の兄である>島津斉興の養女、前藩主・島津斉宣の娘

⇒島津興子は、「1825年・・・に近衛忠熙と婚約した」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB</a>
ところ、忠煕の父の基前は既に1820年に亡くなっており、忠煕自身の意思で、島津氏との絆を更に強固なものにしようと決意したのだろう。
ちなみに、これは、四代前の家久(1687~1737年)・・正室が島津氏20代綱貴の女子、側室が21代吉貴の女子(どちらも子をなしていない)・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85</a>
が、初めて、島津氏の女子を娶った
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6</a> 等
時以来のことだ。
(家久は、「1720年・・・<の、水戸徳川家からの>・・・大日本史・・・<の>幕府<への>献上」を側面から支援したはずであるところ、島津綱貴(1650~1704年)は、「徳川家康の来孫。・・・この他池田氏や久松松平氏の血を引いていることから島津家から池田、松平両家に養子が送られる理由となった。時代劇では徳川家との血縁から幕府に忠誠心を持つ名君という役で度々登場する。」<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4</a>
という人物であり、吉貴(1675~1747年)は綱貴の子で、正室を久松松平家から迎えている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%90%89%E8%B2%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%90%89%E8%B2%B4</a>
ことから、大日本史献上をプッシュするための政略結婚だったのだろうが、これでもって、近衛家と島津氏との紐帯は、一層ゆるぎないものになっていたと言えよう。)(太田)

四男<(嫡男)>:近衛忠房 – 神宮祭主・・・
八男:水谷川忠起 – <しばらくの間天皇家に預けていたところの、>一乗院門跡、春日大社宮司

⇒自身がもたらそうとしていたところの、時代の激変、を前にして、近衛家と興福寺との関係を本来の姿に戻しておいた、ということではなかろうか。(太田)

生母不詳の子女
女子:近衛総子 – 一条実良正室
六女:信君 – 津軽尹子、津軽承昭<(注15)>継室

(注15)つぐあきら(1840~1916年)。「熊本藩主・細川斉護の四男として江戸にて誕生。初名は細川護明(もりあきら)。・・・1857年・・・6月28日、弘前藩11代藩主・津軽順承の婿養子となり、・・・1859年・・・2月7日、養父の隠居で家督を継ぐ。藩政においては洋式軍備の増強に努めた。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初は新政府に従う。しかし5月、奥羽越列藩同盟に参加する。7月に中央の政局の情報を受け、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。・・・
跡を養子の英麿(近衛忠房次男)が継いだ。実子の楢麿は分家して男爵となっている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%89%BF%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%89%BF%E6%98%AD</a>
「津軽英麿<(1872~1919年)は、>・・・近衛忠房の次男として東京に生まれ、旧弘前藩主である津軽承昭の養子となった。学習院中等科卒業後、ドイツに留学し、ボンの高校を卒業する。さらにボン大学、ベルリン大学、ジュネーヴ大学で法律学・政治学および経済学を専攻して卒業する。1904年、日本に帰国し、早稲田大学教授や学習院大学教授を歴任した。
1907年10月に朝鮮へ渡り、統監府法制取調事務嘱託、韓国宮内府書記官となった。1911年に李王職事務官、総督府外事局取調事務嘱託、1914年に式部官兼李王職事務官となり、宮内省大臣官房御用掛に任命された。1918年7月10日に貴族院議員となったが、翌年に急逝した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E8%8B%B1%E9%BA%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E8%8B%B1%E9%BA%BF</a>

⇒津軽氏は、安土桃山時代以降、島津氏に並ぶ、近衛家と一体の武家であったところ、父の基前・・幕政への参与を夢見た津軽家の要望に応えて女子を弘前藩10代藩主の津軽信順と婚約させたが結婚前に女子死亡・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E9%A0%86′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E9%A0%86</a>
・・を前例にしたと思われるが、忠煕が、改めて津軽氏との紐帯の強化を図ったのは、倒幕/王政復古の過程で、「津軽海峡を隔てた蝦夷地(現在の北海道)警備の重責を担っ<てい>た」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E8%97%A9</a>
津軽氏が重要な役割を果たす可能性がある、と踏んだからだろうが、予期の通り、同氏は、戊辰戦争における、官軍と奥羽越列藩同盟軍との戦いや、函館戦争において、活躍することになった(上掲)。
(更に言えば、津軽承昭は熊本藩の細川氏出身なので、細川氏とも縁続きになることも、計算に入っていただろう。)
逆に、津軽氏からすれば、近衛家のおかげで、倒幕/王政復古の激動の時代を加増される形で乗り切ることができた(上掲)わけであり、津軽承昭が、維新後、(津軽氏の正室にも近衛家の継室にも子がいなかったところ、)側室との間に実子がいたにもかかわらず、忠煕の孫の英麿を養嫡嗣に迎えたのは、近衛家に対する感謝の表れでもあったろう。
そして、その英麿が、韓国及び旧韓国王家と日本との関係緊密化に関わったのは、近衛家/津軽家伝統の秀吉流日蓮主義者(島津斉彬コンセンサス信奉者)としては、極めて自然な成り行きだったと言えよう。(太田)

養子
女子:藤原敬子 – 島津斉彬養女、島津忠剛の娘、徳川家定正室・天璋院篤姫・・・

⇒説明の要はなかろう。(コラム#省略)(太田)

女子:広幡<(注16)>忠礼室 – 達如の娘

⇒下出。(太田)

(注16)八条宮⇒常磐井宮⇒京極宮、と変遷した宮家を、「光格天皇の皇子・盛仁親王が継承して桂宮に改称した。盛仁親王の没後再び空主となった。盛仁親王の兄である仁孝天皇の皇子・節仁親王が継ぐが夭折して空主となる。1862年・・・に姉の淑子内親王が継いだが1881年(明治14年)に薨去、ここに桂宮は断絶した。
ただし<八条宮時代の>2代・智忠親王の弟広幡忠幸が興した桂宮家の分家の広幡家(源氏・華族)は宮家ではないが現在も続いている(男系子孫はこれも断絶している)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE</a>

女子:近衛備子 – 綱姫、鷹司政熙二十四女、伊達慶邦正室・・・

⇒これは、鷹司家に貸しをつくるのと、やはり、倒幕/王政復古の過程での武力紛争の極小化を図るのと二つの目的があったのだろうが、後者については、この正室が早く子をなさないまま亡くなり、次いで継室を水戸徳川家から斉昭の九女を送らせたが、この継室にも子ができず、結局、伊達慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主として官軍と戦う次第となり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%85%B6%E9%82%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%85%B6%E9%82%A6</a>
成果を挙げることができなかった。(太田)

女子:寧子 – 寧姫、島津斉彬の五女、島津忠義後室

⇒嫡嗣の近衛忠房の正室に島津斉彬の養女・貞姫を迎えた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB</a> 前掲
ことといい、近衛忠煕がいかに、島津斉彬に入れ込んでいたが、よく分かる、というものだ。
もっとも、やはり、島津斉彬の女子(三女)であった正室の暐子(てるこ)も、この寧子も子供を残さないまま早く亡くなってしまい、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%9A%90%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%9A%90%E5%AD%90</a>
私見では、島津忠義を、まともな秀吉流日蓮主義者(島津斉彬コンセンサス信奉者)に仕立て上げることには失敗してしまう。(太田)

猶子
男子:大谷光勝<(注17)> – 達如の次男、東本願寺法主・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>

(注17)大谷光勝(こうしょう。1817~1894年)。「近衛忠煕の猶子となる。・・・
・・・1848年・・・12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。・・・
明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。・・・
明治12年(1879年)、・・・大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%8B%9D</a>
「西本願寺21世門主<の>・・・大谷光尊<(1850~1903年)の>・・・裏方<(妻)は、>大谷光勝<の>養女<(注18)。>・・・西本願寺21世門主。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A</a>

(注18)大谷光威の子(上掲)。「大谷光威<(1827~1868年)は、河内顕証寺から、>・・・<1847>年西本願寺の法嗣となる。<1863>年尊攘派として朝廷に軍資金をおくる。戊辰戦争では養父・・・大谷光沢・・・の命で寺僧をひきいて紫宸殿の警固にあたった。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%A8%81-17552′>https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%A8%81-17552</a>
「大谷光沢<(1798~1871年)は、>・・・大谷暉宣の次男。浄土真宗本願寺派19世本如の養子となり<1826>年20世をつぐ。尊攘思想がつよく,戊辰戦争では朝廷へ軍資金を提供,紫宸殿の警固につとめた。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%B2%A2-17559′>https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%B2%A2-17559</a>

⇒忠煕が大谷光勝を猶子にしたのは、徳川幕府べったりになってしまっていた東本願寺(浄土真宗大谷派)を秀吉流日蓮主義化するためだったろうが、そのことによって、東本願寺は救われることとなり、恩義を感じている大谷光勝に、養女をとって(秀吉流日蓮主義を叩きこんだ)彼女を西本願寺に裏方として送り込ませ、西本願寺の秀吉流日蓮主義化も追求した、ということではなかろうか。(太田)

「大谷光瑞は、1876(明治9)年12月27日、第21代宗主大谷光尊(1850-1903)の長男として生まれた。母は、紀州和歌山藩奥詰御典医松原有積の娘円明院藤子である。10歳(数え年、以下同様)で得度し、法名を鏡如、諱を光瑞と称した。学習院や共立学<舎>に通ったが、後年の事績を見ると、個別に師について学んだり、独学で得たものこそ、光瑞の知的基盤を形成したように思われる。23歳のとき、九条道孝の娘籌子(かずこ)と結婚した。籌子の妹節子は、後に大正天皇の后(貞明皇后)となるので、大谷家は九条家を通じて天皇家と結びついていた。なお、光瑞の妹武子は、籌子
や節子の弟九条良致に嫁いだ。歌人として有名な九条武子である。」
<a href=’https://www.waseda.jp/inst/ias/assets/uploads/2019/03/Japanese-Investment-in-Ataturk-Era-Turkey-Hasebe-Kiyohiko.pdf’>https://www.waseda.jp/inst/ias/assets/uploads/2019/03/Japanese-Investment-in-Ataturk-Era-Turkey-Hasebe-Kiyohiko.pdf</a>
「大谷光瑞<は、>・・・1900年12月3日日本を出発、1902年(明治35年)8月15日ロンドンを出発、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。1903年(明治36年)1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく位置が判らなかった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。同年に父・光尊が死去し、法主を継職するため3月12日帰国したが、探検・調査活動は1904年(明治37年)まで続けられた。これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。法主継職後も探検を続行させ、1914年(大正3年)まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。・・・
1913年(大正2年)に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任した。
1914年(大正3年)、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在、これらのコレクションは散逸し、二楽荘も1932年(昭和7年)に火災で焼失した。
隠退後も文化活動を続け、1919年(大正8年)には光寿会を設立して仏典原典(梵字で記述)の翻訳にあたり、1921年(大正10年)には上海に次代を担う人材育成のために策進書院を開校した。
1935年(昭和10年)2月に、ジャワ島で熱帯農業経営の経験があり、台湾農業発展を協力し、台湾総督府の要請に応え、2週間かかり台湾を視察に行った。・・・当年10月、熱帯産業調査会は台北で総督府に開催され、また台湾に出席に行った。
1939年(昭和14年)、台湾高雄が将来性があると考えそうで、当時まだ郊外であった大港埔で、台湾製糖株式会社から土地を購入、大谷農園を開発し始めた。また茶園や果樹園も投資し、レモン、バナナ、パイナップルも缶詰の加工工場へ運送した。・・・
太平洋戦争中は近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E</a>

⇒大谷光瑞は、大谷光貴の養女の子でこそなかったけれど、彼女から秀吉流日蓮主義を叩きこまれたとでも考えないと、「独学」の彼が、秀吉流日蓮主義者として活躍したことが説明できまい。(太田)

男子:広幡忠礼 – 広幡基豊の子

⇒やはり近衛家の猶子であったところの、広幡基豊(注19)の子の広幡忠礼も近衛家の猶子にしたわけだが、この子の母は鷹司政煕の娘であった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E7%A4%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E7%A4%BC</a>
ところ、これも、鷹司家に貸しをつくるためであり、この広幡忠礼に達如の娘を自分の養子にした上で娶らせたのは、上述したところの、浄土真宗大谷派(そして浄土真宗本願寺派)の秀吉流日蓮主義者化(島津斉彬コンセンサス信奉者化)計画、の一貫だろう。

(注19)「廣幡家は江戸時代前期、正親町天皇の皇孫で陽光院太上天皇誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王の三男忠幸が、1664年・・・に源氏の姓を賜り一家を創立し、廣幡を称したことに始まる<が、>・・・廣幡家当主は<、4代から>代々五摂関家のひとつ近衛家の猶子となり偏諱を賜って<きていた。>・・・
菩提寺は、本家である桂宮家と同じく相国寺塔頭慈照院であった。 」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%AE%B6</a>

そして、こうして、近衛家、と、以前からの広幡家、との緊密な関係が一層緊密化したこと、の副産物として、想像するに、広幡家の本家の桂宮家と近衛家の関係の緊密化も実現したのではないだろうか。
この話は、次の東京オフ会「講演」原稿に譲る。(太田)
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3 対鷹司家策

(1)序

コラム#12455やコラム#12648で鷹司家を取り上げたことがあるが、改めて、近衛家の観点からここで取り上げる。
近衛家から分枝した鷹司家は、本来、近衛家の別動隊的な存在だったが、12代の忠冬(1509~1546年)の時に断絶したところ、織田信長の勧めがあり、当時はまだ近衛家の政敵的な存在だったところの、九条家、の分枝である、二条家の信房(1565~1658年)によって1579年に13代として再興された。
「信房の次兄の二条昭実は・・・1575年・・・に信長の養女を娶っている。この縁もあり、信房を擁して鷹司家を再興する流れになったと考えられる。生家を継いだ昭実に加え、長兄の九条兼孝が九条家を継いだため、五摂関家のうち3家の当主を兄弟で占めることになった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF</a>

日蓮主義家とも言える近衛家にお構いなしに九条家系の興隆に手を貸した信長にも困ったものだ。
鷹司信房は、さっそく、佐々成政の女子を北政所に迎えるとともに、女子の孝子を徳川家光の御台所に送り込み、また、その孫で15代の教平は(のりひら。1609~1668年)も女子の一人を徳川綱吉の御台所に送り込み、また、男子の一人に九条家を養子相続させ、更に、その子で16代の房輔(1637~1700年)は毛利秀就の女子を北政所に迎え、男子の一人(兼香)に一条家を養子相続させており、徳川本家や有力武家べったりであり続けた。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6</a>
それに対し、近衛家は、この鷹司家を再び近衛家の別動隊的な存在へと復帰させる機会をうかがい続けていた、というのが私の見立てだ。

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[鷹司松平家]

「1650年・・・、鷹司信平は江戸幕府3代将軍徳川家光の御台所であった姉の孝子を頼り、家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光と孝子の間柄は非常に険悪であったが、家光は信平を歓迎して1000俵の廩米と月俸200人扶持を与え、寄合に入れた。その後、・・・1653年・・・に4代将軍徳川家綱の配慮により、紀州藩主徳川頼宣の次女・松姫を正室に迎える。翌承応3年(1654年)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の御連枝一門として松平姓を与えられて松平信平と名乗り、鷹司松平家が創始された。・・・1674年・・・には上野と上総両国内において7000石の知行を与えられ、寄合旗本となった。その後、5代将軍綱吉の御台所が鷹司家出身の信子だったことから、・・・1709年・・・に信平の孫・松平信清は信子の信頼を得て上野国多胡郡など3000石を加増され、合計1万石で矢田藩を立藩、大名諸侯に列した。その後、拠点を吉井に移し、吉井藩主となる。1万石の極小藩ながら、五摂関家庶流の出自で御台所の親類、さらに御三家連枝のため、徳川家一門にして国主格という高い家格を有した。さらに江戸城内では、御三家、加賀前田家などと同じ大廊下(下之間)の待遇を幕末まで受けた。歴代の藩主は江戸定府で参勤交代を免除され、領地である吉井には陣屋が設けられていた。現在、吉井陣屋の表門跡が残っている。
歴代藩主は主に従四位下・侍従に叙されることを通例とした。これは徳島藩蜂須賀家、佐賀藩鍋島家、鳥取藩池田家など20万石以上の国主大名と同位の官位官職であり(1万石から7万石以下レベルの大名は従五位下が通例)、江戸城内の家格と合わせて幕府の中でいかに高い待遇と格式を受けていたかがわかる。
鷹司松平家の存在は非常に特異で、江戸時代を通して公家から武家に転身し、大名に列した唯一の家である。立藩以前から宗家たる五摂関家・鷹司家との養子縁組や婚姻関係はほとんどなく、8代当主・信充の正室に関白鷹司政熙の娘を迎えたのが唯一の例である。
歴代当主は家祖の信平以来「信」の通字を用いている。この通字の由来は信平の父・鷹司信房までさかのぼり、絶家となっていた鷹司家が織田信長の働きで再興された際、当主となった信房が信長から受けたとされるものである。
4代当主・信友が一方の本家といえる紀州徳川家から信有を養子に迎えて以降、信有の血筋と信友の直系とが交互に家督を相続したが、幕末までに双方の血筋とも断絶し、他家から養子を迎えて存続している。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6</a>

⇒鷹司家が九条家系化して最も武家と癒着していた頃の象徴が鷹司松平家であると言えよう。(太田)
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(2)鷹司兼煕(1660~1725年):鷹司家17代当主

鷹司房輔(上出)の子だが、叔父に秀吉流日蓮主義者になった九条兼晴、異母妹に瑞龍寺貫首の日顕(注20)がいたことから、秀吉流日蓮主義者になったのではないか。

(注20)そもそも、豊臣完子の子である二条康道の女子が瑞龍寺の3世貫首
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BA%B7%E9%81%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BA%B7%E9%81%93</a>
を務めた後に、4世貫首を務めた日寿が誰の女子か見極めがつかなかった・・鷹司教平の女子と下掲
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)</a>
はしているが、教平のウィキペディアには記載がない・・
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3</a>
ので、どうして、房輔の女子の日顕が5世貫首を務めた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94</a>
のかも分からない。

というのも、鷹司兼煕は、近衛家煕の次男の房煕を養子にして自分の跡を継がせているからだ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E7%86%99</a>

(3)鷹司房煕(1710~1730年)

近衛基熙の嫡男の家熙(1667~1736年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99</a>
は、こんな鷹司家を本来の近衛家別動隊である鷹司家へと戻すチャンス到来と、養子として、まず、次男の房熙(1710~1730年)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E7%86%99</a>
そしてその死に伴い、次には、末男の尚輔(1726~1733年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E8%BC%94</a>
を送り込むが、尚輔も間もなく亡くなってしまう。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99</a>

(4)鷹司尚輔(1726~1733年)

「実兄・鷹司房熙(<近衛>家熙の次男)が21歳で急死したため、5歳で房熙の養子として鷹司家を相続する。その後、従五位上・右近衛少将に任ぜられるが間もなく僅か8歳で病死。五摂関家の歴代当主の中で唯一公卿に昇ることはなかった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E8%BC%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E8%BC%94</a>

(5)鷹司基輝(もとてる。1727~1743年)

房熙は、故鷹司房熙の末男で一条兼輝の養子となって一条家を継いだ、あの兼香(前出)の子の一条基輝、つまり、近衛家煕の実孫、を養子として迎えていたので、この基輝が鷹司家を継承した。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%9F%BA%E8%BC%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%9F%BA%E8%BC%9D</a>
これは、止むを得ないことだったとはいえ、近衛家にとって、極めて不本意な成行だったと思われる。
しかし、幸か不幸か、基輝も、子をなさないまま若くして死んでしまう。

(6)鷹司輔平(すけひら。1739~1813年)

「1743年・・・、鷹司基輝・・・が17歳で急死・・・して鷹司家は断絶の危機を迎えた。基輝の実父で、元々鷹司家から養子に入って一条家を継いでいた当時の関白一条兼香はこれを憂慮して桜町天皇に対して弟の政宮(後の遵仁法親王)を鷹司家の養子にするように願い出た。これに対して天皇は鷹司家から西園寺家に養子に入った西園寺実輔の子孫から養子を迎えることを提案した。だが、兼香の案は政宮が病弱で摂関家の当主は務まらないとする天皇が反対し、天皇の案は摂関が摂関家以外(西園寺家は閑院流の清華家)に移ることを恐れた兼香が反対した。そのため、兼香は天皇の同意を得て、春日大社に使者を発して後継の神託を求めた。春日大社での占いの結果、直仁親王の皇子である淳宮が養子に選ばれた。そこで兼香はまず淳宮を桜町天皇の猶子・・・とし、続いて自分の養子に迎えた(同27日)上で一条家からの養子という形式で鷹司家を相続させた。
・・・1787年・・・、関白に就任して自分と同様に閑院宮家から皇室に入って即位した甥の光格天皇(実兄である典仁親王の実子、・・・1779年・・・即位)をよく補佐した。・・・1788年・・・に始まる「尊号一件」の際は、兄の典仁親王や甥の光格天皇を守らんと、幕府[(松平定信)]と朝廷の間に立って解決に尽力した。・・・
[関白辞職はこのことと関連するものである。]
母は家女房・長祥院<で、>正室は長州藩主毛利重就の次女・佐代子(惟保局)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3</a>
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3-18847′>https://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3-18847</a> ([]内)
「重就<の>・・・側室<の>利尾(家臣飯田存直の娘・・・)<の子である>・・・次女: 佐代(さよ)子(1746年 – 1769年) – はじめの名前は千代姫、後に惟保(いほ)君と称する。関白鷹司輔平室で婚姻日は、・・・1761年・・・2月18日。<1769>年4月29日・・・に京都において死去、年24、法名は妙池院殿青蓮慈薫大姉、墓所は<天台宗の>京都嵯峨二尊院、萩市広雲寺・・・
<同じく>側室<の>・・・田中氏<の子である>・・・八女<の>多鶴子<は、>権大納言の近衛師久<(改名経熈)>と婚約中に夭折」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E5%B0%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E5%B0%B1</a>

