太田述正コラム#12486(2022.1.2)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その16)>(2022.3.27公開)
「・・・<1859年、>天皇は武家伝奏を通じて安政の大獄で失脚した鷹司政通・輔熙父子、近衛忠熙、三条実萬の宥免をはかろうとしていたが、実萬の病が重いことを知り、10月4日に謹慎を解き、翌日、従一位に叙した。
実萬は臨終の際、実美を呼び寄せ、「幕府の横暴を憤り、汝勤王の志を継ぎ、素志の貫徹を謀り、以て鬱を散ずべきことを遺言」・・・したという。・・・
文久期の実美の過激な言動に対しては、父の遺恨によるもので「大に心得違」とする薩摩藩の大久保一蔵(利通)の批判もある・・・。

⇒これは、近衛忠熙の気持ちを代弁した批判でもあったことでしょう。(太田)

いずれにせよ父の非業の死は、その後の実美を決定づけた。・・・
桜田門外の変の<後に>・・・台頭したのが公武合体運動である。
文久年間にはいると、藩士長井雅樂<(注27)>(うた)の主唱する「航海遠略策」<(注28)>をひっさげた長州藩が、政局の主役となる。」(32~33)

(注27)1819~1863年。「長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。・・・
1858年・・・、長州藩の重役である直目付となる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD</a>
(注28)「航海遠略策の大意は以下の通りである。:朝廷が頻りに幕府に要求している破約攘夷は世界の大勢に反し、国際道義上も軍事的にも不可能であると批判。そもそも鎖国は島原の乱を恐れた幕府が始めた高々300年の政策に過ぎず、皇国の旧法ではない。しかも洋夷は航海術を会得しており、こちらから攻撃しても何の益もない。むしろ積極的に航海を行って通商で国力を高め、「皇威を海外に振る」って、やがて世界諸国(五大洲)を圧倒し、向こうから進んで日本へ貢ぎ物を捧げてくるように仕向けるべきである。そこで朝廷は一刻も早く鎖国攘夷を撤回して、広く航海して海外へ威信を知らしめるよう、幕府へ命じていただければ、国論は統一され政局も安定する(海内一和)ことだろう。・・・
長州藩直目付であった長井雅楽は・・・1861年・・・3月・・・、藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として航海遠略策を建白した。長州藩要路は討議の結果、長井の建白を藩論として採用し、慶親の裁可の下、この方針で朝廷・幕府に対し周旋に当たるよう、長井に命じた。
同年5月12日に上京した長井は、議奏の権大納言正親町三条実愛に面会し、航海遠略策を建言。これに賛同した正親町三条は長井に書面での提出を求めた。建白書に目を通した孝明天皇もこの論に満足し、朝廷の了解を得た長井は、幕府要人への入説を命ぜられ6月には江戸へ下った。しかし、すでにこの頃江戸の長州藩邸では長井に反撥する空気が横溢していた。桂小五郎・久坂玄瑞ら吉田松陰系の尊王攘夷派藩士たちは、破約攘夷を主張しており、長井の策は勅許なしでの条約締結による開国を是認するものであり、天皇をおろそかにする政策だと主張した。そしてもう一つ、幕府がこれまでしてきたことを黙認する航海遠略策は、吉田松陰を処刑された松下村塾生にとって受け入れがたいものだったと考えられる。桂・久坂は周布政之助を説得し、反長井派に転じさせることに成功する。
一方長井は7月2日老中久世広周を説得、さらに8月3日には同じく老中安藤信正にも面会した。外様大名の陪臣である長井が朝廷や幕府要人の間を周旋するのは異例中の異例であったが、公武合体が進まず窮地に陥っていた幕府にとっては渡りに船の政論であったため、二人の老中は大いに賛同し、長井に引きつづき周旋を求めた。そこで長井は本格的な推進のため、萩に戻り藩主毛利慶親の出府を促した。この動きに対し、反長井派の周布・久坂は藩主出府を阻止しようとするが、無断で任地を離れた罪で逆に逼塞処分となる。しかし11月13日、江戸に到着した慶親は藩内の強硬な異論を鑑み、久世・安藤の要請にもかかわらず、航海遠略策に消極的な姿勢となってしまう。その一方で12月8日には、長井が幕府へ正式に航海遠略策を建白。翌<1862>年正月3日、長井は中老に昇進する。ところが航海遠略策の推進役の一人であった安藤信正は坂下門外の変で失脚。孤軍奮闘の長井は、3月10日江戸を立ち京に上った。
しかし、すでに京都の情勢は前年とは様変わりしていた。薩摩藩主の父島津久光が兵を引き連れて上京し、攘夷運動を促進するという情報(実際には久光に攘夷の意志はなく、公武合体策と幕政改革の推進が目的であった)から、尊攘派の動きが朝廷においても活発化していたためである。3月18日、長井は正式に朝廷へ航海遠略策を建白するが、工作は失敗に終わった。さらに4月11日には久坂が藩重役に対し、12箇条からなる長井の弾劾書を提出している。藩論の分裂を恐れた毛利慶親は、長井に江戸帰府を命令。4月13日に島津久光が入京するのと入れ違うように、翌14日長井は京を退去した。
さらに久坂らの朝廷工作は続き、前年に長井が正親町三条実愛に提出した書面に現朝廷を誹謗した文言があると攻撃。これを受けて朝廷は5月5日、不快感を表す(謗詞一件)。長州藩は朝廷に謝罪するとともに6月5日長井の中老職を免じ、帰国させる。7月入京した毛利慶親は重臣と相談の末、長州の藩論を航海遠略策から破約攘夷へ転換することを決定。ここに至って長井の政治工作は完全に破綻した。幕府側で航海遠略策を支援していた久世広周も6月2日に罷免され、朝廷側でこれを主導した正親町三条実愛も翌年に権大納言・議奏を辞職に追い込まれている。
11月15日、長井は切腹を命じられ、翌・・・1863年・・・2月6日自害した。以後、長州藩は尊王攘夷の最過激派として、八月十八日の政変まで京都政局を主導することになる。しかしその後薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件などを通じて攘夷の不可能性が知れ渡り、開国が不可避となるに従い、航海遠略策の思想は歴史的役割を終えた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E6%B5%B7%E9%81%A0%E7%95%A5%E7%AD%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E6%B5%B7%E9%81%A0%E7%95%A5%E7%AD%96</a>
正親町三条実愛(さねなる。1821~1909年)は、「1858年・・・、江戸幕府が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。・・・1859年・・・、権大納言。・・・1860年・・・に議奏、・・・1862年・・・に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌・・・1863年・・・に失脚する。
同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。・・・
母<は、>・・・[信濃松本藩の第7代藩主]松平光年の娘」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%85%89%E5%B9%B4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%85%89%E5%B9%B4</a> ([]内)

⇒長州藩は、近衛家/島津氏の、まず公武合体論を盛り上げるために航海遠略策を提唱させられるという形で狩り出され、次いで、倒幕のための尖兵ないし捨て駒として、尊皇攘夷の旗手をやらされた、という次第です。
明治新政府を薩長政府として、薩摩藩出身者達と権力を分かち合うことができたのは、僥倖であったとさえ言えるのではないでしょうか。
それもこれも、吉田松陰のおかげもあって、長州藩が人材を輩出できたおかげでしょう。(太田)

(続く)