太田述正コラム#12572(2022.2.14)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その9)>(2022.5.9公開)

「1865・・・年9月16日、英仏蘭米4カ国の公使を乗せた外国艦隊が突然兵庫沖にあらわれ、天皇の条約承認や兵庫の即時開港を求めて、幕府が対応しない場合、直接京都へ乗り込んで朝廷と交渉する姿勢を見せたのである。
・・・いったんは薩摩藩の支援をえて朝廷主導で外国側と交渉することが決まった。
しかし驚いた慶喜は巻き返しをはかり、これを制して、恫喝に近い手段をも使った、10月5日の朝議において条約勅許を勝ちとったのである(ただし兵庫開港は保留)。<(注16)>

(注16)「兵庫港(兵庫津。かつての大輪田泊)は・・・1858年・・・に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、西暦1863年からの開港が予定されていたが、異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対していた。このため、幕府は文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を派遣し、英国とロンドン覚書を交換し、兵庫開港を5年間延長して1868年1月1日とすることとなった。
1863年から1864年にかけて長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。
<1865>年9月13日・・・、キング提督を司令官とした英国4隻(プリンセス・ロイヤル、レパード、ペラロス、バウンサー)、フランス3隻(グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)、オランダ1隻(ズートマン)の合計8隻(米国は今回は軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、パークスに加えてフランス公使レオン・ロッシュ、オランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックおよびアメリカ代理公使アントン・ポートマンを乗せて横浜を出港し、9月16日・・・には兵庫港に到着した。
幕府は老中阿部正外および松前崇広を派遣し、9月23日・・・から四カ国の公使との交渉を行わせた。四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日・・・両老中は解任されてしまった。
このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発した。10月7日・・・、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り<1867>年12月7日・・・であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、・・・[1866年5月13日には
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E7%A8%8E%E7%B4%84%E6%9B%B8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E7%A8%8E%E7%B4%84%E6%9B%B8</a> ]関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた<1867>年5月24日・・・のことである。第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができた。
<1867>年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸は無事開港した。その直後の <1868>年1月3日・・・、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。戦いに敗れた徳川慶喜は1月6日夜・・・、開港したばかりの兵庫沖に停泊中の米国軍艦イロコイ号に一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に脱出した。
また、その直後の<1868>年1月11日・・・、備前藩と神戸停泊中の各国の兵士との銃撃戦となった神戸事件が発生している。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6</a>
阿部正外(まさと/まさとう。1828~1887年)は、「武蔵国忍藩、陸奥白河藩を治めた阿部家の分家で、阿部正能の三男正房を祖とする3000石の旗本・阿部正蔵の次男として誕生。長兄正定は・・・1848年・・・に本家の白河藩を相続、次兄津次郎は須田家に養子入りしたため、正外が同年死去した父の跡を継いで3000石の旗本となった。
江戸幕府大老井伊直弼から重用され、・・・1859年・・・に公武合体推進のため和宮の江戸下向を朝廷と工作する禁裏付役人に任命され、上京して京都所司代酒井忠義と共に朝廷工作に尽力した。・・・1860年・・・に直弼が暗殺された後も引き続き朝廷と打ち合わせを進め、・・・1861年・・・に下向の目途が付くと11月11日に神奈川奉行に転任、翌・・・1862年・・・8月21日に起こった生麦事件の対応に追われた。同年閏8月4日に外国奉行、・・・1863年・・・4月23日に北町奉行の各奉行を歴任した。
翌<1864>年・・・8月4日、幕命により白河藩を相続、10万石の大名となった。白河藩は兄の死後、同族の阿部正耆が藩主になっていたが同年3月2日に急死、遺児光之助(後の正功)が幼いために取られた処置だった。・・・2日後の24日に老中に任じられ、幕閣の一員に入った。また、横浜港鎖港問題で外国交渉を担当する一方、白河藩の軍制改革にも取り組み、藩兵に洋式訓練を施すよう藩家老に命じている。7月に海路上洛する途中に大坂で軍艦奉行勝海舟と面会、海舟からは外交姿勢を高く評価されたが、阿部の方は海舟の政治思想である公議政体論を危険視し、幕府に報告して11月10日の海舟罷免に関与したと推測されている。
・・・1865年・・・、発言権を強めていた朝廷から14代将軍徳川家茂の上洛と攘夷決行が要請されたため、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制として、阿部と本庄宗秀は2月5日に兵4000を率いて上洛し、22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に朝廷を牽制、一会桑政権の解体を目論んだとされるが、朝廷の反感を買い、逆に関白二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、交渉後の24日に朝廷側の要請を一旦江戸に戻って家茂に伝えた。4月に上洛反対派の老中稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭を同僚の松前崇広・水野忠精や大老酒井忠績と結託して失脚させ、5月16日の家茂3度目の上洛に随行、派兵を命じた白河藩兵も約1200人が陸路・海路に分かれて大坂城に集結した。
家茂に供奉した阿部は閏5月22日に参内した後25日に大坂に下り、第二次長州征討を控えた幕府軍や藩兵と共に待機していたが、9月23日にイギリス・フランス・オランダ3ヶ国から要請されていた兵庫開港・大坂開市をめぐって兵庫で交渉を開始した。阿部は松前崇広と共に3か国に対して交渉したが、・・・2日後の25日に大坂城へ戻り他の老中や家茂と協議の上で、やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。だが翌26日、京都から大坂城に参着した一橋慶喜(朝廷から長州再征の勅許を得るため交渉していた)は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。公方の面前で条約調印の当否をめぐった論争では、家茂が場の緊張感に呑まれ泣きだしたという。
勅許を得るため外国との交渉延期を主張した慶喜の意見が通り、若年寄立花種恭と3か国交渉の結果延期と決まる一方、朝廷は阿部・松前の違勅を咎め、29日に両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し(一会桑の取り成しで改易から謹慎に変更)、家茂は10月1日に両名を老中職から外し、官位召し上げ、国元謹慎処分にした・・・。ただし、家茂はこの露骨な朝廷の幕政干渉に異議を唱え、孝明天皇や慶喜に将軍辞意を伝えたといわれ、驚いた孝明天皇は以後の幕政干渉はしないと言ったという。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%A4%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%A4%96</a>
松前崇広(たかひろ。1829~1866年)は、「幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通であった。
崇広の甥で第11代藩主・松前昌広が病床にあり、昌広の嫡男・徳広もまだ幼少であったので、・・・1849年・・・6月9日、昌広の隠居によりその養子として家督を相続し、第12代藩主となった。・・・
幕府は西洋通の崇広を・・・1863年・・・4月23日に寺社奉行に起用し、その後、・・・1864年・・・7月7日老中格兼陸海軍総奉行(・・・1865年・・・9月11日陸海両軍総裁と改称)になり、同年11月10日老中に抜擢した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%B4%87%E5%BA%83′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%B4%87%E5%BA%83</a>
「松前藩<は、>・・・始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。・・・江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、・・・1719年・・・から1万石格の柳間詰めの大名となった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9</a>