⇒鷹司輔平が長州藩主の毛利重就の女子を正室にしたのは、鷹司家の祖先の鷹司房輔の例に倣ったのだろうが、近衛経熈が同じ毛利重就の別の女子と婚約したのは、鷹司家を毛利氏を通じて改めて近衛家の別動隊に仕立てるための布石だったと見る。
しかし、これもまた、この相手の女子の夭折によって無に帰してしまったわけだ。(太田)

(7)鷹司政煕(まさひろ。1761~1841年)

「母は長州藩主毛利重就の娘・<佐代子>。・・・正室は徳島藩主・蜂須賀重喜の娘・儀子。・・・
光格天皇(現在の皇室の祖)は従兄にあたり、・・・1795年・・・から19年にわたって関白を務めた。政煕自身は・・・1805年・・・から関白在任の長期化による人事停滞を危惧して辞意を示すが、光格天皇も江戸幕府も政煕の能力を評価し、朝廷の運営や朝幕関係の安定になくてはならない人物であるとして度々慰留された。また、この慰留には天皇や幕府から関白として「非器」とされていた左大臣の二条治孝の関白就任を阻止する意図もあった。その結果、治孝の後ろ盾であった後桜町院が崩御するまで政煕は関白に留まることになった。・・・
子女
鷹司政通
依子(東本願寺法主達如室) 宝台院
隆子(加賀藩主前田斉広室) 真龍院
吉子(閑院宮孝仁親王妃) 微妙覚院(注21)

(注21)「吉子は子の・・・第五代閑院宮・・・愛仁親王の薨去後、<光格天皇の出身の>閑院宮家の当主格に遇された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AD%9D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AD%9D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

繋子(仁孝天皇女御・贈皇后) 新皇嘉門院
今出川賀丸
景子(伏見宮邦家親王妃)
祺子(仁孝天皇女御・皇太后) 新朔平門院
定子(尾張藩主徳川斉温室)
并子(徳島藩主蜂須賀斉昌室)
任子(第十三代将軍徳川家定室)
皐子(広幡基豊室)
道子(津守国福室)
辰子(醍醐輝弘室)
祥子(西本願寺宗主広如室) 光耀院
定演(醍醐寺三宝院門主、東寺長者、大僧正) 自足心院
備子(仙台藩主伊達慶邦室)
名前不詳(吉井藩主松平信充室)」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95</a>

⇒「定子(尾張藩主<11代藩主>徳川斉温<(なりはる。1819~1839年)>室)」は、近衛基前の養女とした上で継室になったものだ
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9</a>
が、これは、大胆に想像すれば、近衛家が尾張徳川家との縁戚関係(注22)を維持しつつ、その実を鷹司家に与える形で、七転び八起きではないが、鷹司家を近衛家の、本来の別動隊的存在へと仕立てることを狙ったものではなかろうか。

(注22)徳川宗睦(尾張藩9代藩主) 正室:近衛家久長女・転陵院
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6</a>

その狙いがうまくいき、鷹司政通は近衛家のポチとなり、近衛家の経熙(1761~1799年)・基前(1783~1820年)・忠煕(1808~1898年)三代
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E7%86%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E7%86%99</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>
の積極的根回しにより、長期にわたって(近衛家の意向に沿った形で)関白の仕事を務めることを引き受けた結果、近衛家は、鷹司家の影に隠れて、朝廷における黒幕として、(朝廷外の薩摩藩等の秀吉流日蓮主義信奉諸藩等と連携しつつ、)目立たない形で、始めの頃だけは、幕府の秀吉流日蓮主義化のため、そしてその後はもっぱら倒幕・維新のため、の周旋を続けることができる運びとなった、と、私は見ている。(太田)

(8)鷹司政通(1789~1868年)

「1823年・・・に関白に就任、・・・1842年・・・には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して・・・1856年・・・に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。
・・・1846年・・・に仁孝天皇が急逝した際には、喪を秘して政通を准摂政として事態の収拾を図った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。・・・1856年・・・12月9日には関白辞任後に内覧に留まった慣例より太閤の称号を孝明天皇から贈られる。義弟の水戸藩主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。
当初は開国論に立っており、ペリー来航に際しては「米国国書の内容は穏当で仁愛に満ちている」「往古には外国と国交を持っていた」「貿易は長崎のみで行えばよい」「惰弱な武士では外国との戦争は無理であろう」という見解を示していた。一方で開国の是非を決めかねている幕府に対しては「朝廷は通商を許可しろとか、あるいは撃ち払えなどと指図はしないが、人心が動揺しないようにしてもらいたい」と申し入れている。幕府が日米修好通商条約への事前勅許を求めてきた際には勅許を与えることを主張したが、・・・1858年・・・1月になると孝明天皇は条約への強い反対を表明する。同年2月22日の朝議で政通は孝明天皇に向かい「幕府と対立すれば承久の乱のような事態を招きかねない」と諫言するが聞き入れられず、2月27日には内覧辞退の意向を上奏する。孝明天皇はなおも意志を曲げず、翌日には辞退受理の意向を示し、3月4日には九条関白が以降は太閤と相談せずに天皇のみの意向を伺うことになった。政通の正式な内覧辞退は幕府との調整により7月27日まで延ばされたが、2月末の時点で政通の内覧は有名無実となっていた。こののち、<4月末の>廷臣八十八卿列参事件の前後に政通は一転して攘夷派となるが、これが安政の大獄において幕府から咎められ、落飾・隠居・慎の処分を受けて出家した。・・・
正室<は、>徳川清子([水戸藩の第7代藩主]徳川治紀[(はるとし)] の娘)<。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80</a> ([]内)

⇒鷹司政通は、近衛家の努力で同家を頭目として一体化するに至っていた、五摂関家、の一員たる鷹司家の当主として、私の想定するところの、(協議時期まではまだ特定できていないが、)五摂関家の協議、に基づく役割分担、に従い、1858年4月を境に、鷹司家を、開国・佐幕から攘夷・倒幕へと180度転換させ、そのスタンスを、政通の嫡子の輔煕にも踏襲させた、ということではないか。
なお、この役割分担に従い、九条家(九条尚忠(前出)(1798~1871年))は、(開国・佐幕から形だけ攘夷・でも佐幕へと変遷する幕府のスタンスに同家のスタンスを追随させ、二条家(二条斉敬(前出)(1816~1878年)は、孝明天皇のスタンスと同じ攘夷・佐幕のスタンスを採り続け、一条家(一条忠香(前出)(1812~1863年))は頭目の近衛忠煕(1808~1898年)と文字通り一心同体の微妙なスタンス変化を次々に行った、というのが私の見方なのだ。
このような役割分担を行う必要があったのは、(一部、既述したが、)倒幕の短期間での流血の少ない形での実現を期し、事実上の倒幕目的のテロを頻発させた上で、幕府との間で朝廷優位の公武合体をまず実現し、次には特定の大藩に事実上の倒幕目的の軍事行動を起こさせ、それに適切な対応ができない幕府の権威を失墜させて幕府を大政奉還へと導き、その上で徳川本家を解体する、ためだった、と見るわけだ。
(なお、水戸徳川家と話をつけて、政通に徳川治紀の女子を娶せたのは忠煕の父親の近衛基前だった、と、私は想像している。)(太田)

(9)鷹司輔煕(1807~1878年)

「関白鷹司政通の子として誕生。母は家女房。嫡母は水戸藩主徳川治紀の四女・清子。・・・
・・・1858年・・・、日米修好通商条約締結への勅許をめぐり、朝廷と幕府が対立するにおよび、水戸藩や福井藩の藩士に説得され、条約勅許不同意および将軍継嗣問題における一橋派の意見に同意する。左大臣近衛忠煕や内大臣三条実<萬>とともに献策して、水戸藩へ勅諚を賜るよう運動する(戊午の密勅)。

⇒鷹司政通の子の輔煕も、(以上↑についても以下↓についても)祖父、父、と同様、近衛忠煕が割り当てた「任務」を遂行した、と、私は見ている。(太田)

このため、同年大老に就任した井伊直弼の安政の大獄の一環で、幕府の内請により翌・・・1859年・・・辞官を余儀なくされた。やむを得ず同年5月落飾し随楽の法名を称する。
桜田門外の変で井伊直弼亡き後もしばらく謹慎を続けたが、・・・1862年・・・4月に宥免され、謹慎を解かれる。同5月還俗を命じられ、12月には新設の国事御用掛に補任されて朝政に復帰した。翌・・・1863年・・・には近衛忠煕の後を受けて関白に就任する。
関白在任中、朝廷は長州藩と結びついた尊王攘夷過激派の三条実美・姉小路公知らが次第に発言力を拡大させる。孝明天皇が将軍徳川家茂を伴っての賀茂神社・石清水八幡宮行幸が行われ、<1863>年8月には大和行幸、譲位親征が企図された。しかし、尊攘派の増長に孝明天皇は不快感を表し、公武合体派の青蓮院宮らは、京都所司代松平容保および薩摩藩と組んで八月十八日の政変を強行。輔煕は関白の座にありながらこの政局に関与できず、また三条実美らの帰京を運動したため、12月には島津久光の建言により関白を免ぜられた。
翌・・・1864年・・・7月に起きた禁門の変に際しては、鷹司邸は久坂玄瑞や寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もり、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。これにより鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、輔煕は参朝を停止され謹慎処分となり、諸大夫の青木吉順は京都町奉行に逮捕された。
・・・1866年・・・暮れの孝明天皇崩御、および翌・・・1867年・・・睦仁親王(明治天皇)の践祚に伴う大赦により赦免される。しかし同年12月の王政復古の大号令で摂関職が廃止。再び参朝を停止させられる。ただし、翌月(・・・1868年・・・正月)には解除され、2月には新政府の議定となり、制度事務局督に任ぜられる。閏4月には神祇官知事となり、9月には再び議定。明治2年(1869年)には留守長官。12月、麝香間祗候を命ぜられる。
明治5年(1872年)8月、隠居。子の輔政は早世したため、九条尚忠の子煕通を養子とし、鷹司家を継がせた。・・・

⇒これは、近衛家以下の五摂関家の一体化がなっていることの証のような話だろう。(太田)

<なお、正室の女子を三条実美に嫁がせている。
また、>輔煕には政通の子として秘匿された長男と次男(早世)がおり、その長男が総理大臣西園寺公望の実父徳大寺公純である。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95</a>

3 対天皇家策

(1)閑院宮直仁親王(1704~1753年)

「東山天皇の第六皇子。母は内大臣従一位櫛笥隆賀の娘・賀子(新崇賢門院)。中御門天皇の同母弟。御息所は関白近衛基熙の娘・藤原脩子(八百君)。光格天皇の祖父。現在の皇室は子孫にあた<る。>・・・
閑院宮<は、>・・・当時、既にあった宮家(伏見宮・有栖川宮・桂宮)は何れも天皇とは遠縁であり、皇統の断絶を危惧するも即位となれば天皇の近親者が相応しいとの考えから・・・1710年・・・8月10日、・・・創設された。・・・
妃:近衛脩子(八百君)<(注23)>
第一王女:始宮 のちに治子女王(西本願寺湛如室) 1720-1747・・・
女房:左衛門佐讃岐(伊藤一中娘)
第二王子:俊宮 のちに寛義王、公啓入道親王(天台座主) 1732-1772
第三王子:寿宮 のちに典仁親王(第二代閑院宮) 1733-1794
典仁親王第六王子:祐宮 (のちに光格天皇) 1771-1840・・・
第六王女:五十宮 のちに倫子女王(徳川家治室) 1738-1771
女房:中野さち(長祥院)
第四王子:淳宮 のちに鷹司輔平(鷹司家継承) 1738-1813」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

(注23)「近衛脩子<(しゅうし。1706~1727年)は、>・・・姉に江戸幕府6代将軍徳川家宣の正室・近衛熙子、兄に近衛家熙などがいる。西本願寺16世宗主湛如の裏方・治子女王の母。・・・
幼名は八百君。生母は不詳であるが、基熙の正室・常子内親王(後水尾天皇の皇女)が書いた「无上法院殿御日記」において、長女・熙子、長男・家熙、次男・大炊御門信名の出産記録はあるが、脩子は記載がないため、生母は家女房と推測されている。
幼名は初め「八十君」といったが、・・・1714年・・・に霊元法皇に吉子内親王が誕生し、その幼名を「八十宮」としたことから、急遽八百君に改名したという。これについて、・・・1715年・・・9月27日の『基熙公記』の記録には「八十君を数年来法皇はご存じだったにも拘わらず、正徳四年姫宮誕生の時、霊元法皇が八十宮とつけられたために自分の娘の名を八百君に改名しなくてはならなかった…世間はただ嘲弄するばかりだ」とあり、法皇の行為を仰天嘆息している。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E8%84%A9%E5%AD%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E8%84%A9%E5%AD%90</a>

⇒「当時の朝廷では、皇位継承予定者以外の親王は世襲親王家を継承する例外を除いては出家して法親王となることが慣例となっていた。ところが、・・・1654年・・・後光明天皇が22歳で崩御したときに天皇の近親の皇族男子はほとんどど出家していて、その後継問題で紛糾した。都が平安京に移って以降、いったん出家した皇族が還俗して践祚した例はなく、このとき院政を敷いていた後水尾法皇はその第19皇子である高貴宮(後の霊元天皇)を践祚させようとしたが、高貴宮は生後間もなかったので、四世襲親王家の一つである有栖川宮(花町宮)を継承していた良仁親王が高貴宮が成長するまでの間の中継ぎとして践祚して、後西天皇となった。その苦い経験から、皇統の断絶を危惧した新井白石が、徳川将軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新たな宮家が必要との建言を将軍徳川家宣に出した。
一方、同様の危機感を抱いていた東山天皇も家宣の舅でもある関白・近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁親王)に新宮家を創設させるための財政的支援を求めてきた。このため、<1710>年8月11日・・・、直仁親王を初代とする新宮家創設が決定され、8年後に霊元法皇(東山天皇の父、天皇は1709年・・・に崩御)より直仁親王に対して閑院宮の宮号と1000石の所領を下賜された。<(コラム#12468)>
こうして、・・・1625・・・)の有栖川宮(高松宮)が創設されて以来の新宮家誕生となった。その屋敷地は、京都御苑の南西部に与えられた。
霊元法皇が新宮家創設に反対したとする説があるが、法皇の天皇在位中にも新宮家創設を要望して拒否された経緯があり、自分の代には認めず親幕府派の東山天皇の要望によって認めたことへの不満があったとされている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE</a>

⇒こういう経緯で、天皇家を継ぐ可能性が最も高い新親王家創設に近衛基煕が重要な役割を果たしたことから、天皇家に見切りを付けかけていた近衛家ではあったが、引き続き、可能性にかけてみようと、この閑院宮家初代の直仁親王に、基煕は、自分の女子の近衛脩子(<しゅうし。>八百君)を妃として嫁がせるとともに、直仁親王の男子(脩子の子ではない)を断絶の危機を迎えた鷹司を継がせるべく送り込むドタバタ劇
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E5%B9%B3</a>
の際に、裏からサポートしたと思われる。
しかし、脩子を通じての直仁親王の秀吉流日蓮主義者化は失敗に終わったと見る。(太田)

(2)閑院宮典仁親王(1733~1794年)

「養母は関白近衛基熙の娘、藤原脩子。実母は家女房の讃岐。<妃>は中御門天皇の第五皇女、成子内親王。・・・
古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%85%B8%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%85%B8%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>

⇒典仁親王の妃の成子内親王の父の中御門天皇の女御(皇后)は近衛家煕の女子の尚子だったが、これまた、同天皇の秀吉流日蓮主義者化には失敗していた。
成子内親王は尚子の子ではなかったが、もはや、近衛家どころか、五摂関家の全てが閑院宮家の善導は諦めたように見える。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87</a> ←事実関係
(太田)

(3)光格天皇(1771~1840年。天皇:1780~1817年)

「父は閑院宮典仁親王。母は大江磐代<(コラム#11379)>(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>

⇒光格天皇には、それが親王ならぬれっきとした天皇だというのに、引き続き、近衛家どころか、五摂関家の全てが背を向けていたように見える。(事実関係は上掲)

(4)仁孝天皇(1800~1846年。天皇:1817~1846年)

「正妃は・・・鷹司政煕<の>女<子の>・・・藤原繋子(新皇嘉門院)、繋子没後はその妹祺子(新朔平門院)。15人の子をもうけたが、そのうち12人が3歳までに亡くなった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>

⇒鷹司政煕は、直仁親王の孫で仁孝天皇の父である光格天皇の従兄弟だったので、仕方なく、仁孝天皇に自分の女子を一人ならず二人も、人身御供的に嫁がせた、ということだろう。
もとより、仁孝天皇を秀吉流日蓮主義者にすることなどハナから諦めていた、と見る。(太田)

(5)孝明天皇(1831~1867年。天皇:1846~1867年)

「仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。・・・
女御
九条夙子<(あさこ)>(英照皇太后)(1834年 – 1897年)
第一皇女:順子内親王(1850年 – 1852年)
第二皇女:富貴宮(1858年 – 1859年)
養子:睦仁親王(明治天皇)
典侍
坊城伸子(1830年 – 1850年)
第一皇子:妙香華院(1850年)
中山慶子(三位局)(1835年 – 1907年)
第二皇子:睦仁親王(明治天皇)(1852年 – 1912年)
堀河紀子(1837年 – 1910年)
第三皇女:寿万宮(1859年 – 1861年)
第四皇女:理宮(1861年 – 1862年)
今城重子(1828年 – 1901年)
今城尚子」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>

⇒先帝に五摂関家のうちの一つである鷹司家が正妃を嫁がせていることが実績となって、もう一つの摂関家である九条家(九条尚忠)が貧乏くじを引かされたのではないか。
いや、直截的に言えば、五摂関家が談合の上、彼らの「手持ち」の女子達のうち、最も「下賤」な女子を孝明天皇に押し付けたのではないか。↓

「孝明天皇の御息所選びでは、30年以上にわたって関白を務めた鷹司政通が「堅く御断り申し上げ」、近衛家の娘は早生していたため、有栖川家と九条家の娘が候補として残った。どちらも<孝明天皇の>「思し召に叶わず」だったが、お目見えしたところ、年長という理由で<九条家の>基君<(後の夙子)>に決まったという説を『孝明天皇紀』(1906年刊)は引用する。
九条尚忠<(1798~1871年)>には対馬藩主宗義功の娘、貞姫(千鶴子)という正室がいたが、1828年に亡くなり、側室だった唐橋在煕の養女、唐橋娙子(たけこ、1796–1847年)が継室となった。1845年に夙子が御息所として選ばれたときには、唐橋家の出のこの女性が養母となった。実母は別の側室である鴨社氏人南大路大和守の娘、壽葉だと、『孝明天皇実録』第三巻(2019年刊行、ゆまに書房、実録の脱稿は1936年)は書く。・・・
しかし、同時に、この女性は南大路大和守の娘、染野だとする史料や、南大路長尹の娘、菅山だとする史料も引用されており、転載された南大路家の系図には菅山の名前だけが見つかる。『孝明天皇紀』は染野としていた。どんどん名前が変わったのか、別人なのかは不明だ。菅山(1809–1881年)は晩年、東京へ移った<ようだ。>・・・
五摂関家の一つである九条家の娘でありながら、当初「思し召に叶わず」だったのは、生母がこのように不確かであったためかもしれない。養母とされた唐橋家も公家の下の半家の家格という。唐橋在煕の妹文子の嫁ぎ先が北野天満宮社僧・松梅院禅泰で、その娘を在煕の養女としていた。『孝明天皇紀』はこの養母の名前を梅園とする。御息所の母として公表するには、鴨社氏人の娘よりはふさわしいと判断されたのだろうか。唐橋家のこの女性は、夙子が1848年に入内する以前に死去してしまうので、1881年まで生きた菅山がのちに実母として公表されたのだと思われる。 ・・・
宮中での養蚕に夙子<は>非常に熱心だった・・・が、彼女は維新直後に壊滅状態になった能狂言の保護にも一役買っ・・・た。」
<a href=’https://erikatogoletters.blogspot.com/2021/03/blog-post_21.html’>https://erikatogoletters.blogspot.com/2021/03/blog-post_21.html</a>

いかに「下賤」だったかは、夙子の同母弟の道孝(1840~1906年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D</a>
が九条尚忠の長男であったにもかかわらず、鷹司政通の子の幸経(1823~1859年)を養子として迎えて九条家を継がせ、道孝をこの幸経の「実子」として、道孝の後を継がせる
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C</a>
というややこしいことを尚忠がやっていることからも分かろうというものだ。
孝明天皇も、五摂関家が自分を蔑視していることは意識していたのではなかろうか。
「孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、・・・1853年・・・5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E</a>
という訳の分からない話は、私見では、孝明天皇がでっち上げて流布させたものであって、その狙いは、「桂宮淑子内親王<の>・・・異母弟の節仁親王が継承した桂宮は、節仁が・・・1836年・・・3月5日に亡くなったため当主不在となっていた。<異母弟孝明天皇によって、>淑子<(1829~1881年)>は・・・1863年・・・日に第12代として桂宮を継承した。女宮が世襲親王家を継承した唯一の例である。・・・<同じ天皇によって、>1866年・・・4月22日には准三宮(准后)・一品に叙されて以後桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれ、同じ准三宮だった孝明天皇女御・九条夙子(英照皇太后)よりも宮中席次は上席だった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E6%B7%91%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E6%B7%91%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
ということと併せて考えると、そんな夙子を自分に押し付けた九条尚忠、ひいては五摂関家への、ささやかであれ、意趣返しだったのでは?
更に妄想に近い想像を膨らませれば、夙子は近衛忠煕を筆頭とする五摂関家が天皇家に送り込んだ高級工作員であり、夙子の協力により、この五摂関家が、最も適切なタイミングを見計らって、(それまで、円滑な倒幕を実現するために最大限利用してきたけれどもはや用済みになり、むしろ邪魔になった)孝明天皇を毒殺した、という可能性すら排除できまい。(太田)

