太田述正コラム#1538(2006.11.30)
<日本・米国・戦争(その2)>

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 椿事を引き起こすきっかけとなったのは、南ベトナムにおける、北ベトナム/ベトコンによる1968年1月のテト大攻勢(Tet offensive)でした。

 テト大攻勢そのものは大失敗に終わります。
 目標とした地区のいくつかは占拠できたものの、遅かれ早かれすべて米軍と南ベトナム軍が奪還しましたし、攻勢を担った8万人の兵士のうち、1ヶ月で4万人が戦死し、北ベトナム/ベトコン側は回復不可能な大損害を受けたのです。

 しかし、この大攻勢をTVで見た米国民の大部分は、これを米軍の敗北であると誤解し、時の米大統領であったジョンソン(Lyndon B. Johnson)の対ベトナム政策の支持率は瞬時に26%に下がり、テト大攻勢前には在ベトナム米軍を増強すべきだとしていた人が58%に対し、削減すべきだとしていた人は26%だったのに、テト大攻勢から2ヶ月経った時点では、後者が前者を上回るに至ったのです。

 こうなった原因の一つとして、ジョンソン政権が、米国民の期待感をふくらませていたことが挙げられます。
 北ベトナムから南ベトナムへの兵力の浸透率が下がり、北ベトナム/ベトコン兵士の死傷率が上がったことを踏まえ、テト大攻勢前の一ヶ月、ジョンソン政権は「勝利は目前だ」と吹きに吹いていたのです。ですから、米国民はすっかりその気になっていたのです。
 そこに突然、南ベトナムの約40の都市が同時に攻撃されるというテト大攻勢が起こったので、米国民は大きな衝撃を受けたのです。
 とりわけ衝撃効果を高めたのが、サイゴンの米大使館が襲撃を受けて占拠されたというニュース・・誤報であり、実際には占拠できないまま襲撃者は全員射殺された・・、及び、南ベトナムの警察長官がベトコンの捕虜の男性の頭部をピストルで撃って射殺するところを写した写真・・ベトナム派遣米軍の残虐さと正統性の欠如をイメージさせた・・、でした。
 ですから、ベトナム派遣米軍総司令官のウェストモーランド(William Westmoreland)が、テト大攻勢に対し我が方は勝利した、と宣言しても米国民は誰も聞く耳を持たなかったのです。
 しかも、米国のメディアは、その後も、テト大攻勢の際の北ベトナム/ベトコン側の「戦果」を過大に報じ続けたのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2006/11/28/opinion/28johnson.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(11月28日アクセス)による。なお、私のホームページの時事コラム#619も参照されたい。)

 こうしてあに図らんや、北ベトナムは、軍事的には大敗北を喫したにもかかわらず、政治的には大勝利を収めることができたのです。
 同年中の民主党のジョンソン大統領の次期大統領選挙には立候補しない旨の表明、そしてベトナム戦争の「名誉ある」終結を掲げた共和党のニクソンの大統領選勝利は、その必然的な結果でした(
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Vietnam前掲)。

 前に、米国は、国際情勢を読むことにかけてはまるでだめで、誤った情勢判断に基づいてベトナムへの軍事介入に本格的に乗り出してしまった、と申し上げたところですが、今度は、米国は、ベトナム戦争に勝利したにもかかわらず、負けたと誤解した世論に押し流されて、せっかくの勝利を無に帰せしめてしまった、というわけです。
 大男、総身に智恵が回りかね、といったところですね。

 米国のベトナム戦争における問題行動はそれだけではありません。
 1973年に米国は北ベトナムとパリ平和協定を結んでさっさと米軍を撤退させてしまい、1975年に北ベトナムが、この協定に明確に違反して南ベトナムに侵攻した時に、南ベトナムに全く手を差し伸べず、北ベトナムによる併合を座視する、という背信行為を行ったのです。

 米国の対外関係の歴史は、友人や友邦への裏切りの歴史だったと言っても過言ではありません。
 19世紀初めに北アフリカのベルベル人(Barbary)の海賊が米国の船を次々に捕獲したので、米国は、海賊の親分であるトリポリの太守を撃つべく、海兵隊と傭兵の混成部隊を海外派遣し、太守の弟を手名付けて現地で一緒に戦ったのですが、太守との間で、捕獲された船に乗船していた人質の米国人達を身代金と引き替えに解放する取引が成立すると、この遠征は突然中止され、ハシゴをはずされた太守の弟は、妻子を棄てて米国に亡命する羽目に陥りました。
 これが、米国が対外的に行った最初の背信行為です。

 先の大戦以降も、この種の背信行為のオンパレードです。
 ベトナム戦争の時の話は既にしましたが、それ以外に有名なものを三つ挙げておきましょう。
 1961年4月、武装したキューバ人亡命者1,500人を米CIAがキューバのピッグス湾(Bay of Pigs)に送り込んだのですが、キューバ軍が攻撃してくると、当時のケネディ米大統領は、一切支援しようとせず、彼らがキューバ軍によって殺害され、捕虜にされるのを座視しました。
 1979年のイラン・イスラム革命の際には、1953年に英国とともに国王の座に復帰させたというのに、イランのパーレビ国王に全く救いの手を差し伸べませんでした。それどころか、パーレビの米国への亡命さえ拒んだのです。
 1991年の湾岸戦争の直後には、さんざんけしかけてクルド人とシーア派にサダム・フセイン政権に対する蜂起を行わせながら、当時の米国のブッシュ父大統領は、彼らが虐殺され、鎮圧されるに任せたのです。

 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-boot22nov22,0,5598389,print.column?coll=la-opinion-rightrail
(11月23日アクセス)による。)

 これだけの前科があるのですから、米国政府の約束など全くあてにならない、と思うべきなのです。

(続く)