⇒19歳になったばかりの若輩で無理もないとはいえども、執務中に泣き出してしまうような将軍家茂
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82</a>
といい、こんな禍機の重大な外交交渉にあたらされたところの、れっきとした譜代大名たる正使が、変則譜代大名たる副使のような欧米通ですらなかったこと、といい、幕府はもう既に完全に死に体であった・・現にすぐ消滅した・・と言えるでしょうね。
当然ながら、同じことが、こんな禍機に、友好通商条約反対(含む兵庫開港反対)に固執し続け[、結果的に友好通商条約(の附属貿易章程)の不平等化をもたらし
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E7%A8%8E%E7%B4%84%E6%9B%B8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E7%A8%8E%E7%B4%84%E6%9B%B8</a> 前掲]た孝明天皇が当主であったところの、天皇家、についても、更に強く言えるわけで、そんな天皇家を戴く天皇制が現在なお続いていることの方が不思議なのかもしれません。(太田)

強硬な反対論者である孝明天皇を説得し、条約勅許問題に決着をつけたことで、一気に慶喜の声望は高まった。
それはとりもなおさず、孝明天皇の慶喜に対する深い信頼と、朝廷が一会桑体制の影響下にあることを公然と示すものであった。
またそれゆえに、朝廷主導の問題解決を期待した公家勢力や大久保利通ら薩摩藩反幕派は、強く反発したのである。」(30)

(続く)