III 徳川慶喜とは何だったのか

1 始めに

結論を最初に書いておくが、徳川慶喜(1837~1913年)・・これは、彼の一橋家相続後の名前だが、本稿ではこの名前で通す・・は、一橋徳川家を相続した1847年時点(まで)において、父徳川斉昭から、将軍の座を目指し、適切な時期に、徳川幕府をできる限り迅速かつ円滑に内部から瓦解させ、日本が、天皇を頂点に戴く中央集権国家へと作り変えられて秀吉流日蓮主義の完遂を目指すことができるようにする、という使命を叩きこまれ、最終的にその使命を見事に果たした、と、私は考えるに至っている。
以下は、この結論の検証だ。

2 検証

(1)徳川治保(はるもり。1751~1805年)

「母は榊原篤郷<(注24)>の娘<の美衛であり、>・・・御簾中<は、>八代君(正禮夫人)<で>一条道香<(前出)>長女<であったところ、>・・・父の死去により16歳で家督を継<ぎ、>・・・死去まで40年間におよぶ治世<だった。>・・・

(注24)「水戸藩士の榊原氏<は、>榊原清政(康政の兄)の外曾孫石野照明が榊原を称したことより始まる。照明は水戸藩主徳川光圀に仕えた。照明には男子はおらず、生家の石野家から篤郷を養子に迎えた。篤郷の娘美衛(智仙院)は徳川宗翰の側室となり治保を生む。篤郷の玄孫照煦は天狗党の乱にて捕縛され古河藩にて切腹した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%B0%8F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%B0%8F</a>
「徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている・・・榊原康政・・・の兄・清政は1,800石の幕府の旗本となり、家康の隠居城である駿府城の後詰めの城である久能山城を守り、子孫は旗本として代々駿河久能山東照宮の責任者となった。本来はこの兄の家が榊原本家であるはずなのだが、清政自身が病弱であったために家康の命により康政が榊原の家督を相続したこと、榊原家の累進は康政一代の勲功に因るところが大きいため、現在では榊原氏の本流という場合、康政の系統を指すことが一般的である。なお清政の子の照久は家康廟所である久能山東照宮の責任者として、武家としては異例である従二位という高位となっている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E6%94%BF</a>

⇒『大日本史』編纂を志した徳川光圀の思いをその家臣だった養父榊原照明から叩きこまれた篤郷を父とする美衛の薫陶を受け、かつ優秀であった治保であったからこそ、以下のような日蓮主義者としての施策を行ったのだろう。(太田)

停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあたったという。また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにしている。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている。加えて、立原翠軒ら彰考館の総裁3人を政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした。こうした空気のもと、翠軒やその門下の幽谷などが、農村復興の政策や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内外の問題にも積極的に発言するようになっていく。
治保自身も優れた文人であり、『文公文集』や『尚古閣雑録』など著書が多数ある。
・・・1805年・・・11月1日に死去した。・・・
徳川慶喜(15代将軍)と徳川宗家に最も近い男系共通祖先にあたり、幕末から明治維新期の尾張徳川家、幕末以降の一橋徳川家、清水徳川家の当主は治保の子孫が就いている。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D</a>

⇒治保は、嫡男の治紀に紀州藩藩主の女子を娶せており、水戸家と紀州家の初代の因縁を踏まえ、改めて、両家の結束を期した、と思われる。
また、この治紀に、『大日本史』の、幕府を通じての朝廷献上の実現、を遺言した、と考えられる。(太田)

(2)徳川治紀(はるとし。1773~1816年)。

「母<は>八代君<。>・・・御簾中<は、>方姫(達子・恭穆夫人)<で>徳川治貞養女、徳川重倫娘・・・治紀の代の改革は大きな成果は挙がらなかったが、質実剛健を目指した政治姿勢、彰考館の学者の抜擢、沿岸防備などの政策は、三男の斉昭(斉脩の弟)に継がれることとなった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80</a>
「徳川治貞(・・・はるさだ)は、・・・伊予西条藩の第5代藩主、のち紀州藩の第9代藩主。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E8%B2%9E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E8%B2%9E</a>
「徳川重倫(・・・しげのり)は、紀州藩の第8代藩主。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%80%AB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%80%AB</a>

⇒1810年に、治紀は、徳川家斉を通じて、光格天皇(注25)(1771~1840年。天皇:1780~1817年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
(関白は、鷹司政煕(注26)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7</a> )
に『大日本史』を受領させることに成功しており(コラム#12170)、これが、比較的短かった治紀の、その治世における最大の業績である、と言っていいだろう。

(注25)父親が閑院宮典仁親王、母親が「庶民」の大江磐代(おおえいわしろ)(前出)。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87</a> 前掲
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%A3%90%E4%BB%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%A3%90%E4%BB%A3</a>
(注26)母親は江戸時代を通じて倒幕が隠れ藩是であり続けた長州藩の毛利重就の娘、正室は隠れ秀吉流日蓮主義が藩是の徳島藩の蜂須賀重喜の娘。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95</a>

(治紀は、三女を二条斉信、四女を鷹司政通、に正室として嫁がせている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80</a> 前掲
が、それを取り持ったのは、水戸徳川家と縁が深い近衛家だと思われる。
こうして、恐らくは五摂関家すべてとの根回しが終わったのだろう。)
この話が、治紀のウィキペディア(上掲)にも、『大日本史』のウィキペディア
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2</a>
にも、そして、光格天皇のウィキペディア
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
にも、出てこないのは、困ったものだ。
これで、朝廷は、日蓮主義の実行を目指す者達を嘉すべき存在になった、いや少なくとも、日蓮主義の実行に異議を唱える立場ではなくなった、と、治紀は受け止めたのではなかろうか。
にもかかわらず、将軍の徳川家斉(1773~1841年。将軍:1787~1837年)が、自身が日蓮宗信徒になった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89</a>
というのに、また、形の上では朝廷に『大日本史』を受納させた主体であるというのに、一向に日蓮主義的な政策を打ち出さないことから、治紀は密かに倒幕を決意するに至り、会沢正志斎に、秀吉流日蓮主義に立脚した事実上の倒幕書の執筆を命じると共に、態勢を整えた上で、機会を見て、朝廷に根回しした上で倒幕に踏み切れ、と、長男の斉脩と(そのスペアとして部屋住みで残した)三男の斉昭に言い残した、と、私は想像するに至っている。(太田)

(3)徳川斉脩(なりのぶ。1797~1829年)

「1803年・・・、7歳の時、将軍徳川家斉の七女峰姫(当時4歳)と婚約し、・・・1814年・・・に結婚した。<そして、>・・・1816年・・・、父・治紀の死去を受け、家督を継いだ。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%84%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%84%A9</a>
「1817年・・、藤田幽谷は斉脩に上書を出し、門閥派の巨頭と目していた付家老の中山信敬の引退を主張した。中山家は紀州や尾張の付家老とも連携して、大名同等の扱いになるほどに権力拡大していた。」(上掲)
「<この頃、>水戸藩<は、>慢性化した苦しい藩財政<下にあった。>」(上掲)

(4)徳川斉昭(1800~1860年)

「徳川治紀の三男として生まれる。母は権中納言外山光実の養女(町資補<(注27)>の娘)・補子。・・・1829年・・・、第8代藩主・斉脩が<病死し、>・・・家督を継いだ。・・・

(注27)烏丸家(からすまるけ)は、藤原北家日野氏流の公家で名家であるところ、町資補は、烏丸光胤の子、外山光実の兄。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6</a>
外山家は、日野家の分流の一つで、家禄が御蔵米30石の名家。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E5%AE%B6</a>

<そして、>1832年・・・、有栖川宮織仁<親王>の末娘・登美宮吉子と結婚する。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a>

⇒登美宮吉子との結婚は、水戸徳川家の歴代藩主の官位は従三位に過ぎず(典拠省略)、また、実母の(養子だが)出身の外山家は名家なので極冠は正三位に過ぎない、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AE%B6_(%E5%85%AC%E5%AE%B6)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AE%B6_(%E5%85%AC%E5%AE%B6)</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B4%8D%E8%A8%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B4%8D%E8%A8%80</a>
のに対し、登美宮吉子は、霊元天皇の孫たる親王の女子であり、位など超越した存在である天皇家
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E4%BD%8D_(%E4%BD%8D%E9%9A%8E)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E4%BD%8D_(%E4%BD%8D%E9%9A%8E)</a>
の一員だったことから、有栖川宮織仁親王の女子を娶ったという点では、同親王とその妃である鷹司富子の子を娶った広島藩主淺野齊賢と長州藩主毛利齊房、にはもとよりだが、この妃の元小姓の子を娶った将軍徳川家慶、にさえ遜色があるところの、この妃の元侍女であった女子・・妃ではないところの室達4人中唯一素性のみならず生年すら分からない女性・・・の子・・末っ子で最後まで受け入れ先が見つからなかったこということにされた・・・を娶った、
<a href=’http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/royalty/arisugawa.html’>http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/royalty/arisugawa.html</a>
という点で、甚だ遜色こそあったものの、吉子が、傑出した知力、とともに、母親からの遺伝と育った母方の里の環境がもたらしたと思われるところの、高い身体能力、の持ち主であった(後出)こともあり、(ちょうど、斉昭の祖先の光圀と、その正室の近衛尋子との関係同様、)斉昭は、吉子に頭が全く上がらなかったのではなかろうか。(太田)

—————————————————————————————–
[一橋派]

「徳川家定は病弱で、若年にもかかわらず長命や嗣子誕生は絶望視されていた。自然後継者問題が勃発するが、年長かつ賢明であるとして一橋慶喜を推したのが一橋派である。
一橋慶喜の実父である前水戸藩主・徳川斉昭を筆頭に、実兄の水戸藩主・徳川慶篤、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝などの親藩大名や、開明的思想で知られた外様大名である薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らがいた。紀州徳川家の徳川慶福(のちの14代将軍徳川家茂)を継嗣に推挙していた南紀派と対立した。
従来、幕政を主導していた譜代大名が多かった南紀派に対し、一橋派は幕政から遠ざけられていた親藩や外様大名が中心であり、背景には老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)がこれら親藩・外様大名を幕政に参与させたことによる発言力の高まりがあった。外交政策においては、水戸藩のような強硬な攘夷派と薩摩藩や宇和島藩のような積極的な開国派が混在していた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E6%B4%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E6%B4%BE</a>

⇒この結論部分は誤りだ。
本稿やこれまでの関係コラム群を参照して欲しいが、徳川斉昭・徳川慶篤、徳川慶勝、島津斉彬、は、秀吉流日蓮主義者であって、かつ、タテマエはともかくとして、ホンネは(後出の会沢正志斎と同じ意味での)倒幕派であったのに対し、松平慶永、伊達宗城、山内豊信、は、非秀吉流日蓮主義者であって、タテマエもホンネも公武合体派たる佐幕派なのであり、本当のところは、両者は、おしなべて開国派でこそあれ、その他の点では同床異夢に近かったのだ。
ちなみに、島津斉彬の異母弟の島津久光は、後者の公武合体派たる佐幕派だったと言ってよい。
もうお気付きだと思うが、松平慶永ら、と、例えば、井伊直弼、とは、公武合体派たる佐幕派、という点では共通なのだ。
但し、違いは結構大きく、慶永らは、時代が優秀な将軍(最高権力者)を求めていると考えて慶喜を推したのに対し、直弼らは、そのような時代であるとの認識がなく、幕閣さえしっかりしておればよいとの考えの下、血筋を尊んで未成年であった家茂を推した、というわけだ。
(なお、松平慶永、徳川家斉・家慶父子や阿部正弘らは、タテマエは秀吉流日蓮主義者だが、ホンネは井伊直弼らと同じ、というグループであり、井伊直弼らのような、タテマエもホンネも非日蓮主義者のグループとは、その点でも一味違っていることに注意。)
松平慶永らについては、このような趣旨のことを初めて記したので、最低限の理由付しておく。
越前藩16代藩主の慶永については、本人に、(斉彬等との交流をさておき)日蓮主義との接点が見当たらず、その(形の上だけの)養父である15代藩主の松平斉善についても、また、実父の田安徳川家3代当主の徳川斉匡(なりまさ)についても、同様だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%96%89%E5%96%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%96%89%E5%96%84</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%8C%A1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%8C%A1</a>
宇和島藩8代藩主の伊達宗城(むねなり)については、やはり、本人に、また、その養父である宇和島藩7代藩主の伊達宗紀(むねただ)についても、実父である旗本の山口直勝についても、同様だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E7%B4%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E7%B4%80</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E5%8B%9D</a>
そして、土佐藩15代藩主の山内豊信(とよしげ)についても、やはり、本人に、また、その(形だけの)養父である土佐藩14代藩主の山内豊惇(とよあつ)についても、実父である土佐藩12代藩主の山内豊著(とよすけ)についても、同様だ。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E6%83%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E6%83%87</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E8%B3%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E8%B3%87</a>
この3人が慶喜を推したのは、いずれもそれなりに優秀であって、島津斉彬とウマが合ったであろうことと、とりわけ、山内豊信に関しては、「1848年・・・の7月に江戸で13代藩主・山内豊熈が死去する。豊熈には嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死し、山内家は御家断絶(お取り潰し)の危機に瀕した<ところ、>・・・部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名された<が、>豊信の家督相続において土佐藩は豊惇の死を隠蔽、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続を幕府に申し出た。この工作の際には、薩摩藩主島津斉彬や筑前福岡藩主<で島津重豪の子である>黒田斉溥、伊勢津藩主藤堂高猷、伊予宇和島藩主伊達宗城の周旋があ<り、>とくに豊熈の妻<で、島津斉彬の同母妹の>智鏡院(候姫)の実兄薩摩藩主島津斉彬は当時幕府の実権を握っていた老中首座阿部正弘と親交があり、幕府も裏工作を黙認した<、といった経過を辿り、このように>候姫の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任<だった>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82</a> 前掲
という事情が考慮されるべきだろう。
幕末において、水戸藩(正しくは、慶喜は別格として、同藩の秀吉流日蓮主義者たる志士達)、薩摩藩(正しくは同藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達)、そして尾張藩、が、一貫して倒幕に勤しんだのに対し、越前藩、宇和島藩、土佐藩、が、薩摩藩等に基本的に追随しつつも、今一つ煮え切らない姿勢をとり続けたのことには、以上のような背景がある。(太田)
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[戊午の密勅]

○密勅

一、概要

「1858<年>6月20日<、>・・・紀州藩第13代藩主であった・・・慶福(よしとみ)<が>・・・将軍家定の世子とな<った。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82</a>
「1858年・・・8月8日付で幕府と水戸藩へ出された勅諚。勅許と諸藩との衆議を経ないまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して,孝明天皇は譲位を表明し,これをうけた朝議は薩摩,水戸藩士の画策もあって,幕府へ調印を抗議し,諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決した。勅諚は10日に幕府へ下され,また8日には内密に水戸藩へも下された。その副書で勅諚を諸藩へも回達するよう命じていたため,水戸藩ではそれをめぐって藩論が分かれ,幕府は回達禁止を厳命した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-13292′>https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-13292</a>

二、黒幕

(一)朝廷外

・水戸藩士鵜飼吉左衛門知信(コラム#12482)と薩摩藩士日下部伊三次説(注28)(コラム#9902、12482)
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921′>https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921</a> (ブリタニカ)

(注28)いそじ(1814~1859年)。「[海江田氏の本姓<が>日下部氏<であるところ、>]父は,元薩摩藩士で水戸太田学館[益習館]幹事海江田(日下部)訥斎連。父の跡を襲って太田学館幹事。・・・薩摩藩士であった父が寄寓していた水戸藩領に生まれる。のち江戸に出て幕臣川路聖謨の従士となり,宮崎復太郎と称した。1855年・・・島津斉彬に認められ,薩摩藩江戸藩邸に召し抱えられた。58年7月,藩命により上京。8月8日,幕府の条約調印は遺憾であるという内容の密勅が発せられた(戊午の密勅)。水戸藩士鵜飼幸吉は,この密勅を東海道経由で,日下部はその写しを木曾路経由で,それぞれ江戸の水戸藩邸へ届けた。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%AC%A1-1071423′>https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%AC%A1-1071423</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB</a> ([]内)
「太田郷校「益習館」は、<1837>年に徳川斉昭の水戸藩天保の改革により、庶民の教育の場として設置され、地方医師の研修や儒学的教養を修める教育が行われていた。・・・この郷校の初代の館守が、薩摩藩を脱藩し、水戸藩領であった伊師村(現日立市十王町)で私塾を開いていた日下部連(むらじ)であり、父の死後、<1839>年には幹事に、<安政江戸地震のあった1855>年に館守になったのが長男の日下部伊三治である。その年、薩摩藩主島津斉彬の求めにより、江戸の薩摩藩邸に入っている。」
<a href=’https://ameblo.jp/mumumu127/entry-12133337197.html’>https://ameblo.jp/mumumu127/entry-12133337197.html</a>

⇒<18>58年7月の7月が旧暦の7月であるとして、島津斉彬の死が7月16日なので、斉彬が日下部に命じて彼を上洛させたことになり、「密勅」の本当の黒幕は島津斉彬だった、ということになりそうだ。
仮にそうだったとすると、近衛家/島津家と水戸徳川家の因縁からして、本当の黒幕の片割れの黒幕は徳川斉昭だった、ということにもなりそうだ。
そして、この密勅は、水戸藩を震源地として倒幕へと至る大地震を起動させるのが目的だった、と見る。
なお、日下部伊三次の父親の海江田訥斎連の水戸藩寄寓は、伊三次が生まれた1814年より前に起っているところ、これは、斉彬の育ての親とも言うべき島津重豪(~1833年)の差し金によるものではなかったか。
その真の目的は、海江田に薩摩藩の水戸藩駐在連絡官的な仕事をさせることだったのではないか、とも。
日下部伊三次が川路聖謨に仕えたのは、川路が左遷で奈良、大坂に飛ばされていたのが江戸に復帰し、「1852年・・・、公事方勘定奉行に就任。・・・翌・・・1853年・・・、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当し、・・・1854年・・・に下田で日露和親条約に調印。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8</a>
と大活躍していた頃だろうが、これは、徳川斉昭(1849年に再び藩政関与が許されていた)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a>
と島津斉彬(1851年2月に藩主に就任)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC</a>
の合意の下、日下部を水戸藩から薩摩藩に「返還」することを含みに、両藩共通のスパイとして日下部を幕閣の対外実務の中枢に送り込んだのではないか。
この日下部の動静を見るだけで、いかに、家斉と斉彬が緊密な関係にあったかが推し量れるというものだ。
以上を踏まえつつ、以下、既存の諸説を評価しておきたい。(太田)

(二)朝廷内

・孝明天皇説
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85</a> ★

⇒孝明天皇は、開国に反対ではあっても佐幕だったのだから、倒幕に繋がるような陰謀に荷担するはずがない。
同天皇は、この密勅の内容には異存なかっただろうが、密勅が水戸藩「にも」下されることについては事前的に蚊帳の外だっただけでなく、事後的にすら蚊帳の外だった可能性が高い。(太田)

・左大臣近衛忠煕説
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921′>https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921</a> (ブリタニカ(田中彰))

⇒詳細まで調べていないけれど、田中彰にそこまでの意識はないだろうが、私見では、これは島津斉彬黒幕説にほぼ等しいのであって、そういう意味では、この説こそ正しい。太田)

三、実質的名宛人

(一)水戸藩前藩主徳川斉昭説
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921′>https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921</a> (ブリタニカ)

(二)幕府と水戸藩説
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921′>https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-132921</a> (日本大百科全書(ニッポニカ)・世界大百科事典)

(三)水戸藩説(★)

※形式的名宛人は水戸中納言(徳川慶篤)(★)。幕府が誰宛だったのかは分からなかった。

⇒このうち、(三)の水戸藩単独説が正しい。幕府に対しては参考送付しただけだ、と。(太田)

四、密勅性

「幕府寄りの関白九条尚忠の参内のないまま、武家伝奏 久我建通、万里小路正房からの説明による執行奉承(事後承認)のみで決したため、密勅と言われているが、形式はあくまでも通常の勅諚である。」(★)

⇒このミスノーマー説が通説のようだが、水戸藩に対して下された本命のものに関しては、天皇は関知していなかった可能性が高い点で、変則的ながら、「密勅」、と形容してもいいのではないか。(太田)

○内容

「・勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。<A>
・御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。<B>
・上記2つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよという副書。・・・
草案段階では、将軍継嗣問題への言及も見られたが、奏請の結果、割愛となった。」(★)

⇒水戸藩にも下された以上は、AもBも幕府にはできない、幕府には期待できない、と断定しているに等しく、この密勅は幕府不信任宣言である、と言ってよかろう。(太田)

○背景

「島津斉彬<は、>・・・宗城ほか四賢侯、斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子の慶喜を推した。斉彬は、篤姫を家定の<三番目の>正室として嫁がせ、さらに公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願した。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは敗れた。
斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、その年(<1858>年)の7月8日・・・、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日・・・)に死去した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC</a>

⇒斉彬の死去が7月16日
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC</a>
で密勅の発出が8月8日であることから、恐らく、斉彬の上京のための出兵と同時に発出する予定だったものを、斉彬の死去、出兵の中止、にもかかわらず、時の左大臣の近衛忠煕が、時の関白の九条尚忠
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7</a>
に言い含めた上で、孝明天皇を蚊帳の外に置いて発出させたものだ、と、私は見る。
斉彬は、自らが上京出兵することで、幕府に圧力をかけ、世子を慶福から慶喜に差し替えさせる、一気呵成の対幕クーデタ・・倒幕クーデタではないことに注意!・・を行おうとしていたところ、それは不可能になってしまったけれど、忠煕は、密勅だけは発出することで、緩慢な対幕クーデタの口火を切ることにはなってその過程で幕府が不安定化し、慶喜を将軍にして幕府を内部崩壊させるチャンスが出て来るだろう、と計算したのではないか。
その場合、ギラつき過ぎることから、将軍継嗣問題・・要は慶喜を将軍に、ということ・・は密勅から落とすことにした、と。(太田)

○影響

(一)長期的

「藩創設以来、水戸藩では藩主に忠実な改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守門閥派(諸生党)との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老武田耕雲斎を中心とした尊攘激派(後の天狗党)と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、會澤正志斎を中心とした尊攘鎮派とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま明治維新を迎えることとなる。」(★)

⇒1858年7月から水戸で謹慎を命じられていて、戊午の密勅後、1859年からは永蟄居を命じられた斉昭は、何の指示も出さないまま1860年8月15日に急逝してしまう
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a>
ことを踏まえれば、これは、(慶喜が将軍になるまでは、)尊王攘夷派は藩を挙げて何かをなそうとするのではなく、一人一人の判断で、基本的に脱藩することなく、大義(=倒幕・維新)のために、幕府の不安定化に繋がるような自己犠牲的テロ活動をやり続けよ、という暗黙の指示を与えたに等しい、とみるべきだろう。
仮にそのように水戸藩内の尊王攘夷派が受け止めたのだとすれば、尊王攘夷派の「内ゲバ」は、藩としては何もしない、何もできない、というアッピールを行うための、役割分担の上での演技だった、ということになろう。(太田)

(二)短期的

「<1859>年8月27日・・・、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老安嶋帯刀を切腹、奥祐筆茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、京都留守居役助役同幸吉を獄門、勘定奉行鮎沢伊太夫を遠島とし、斉昭は水戸での永蟄居、慶篤は差控とした(安政の大獄)。・・・
激派は水戸街道の長岡宿に集結し街道を封鎖して勅書の返納を実力阻止しようとした。・・・
激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、<1860>年3月3日・・・に井伊大老を襲撃することとなる(桜田門外の変)。」(★)

⇒上述の斉昭の「暗黙の指示」の下、直ちに、水戸藩士達が一人一人の判断で、大義のための自己犠牲的テロを決行し始めたわけだ。(太田)
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(5)徳川慶篤(よしあつ。1832~1868年)

「1868年・・・、1月19日に在京の水戸藩士・本圀寺勢に託された「除奸反正」の勅書(諸生党らを討伐し、藩政を正常化せよ、という内容)を速やかに受諾してその通りに藩政を刷新するよう、謹慎直前の弟徳川慶喜から助言され、2月10日、慶篤はその助言通り勅命を受諾、その後尊攘派が江戸邸の実権を握った。これにより、水戸徳川家は朝敵とされることを免れる。
この勅書の遂行のため、同年3月に水戸に入る。諸生党討伐のための軍備を整えての帰国であったが、水戸に入った時はすでに、市川三左衛門ら諸生党500名は水戸を脱出しており、戦闘はなく水戸城に入った。5月に天狗党の生き残りである武田金次郎らも水戸に入り、水戸城下では勅書の名のもとで激しい報復が行われる。その災禍は、諸生党の縁類だけでなく、中立派であった者や僧侶や豪農にも及んだ。
その渦中の4月5日、慶篤は水戸城にて死去した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E7%AF%A4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E7%AF%A4</a>

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[後期水戸学]

○藤田幽谷(1774~1826年)

「思想上に重要なのは、18歳のとき、<幽谷が>幕府の老中松平定信の求めに応じて書いた『正名(せいめい)論』である。
この論文は、君臣上下の名分を正しくすることが、社会の秩序を維持するための基本であるとし、こののちの尊王思想に理論的根拠を与えた。」
<a href=’https://www.rental-noah.jp/2015/06/03/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6-%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-1/’>https://www.rental-noah.jp/2015/06/03/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6-%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-1/</a>

「義は礼楽に属するとした徂徠学の見解が<後期>水戸学の基底にあった」(コラム#12452)
「徂徠学を、後期水戸学を代表する学者である藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖がどのように受容、もしくは拒絶したのか・・・
『孟子』を批判する点は共通するものの、批判点が、三者三様に異なっていた。なかでも、藤田東湖の『孟子』批判は、「君臣」の名分論に基づく批判であり、徂徠学派における「道統論」における「孟子」を巡る位置付けとは明確に異なっていた。以上のことから、『孟子』観に限っていえば、藤田東湖は、徂徠学派の影響を受けていない」(武石智典)
<a href=’https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/60572′>https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/60572</a>

⇒そう遠くない将来、丸山眞男の日本政治思想史批判にひっかけて江戸時代の思想史を取り上げる際へ先送りするが、藤田幽谷は、幕末・維新史の文脈では無視してよさそうだ。(太田)

○藤田東湖(1806~1855年)

「本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96</a>

⇒幽谷のこの息子についても同じだ。
だから、上掲のような東湖評価も誤りであるとしてよさそうだ。(太田)

○会沢正志斎(1782~1863年)

後期水戸学で、取り上げるに値する、しかも極め付きに重要な存在が会沢正志斎だ、というのが私の考えだ。

「会沢正志斎<は、>・・・江戸末期の水戸学を代表する学者。常陸水戸藩士。・・・藤田幽谷に学び,その子藤田東湖と徳川斉昭の藩主擁立を策した。のち藩政に参画,藩校弘道館の創設に尽力し,初代総教(教授頭取)となる。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283′>https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283</a>
「会沢正志斎<の>・・・墓所は茨城県水戸市の本法寺。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E</a>
「養珠院夫人(徳川家康の側室)が頼宣(徳川家康の十男 養珠院夫人の長男 紀州徳川家祖)の水戸藩時代、水戸千波に本法寺(玉沢末)を創建」
<a href=’https://seiteizan.sub.jp/page940.html’>https://seiteizan.sub.jp/page940.html</a>

⇒正志斎が、幽谷・東湖父子の無宗派の水戸藩共同墓所(後述)とは違う、日蓮宗の寺に墓所を定めたことは、(もともと日蓮宗信徒であったと思われる)彼が、自分が日蓮主義者であることを、日本全国に対してダメ押し的に宣明したもの、と受け止めるべきだろう。
その正志斎は、(私の想像であるわけだが、)徳川治紀の死後9年にして、ようやく、(治紀が執筆を指示したと私が見ているところの、)秀吉流日蓮主義に立脚した事実上の倒幕書を仕上げた。↓(太田)

「『新論』(しんろん)は、・・・1825年・・・3月に会沢正志斎が上梓した、尊王論と国防を説いた書である。水戸藩主・徳川斉脩に上呈するために書かれた。ただし、その内容のために出版は禁止されたが、門人たちがひそかに書き写して匿名で広め、江戸玉山堂から・・・1857年・・・に正式に出版された。・・・
正志斎は人心統合の思想として国体を持ち出した。そして、[尊王<、すなわち、>]天皇への忠を尽くすことは孝の実践につなが・・・ると説いた。
[<そのほか、>大義名分・富国強兵などを強調し<た。>]
本書は徳川御三家の一つであり、北方の警備の任も負っていた水戸藩を通じて幕府に影響を与えることを前提に書かれていた(尊王佐幕)。しかし、黒船来航以降の幕末の混乱と幕府への信頼が失墜したのに伴い、尊王攘夷論のテキストとして志士たちに愛読されるようになり、明治維新以降も教育勅語や国民道徳論にまで影響を与えた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%AB%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%AB%96</a>
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283′>https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283</a> ([]内)

⇒上掲は、私に言わせれば、『新論』の核心部分を紹介しそこねているが、そのことはさておき、『大日本史』は大部だし、仮に読み通したとしても、その史観、及び、その史観が立脚している日蓮主義、を把握することは、とりわけ日蓮宗信徒以外の人々にとっては、必ずしも容易ではないので、正志斎はその史観を要約的に紹介することとし、その際、時代に即した紹介の仕方に心掛けた、と、私は受け止めており、それだけでも、『新論』が果たした役割は大きい、と言うべきだろう。(太田)

「・・・門人の礼をとった者の中には久留米の真木和泉守<(コラム#12514)>・・・、村上守太郎<(注29)>や長州の赤川淡水(おうみ)(佐久間佐兵衛)<(注30)>、笠間の加藤桜老<(注31)>(おうろう)、などがあり、更には、入門はしないまでも直接教えを乞い、著しい影響を受けたものに、長州の吉田松陰、薩摩の肝付(きもつき)毅卿<(注32)>、日下部伊三次<(当時は水戸藩士)(コラム#9902)>(くさかべいそ<う>じ)、高崎の清水赤城<(注33)>(せきじょう)、熊本の長岡監物<(注34)>(ながおかけんもつ)など、それぞれ幕末の有志・志士として歴史に名を残した人が沢山おります。

(注29)「1844年・・・久留米藩10代藩主となった有馬頼永(よりとう)は,水戸学の影響をうけた村上守太郎ら天保学派の支持を得て藩政改革に着手,大倹令を発し軍制改革を断行したが,わずか2年にして急逝し,藩政改革は挫折した。46年,弟の頼咸(よりしげ)が11代藩主に就任すると,天保学派は真木和泉らの外同志と村上守太郎らの内同志に分裂し,50年・・・江戸赤羽の久留米藩邸における村上守太郎の参政馬淵貢に対する刃傷事件にまで発展した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%AE%88%E5%A4%AA%E9%83%8E-1425505′>https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%AE%88%E5%A4%AA%E9%83%8E-1425505</a>
(注30)1833~1864年。「藩校明倫館の助教<になり、>のち京都で尊攘派として活躍。禁門の変で敗れて帰藩<したが、>・・・第1次長州征討下に誕生した佐幕派藩庁により処刑された。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BD%90%E5%85%B5%E8%A1%9B-1077787′>https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BD%90%E5%85%B5%E8%A1%9B-1077787</a>
(注31)1811~1884年。「常陸(茨城県)笠間(かさま)藩士。会沢正志斎,平田篤胤らにまなぶ。<1851>年隠居し,のち尊攘運動にくわわり高杉晋作らとまじわる。<1863>年長門(山口県)萩藩校明倫館の教授となった。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%A1%9C%E8%80%81-1065898′>https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%A1%9C%E8%80%81-1065898</a>
(注32)1823~1887年。藩に仕えて天文学を学び、江戸に出て大橋訥庵や藤森弘庵らに儒学を学び、吉田松陰(らと交流を重ね、維新後は山形県庁や師範学校等に職を奉じた兵学家の儒者」
<a href=’http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-2145.html’>http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-2145.html</a>
(注33)1766~1848年。「清水礫洲(れきしゅう),大橋訥庵(とつあん)の父。江戸で儒学,兵学,天文暦算,剣法をおさめる。諸流派の砲術を研究して「火砲要録」をあらわし,諸藩で指導。蒲生(がもう)君平,藤田幽谷,滝沢馬琴らと交遊した。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%B5%A4%E5%9F%8E-1081181′>https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%B5%A4%E5%9F%8E-1081181</a>
(注34)長岡是容(これかた。1813~1859年)。「父が死去すると1万5,000石の所領を襲封し、藩家老となって江戸藩邸で藩主細川斉護に仕えた。横井小楠や下津久馬と共に協力して藩政改革に取り組み、文武芸倡方として藩校の時習館改革などに尽力し、荻昌国・元田永孚らを加えて会読会を開き、実学党と呼ばれる一派を形成した。
しかし改革に反対する保守派である学校派の家老・松井佐渡(=10代当主松井章之)の反対を受け挫折。・・・1847年・・・、親しくしていた水戸藩主・徳川斉昭が隠居させられると、それによって是容も家老職を辞職させられた。
・・・1853年・・・、<米>国のマシュー・ペリーが再来航したのを契機として家老職に復帰を許され、浦賀の守備隊長として江戸詰を任じられた。江戸において徳川斉昭、藤田東湖、吉田松陰、西郷隆盛らと盛んに交流した。しかし攘夷論者であったため、・・・1855年・・・に開国論を唱えて沼山津派(新民派)を形成した友人の小楠と対立し、自らは坪井派(明徳派)を形成して対抗し、かえって熊本藩にさらなる混乱の種を生むこととなった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E6%98%AF%E5%AE%B9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E6%98%AF%E5%AE%B9</a>

水戸まで来ないでも『新論』を読んで発奮した人は少なくないでしょう。」
<a href=’https://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shiseki/05aizawa.html’>https://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shiseki/05aizawa.html</a>

⇒薩摩藩(島津氏/近衛家)の島津斉彬近侍者達や後のコンセンサス信奉者達は『大日本史』の史観の要約などしてもらう必要が無い者が少なくなかった一方で、吉田松陰は私見では正志斎を誤解したまま終わり(後述)、むしろ、正志斎の門人が2人も長州藩校明倫館で教授を務めたにもかかわらず、彼らの影響を松陰が「上書き」してしまったように私には思えるし、長岡監物も(攘夷に固執したこと一つとっても)(「注34」)私見ではやはり、正志斎を誤解したまま終わった。
唯一、正しく学び、かつ学んだことを活用したと思えるのが真木和泉守だが、彼の出身の久留米藩は藩において彼に活躍の場を与えなかった。
日下部伊三次も、正しく学び、かつ学んだことを活用したと思えるが、学んだ時点では彼はまだ水戸藩士であり、正志斎の水戸藩士の教え子達の一人としてカウントされるべき人物だ。
このように、正志斎の影響は、もっぱら幕末の水戸諸藩主や藩士達に及ぼされたにとどまったけれど、私見では近衛忠煕が主導した戊午の密勅なる号令を契機として、彼らが次々と崛起して幕府を不安定化させてくれたおかげで、倒幕がなり、明治維新がもたらされ、それが更に世界史の大転換へと繋がった、と、私は見るに至っている次第だ。
しかし、この倒幕・維新に係る水戸藩士達の貢献は、豊臣秀吉本人及びその子孫達、並びに、徳川幕府初期からの近衛家/島津氏の江戸時代を通じての、水戸徳川家への布石を含むところの、対秀吉流日蓮主義普及のための一連の活動の成果の、極めて重要ではあるけれど、あくまでも一端に過ぎない、と言うべきだろう。(太田)

「1821年・・・には藩主・徳川治紀の諸公子の侍読(教育係)を命じられ、その中に後の9代藩主・斉昭もいた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E</a> 前掲
「徳川慶喜<は、少年時代、>・・・藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問と武術を教授された。」<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C</a>
「1858年・・・、幕府の日米修好通商条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。[桜田・坂下両門外の変に際しては御三家家臣の身分秩序を超える反逆の行為と論断、ついで]文久2年(1862年)には一橋慶喜(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E</a> 前掲
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283′>https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283</a> 前掲([]内)

⇒斉昭も慶喜も正志斎に教育されたわけだが、あくまでも正志斎から儒書や『大日本史』等の読み方を教わったということであり、二人とも知的にも傑出した人間だったから、『大日本史』の史観など、読んで自分で把握できたはずであり、それに加えて、正志斎に比して、幕閣や諸大名と直接交流があったので幕府や諸藩の状況をより的確に評価できたはずだ。
その結果、斉昭は、幕府に見切りをつけて倒幕を指示した父治紀の正しさを再確信し、たまたま慶喜が将軍になる可能性が出てきたため、何とか慶喜を将軍にして幕府を内部から瓦解させようとしたけれど、慶喜は当初、そんな損で危険な役割を引き受けることから逃げ回った、と、私は考えている。
斉昭が倒幕しようと思っていた根拠となるのが、斉昭が、「開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示した<し、>・・・また、松平春嶽あてに、本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しいとの手紙を書いている」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a> 前掲
ことだ。
幕府が開国するしかないと考え、斉昭もそう考えていたにもかかわらず、彼が攘夷を叫び続けたのは、たまたま孝明天皇も攘夷を叫んでいたことを奇貨として、尊王論・・天皇の意向を尊重しなければならない!・・を錦の旗として掲げての倒幕を目指したからであったことは明白だろう。
それでも、やがて、慶喜が、自分は秀吉流日蓮主義者なのだから、水戸藩士中の、(もちろん父斉昭を含む、)秀吉流日蓮主義者たる多くの人々と同様、というか、これらの人々に公然非公然の叱咤激励を受け、世のため人のために自らの犠牲を顧みず、損で危険な役割を進んで引き受けることから自分も逃げてはならない、と、自覚するに至ったとも。(太田)

ここで、会沢正志斎の『新論』のさわりを、私の見る、その核心部分を含めて押えておこう。↓

まず、その欧米東漸の分析を紹介する。↓

「<正志斎は、>西欧の物質文明は非常に高度であり、戦国時代以来、軍事研究が停滞している日本では到底太刀打ちできないこと。また、三百年の泰平に慣れて弛みきった日本人が武士だの大和魂だの言ったところで無駄だと一刀両断する。
その上で、西欧諸国は植民地化を進める国々で、燦然(さんぜん)たる物質文明の成果を見せつけ、その源泉が西欧思想やキリスト教にあるとして土着の価値観を上書きしようとする「思想戦」を仕掛けていると警告する。
さらに、それに感化された被占領民の中には、積極的に西欧的価値観の称揚に加担し、既存秩序を破壊しようとする者さえ現れるとも喝破した。」
<a href=’https://www.sankei.com/article/20220309-67XGC6QFCRN2PI5DUSBSASO7AY/’>https://www.sankei.com/article/20220309-67XGC6QFCRN2PI5DUSBSASO7AY/</a> (コラム#12617より再録。)

その上で、七章中の「国体(上)」と「守禦」の二章がネットで披露されているところ、その中から日本文明論と政策論を紹介する。↓

「・・・<日本では、>天照大神の御子孫が世々皇位を継がれ、永遠に変わることがない。
わが天皇は<、万国の人々が気付いていないけれど、>もとより世界の元首<なの>で<あって>、日本の天皇政治は万国の範たる政体<なの>である。
天皇の御威光は<、本来、>世界に輝き渡り、皇化のおよぶところ遠近至らぬところはない<はずなのだ>。
ところが今や西洋蛮夷は、脛足にひとしい卑賎の身でありながら、広く世界に威を振わんと四海に奔走して諸国を蹂躙し、あまつさえ大禍を招くとも知らず、敢てわが国を凌駕しようとさえしている。・・・
<そう述べた後、正志斎は、>第一は「国体」で、天祖天照大神が忠孝の精神に基づいてわが日本を建国されたことを論じ、ついで武を尊び、人民の生命を重んずるに至ったことを<説>く。・・・

⇒紹介するのを省略したが、この国体を説明した部分のできが今一つだ。
私の言う人間主義を「人民の生命を重んずる」と形容するのも物足りないが、「忠孝」と形容するなど手抜き以外の何物でもない。
「西洋蛮夷」に「蹂躙」された「諸国」を日本が解放する、と言い切っていない点ももどかしい。(太田)

第四は「守禦」で、富国強兵がわが国の要務であることを論ず<る>。・・・

⇒この、政策を説いた部分は出色のできであり、この個所こそ、私見では、『新論』の核心部分なのだ。(太田)

今や「外国船打払令」<(注35)>が天下に布告され<のであるから>、・・・天下の進むべき道は定まっ<ているはずだ>。・・・

(注35)異国船打払令。「江戸幕府が1825年・・・に発した外国船追放令である。・・・
1808年10月・・・に起きたフェートン号事件、1824年・・・の大津浜事件と宝島事件を受けて発令されたと言われているが、同じ1824年に発生した、水戸の漁民たちが数年前から初夏の頃、沖合で操漁している欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚し、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機で、西洋人と日本の民衆とを遮断する意図を濃厚に持っていたという説も出されている。
フェートン号事件と大津浜事件との間においてイギリスは熱心に開国を試みた。1816年・・・には琉球に通商を請い、1817年・・・から1822年・・・まで浦賀に何度も船をよこしていた。・・・
日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃し、追い返した。また、上陸外国人については逮捕を命じている。
しかし、日本人漂流漁民音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を送り届けてきた<米>国商船モリソン号をイギリスの軍艦と誤認して砲撃したモリソン号事件は日本人にも批判された。また、日本では大国と認識されていた清がアヘン戦争で惨敗した事実により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、1842年・・・には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという「薪水給与令」を出して、文化の薪水給与令の水準に戻すことになった。
阿部正弘の政権の下では外国船の出没が頻繁になったため、打払令の復活の可否が議論された。しかし、沿岸警備の不十分さを理由に打払令の復活は撤回された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4</a>

<にもかかわらず、>未だ攘夷を実行した者はいない。守禦の策も未だ改革・新設されたものがない。人民は、幕府の布告の威令を未だ信じず、民心も主戦に決しないため、天下の兵士は本気で死地に赴く気にならない。これも当然のことといえよう。・・・上に立つものが率先して事を行<っていないからだ。>」
<a href=’http://www.1-em.net/sampo/sinron/sisou2/index.htm’>http://www.1-em.net/sampo/sinron/sisou2/index.htm</a>

⇒凄まじいまでの、同じ日蓮宗信徒であるところの、当時、将軍だった徳川家斉に対する批判だ。
これは、執行猶予付きの倒幕宣言である、と言ってよかろう。(太田)

「丸山真男や遠山茂樹らに代表される戦後の通説においては、水戸学は・・・会沢正志斎の『新論』を典型とする、民衆に不信感を抱く反商品経済的な封建教学<であって、>・・・封建体制を支えるものとされ、吉田松陰を精神的リーダーとし、農民を組織した長州藩の奇兵隊に象徴されるような、封建的身分の枠を打ち破る動きによって水戸学は乗り越えられ、明治維新が実現したとされてきた。

⇒ここでは、立ち入らないが、笑止千万で赤面してしまう、と、言い捨てておこう。(太田)

それに対して・・・吉田俊純<(注36)>・・・によれば、・・・1783年のアイスランド火山の巨大噴火や浅間山大噴火にはじまる店名の大飢饉とその後の天候不順からの復興が19世紀はじめから、周辺署地域に比べて30年も早く始ま<り、>・・・水戸藩南部の農村における商品経済の発展とともに台頭した豪農層の政治意識が、水戸学を学ぶことを通じて高まり、・・・本居宣長の国学を取り入れることで日本の風俗のよさを認めて民衆を信頼し、非合理的な古典に記された古代を理想としてその後の歴史を幕藩体制まで含めて批判的にとらえる藤田東湖の思想が、民衆のエネルギーを吸収して・・・水戸藩の改革を支え<、>・・・倒幕と明治維新に至る流れを創り出した。・・・

(注36)1946年~。横浜市第文理学部(日本史)卒、東京教育大院修士課程修了、茨城県立歴史館史料部史料室研究員、筑波学院大教授、同名誉教授。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E4%BF%8A%E7%B4%94′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E4%BF%8A%E7%B4%94</a>

⇒これについても、ここでは立ち入らないが、丸山らよりは見どころがあるものの残念だったね、と言っておこう。(太田)

<すなわち>、水戸学は水戸藩の政治・軍政改革を実現し、長州をはじめとする倒幕諸藩の模範となるような思想であったことを<吉田>は実証し、水戸学は明治維新において重要な積極的役割を果たしたことを明らかにした。」(平山朝治「水戸学に自由の伝統を発掘 吉田俊純著『水戸学の研究–明治維新史の再検討』(明石書店、2016年5月)」より)
<a href=’https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjd6vLJwMr1AhXFrlYBHc64ATEQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D41939%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0QTOZOe2wmpf2_Gn4XNJeS’>https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjd6vLJwMr1AhXFrlYBHc64ATEQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D41939%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0QTOZOe2wmpf2_Gn4XNJeS</a>

⇒吉田のこの結論部分は正しい。(太田)

「時系列においても学統においても幽谷東湖<(注37)>の父子の間に存するのが後期水戸学の大成者とされる会沢正志斎であ<る。>・・・

(注37)二人とも、墓所は常磐共有墓地。
<a href=’https://plus.amanaimages.com/items/FYI00461606′>https://plus.amanaimages.com/items/FYI00461606</a>
「真言宗<の>・・・桂岸寺の北側に、常磐共有墓地があります。
水戸二代藩主光圀が寛文06年(1666)に開設した藩士の為の共有墓地で、藩の士民が正しい精神生活を送れるよう、葬儀も無駄な費用を使わないで済むよう、葬儀の簡単な義順を定めました。水戸市指定文化財。
墓地には、水戸九代藩主斉昭(烈公)の片腕として活躍した藤田東湖先生の墓、水戸黄門の話で有名な「格さん」のモデルとして有名な安積覚兵衛、安政の大獄や桜田門外の変の関鉄之介、天狗党の乱などで殉死した武士の墓などがあります。」
<a href=’https://ibaraki-daisuki.com/2018/09/01/003-%E4%BF%9D%E5%92%8C%E8%8B%91%E3%81%A8%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96%E3%81%AE%E5%A2%93/’>https://ibaraki-daisuki.com/2018/09/01/003-%E4%BF%9D%E5%92%8C%E8%8B%91%E3%81%A8%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96%E3%81%AE%E5%A2%93/</a>

藤田東湖<は、>・・・<仏教>の流入以後は、日本固有の「道」を「<仏教>」と別つために、「神道」「古道」などの名を付せざるを得なくなるが、それ以前においては、唯一の「道」に名を付す必要も無かった。
「名」の不在こそが、「道」が純一であった確かな証拠であると東湖は主張する。
そしてこの「道」は「自然」なるものとして強調されるようになる。・・・
この「自然の道」は、「天地」「天神」に基づいた「大経」とされ、また、「道の純一なるは、すなはち名なき所以なるを」、あるいは「その実のごときは、すなはち未だ始めより天神に原づかずんばあらず」と、言語を超えた「実」なる世界において、「道」の純一性が確保されていると東湖は説くのである。」(大川真(注38)「後期水戸学における思想的転回–会沢正志斎の思想を中心に–」(日本思想史学39(2007))」より)
<a href=’http://ajih.jp/backnumber/pdf/39_02_04.pdf’>http://ajih.jp/backnumber/pdf/39_02_04.pdf</a>

(注38)1974年~。東北大文卒、同大院修士、同大院博士課程後期終了(博士(文学))、同大助教、吉野作蔵記念館副館長等。
<a href=’https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E7%9C%9F_200000001039643/’>https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E7%9C%9F_200000001039643/</a>

⇒日本(だけ)においては、余りにも遍在し、余りにも当たり前であるところの、空気のような存在である(私の言うところの)人間主義、について、だからこそかえって、正志斎も東湖もうまく説明ができなかったからといって、後知恵だらけの後世の我々が、高みに立って、彼らを嗤うわけにはいくまい。(太田)
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[吉田松陰]

「『幽囚録』<(1854年)>で「[日は升のぼらざらば則ち昃かたむき、月は盈みたざれば則ち虧かけ、國は隆さかんならざれば則ち替すたれる。故に善く國を保つ者は、徒いたずらに其れ有る所を失うこと無からず、又た其れ無き所を増すこと有り。]今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかった」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0</a>
<a href=’https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%9B%9A%E9%8C%B2′>https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%9B%9A%E9%8C%B2</a> ([]内)

⇒これ↑が、正志斎に師事したにもかかわらず、松陰が、(そもそも正志斎が松陰の器を見切ってまともに教えなかった可能性もなきにしもあらずだが、)正志斎の教えを誤解して、秀吉流日蓮主義者とは似て非なる、世界の古今東西にありふれているところの、単なる帝国主義者、になってしまった・・ひょっとして、もともとそうであったところの、単なる帝国主義者、のまま変わらなかった?・・ことが紛れもなく分かるくだりだ。(太田)

「<1856>年宇都宮黙霖<(注39)>からの書簡に刺激を受け,一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り,「普天率土の民,……死を尽して以て天子に仕へ,貴賤尊卑を以て之れが隔限を為さず,是れ神州の道なり」との断案を下す。・・・

(注39)もくりん(1824~1897年)。「安芸国(広島県)賀茂郡の僧の子に生まれる。3歳の年養子に出され,21歳の年病により耳と発声に障害を受けた。翌年本願寺の僧籍に入り諸国を巡歴,徹底した尊王論者となる。・・・勤王僧月性と親交があり、・・・1856・・・年8月萩に至り,文通によって・・・論争して、松陰に倒幕論への思想転換の機を与えた。66年・・・広島藩の牢につながれ、69年(明治2)出獄。・・・明治4(1871)年勤王の功により士族に列せられ終身3人扶持を与えられ,同6年湊川神社,次いで石清水八幡宮の神官に任命されるが程なく罷免され,のち故郷の呉に隠棲し・・・た。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%BB%99%E9%9C%96-34928′>https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%BB%99%E9%9C%96-34928</a>

<1858>年7月日米修好通商条約調印を違勅とみて激昂,藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言,また討幕論を唱え,老中間部詮勝暗殺を画策。・・・
老中間部詮勝要撃策の破綻したとき、松陰の到達した考えは「草莽崛起」であった。これは松陰と志を同じくする多くの者が広く立ち上がり、幕府を包囲攻撃するということであった。このような松陰の思想の特徴は、「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ道は開けるものだという信念であった。ここに思想と実践の一体化した松陰教育の確信があった。この教育のなかから、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿など、幕末維新期に活躍する門下生が育ったのであった。・・・」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0-22146′>https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0-22146</a>

⇒このような文脈の中で唱えられた、松陰の草莽崛起論は、要するに一種のファシズム以外の何物でもなかった、と言わざるをえまい。
そんなファシスト的帝国主義者たる松陰が、その門弟達に対し、短期間でほぼ一様に、電撃的刺激を与えて彼らを等身大以上に活躍させることに成功したところの、一流の教育者でもあったことまでは、私も否定しない。
忘れてはならないことは、長州藩の志士達の中で、最も著名な存在になったところの、木戸孝允(注40)も山縣有朋(注41)も、どちらも、松陰の教育(1857~1858年)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE</a>
を受けた、とは言い難いことだ。

(注40)「桂小五郎(後の木戸孝允)は<松下村>塾生ではな<く>、明倫館<の師範>時代の松陰に兵学の<授業>を受け<たにとどまる>。」(上掲)
(注41)「友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。・・・1858年・・・10月<になって、ようやく>久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した<ものの、>翌月には松陰は謹慎の身となり、まもなく獄に下り刑死することになった<けれど、にもかかわらず、>山縣は松陰から大きな影響を受けたと語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B</a>

「注41」に記されているように山縣が松陰を立て続けたのは、(私見では本籍長州藩士、現住所薩摩藩士であり続けた)山縣(コラム#省略)が、大先輩の久坂玄瑞に「命じられて」やむなく松下村塾に入塾しつつも殆ど松陰の形骸に接することができなかった・・そもそも接するつもりなどなかったと私は想像しているが・・山縣が、松下村塾(1カ月!)入塾を方便にして、長州藩士である(=長州閥の一員である)身の証を立てようとし続けただけだ、と、私は見ている。(太田)
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[桜田門外の変・丙辰丸の盟約・坂下門外の変]

○桜田門外の変

「『戊午の密勅』<が水戸藩に下された後、水戸>・・・密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。・・・
以前より尊攘激派の藩士・高橋多一郎や金子孫二郎らと、≪薩摩藩≫の在府組である有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治 (大獄により獄死)を介して結合を維持していた。この水戸藩士に≪薩摩藩≫士を加えた攘夷激派は、江戸での井伊大老への襲撃と同時期に、≪薩摩藩≫主・島津斉彬が率兵上京により天皇の勅書を得、それにより幕政を是正しようと図った。しかし、≪薩摩藩≫では斉彬の急死後に実権を握った島津久光が、江戸での大老襲撃を黙認しつつも、自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光の息子である藩主・島津茂久が、直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京の計画は頓挫した。しかし、≪薩摩藩≫から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった[要出典]]。
しかし、幕政是正のためには大老井伊直弼の排除が不可欠と考えた尊王攘夷急進派の水戸藩士達は、単独でも実行する方針を固め、直弼暗殺計画の準備を進めていた。・・・
<1860年>3月1日、金子孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介や斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、≪薩摩藩≫士・有村雄助、そして≪薩摩藩≫との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日とし、襲撃は登城中の直弼を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、まず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに≪薩摩藩≫との次の義挙計画の約束通り京へ赴くべしと定めた。また、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも行った。・・・
金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、直弼邸へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ神官・海後嵯磯之介や水戸藩士・広岡子之次郎、森山繁之介、稲田重蔵、佐野竹之介、大関和七郎。左翼即ち豊後杵築藩(藩主・松平親良)邸側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、黒沢忠三郎、≪薩摩藩≫士・有村次左衛門とした。後衛に神官・鯉淵要人、水戸藩士・蓮田一五郎、広木松之介を配し、前衛には水戸藩士・森五六郎を当てた。稲田重蔵は当初、金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加した。また神官・斎藤監物は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた。・・・
<中略。>
襲撃の戦闘に参加した16名のうち,1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴した。残る3名(広木松之介・増子金八・海後磋磯之介)は大きな負傷なく現場を脱し、戦闘不参加の関鉄之介・岡部三十郎や協力者とともに、計画通り京を目指した。
しかし、幕府の探索の手も拡がり、襲撃計画の首謀者である水戸浪士・金子孫二郎は≪薩摩<藩>≫浪士・有村雄助、水戸浪士・佐藤鉄三郎らと共に京へ向かったが、途上、3月9日に伊勢・四日市の旅籠で≪薩摩藩≫兵により捕縛された。金子孫二郎と佐藤鉄三郎は伏見奉行所に引き渡されて、24日江戸へ護送された。取り調べの後、金子は・・・1861年・・・7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。佐藤は追放となった。有村雄助は、3月9日捕縛された後、≪薩摩藩≫士の関与を隠したい藩の思惑のため、一時大坂の≪薩摩藩≫邸に移され、≪薩摩<藩>≫へ護送された。3月24日、幕府の探索が≪薩摩<藩>≫に迫ったため、藩命によって自刃させられた。先に京に入っていた水戸浪士・高橋多一郎と庄左衛門親子は、3月24日、大坂にいたところを幕吏の追捕を受け、四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃した。大坂で≪薩摩藩≫との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎も、3月23日探索に追い詰められて自刃し、翌日死去した。
襲撃者のうち戦闘不参加で、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂へ向かったが、≪薩摩藩≫の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還し、久慈郡袋田や水戸城下辺りへ潜伏した。追手を逃れ、再び江戸へ出たが、・・・1861年・・・2月、江戸吉原で捕まった。・・・1861年・・・7月26日、自訴した面々や金子孫二郎とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。
襲撃者の一人、広木松之介は、かねてからの計画通り京へ向かうが、加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は一旦水戸に帰郷し、数日後再び京を目指して出発するが、幕府の詮議が厳しく、能登国本住寺に潜伏した後、越後国佐渡島、越中国を経た。越後国新潟でたまたま居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は広木を助け、旅費を用意した上で広木を逃がした。・・・1861年・・・、後藤は幕吏に捕らわれ・・・1862年・・・5月江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれ・・・絶食した後藤は・・・1862年・・・9月13日に息絶えた。一方、広木は相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、襲撃から3年目の日にあたる・・・1862年・・・3月3日、上行寺の墓地で切腹した。・・・
襲撃の現場総指揮である関鉄之介は、3月5日に江戸を出発して京へ向かい、中山道から大坂へ入った。大坂へ辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、≪薩摩藩≫側の率兵上京計画が果たされないことを知った。以後、彼は 山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。関は≪薩摩藩≫へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で≪薩摩<藩>≫の全関所が閉ざされていたため、≪薩摩<藩>≫入りできなかった。関はやがて水戸藩領へ戻ることを決め、・・・1860年・・・7月、水戸藩久慈郡袋田村に入り、この地の豪農でかねてから懇意の郷士格・桜岡源次衛門に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当した蒟蒻会所の裏部屋などを、彼の隠れ家に提供した。・・・1861年・・・7月、関は密かに水戸の高橋多一郎の家を訪ね、さらに息子へ密かに会いに行った。関は再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から探索の足が着いた。その後、持病の悪化と探索を逃れ、諸国に潜伏。同年10月、関は水戸藩士によって越後の湯沢温泉で捕縛され、同年11月に水戸へ護送されて、城下の赤沼牢に投獄された。・・・1862年・・・4月5日、江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った。・・・同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。
他の関与者も多くは自首や捕縛された後に刑死、獄死した。
襲撃者のうち、増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治時代まで生き延びた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89</a>

⇒上記引用中に「薩摩藩」が21回も登場する。
斬り込み隊の水戸藩士達の中に一人薩摩藩士が入っていたというレベルではなく、桜田門外の変は、水戸藩士達と薩摩藩の、より端的に言えば、水戸藩と薩摩藩の、共同対幕府テロだったわけだ。(太田)

○丙辰丸の盟約

へいしんまるのめいやく。「<1860年3月の桜田門外の変
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89</a>
の後の>1860年・・・7月・・・に軍艦「丙辰丸<(へいしんまる)>」の艦上で結ばれた、尊王攘夷派の長州藩士と水戸藩士等の幕政改革についての密約である。成破の盟約或は水長盟約とも呼ばれる。
盟約に携わったのは、長州藩士の松島剛蔵<(注42)>(「丙辰丸」艦長)と桂小五郎<(木戸孝允)>、水戸藩士の西丸帯刀<(注43)>・岩間金平<(注44)>・園部源吉<(注45)>及び結城藩士の越惣太郎<(注46)>で、佐賀藩士の草場又三<(注47)>が仲介役を務めた。

(注42)1825~1865年。「長州藩の藩医である松島瑞蟠の長男として・・・生まれた。・・・
江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。
・・・1857年・・・、長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出する。・・・1860年・・・、藩はこれを許可し、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込み、外洋を航海し同年6月、江戸に入る。同年7月、桂小五郎に水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して行動することを約した「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸艦内で結ぶ。
・・・1862年・・・、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯組を結成する。12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だった<英>公使館を襲撃した(英国公使館焼き討ち事件)。
・・・1863年・・・5月、下関戦争に参加、直接に自身が指揮する庚申丸で<米>商船を攻撃した。これを皮切りに、23日には<仏>艦を、26日には<蘭>艦に砲撃を浴びせた。ただ驚愕するばかりの両艦はなんとか逃走した。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたつ。同年6月、米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあい、他の長州艦船(癸亥丸、壬戌丸)と共に庚申丸は沈没した。大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日には<仏>軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)が下関を砲撃した。250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。松島はこの戦闘の際に負傷している。
・・・1864年・・・、禁門の変が起こり、久坂玄瑞らが戦死する。幕府による第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったため、松島は萩野山獄に投ぜられる。同年12月16日、「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が萩に伝わるや、その3日後の12月19日に処刑された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%89%9B%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%89%9B%E8%94%B5</a>
(注43)さいまるたてわき(1822~1913年)。「水戸藩郷士。・・・西丸氏は佐竹氏の庶流で、本姓は源氏である。・・・西丸家は<現在の福島県との境界地域の>平潟の豪商菊池半兵衛の家とのつながりが強く、その活動範囲は全国に及んだ。長州藩士・桂小五郎らと交わり、丙辰丸の盟約を結んで幕政改革を通じた尊皇派の政権誕生を企図した。長州藩の藩論が固まらず実現に至らなかったが、帯刀は天狗党の乱に呼応するも、付家老中山信宝の兵に攻められたため脱出、明治まで身を隠した。
明治維新後、水戸藩に北海道開拓が許可されると開拓役人として従事、明治3年(1870年)権大属となり開拓責任者となる。しかし、廃藩置県により帰郷し、一切の公職につくことなく隠棲する。・・・
童謡詩人として著名な野口雨情の大叔父にあたり、・・・孫の西丸哲三に作家・島崎藤村の姪のいさ子が嫁いでおり、藤村の著書『夜明け前』の水戸藩の資料は、いさ子を通じて提供されたといわれている。
直系子孫に西丸四方・島崎敏樹・西丸震哉・西丸優子などがいる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%B8%E5%B8%AF%E5%88%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%B8%E5%B8%AF%E5%88%80</a>
(注44)1838~1896年。「水戸藩士。・・・丙辰丸盟約をむすぶ。その後京都を中心に活動。明治3年藩主徳川昭武をたすけて北海道の開拓に従事した。のち徳川家家扶。
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E9%96%93%E9%87%91%E5%B9%B3-1056922′>https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E9%96%93%E9%87%91%E5%B9%B3-1056922</a>
(注45)不詳。
(注46)1824~1864年。「郷士。儒学,医学をまなび,下総結城藩(茨城県)藩校秉彝(へいい)館教授兼侍医となる。常陸水戸藩と長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の提携を画策,万延元年(1860)の丙辰丸盟約締結につくす。元治元年天狗党の乱にくわわり,9月20日処刑された。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E6%83%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E-1074719′>https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E6%83%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E-1074719</a>
(注47)肥前の儒者・草場佩川(はいせん)の養子で、・・・尊王攘夷論者で剣客」
<a href=’https://books.google.co.jp/books?id=qnZWBAAAQBAJ&pg=PT118&lpg=PT118&dq’>https://books.google.co.jp/books?id=qnZWBAAAQBAJ&pg=PT118&lpg=PT118&dq</a>
草場佩川<(1787~1867年)は、>・・・佐賀藩校弘道館に入<り>、師の古賀穀堂(<佐賀藩士出身の>古賀精里の子)から「珮川」の号を与えられた(のちに「佩川」に改める)。・・・1810年・・・江戸に出、古賀精里に学んだ。・・・1811年・・・には古賀精里に同行して対馬で朝鮮通信使の迎接にあたる。・・・1811年・・・に帰郷、・・・東原庠舎に奉職。・・・1834年・・・に佐賀藩弘道館教諭となった。・・・また政治にも参画、藩主鍋島直正(閑叟)の信任を受けた。・・・1855年・・・には昌平黌教授として招聘を受けるも、「老病」を理由として辞退。・・・1859年・・・、73歳で弘道館教授に就任。佩川が教諭・教授を務めた弘道館からは、大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平らが輩出した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%A0%B4%E4%BD%A9%E5%B7%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%A0%B4%E4%BD%A9%E5%B7%9D</a>

最終的な交渉場所として選ばれたのは、江戸への練習航海で東京湾に碇泊中の長州軍艦「丙辰丸」で、機密保持の目的であった。同じく機密保持の為、会合の名目は長州産の塩と水戸産の大豆の取引交渉とされていた。
協定の内容は両藩が提携して急速に幕政改革を行うというものであった。世の中をかき乱し(破)、混乱に乗じて改革を成し遂げる(成)という計画で、水戸が「破」を長州が「成」を役割分担すると決められた。あくまで幕政改革を行うことが目的で、幕藩体制そのものを破壊する討幕運動を趣旨とするものではない。
しかし、盟約は結ばれたものの、実際に両藩の中枢まで含めた行動指針には至らなかった。長州藩では尊王攘夷派(所謂正義派)と開国佐幕派(所謂俗論派)の主導権争いの結果、開国佐幕派の長井雅楽の航海遠略策が藩是となった。その後は長州征討を経て討幕運動へと傾斜することになった。水戸藩でも尊王攘夷派(天狗党等)と開国佐幕派(所謂諸生党)の抗争が続いて主流とはならなかったが、尊王攘夷派にとっては行動の目的として意識されることになった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E8%BE%B0%E4%B8%B8%E3%81%AE%E7%9B%9F%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E8%BE%B0%E4%B8%B8%E3%81%AE%E7%9B%9F%E7%B4%84</a>

⇒話は逆で、水戸藩士の西丸、岩間、園部、らが、江戸滞在当時に、やはり江戸に滞在していたところの、長州藩士や佐賀藩士、ら、倒幕のための義挙に加わりそうな者達につばをつけておき、その後、倒幕への密約へと誘った、と、私は見ている。
なお、桜田門外の変に薩摩藩士が1人加わっていた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89</a> 前掲ことが象徴しているが、丙辰丸の盟約の背後にも水戸藩の後ろに隠れて、将来長州藩と手を結ぶための布石を打とうとしたところの、薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達がいた、とも私は見ている次第だ。(太田)

○坂下門外の変

「桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。
・・・丙辰丸の盟約・・・に基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。・・・
計画は、野村彝之介、原市之進、下野隼次郎、住谷寅之介らの水戸藩士を中心に、宇都宮藩の儒者大橋訥庵をはじめとする下野国の志士との連合で進められた。大橋訥庵は、幕府打倒を説く王政復古論者で、当初は挙兵を画したが人数が集まらず、水戸藩の強い意向もあって安藤襲撃の計画立案の中心人物となった。・・・訥庵夫人の弟の宇都宮商人菊池教中、同じく児島強介、下野国真岡の医師小山長円(春山)、商人横田藤四郎(祈綱)とその2人の子、河野顕三ら草莽の士が参画協力した。
・・・1862年・・・1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介(細谷忠斎)、小田彦三郎(浅田儀助)、黒沢五郎(吉野政介)、高畑総次郎(相田千之助)、下野の医師・河野顕三(三島三郎)、越後の医師・河本杜太郎(豊原邦之助)の6人が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった(なお、黒沢と高畑は第一次東禅寺事件の参加者である)。
・・・信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。
遅刻した川辺は長州藩邸に斬奸趣意書を届けた後、切腹した。 実質的な首謀者であった大橋は実行者たちを手助けした容疑で宇都宮潘に預けられ、すぐに死去した。一説では毒殺であったといわれる。また、佐賀の中野方蔵は大橋と交友があったために捕らえられ、五月二十五日に獄死した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8B%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8B%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89</a>
「1862年・・・1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追及された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81</a>

⇒登場する個々人の紹介は行わないが、この坂下門外の変についても、水戸藩と長州藩、佐賀藩の志士達の連携があったことが分かる。
そして、恐らくは、やはり、薩摩藩がその背後にいたことも・・。
また、水戸藩の志士達が中心になったこと、また、桜田門外の変でもそうだったことからも、丙辰丸の盟約が水戸藩の志士達の主導で締結されたことを推認させるものだ。
更にまた、坂下門外の変の頃までには、水戸藩の志士達の倒幕・維新に向けての思いが関東の草莽達の間にも共鳴現象をもたらしていたことも見て取れる。
これらが、松陰の草莽崛起論の影響とは考えにくいのであって、むしろ、坂下門外の変への草莽の参加が、翌1863年の長州藩における奇兵隊の設立
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A</a>
のヒントになったのではなかろうか。(太田)
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[本圀寺党(本圀寺勢)]

「本圀寺・・・は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。・・・1345年・・・に日静が<北朝第2代の>光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。・・・
日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。・・・1398年・・・には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている・・・
1568年・・・、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌・・・1569年・・・には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。・・・
水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行い、・・・1685年・・・に光圀の名から一字を下され本圀寺と改称した。・・・
1863年・・・には鳥取藩士による本圀寺事件<(注48)>が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA</a>

(注48)「河田佐久馬を中心とする鳥取藩の急進的尊皇攘夷派22人が、藩論を尊皇攘夷へむけようとして、鳥取藩の本陣だった本圀寺内で、側用人助(たすけ)黒部権之介ら藩の重臣4名を襲い、そのうち3名を殺害した。二十二士のうち2名は切腹し、20人となり二十士とよばれるようになった。
京都良正院で罰をまっていた<二>十士は、9月に伏見の屋敷に移される。翌年、日野郡(鳥取県)黒坂の泉龍寺へ幽閉され、その翌年には、鳥取の荒尾邸へと移された。その年の7月、第2回長州征伐のさなか、長州とともに討幕を達成しようと、荒尾邸を脱出。橋津から、中原吉兵衛、忠次郎父子の援助を得て、海路美保関を経て手結へ寄港した。ところが、ここで浦役人に怪しまれ、交渉の末、託間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平、中原忠次郎の5人が残り、あとの者は海路石州へと向かった。一方、二十士脱出を知った黒部ららの遺族は、手結へかけつけ、託間ら5人を討ちとった。」
<a href=’https://www.kankou-shimane.com/destination/20536′>https://www.kankou-shimane.com/destination/20536</a>
「<時>の12代藩主<池田>慶徳は、15代将軍となる徳川慶喜の同年の[異母兄]であった」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E8%97%A9</a>
「<1850>年 ・・・、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。・・・藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%BE%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%BE%B3</a>
ちなみに、時の岡山藩・・鳥取藩の兄弟藩・・の藩主の池田茂政(もちまさ)は、就任したばかりだったが、徳川慶喜の異母弟だった。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%94%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%94%BF</a>

⇒鳥取藩は、私見では、一貫して秀吉流日蓮主義信奉藩だった(コラム#省略)わけだが、徳川斉昭の子が藩主になったことによって、藩士達の中で、一挙に秀吉流日蓮主義のボルテージが上がった者達が出現した、ということだろう。(太田)

「・・・徳川慶喜の在京は・・・186<3年>1月5日から(<その>夏には一旦、江戸へ戻っている)・・・1867<年>十二月<の>「王政復古クーデター」後、大坂に移るまで約四年。
末期は「最後の将軍」として国事多難な政局を、江戸には戻らないまま行っている。
最初の上洛に一橋家として独自の兵力を持たない慶喜は武田耕雲斎らを頼み水戸藩士が随従し、その中にはのちに懐刀となるかつては尊攘激派でもあった原市之進の名も見られる。
二月には水戸藩主・慶篤が将軍・家茂の上洛に続いて、この時には藩士千名が随従し、宿舎には本圀寺が当てられた。・・・

⇒鳥取藩の本陣だった本圀寺を水戸藩が利用するようになったのは自然な成り行きと言うべきだろう。(太田)

<この時>随従した水戸藩士らも藤田小四郎、山国兵部に代表されるように尊攘派の輪に入っていってしまうのだ。
水戸には諸生党(佐幕派)と天狗党(尊攘派)の対立(その両党内部でも勢力争いが<あ>って藩は大いに乱れる)があったが京都における駐留勢力は天狗党に近い尊攘勢力の強い「本圀寺党」と呼ばれ、長く続く慶喜の京都滞在の後盾として支え、幕府が倒れた後の水戸藩政にも大きく影響を及ぼすこととなる。
将軍の在京は朝廷の攘夷圧力もあって長引くこととなり、空白となる江戸へは「将軍名代」として慶篤が東下し、本圀寺には弱冠十五歳の弟・昭訓が「藩主名代」として残ることとなる。
慶喜と将軍・家茂もやがて東下するが、朝廷に約束した「横浜鎖港」に関して、反対する幕府実務官僚や生麦事件の賠償金を巡って、幕政は大混乱となる。
そう言った中で、京都では「八一八政変」が起こる。
十一月には京都からの長州勢を中心とする「過激攘夷派」公卿の追放を受け「公武合体」を旗印に挙国一致と「横浜鎖港」の経過を以て、将軍の再上洛が決まり<、>慶喜は十月二十六日、築地の軍艦操練所より蟠龍丸に乗って出帆する。
講武所の兵二百余名、一橋家の床几廻若干名が随従し(彼らは陸路で先発)兵庫・大坂を経由して十一月二十六日、入京する。
その直前、在京の原市之進ら水戸藩士を束ねていた昭訓は二十三日になって若くして病没していた<。>・・・
そして、彼らも慶喜の指揮下に入ることとなる。
元治元年。「参与会議」を経て、薩摩藩ら諸侯勢力を退けた後、慶喜は三月に十五日に朝臣色の強い「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」となり、京都所司代「桑名」・京都守護職「会津」とともに、いわゆる「一会桑」政権となる。
慶喜は海防と禁裏守衛の責務を果たすため、一橋家兵力の増強を図り、前年に来た講武所の兵を「一番床几隊」とし、本圀寺党から選抜して酒泉彦太郎ら約百名で「二番床几隊」も編制した。
そして五月には水戸の国許から郷士・神官ら約二百名「遊撃隊」が、すでに西国遊歴があって各地の尊攘志士の中でも知られていた住谷寅之介に率いられて上洛する。
ただあくまで護衛の目的で寄せ集めの雇兵もあり、鉄砲隊も幕府からの客兵で有事の際に出征できないということで<、>六月に平岡円四郎の命で渋沢篤太夫(栄一)らが関東の志士を受け入るために東下しかつての同志らを勧誘しようとしたが<、>すでに水戸藩天狗党の挙兵(三月・長州との呼応目的ともされる。慶喜は武田の上洛も望んでいたが藩内混乱のため無理となった)があって、その場に馳せ参じたものも多く、五六十名程度に留まった。
引き続き栄一は慶応年間にかけて各地の一橋領内を回って、青年四百名余りを招集した。・・・
慶喜指揮下の諸隊は禁門の変に出動し、諸門の防御及び禁裏参内の際の守衛となった。
ただ水戸藩では天狗党の動きがあり藩内対立が激化、のちに武田耕雲斎が首領に担ぎ出される騒ぎとなり、さらなる藩からの増強はままならず「二番床几隊」は、禁門の変後の八月に守衛を免じられ、藩地に戻されたという。
この後、・・・住谷寅之助は<1867>年六月に土佐藩士によって暗殺されていて・・・酒泉彦太郎は近江屋事件(<1867>年十一月)後に刺客を追う陸援隊の水戸脱藩士らに追われ斬りつけられた(ただ切り抜けることができた)<。>
維新後の諸生党を退けた後の水戸藩政では本圀寺党関連の人物が水戸藩政の中心となって、在京家老だった鈴木縫殿は大参事となり、酒泉も軍事担当の重役となっている。
・・・中岡慎太郎<と>・・・、本圀寺の水戸藩士との接触はあったようだ。
鯉沼伊織(香川敬三)は遊撃隊にいた神官の養子で岩倉具視の信任を得て、のち陸援隊に入り<、>福田千太郎(のち中川忠純)という人物も香川同様に陸援隊に入っている(他に変名あり、陸援隊の時は中川秀之助と称した)<。>
本圀寺党は慶喜の下で京都に駐留するも「攘夷から開国」「最後の将軍」と言った当初とは違った態度を取るようになって、元来総本山であったはずの「尊王」よりも佐幕色が強くなって離反する藩士の続出(平岡円四郎や原市之進の暗殺もあった)や住谷や酒泉の遭難にもつながっているのではないだろうか。
陸援隊の出身別でも水戸(常陸)はかなり多いのだが、おそらく大半がこの本圀寺党からの離脱者で受け皿になっていたと推測される。・・・」
<a href=’https://enokama.exblog.jp/23313055/’>https://enokama.exblog.jp/23313055/</a>
「鈴木縫殿<(ぬい。1838~1903)>は、・・・戊午の密勅が藩に下された際には、江戸へ上って藩内の紛糾の鎮静化に努めた。・・・1860年・・・3月から江戸詰となる。
・・・1863年・・・、一橋慶喜の上洛に随行して京都に滞在し、在京の藩士(本圀寺勢)や領民らを率いて藩主慶篤の弟昭訓、次いで昭武を補佐する。
天狗党の乱のさなかの・・・1864年・・・5月、帰藩して執政となる。江戸藩邸が諸生党に掌握されると一時免職となるが、7月に執政に復職する。禁門の変に際して再び上洛し、・・・1866年・・・に在京の藩士を率いて京都守衛に任じられる。
・・・1868年・・・1月、藩政回復の勅を受けて帰藩し、水戸城に入る。明治4年(1871年)、大参事に任じられる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%B8%AB%E6%AE%BF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%B8%AB%E6%AE%BF</a>
<a href=’https://ameblo.jp/kazu3wa1192/entry-12684918309.html’>https://ameblo.jp/kazu3wa1192/entry-12684918309.html</a>
<a href=’http://www.ibaichi.com/K1koudoukan/bakumatumito/8koudou1.html’>http://www.ibaichi.com/K1koudoukan/bakumatumito/8koudou1.html</a>

「本圀寺には、尊攘派の水戸藩士が滞在し、「本圀寺党」または「本圀寺勢」と称されました」
<a href=’https://wheatbaku.exblog.jp/32216749/’>https://wheatbaku.exblog.jp/32216749/</a>
「慶喜の17歳下の異母弟<の>・・・松平・・・昭徳<は、>・・・1863<年>、京都で病に伏した同母兄松平昭訓(あきくに)の看護の名目により上洛しました。
・・・1864・・・年、昭訓が亡くなったため、禁裏守衛を命じられ、同年7月に起きた禁門の変の時にも出陣し、京都御所の日華門付近を警衛しました。
昭武は入京当初は京都御所近くの長者町にあった水戸藩邸に滞在しましたが、禁門の変により水戸藩邸が焼失したため、その後は本圀寺に滞在し<、>・・・本圀寺党・・・の主将と目されました。 元治元年11月には警衛の功を賞されて従五位下民部大輔となりました。
さらに11月から12月にかけて武田耕雲斎・藤田小四郎たち天狗党が西上した際には、禁裏守衛総督慶喜の命令で追討軍先鋒として東近江路を進軍しました。しかし天狗党が加賀藩に降伏したため戦わずに帰京しました。
・・・1866<年>7月20日徳川家茂が死去し、その諡が昭徳院とされたため、本名を昭武と改めました。
<1866>年11月28日パリ万国博覧会に将軍慶喜の名代として<欧州>派遣を命じられました。それとともに御三卿の清水家襲封も命じられ、慶喜の屋敷(若州屋敷)内に居住することになりました。この清水家襲封により、徳川昭武と呼ばれるようになりました。」
<a href=’https://wheatbaku.exblog.jp/32216749/’>https://wheatbaku.exblog.jp/32216749/</a>

⇒慶喜は、一橋慶喜時代にも、そして、将軍時代にすら、水戸藩の慶喜であったことが、彼の以上のような本圀寺党との関係から分かろうというものだ。(太田)
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(6)徳川慶喜

幕末期の慶喜の分析にあたっては、真山知幸 「名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力」を叩き台にすることにした。
ちなみに、真山知幸(まやまともゆき。1979年~)は、「同志社大学法学部卒業後、専門出版社の編集長を経て、2020年7月より執筆業に専念。偉人や名言の研究をライフワークとしている」人物であり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B1%B1%E7%9F%A5%E5%B9%B8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B1%B1%E7%9F%A5%E5%B9%B8</a>
この論考が最近のもの・・2021年に東洋経済オンラインに連載されたもの・・であって、概ね、定評があるところの、徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)、渋沢栄一『徳川慶喜公伝 全4巻』(東洋文庫)、家近良樹『徳川慶喜』 (吉川弘文館)、家近良樹『幕末維新の個性 一、徳川慶喜』(吉川弘文館)、松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』(中公新書)、野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)、を典拠として書かれたものであることに着目した次第だ。

「・・・父の斉昭は慶喜にこう伝えていたと、慶喜自身が『昔夢会筆記』で振り返っている。
「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」<(注49)>

(注49)「斉昭<は、>・・・生前の治紀から、「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという(『武公遺事』)。・・・
「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。・・・
<また、>寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した。このような仏教抑圧および神道重視の政策は、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の先駆けとなった。・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a>
「しかしこれら斉昭の活動は尊攘的行動とみなされ,幕臣鳥居耀蔵 (ようぞう) らの排撃にあって,<1844> 年5月隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。・・・
ペリー来航後,阿部正弘は,斉昭を幕府の海防参与にしその声望を利用したが,斉昭は,交渉を引き伸ばして,その間,軍事力強化を図る「ぶらかし策」を主張。・・・1855・・・年,幕府の軍制改革参与。開国の進展により最終的に鎖攘を望む斉昭は孤立し,同年の安政大地震で藤田東湖,戸田忠太夫が死亡すると,その意見は硬直化した。<1857>年,堀田正睦政権が成立すると幕府の開国政策への批判を強め朝廷に入説して開国阻止に努力。<1858>年7月,井伊直弼政権の日米修好通商条約無断違勅調印を聞いて不時登城し井伊を責めたが,逆に急度慎みの処分を受ける。翌8月に幕府の開国政策を否定する密勅(戊午の密勅)が降下し諸藩への廻達を企図したが幕府の圧力で断念。翌年8月,水戸永蟄居,廻達を叫ぶ激派に対し鎮静を命じた。松平慶永に「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが,若い人は開国を主張せよ」といったという。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD-19090′>https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD-19090</a>
「直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E7%B6%99%E5%97%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C-79064#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8′>https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E7%B6%99%E5%97%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C-79064#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8</a>
「将軍継嗣問題<だが、>・・・家慶は生前,水戸の徳川斉昭の第7子を愛して<1847年に>一橋家の養子に入れて<おり、>・・・実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死<んで家定が後を継ぐ>と,・・・<その次の将軍として、>水戸藩は・・・一橋慶喜・・・を推し<たところ、>・・・松平慶永<は、>・・・斉昭と親しく親戚でもあった老中阿部正弘に盛んに意見上申し,国政参加への意欲をみせ<つつ、>将軍家定が凡庸多病のため,外圧に対処し国内体制を固めるには英明な将軍擁立を第一とする見解に立って,島津斉彬,山内豊信(容堂),伊達宗城(むねなり)らと連絡し,・・・幕政改革を求める雄藩主や開明派幕臣がこれに連な<り、>・・・橋本左内の補佐のもと一橋派運動に努力した<が、>・・・これに対して彦根藩主井伊直弼を中心とする幕閣は,血統論から<家定の従兄弟である>紀州の徳川慶福・・・を推し<、>・・・従来どおりの幕府運営を願う譜代大名の多くがこちらに集まった・・・。・・・家定はまもなく没したが,朝廷は一橋派の策動によって容易に将軍宣下を与えず,・・・<一橋派、紀州派/南紀派の>両派ともそれぞれ謀臣橋本左内、長野主膳(義言(よしとき))を京都へ送り、朝廷の有利な言辞を得ようと奔走したが、4月井伊大老の出現<を経て、>・・・6月25日慶福(家茂)決定の発表がなされた。」(上掲)

⇒治紀が、斉昭に言い含めたのは「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」(注49)であって、朝廷に弓をひくべき場合があることを排除していない点にこそ、我々は注目すべきだろう。
これは、秀吉流日蓮主義に則って、水戸藩は行動せよ、と言っているのだ。
さて、「老中・阿部正弘が「七郎麻呂(昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたい」との将軍・徳川家慶の思召(意向)を・・・1847年・・・8月1日に<その前年の1846年に謹慎を解除されたばかりの、1844年から慶篤が藩主を務めていたところの、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a> >
水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋徳川家を相続。12月1日に元服し家慶から偏諱を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C</a>
と、慶喜のウィキペディアは真山の説とはかなりニュアンスが異なる説を記しているが、私見ではどちらの説も誤りだと思う。
「それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど、強硬な態度を採っていた江戸幕府も、・・・アヘン・・・戦争<(1840~1842年)の>結果に驚愕した。<1837年>に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生し<てい>たこともあり、・・・1842年・・・には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89</a>
という背景の下、どちらもタテマエ上は秀吉流日蓮主義者だがホンネではそうではなかったところの、将軍家慶と(1843年に老中になっていた)阿部正弘が相談し、名実ともに秀吉流日蓮主義者だった斉昭の秘蔵っ子の慶喜を、2人ともそんな気などさらさらなかった・・だからこそ、斉昭の藩内での秀吉流日蓮主義諸施策推進を中止させた!・・にもかかわらず、後嗣含みであることをにおわせつつ家斉の出身家である一橋家に迎えることで、斉昭を始めとする日本全国の秀吉流日蓮主義者達に期待を抱かせ続け、彼らが主導するであろう反幕の芽を摘もうとした、と、私は見るに至っている。
他方、慶喜自身は、(全てお見透しの)父斉昭から、外形的には将軍候補に間違いないのだから、チャンスがあったらそれを逃さず将軍になり、(幕府に秀吉流日蓮主義を遂行する気がない以上、)幕府を内部から崩壊させ、近衛家が牛耳っている(ことを斉昭は知っているところの、)朝廷、に大政奉還せよ、と命じられて送り出されたと私は想像しているところ、既述したように、そんな損で危ない役割を自分が演じるのは真っ平御免だという心境だったのではないか。(太田)

水戸藩は、徳川御三家(紀伊、尾張、水戸)の一つである。であれば、幕府を重視しそうなものだが、御三家のなかでは格下とされ、徳川宗家の家督を相続する権利もなかった。水戸藩が「尊王」を掲げたのも、「幕府には決して重視されない」といった状況が関係していたのである。・・・

⇒真山の典拠の中にそう主張しているものがあるのか、真山の主張であるのかは知らないが、幕府が、それまでの幕府の史観とは相容れないところの、水戸藩論の結晶とも言うべき『大日本史』(の史観)、を受け入れたこと一つとっても、このような主張は誤りだ。(太田)

そんな中、大老の井伊直弼が、朝廷の意向を無視して日米修好通商条約に調印。慶喜は井伊に抗議している。といっても、調印自体を怒ったのではない。そのことを朝廷に報告するにあたって、使者を遣わすこともなく、手紙での報告にとどめたことに、苦言を呈したのである。
「すでに調印が済んでいるからには、もはやどうすることもできない。しかしながら、これほど重要なことを独断した事情については、くわしく京に伝えなければならない。一日も早く幕府から何人が上京して、伏して帝に申し上げるべきである」・・・

⇒慶喜は、父の斉昭の「指示」に逆らって、条約の内容にはイチャモンをあえてつけなかったわけであり、この時点では、幕府を守る側に立った、つまりは佐幕であった、というわけだ。(太田)

そんな強引な井伊のことを慶喜は「才略には乏しけれども、決断には富める人なりき」と評している。「自分には、そういう決断はできそうにない」という羨望さえ込められているように思う。・・・」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/424568′>https://toyokeizai.net/articles/-/424568</a>

⇒そう評したのは、恐らく、1860年3月の桜田門外の変の後ではなかろうか。
才略に乏しいからこそ、倒幕どころか佐幕などというアナクロニズムに一身を捧げようと決断した井伊直弼が、恐らく自身、予期していて迎えたところの、その最期を、慶喜が突きつけられ、(父や自分は才略に恵まれているからこそ倒幕しかないと信じている以上、)自分としても、そこだけは直弼を見倣って、(直弼とは違って自分は自己犠牲を旨とする秀吉流日蓮主義者なのだからなおさら、)それまでのように逃げ続けることは止めて、(内部からの)倒幕に、爾後、一身を捧げようと決意したからこそそのような直弼評を口にした、と私は思う。(太田)

「・・・慶喜が政治的意見を述べたことは、それ以前に一度だけあった。・・・1857・・・年5月8日に母<(注50)>へこんな手紙を出している。
「幕政に参与することを辞退するよう父上に伝えてほしい」
うるさい父上を黙らせろ、とでも言いたげである。実際、うんざりだったのだろう。そもそも慶喜がなりたくもない将軍に担ぎ出されようとしているのも、父の斉昭が自身の影響力を高めて、攘夷を実行したいがために各方面に、働きかけているからこそ、だ。

⇒父の斉昭が、ホンネの真逆の攘夷を叫び続けて幕府を不安定化させようとしていることを慶喜はもちろん承知していたはずであり、幕府が不安定化すると、何かの拍子で自分が将軍にさせられてしまって、幕府の内部からの崩壊/大政奉還、をやらされる羽目になりかねないので、慶喜は、1857年当時においては、1855年から(実は倒幕を考えながら)幕府の軍制改革参与をまだ務めていたことから、幕府内で大いに発言権があった斉昭、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a> 前掲
を黙らせたいと思っていたのだろう。

(注50)吉子女王(1804~1893年)。「<有栖川宮>織仁親王の第12王女(末娘)。母は家女房・安藤清子(清瀧)。同母兄に尊超入道親王、異母兄に韶仁親王など、異母姉に楽宮喬子(徳川家慶御台所)・孚希宮織子(浅野斉賢正室)・栄宮幸子(毛利斉房正室)などがいる。・・・この婚約は姉である喬子の肝煎りで決まったと言われる。・・・1859年・・・8月、安政の大獄により斉昭は水戸に永蟄居となる。その約3ヶ月後の12月、吉子は幕府の許可を得て、水戸に下る。翌・・・1860年・・・8月に夫が幽閉のまま死去する<。>・・・
病弱だったという藩主・慶篤の後見を務め、夫の遺志であった慶喜の将軍擁立に尽力したと言われる。・・・
明治2年(1869年)から明治6年(1873年)まで、偕楽園内の好文亭に住む。その後東京に出て、慶篤の跡を嗣いだ昭武の世話になり、向島小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に移って余生を送った。武家社会の慣習上、別家に養子に出た慶喜との同居はできなかったが、親しく文通を行い、頻繁に交流していた様子が伝来する書簡から窺える。
・・・1873年1月22日以降、徳川吉子は兄の韶仁親王の直系の孫にあたる熾仁親王とたびたび訪問しあい、あるいは風邪の見舞いを遣り、同年6月には結納の祝いを、11月には親王の体調を気遣って水戸から鮭を取り寄せて贈った。有栖川家との親交が復活した様子が記されている。・・・
1834年・・・、斉昭が蝦夷地開拓を幕府に請願した折には、吉子も夫と共に蝦夷地に渡る決意を固め、懐妊中にもかかわらず雪中で薙刀や乗馬の訓練に励んだ。また、江戸小石川藩邸の奥庭を散歩中に這い出てきた1匹の蛇を、人の手も借りず自ら打ち殺したと伝えられている。・・・
1858年・・・7月の小人目付発大老・老中宛上書・・・から通常、御簾中(正室)が取り仕切る奥向のことばかりでなく、藩政にも深く関わり、更に国防にも関心を持っていたことが窺える。・・・
多芸で、和歌や有栖川流の書の他、刺繍や押絵などの手工芸、楽器では箏や篳篥をよくした。釣りも趣味であり、水戸に下向の後は城下の川でよく釣りをしていたという。・・・」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B</a>
母方の祖父の安藤大和守
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
については、特定できなかった。
父方の祖父の「有栖川宮職仁親王<(1713~1769年)は、>・・・霊元天皇第17皇子。・・・霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者として知られる。・・・
第4王女<の>董子女王(1759-1841)<は、>関白近衛経熙室<。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%81%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%81%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
その子で吉子の父の「有栖川宮織仁親王<(1753~1820年)の>・・・妃<は、>・・・鷹司輔平娘」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a> 前掲

この頃の五摂関家は一体化して、いずれも秀吉流日蓮主義を信奉していたと私は見ている(前述)ところ、1830年に近衛吉子女王がその年に藩主になったばかりの斉昭と婚約し、翌1831年に成婚する手配をしたのは、当時既に1824年から内大臣であった近衛忠煕
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>
が、近衛家、鷹司家が接近していた有栖川宮家の女子群の中で、(優秀かつ秀吉流日蓮主義信奉者になっていた)吉子に目を付け、1823年頃から子女がいない(近衛家と深い関係がある水戸徳川家の)徳川斉脩の継嗣問題が表面化していた
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%84%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%84%A9</a>
ことから、斉昭が継ぐと踏んで、吉子を待機させていたからこそ、吉子は「当時としては結婚適齢期を遥かに過ぎた年齢(27歳)になってから斉昭との婚約がまとま<った>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B</a>
のだろう。
そんな母吉子から、慶喜は、さぞかしこっぴどく叱られたに違いない。
それでも、慶喜は容易に改悛しようとはしなかった、と見る。(太田)

大老の井伊直弼による「安政の大獄」では、そんな過激な父のとばっちりを食うかたちで、慶喜も謹慎することになった。にもかかわらず、慶喜が意地になって極端な謹慎生活を送る一方で、斉昭はというと、言うことをまったくきかずに、わがままに振る舞って、幕府を困らせている。・・・

⇒「慶喜が意地になって極端な謹慎生活を送<った」のは、むしろ、父母に対するあてつけだったのではないか。(太田)

井伊が暗殺されたのは、・・・1860・・・年3月だが、慶喜の謹慎が解けたのは同年の9月4日。つまり、井伊の暗殺後、実に半年も謹慎処分が続けられたことになる。
上記の時系列をみて、お気づきになった読者もいるかもしれない。そう、慶喜の謹慎が解けたのは、斉昭の死後1カ月のこと。幕府からすれば、斉昭が亡くなったことで、ようやく安心して、安政の大獄で処分された者たちの謹慎を解くことができたのだ。・・・
<その後、>慶喜と慶永を政権の中枢に据えようと暗躍したのが、尊王攘夷派の公卿、大原重徳である。そのバックには、薩摩藩の国父、島津久光がいた。・・・
大した権限はなく、負わされるのは責任だけ。これこそが慶喜が最も避けたかった事態に違いないが、幕府と朝廷の血を引く慶喜は、どうしても政争に巻き込まれてしまう運命にあった。
それでも、その運命に抗おうとするのが、慶喜である。・・・

⇒いや、この時点では、既に改悛していたと考えないと、将軍の座に一歩近づくことになる、幕府ナンバーツーの将軍後見職への就任に慶喜が首をタテにふるはずがなかろう。(太田)

慶喜と慶永はのちに「文久の改革」とよばれる幕政改革に着手。改革の柱として、諸大名の参勤交代の条件を大幅に緩和させた。外国からの攻撃に備えて海防を整えるためにも、負担の重い参勤交代の緩和は必要だった。薩摩藩の久光の希望でもあったことは言うまでもない。
諸大名は喜んだが、大名の妻子や藩士が次々に、江戸から立ち去ってしまった。条件を緩和してそれを許したのだから当然だが、その結果、江戸の人口は一気に減少。失業者も増加することになる。・・・

⇒これぞまさしく、慶喜による、幕府不安定化施策だ。(太田)

京からのプレッシャーがあまりに激しく、もともと開国論だった慶永も、攘夷に転向。幕府と対立を深めていく。当然、慶喜もそれに呼応するかと思えた。なにしろ、尊王攘夷の勢力がいつも慶喜の後ろ盾となっていたのだから。
しかし、慶喜は周囲が思うようには決して動かない男である。驚くべきことに、攘夷になびいた慶永に対して、こう反論したのである。
「世界万国が天地の公道に基づいて互いに交誼を図っている今日、わが国だけが鎖国の旧習を守るべきではない」
これは、・・・1862・・・年10月1日のことである。冒頭で紹介したように、同じ慶永に対して、・・・1858・・・年には「定見がない」と述べていた。慶喜がこの4年で様変わりしたことがわかる。
さらに慶喜は、井伊が朝廷を無視して締結したとされる日米修好通商条約についても、国際感あふれる大局的な視点を持ち合わせていた。
「今日の条約は外国から見れば政府と政府の間で取り交わされた約束である。アメリカを恐れて調印したからといって、破棄しようという議論は、国内では通用しても、外国には、とうてい承服されがたいであろう」
まさに「覚醒」である。このとき、慶永は深く理解したことだろう。慶喜にとって、父の斉昭の存在がどれほど大きかったのか。慶喜は攘夷派ではなかった。それどころか極めて聡明な開国派だったのだ。
これから慶喜を中心に、新しい世の中が始まる――。ついに明らかになった慶喜の本当の姿に頼もしさを感じたのだろう。慶永も本来の開国派に戻ることになる。・・・」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/425918′>https://toyokeizai.net/articles/-/425918</a>

⇒慶永のことはどうでもいいのだが、慶喜に関しては、元から(父である斉昭の生前時と同じく、)ホンネでは開国論なのであり、一貫して変わらなかっただけだ、という言い方もできるし、前とは違って倒幕を決意しているのだから、全国の倒幕派がホンネも攘夷なのかタテマエだけ攘夷なのかはともかく、(父である亡き斉昭の生前時と同じく、)攘夷を一様に叫んでいるのであるから、自分は今や幕府のナンバーツーになっている以上、開国を叫んで倒幕狂騒に燃料をくべる以外に選択肢はなかった、という言い方もできよう。(太田)

「・・・攘夷を推し進めたい長州と土佐の両藩士が朝廷に働きかけ、三条実美と姉小路公知らが京を出て、江戸にやってくることになると、慶喜の様子がなんだかおかしくなってくる。
朝廷からの使いが来る――。そうなると途端に、慶喜に迷いが出始めてしまう。本音が開国であることには変わりない。だが、攘夷の建前を捨てて朝廷に歯向かうべきかといえば、態度を決めかねるものがあった。亡き父、斉昭から聞かされていた言葉を、慶喜は反芻していたに違いない。
「朝廷に向かって弓引くことあるべからず。これは義公以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」
義公とは、水戸藩第2代藩主、徳川光圀のこと。そうでなくても、慶喜は母から朝廷の血を受け継いでいる。朝廷から攘夷要請を受けると、慶喜は拒否できずに同調。おまけに、その後、老中に「将軍後見職から辞退したい」という旨を申し入れている。・・・
慶喜が、一度は思いとどまった「将軍後見職の辞職」に再度、踏み切ろうとしたのは、幕府のそんな態度を見た直後のこと。それでも思いとどまったのは、老中からこう言われたからだった。
「和宮の将軍家茂への降嫁要請時に、7、8年ないし10年内に外国人を日本から遠ざけることを孝明天皇に固く約束した以上、ここで攘夷の実行を拒絶すれば離縁になりかねない」・・・
当時の京都は長州藩と土佐藩に支配されていた。しかも前述したように、すでに将軍は攘夷を命じる朝命を受け入れてしまっている。ならば、その日付を決めろと迫られるのは、当然のことだった。孝明天皇や鷹司関白は、議奏の三条実美らを慶喜のもとに派遣して、こんなことまで言わせている。
「いつまでも決定しないと浪士たちが暴発するぞ」・・・
やってられない――。先に投げ出したのは、慶永である。慶永は辞表を提出し、朝廷の許可もないままに、3月下旬の段階で郷里に帰国している。・・・」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/426957′>https://toyokeizai.net/articles/-/426957</a>

⇒慶喜としては、自分がナンバーツーなる前に、幕府が、10年以内の攘夷の決行の約束、などという、本当に決行すれば幕府がそれだけで瓦解しかねない時限爆弾を自ら拵えて抱え込んでくれていたので自分自身の手で幕府不安定化施策次々に打ちだす手間が軽減できて助かった、という思いだったことだろう。(太田)

「・・・慶喜はこんな身も蓋もないことを言っている。
「到底行うべからざる攘夷なれば、また行われざる程の期日に定むべし」
どうせ攘夷なんてできないんだから、できもしない期日に決めてしまえ――。要は適当に決めたのである。・・・
朝廷からすれば、攘夷が実行されなければ困る。そのため、4月21日には家茂が、22日には慶喜が江戸に無事に帰還できた。人を食った慶喜らしい切り抜け方である。もちろん、攘夷などやるつもりは毛頭なく、約束の5月10日に攘夷を決行したのは、下関の海峡を通る外国船を砲撃した長州藩だけだった。・・・

⇒もちろん、慶喜は、それをやってくれることを長州藩に期待していたはずだ。(太田)

ついに新しい世の中が始まる――。幾度となく、慶喜に期待を裏切られた慶永も興奮したのだろう。朝議参与の仕組みをつくるために薩摩藩が朝廷と交渉している最中、慶永は慶喜にこんなことを聞いている。
「今の時勢に合うのは、中興の精神か、それとも創業の精神か」
これに対して、慶喜は「自分の方針は、中興ではなく、創業のほうにある」と断言。またその理由について、こんなふうにも語っている。
「中興ならば、今までしたことは採らねばならぬ。だが、創業ならば、規則もなければ慣例もないのだから、善いと思ったことはすぐやれる」
これでようやく足並みがそろった。今度こそ慶喜が覚醒した。新しい世になると、慶永は確信したことだろう。
だが、その思いは無残にも打ち砕かれることになる。そう、またもや慶喜によって、である。
「この3人は天下の大愚物なのに、宮さまはなぜご信用あそばすのですか?」・・・
「慶喜の乱」といえば大げさだろうか。この暴挙の理由にはさまざまな説がある。国内を安定させるべく攘夷派に配慮をしたのでは、という考えもあれば、攘夷を希望する朝廷に遠慮したのではないかという考えもある。
おそらくいずれも正しいが、いちばんの理由は、薩摩藩が政治を主導するのが気に食わなかったのだろう。慶永も気をつけていたところだが、慶喜の立場を完全に理解できてはいなかった。というのも、諸藩の有力者たちはそれぞれの勢力基盤がある。だが、慶喜の後ろ盾は徳川家である。参与会議が力を持つことは、自身の影響力を失うことでもある。
とりわけ薩摩藩が急速に権勢をふるい始めている。これ以上、久光が天皇に近づくことのないように、わざと暴言を吐いて参与会議をぶっ壊したというのが、真相に近いのだろう。

⇒前に参預会議についての私見を述べたことがある(コラム#10570)が、慶喜についての認識が深まった現在、改説しなければなるまい。
朝廷が参預会議の諮問に基づき決定し、幕府が実行する、というのは、孝明天皇の思い描いた公武合体の姿であるからこそ、同会議が発足したのだけれど、参預会議中の幕府代表・・慶喜!・・の力が大き過ぎて、それまでと殆ど何も変わらない。
しかも、その慶喜は、秀吉流日蓮主義藩たる水戸藩の、或いは個人の、慶喜ではなく、タテマエはともかくホンネは非秀吉流日蓮主義である幕府のナンバーツーの慶喜でしかない。
その幕府を秀吉流日蓮主義へと回心させるのはずっと前から既に不可能になっているわけだが、ナンバーツーの慶喜では、そんな幕府を大政奉還させる権限はないし、幕府を更に不安定化させることにも自ずから限界がある。
また、長州藩の攘夷暴発がエスカレートしていくのは必至であったところ、それは、必然的に、天皇-参預会議-幕府、の総体と正面衝突してしまい、その結果、長州藩は壊滅させられてしまうだろう。
それでは、せっかく不安定化した、そして慶喜が更に不安定化を助長したところの、幕府が安定化してしまいかねない。
だから、慶喜は参預会議を空中分解させたのだ。
慶喜が中興ではなく創業だ、と言ったのは、公武合体ではなく倒幕だ、という趣旨だったのだが、全くそういう理解ができなかった慶永は、それだけの人間でしかなかった、ということだ。(太田)

慶喜は邸に帰ると、侍臣たちにこんなふうに語った。
「今日は愉快、愉快。大技計をぶちこわしたのは痛快の至り」
技計とは、薩摩藩がイニシアチブを握ろうとしていたことを指す。家来も「烈公(父の徳川斉昭)の神霊が乗り移られたのか」とみな感服。酒を飲み直して盛り上がったというから、よほど薩摩へのうっぷんがたまっていたようだ。・・・
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/428358′>https://toyokeizai.net/articles/-/428358</a>

⇒ここは微妙な箇所だ。
慶喜が喜んでいる理由を、それが水戸藩系の「家来」達の中には、理解していた者・・斉昭・慶喜親子のホンネの考えを理解していた者・・がいた可能性がないわけではないからだ。
いずれにせよ、慶喜が喜んだのは、薩摩藩云々といった矮小な理由ではなかった、というのが私の現在の見方であるわけだ。(太田)

「・・・自らの暴言によって参与会議を解体させ、禁裏御守衛総督に就任した慶喜。京に攻め込んできた長州藩兵と対峙することになる。本来は、京都守護職で会津藩主である松平容保の任務だったが、病中の身のため天皇の側に残し、慶喜が代わりを務めることになった。
長州藩兵が蛤門を攻撃して、会津藩兵は一時期苦戦に陥るも、薩摩藩兵が駆けつけると、形勢は逆転。長州勢が敗走する中で、戦地となった京は大混乱に陥る。
そんな中、慶喜は飛び交う流れ弾も恐れずに、軍勢を引き連れて京の警護にあたった。長州藩兵の残党は、鷹司邸に突入して占拠。慶喜は「劣勢の長州兵たちが無理やり、朝廷に突入してくるかもやしれぬ」と危機感を持つ。窮鼠は時に猫を噛む。禁裏御守衛総督として、そんな事態だけは避けなければならない。
慶喜は腹を決める。一気に決着をつけるべしと、大胆にも鷹司邸を焼き払うという命令を下したのだ。・・・
とうとう舞台は整った。リーダーたる器に成長した慶喜が先頭に立つ、と誰もがそう思った。本人はもちろん、朝廷もそうなるだろうと考えた。
だが、実際は違った。幕府からすれば、トップリーダーは慶喜ではない。長州征伐はあくまでも将軍の仕事だった。家茂が直轄軍や諸藩を動員して長州を討つべし、と考えたのだ。
それはまだ理解できるが、征長軍総督府にも慶喜は選ばれず、元尾張藩主の徳川慶勝が任命されている。長州の処分に関する全権は、慶勝に与えられた。慶勝は参謀役に薩摩藩の西郷隆盛を起用している。
これは意外な人選であった。征長軍総督府には、孝明天皇も慶喜が当然、就任するものだと思っていたし、会津・桑名・肥後藩の関係者にいたっては、就任を要請された慶喜が固辞した場合を想定して、それでも慶喜をみなで推そうとわざわざ決定したくらいだ。薩摩藩すらも、慶喜が就任することを望んだという。・・・

⇒私の見解は、慶喜は、幕府を一挙に不安定化させるために、あえて幕府に名目だけの長州藩征討をやらせた、というものだ。
既に薄々お分かりだろうが、慶喜は秀吉流日蓮主義者なのであり、近衛家・薩摩藩島津斉彬コンセンサス信奉者達・尾張藩・水戸藩等は慶喜の同志なのであって、彼らは、事実上の協議の上で、そうすることを決め、徳川家茂は18歳になったばかりなのでまだ征長総督には早いといった理屈で、「同志」の尾張藩の前々藩主の徳川慶勝を総督に仕立て、何も分かっていない松平慶永前藩主を言いくるめて(全く実権を持たない)越前藩主の松平茂昭(もちあき)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%8C%82%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%8C%82%E6%98%AD</a>
を(やはり実権皆無の)副総督とし、更に、薩摩藩を重用する、という、名目上は幕府軍だが実態は秀吉流日蓮主義連合軍、でもって骨抜きの長州藩征討を行い、長州藩が再起を期せるように計らったのだ。(太田)

あろうことかこのタイミングで、幕府は参勤交代制の復活と大名妻子の江戸居住を命じる藩命を下している。狙いは幕府の復権である。

⇒もはや、幕府は、こういった↑↓、慶喜に対するみみっちい嫌がらせしか行えない存在に堕してしまっていた、ということだ。(太田)

幕府の慶喜への仕打ちは、嫌がらせの域に達していく。「禁門の変」直後には、慶喜の護衛として在京している水戸藩士に対して「国元に帰るように」という幕命を、一橋家の家老に向けて下している。その代わりに、幕府は200人あまりの新たな護衛を送っているが、わざわざ気心知れた人材を慶喜から取り上げたのだから、なかなかやることが陰湿だ。・・・
「そのときは、私の身の上がなかなか危なかった。それでどうも何分にも、<例えば、天狗党の>武田<耕雲斎>のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ」
あらゆる局面においてキーマンとなる慶喜には、暗殺の危険が常につきまとう。側近の何人かは実際に殺されている。武田に少しでも寄り添えば、自身の命が危なかったのだと慶喜は主張する。
その言い分はともかく、<水戸藩での>かつての同志を慶喜は見捨てた。慶喜の評判は悪くなり、またもや失望されることとなったのである。・・・
実は、西郷はこのころ、軍艦奉行の勝海舟と初めて出会っている。豪胆な勝海舟は、幕府の内情をべらべらしゃべる。幕府の内情は想像以上にひどい。それを知った西郷の政治的な勘が働く。幕府への見切りを考え始めていたのである。

⇒とんでもない、島津斉彬の存命中に、斉彬を始めとする秀吉流日蓮主義者達の大部分は、会沢正斎の『新論』も読み、倒幕を決意していたのであり、斉彬の一の弟子の西郷隆盛も、斉彬の死後、一貫して倒幕のために活動してきていたのだ。(太田)

長州の降伏を受けいれるにあたって、慶勝は西郷に「内乱状態を長引かせるのはよくないから、平和的な解決を」と言いくるめられたのだろう。もし、薩摩への警戒心が強い慶喜が代わりに務めていれば、西郷の真意に気づいたのではないだろうか。・・・

⇒いやいや、慶喜は、慶勝や西郷の同志だったのだから・・。(太田)

幕臣たち<は>家茂への忠義の心<が>熱く、勝海舟にいたっては、こう信服していたという。
「この君のためなら命を捨ててもよい」
家茂が死亡した日、勝海舟は日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」とつづっている。・・・

⇒勝海舟の限界が良く分かる箇所だ。但し、勝のここでの結論に関しては正しかった。(太田)

通商条約をすでに締結していたアメリカ、ロシア、イギリス、フランスの4カ国の公使が、連合艦隊8隻を率いて大阪湾に来航したのである。老中格の小笠原長行が対応したところ、条約の勅許を迫られた。勅許とは、つまり、孝明天皇からの許可のことだ。
その背景には、かつて大老だった井伊直弼が朝廷の許可を得ずに通商条約を結んだことがあった。 4カ国からすれば、幕府との約束事だけでは安心できないというわけだ。
そのうえ、神戸港の開港まで求められる・・・
孝明天皇も腹では「開国やむなし」と考えていると踏んだ慶喜。だが、公卿たちの意見は割れている。断固反対しているのは、近衛忠房や正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らで、その背後には薩摩藩がいるのを、慶喜は知っている。・・・

⇒今更、コメントする必要はあるまい。(太田)

大阪城では、松平慶永と老中の板倉勝静が密談している。話題はもちろん、次期将軍についてだ。
「もはや慶喜しかいない」・・・

⇒慶喜は、同志以外に対しては、概ね、自分のホンネを隠し通すことに成功していた、ということが分かる。(太田)

<慶喜は、>側近の原市之進をこっそり呼び出しては、こんな問いかけをしたこともあったと、自身でも振り返っている(『昔夢会筆記』)。
「徳川家はもう持たない。この際、王政復古をしようと思うのだが、そちはどう思う」
市之進は「その考えはごもっともだが、少しでもやり方を間違えれば、大混乱に陥ります。失礼ながら、今の老中たちでは対応しきれないのではないでしょうか」と、とりあえず、今は現体制を維持したほうがいいのではないかと、慶喜をなだめている。・・・
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/430699′>https://toyokeizai.net/articles/-/430699</a>

⇒慶喜は、側近でも自分のホンネが分かっていない者がいることを知って、がっかりしたのか、ほくそえんだのか、ここはむつかしいところだ。(太田)

「・・・家茂が死去して「慶喜こそ次期将軍に」と推したのは、慶永のほか、孝明天皇、松平容保、松平定敬、松平茂承、徳川慶勝、板倉勝静、二条関白らなど。一方で「慶喜以外を将軍に」という声も少なくなかった。

⇒慶喜のホンネを知っている者と知らない者との「玉石混交」だ。(太田)

家定の正室である天璋院と、家茂の正室である和宮は、田安家の亀之助に将軍職に就いてほしいと、老中の板倉勝静に密書を送っている。

⇒天璋院は慶喜のホンネを知っていて、幕臣や幕府関係者の行く末が余りにも哀れに思うようになっていて、反対したのだろうし、和宮は、天璋院との会話の中等から慶喜のホンネを感知し、孝明天皇と自分が降嫁を決断した意義が無に帰することになりそうだと思い、反対したのだろう。(太田)

また、幕臣や大奥にも「慶喜だけは嫌だ」という勢力が存在した。江戸や大阪在住の幕臣のなかには、慶喜の暗殺を目論む者もいたという・・・

⇒これは、慶喜が、幕府弱体化をもたらしたところの、水戸藩士たるテロリスト達、と、水戸藩出身の慶喜、とを、正しく同一視した者が幕臣等に少なからずいた、ということだろう。(太田)

幕府とはまったく別の新しい体制を作るべしと、慶永の意向を取り入れて、慶喜は主要諸侯たちを集めようとする。だが、朝廷から29人に諸藩召集の勅命が発せられるも、上京したのはたったの5人。裏で召集しているのは慶喜であることは明らかな以上、<将軍家茂を補佐し、家茂の死もあり、>長州征伐に無残に失敗し<たところの>、将軍ですらない人物に従うわけもない。・・・
<1866>年12月25日、孝明天皇が突然崩御する。慶喜が将軍宣下を受けてわずか20日後のことだ。動乱の幕末を慶喜に託すかのような急死であった。・・・
慶喜はむしろ、この孝明天皇の死去を、堂々と開国派に転じる千載一遇のチャンスととらえて、大きな勝負に出る。
イギリス、オランダ、フランス、アメリカの4カ国の公使を大阪に集結させて、順番に会見。これまで引き延ばしてきた兵庫開港を、慶喜は「将軍の責任を持って断行する」と確約したのである。・・・」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/432218′>https://toyokeizai.net/articles/-/432218</a>

⇒以下、重複的記述を伴う、引用文の総括部分だ。(太田)

「すでに幕府を見限っており、さりとて、成り上がりの薩摩藩と手を組むつもりも毛頭なかった慶喜。幕府でも有力藩でもなく、朝廷、つまり孝明天皇を後ろ盾にして、初めて自分の居場所ならぬ「生き場所」を見つけることとなる。

⇒近衛家についても、従って、薩摩藩についても、熟知している水戸徳川家の出身である、という、水戸徳川家の、慶喜、が、薩摩藩が成り上がりなどと思うワケがない。(太田)

「7、8年ないしは10年後には必ず通商条約を拒絶すること」
「公武合体」を持ちかけられると、孝明天皇は、妹の和宮を将軍家茂に降嫁することを認める交換条件として、幕府にそんな約束をさせている。・・・
実は、孝明天皇は和宮降嫁にあたって当初、「ペリー来航以前の対外政策に戻すこと」を条件に出していた。もちろん孝明天皇もそれが難しいことくらいわかっている。だが、これまで問題視してこなかった和親条約すらも認めないと強硬な姿勢を打ち出すことで、幕府のほうから「期限付きで通商条約を拒絶する」という回答を引き出すことに成功したのである。・・・

⇒そんな孝明天皇は、五摂関家、と、島津家・水戸徳川家・尾張徳川家、によって、ずっと操られていたわけであり、そのことに、天皇自身も、そして幕府も、全く気付いていなかったわけだ。(太田)

慶喜は父が水戸藩藩主の徳川斉昭で、尊王攘夷派のシンボル的存在だった。そのため、迂闊に自身の考えを明かすことはなかったものの、慶喜は明確な開国思想を早い時期から持っていた。

⇒斉昭にとって攘夷は倒幕のためのタテマエに過ぎなかった、というのが私の説であるところ、この点に関しては、既に、それに近い説が唱えられていることを発見した。↓
「「頑固な攘夷論者」として描かれることが多い水戸藩9代藩主・徳川斉昭・・・。ところが、実際は状況によっては外国との通商を認めていて、必要にかられて「攘夷の巨魁」を演じていたのではないか。そんな新たな斉昭像を提示する研究書が<2019年に>刊行された。・・・『徳川斉昭 不確実な時代に生きて』(山川出版社)。著者は茨城県立歴史館の永井博・特任研究員だ。」
<a href=’https://www.asahi.com/articles/ASM9F5R2HM9FULZU00N.html’>https://www.asahi.com/articles/ASM9F5R2HM9FULZU00N.html</a> (太田)

にもかかわらず、この国の行き先を決める大一番で、慶喜が孝明天皇の意向に沿った理由は、2つある。1つは、薩摩藩が政治を主導するのが許せなかったということ。慶喜は邸に帰ると、薩摩藩のくわだてを台無しにしたことを、侍臣たちに感情もあらわに報告している。
「今日は愉快、愉快。大技計をぶちこわしたのは痛快の至り」

⇒既に指摘したように、近衛家≒島津氏、を、「許せない」などと慶喜が思うことなどありえないのだ。(太田)

もう1つの理由としては、慶喜は父の斉昭が激しい尊王攘夷派だっただけではなく、母の吉子は、有栖川宮織仁親王の娘だった。つまり、徳川家と朝廷の両方の血が流れていたのである。
その生まれから、否応なく、幕府の朝廷のどちらに味方するのかの争いに巻き込まれる運命にあったといってよいだろう。そんな事態を見越してか、父の斉昭は慶喜に常々こう伝えていた。
「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」(『昔夢会筆記』)

⇒斉昭は、自分の父である治紀から受けた「正しい」薫陶(前出)をそのまま自分の子である慶喜に伝えたはずであり、「」のような言い方をしたはずがなかろう。(太田)

慶喜はまさにその教えを守り、参<預>会議でも朝廷に背くことはなかった。会議をぶち壊すと、慶喜は後見職を辞任して、・・・1864・・・年3月に禁裏御守衛総督に就任する。・・・」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/446033′>https://toyokeizai.net/articles/-/446033</a>

⇒参預会議は、孝明天皇の望んだ公武合体の象徴的存在であり、そんな会議をぶち壊した慶喜は、幕府を不安定化させるために、天皇に背いたわけだ。
但し、それは五摂関家のホンネの総意には沿っていた。
よって、朝廷に背いた、と形容するかどうかは、朝廷の定義いかんによる。(太田)

「・・・孝明天皇は、禁裏御守衛総督となった慶喜の働きに大いに期待したことだろう。だが、慶喜はといえば、長州藩を攻撃することに、実はそれほど乗り気ではなかった。

⇒それどころか、攘夷暴発をしてくれた長州藩に対し、慶喜として、含むところなど何もなかったわけだ。(太田)

長州藩が京に出兵した「禁門の変」の引き金となったのが、6月5日に京で起きた池田屋事件である。会津藩配下の新選組が、池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩、肥後藩ら尊王攘夷の志士たちを襲撃した。
尊王攘夷の志士たちは、池田屋で何をたくらんでいたのか。新選組に捕縛された尊攘派志士、古高俊太郎の自白によって明らかになっている。それは次のようなものだった。
「御所に火を放って、八月十八日の政変を主導した中川宮を幽閉。一橋慶喜や松平容保らを暗殺して、孝明天皇を長州へ連れて行く」
大胆なクーデター計画である。京を守る慶喜もターゲットにされていたわけだが、慶喜からすれば、長州藩に敵対的な感情はなかった。
長州藩を追放した「八月十八日の政変」が起きたとき、慶喜は京から離れていて関与していない。それ以後も、長州藩主の毛利敬親と定広の親子とは、手紙のやりとりをする間柄であった。そもそも、慶喜は水戸藩から多くの兵士を借りており、その大半は尊王攘夷派である。慶喜自身も「尊王」を掲げながらもないがしろにされている長州藩に対しては、むしろ同情的だった。

⇒いやいや、水戸藩の秀吉流日蓮主義者たる志士達が個人単位で、適宜他藩の同志達とも協力しつつ、やってきた累次の倒幕テロが、長州藩によって、藩の倒幕軍事活動の形で行われる運びになったことに、慶喜が内心どれほど感謝していたか分からない、というくらいの話なのだ。(太田)

一方、会津藩藩主で京都守護職に就いていた松平容保は、長州藩兵が京に近づけば、征伐しかないと考えていた。そのため、慶喜の「長州藩とできるだけ話し合おう」という態度には、不信感を拭えなかったようだ。容保と慶喜は「一会桑」のなかで、対立を深めていく。

⇒佐幕を藩是とする会津藩の容保、と、倒幕を(ホンネの)藩是とする、水戸藩出身の慶喜、が、一時期行動を共にしていたことがむしろ、SFに近いような話なのだ。(太田)

だが、そうこうしているうちに、1500人を率いた長州藩の軍勢が京に近づいてくる。池田屋事件から約2週間後の<1864年>6月20日には大阪に到着。その翌日から、続々と福原越後隊や来島又兵衛隊などの長州藩士が、伏見の長州藩邸へと入ってきた。
そして27日には、ついに嵐山の天竜寺にまで長州藩士が進出。その2日後、たまらず孝明天皇は慶喜に参内を命じて、こう念押ししている・・・。
「長州人の入京は絶対にあってはならない」
これだけ厳命されても、慶喜は武力討伐ではなく、長州藩を説得することにあくまでもこだわった。長州藩の永代家老である福原元僴(福原越後)に対して、事を荒立てぬようにと、こう働きかけている。
「大坂に退去してひとまず朝命を待つように」
ただし、天皇の意向を無視したかたちにならないように配慮はしている。慶喜は、伏見、山崎、天竜寺と3方面に諸藩兵を配置して守りを固め、禁裏御守衛総督としての任を果たさんとした。バランス感覚を持って現実的な対応を行いながらも、自分の考えは諦めずに貫くという、慶喜らしい頑固さが垣間見られる。

⇒慶喜らしいもくそもないのであって、彼の父斉昭や、彼も敬慕していたであろう島津斉彬、だって、生きていて、同じ役職に就いていたならば、自分達の思惑通りに動いてくれている、カワイイ長州藩に対し、自ら進んで手を出したくなくて、慶喜とほぼ同じ姿勢をとったであろうこと請け合いだ。(太田)

だが、頑固さでは、孝明天皇も負けてはいない。7月3日夜には、長州征伐を命じる朝命を下す。さらに18日に「玉座の下」に慶喜を呼び、長州藩追討の勅命を直々に下している。
これで長州藩は「朝敵」となり、慶喜も討たないわけにはいかなくなった。・・・
「禁門の変」が起きるのは、孝明天皇が直命を下した翌日のことである。
長州藩に対する孝明天皇の好戦的な態度は、強い「不安」が原動力になっているだけあって、揺らぐことがない。また、慶喜は慶喜で、決定的な状況になるまでは腹が決まらぬところがあるが、土壇場になれば、大胆な行動で局面を打開する胆力があった。

⇒佐幕の孝明天皇は、幕府の唱える平和的攘夷が実行可能であると思い込んでいて、軍事的攘夷を開始した長州藩を敵視したという、お目出度い残念な人物であり、だからこそ、そんな天皇は利用のし甲斐もあるわけだが、慶喜は、ことがうまく運んでいるわい、とほくそ笑んでいたはずだ。(太田)

薩摩藩が京に駆けつけたことで「禁門の変」は、戦闘そのものはわずか1日で終わり、長州藩を撃退することに成功。混乱に陥る京で、慶喜は禁裏御守衛総督らしく大奮闘を見せている。長州藩兵の残党が鷹司邸に突入して占拠すると、慶喜は鷹司邸を焼き払うという決断を戦場で下し、長州藩の最後の部隊を敗走させることに成功した。
孝明天皇からすれば、慶喜には直前までヤキモキさせられた分、その喜びもひとしおだったのだろう。御学問所で対面して、慶喜の軍功をねぎらっている。
この戦いで慶喜が得たのは、孝明天皇からの信頼だけではない。長州寄りだと不審を買っていた松平容保からも慶喜は信用を得た。両者が結びつきを強くしたため、「一会桑」は影響力を高めていく。
慶喜は晩年に「かつて死ぬ覚悟を決めたことが3度あった」と述懐したが、その1つが、この「禁門の変」での長州兵の討伐であった。慶喜にとっても、孝明天皇にとっても、人生の大きなターニングポイントであったことは間違いないだろう。
では、慶喜が「死ぬ覚悟を決めた」、あとの2回はいつだったのか。1回は、新政府軍が江戸に進軍してきたときである。大阪城から逃げ帰ってきた慶喜は、上野寛永寺大滋院で謹慎生活を送っていた。生きた心地がしなかったのは確かだろう。
残る1回は、この「禁門の変」と同様に、孝明天皇が関係している。孝明天皇が幕末のキーマンとなった原点であり、長きにわたる問題となった「条約勅許」の解決である。
・・・1865年・・・、通商条約をすでに締結していたアメリカ、ロシア、イギリス、フランスの4カ国の公使が、連合艦隊8隻を率いて大阪湾に来航。幕府の老中格である小笠原長行が対応したところ、条約の勅許を迫られることとなった。
当然、孝明天皇が通商を認めるはずもない。どうするべきかと将軍の家茂も交えた大阪城での会議は紛糾。老中の罷免問題にも発展し、責任を感じた家茂は「将軍を辞任する」と、一度は朝廷に辞任を提出している。厄介なことに、外国の公使たちは、条約の勅許だけではなく横浜港の開港まで迫ってきた。20歳の家茂では、手に余ったとしても無理はない。
慶喜としては、この局面で将軍職を押し付けられることは避けたい。家茂をなだめて、朝廷の説得役を買って出ている。朝廷側に立つことの多い慶喜だったが、時に徳川家の人間としての顔を見せる。このときは、まさに慶喜のそんな一面が現れた瞬間だといえよう。

⇒家茂の方が慶喜よりもはるかに若いので、慶喜が次の将軍になる目は殆どない状態だったが、家茂が将軍職を投げ出したくなるほど幕府が追い詰められた状況になってきたことに慶喜は内心欣喜雀躍したであろうところ、その気持ちをぐっと堪えて、ここぞと家茂と幕府に恩を売りまくることで、近い将来、自分が確実に将軍職を譲り受けられる機運を醸成できる、と慶喜は踏んだのだろう。(太田)

孝明天皇の攘夷への意志は固いものの、公卿たちの意見は割れていることを、朝廷に通じた慶喜は知っている。結論は出ないままに、朝議が解散しようとしたとき、慶喜は勝負に出る。
「これほど申し上げても朝廷が条約を許可しないならば、私は責任を取って切腹する」
そのうえで「その代わり、家来が暴れ出すぞ」と脅しかけてまで、強引に条約勅許を求めた。通商条約に反対することは、孝明天皇にとってアイデンティティーの1つでもあった。この国を守るために、自分が踏ん張って担い続ける役目だと信じて、その態度を貫いてきたのだろう。
しかし、自分が頼りにしている慶喜にここまで言われては、孝明天皇も折れざるをえなかった。ついに、孝明天皇は通商条約について認めて、こんな朝議を出している。
「条約の儀、御許容あらせらる。至当の処置致すべきこと」・・・」
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⇒とまあこういう具合に、幕府にとっての最大の懸案、憂慮事案、を、慶喜は解決してみせたわけだ。
後は、絶対に失敗する、というか、自分が失敗させるところの、第二次長州征討、さえ将軍家茂自らに指揮を執らせる形で惹き起こせば、失敗した家茂は今度こそ将軍職から確実に逃げ出し、その後は自分が継ぐことになる、と慶喜は考え、1866年にその通りに事態が進行したところ、幕府側の敗北が確定する前に家茂が大坂城で病死してしまい、慶喜は、結果益々オーライで、念願の将軍職を、予定よりちょっぴり早く、事実上手にすることになる。
慶喜がその後正式に将軍に就任し、自己犠牲を厭わない形で、ものの見事にあっという間に、徳川幕府を瓦解させ、維新政府へのバトンタッチを果たしたことを我々は知っている。
そして、慶喜にとっては望外のことだっただろうが、それから随分経った1902年になって、それを嘉されて、維新政府によって、慶喜が公爵を授爵された
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C</a> 前掲 ←事実関係
ことも・・。(太田)

IV 結論に代えて

もともとは、幕末期を中心に取り上げようと思っていたのが、下ること大正期、上ること安土桃山時代、まで時代が拡大してしまい、取り上げるトピックスも次第に増えていき、しかも、その間、私自身の見方も深化ないし進化して修正に次ぐ修正に追われる、といった具合で、一時は途方に暮れてしまった。
そういうわけで、結局、あらゆる面で粗削りな「講演」原稿になってしまったことをお断りしておく。
そのくせ、最初からやろうと思っていたところの、(既に、これまで様々な機会に取り上げてきているけれど、改めて、)秀吉流日蓮主義諸藩主家の全体像の俯瞰をやり残してしまった。
この点を含め、今回の取り残し分を、明治維新以降が中心になるであろう、次回のオフ会「講演」原稿で、できるだけ拾い上げて取り上げたいものだ。
ディスクレーマーはそれくらいにして、最後に、今回の「講演」で私が言いたかったことを簡単にまとめておこう。
それは、生前の秀吉と近衛家の代々の当主達の努力によって、幕末時までに、五摂関家が近衛家の下で一体化するに至っており、この五摂関家が、元々近衛家と一心同体であった薩摩藩(と弘前藩)に加えて、水戸徳川家と尾張徳川家とも一体化し、拡大五摂関家とでも称すべきものが成立していて、かつ、この拡大五摂関家が、その他の数多くの秀吉流日蓮主義諸藩主家や嫌幕諸藩主家、と、拡大五摂関家連合とでも称すべき連合を樹立するに至っていたところ、この拡大五摂関家連合が、近衛忠煕と島津斉彬が練り上げた倒幕・維新計画・・孝明天皇を操り、国際情勢にも鑑みて承久の乱ないし南北朝並立のような事態の招来を回避するために「倒幕の短期間での流血の少ない形での実現を期し、事実上の倒幕目的のテロを頻発させた上で、幕府との間で朝廷優位の公武合体をまず実現し、次には特定の大藩に事実上の倒幕目的の軍事行動を起こさせ、それに適切な対応ができない幕府の権威を失墜させて幕府を大政奉還へと導き、その上で徳川本家を解体」(前出)し、秀吉流日蓮主義完遂を目指す維新政府を樹立する・・を(早い時期に斉彬を亡くしつつも、原案を若干間延びさせた形で)実行に移し、それに成功した、というものだ。
皆さんの忌憚のないコメントを期待している。

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太田述正コラム#12652(2022.3.26)
<2022.2.26東京オフ会次第>

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