太田述正コラム#12584(2022.2.20)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その15)>(2022.5.15公開)

「10月3日、土佐藩は慶喜に対して大政奉還の意見書を正式に提出した。
 幕府の退勢にすでに覚悟を決めていた慶喜は、10月13日、在京の諸侯と諸藩重臣に諮問したうえで、10月14日、大政奉還の上奏を摂政に提出した。
 そして10月15日、この上奏は勅許された。
 慶喜もまた、対外危機に備えて、天皇のもとに挙国一致体制を樹立することの必要を考慮していたのである。

⇒いや、それどころではないのであって、慶喜は、近衛忠煕/薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達と事実上の共謀関係にあって、自身は内部から、そして後者は外部から、幕府並びに徳川本家、を潰すために努力してきており、ようやく幕府を潰せる運びとなったことを内心喜ぶとともに、引き続き徳川本家を潰すべく最後の気力を振り絞っていた、というのが私の見方です。(太田)

 その頃、薩摩藩の武力倒幕派は、土佐藩の動きと並行して、長州藩と連携して出兵の準備を進めていた。
 そして藩内の挙兵慎重派を説得するために、大政奉還と同日の10月14日、王政復古派の公家とはかって「討幕の密勅」<(注27)>を降下させた。」(39~40)

 (注27)「薩摩藩を主力とする倒幕派は,・・・1867・・・ 年に入ると,しきりに討幕挙兵の機会をうかがい,同年9月長州,安芸両藩を加えた同盟を結んだ。朝廷でも岩倉具視,三条実美の提携が成立し,討幕派の勢力が強くなった。同年 10月5日討幕派の公卿と薩長両藩士たちは,新政権の樹立を画策し,次いで岩倉が主謀者となり,中山忠能,正親町三条実愛らと連署した討幕の密勅を同年 10月 14日薩長両藩に伝達した。公武合体派の摂政二条斉敬には秘して非公式に行われたが,この日,江戸幕府が大政を奉還したので,計画は挫折し,この密勅は取消しとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85-104032
 「密勅は御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名がなされていない。即ち、密勅は正式な詔書ではない。このように、密勅は佐幕派の摂政二条斉敬らを回避して作成され、手続き上、厳密には詔書ではないので、同じく佐幕派の関白九条尚忠を回避した・・・1858年・・・の「戊午の密勅」の場合と同様、「詔(みことのり)」や「詔勅」ではなく「密勅」と称されている。
 また、正親町三条の解説によれば、密勅は綸旨である。詔書と比べて手続きの簡易な綸旨は、天皇に近侍する者がその意を受けてこれを対象者に伝える奉書形式の文書であり、文末は『〜者(てへり)=(〜と言へり)』つまり『~という天皇の命令である』という伝聞形式をとる。討幕の密勅は、天皇の願いを聞いた中山忠能・正親町三条実愛中御門経之の3名が連名でそのまま天皇の意向を「朕(天皇)」の立場(一人称)で薩長の藩士たちに伝えるという形をとるが、主語が「朕」で、「詔す」として天皇が直接命令する詔書の形式でもあり、密勅は伝聞形式とも言えない。つまり密勅を綸旨とする説明にも無理がある。
 このように密勅は極めて異例の形式であるため、従来より偽勅説が唱えられてきた。佐々木克は、この詔書はもともと模擬文書であり、必要な場合は「このような勅命を出すことが可能だ」ということを保証する「サンプルのようなもの」という説を提唱しており、青山忠正はこの説を「最も明快で、説得力がある」と評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
 「1866年・・・に薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が結ばれると、次いで長州藩の働きかけで芸州藩も同盟に加えられることとなった。薩摩藩の代表として大久保利通、長州藩の代表として木戸孝允、広沢真臣、芸州藩の代表として植田乙次郎が出席し、翌年9月17日に三藩の間で出兵盟約が結ばれた。盟約には兵力輸送、出兵配置、攻撃時期などを規定していた。しかし、芸州藩は土佐藩を中心とする公議政体論にも傾いていたため、結果薩長両藩から疎隔されて出兵は延期され、大政奉還と同じ日に薩長に秘密裏に下された倒幕の密勅も、芸州藩には伝達されなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%96%A9%E9%95%B7%E8%8A%B8%E4%B8%89%E8%97%A9%E7%9B%9F%E7%B4%84-69217
 「植田乙次郎<(うえだおとじろう。1825~1893年)は、>・・・安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により・・・1863・・・年武具奉行<になり>,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,・・・1864・・・年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。・・・1866・・・年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。<1867>年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,・・・戊辰戦争では備中(岡山県),備後(広島県)の鎮撫参謀とな<り、>・・・山陽道の旧幕領の摂収に当たった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%8D%E7%94%B0%E4%B9%99%E6%AC%A1%E9%83%8E-1057222

⇒毎度同じパターンで耳タコでしょうが、これも、岩倉具視が、近衛忠煕/薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達、の指示を受けてやったことである、と、私は見ているわけです。
 なお、芸州藩の動きについては、前にも解説をしたことがある(コラム#省略)けれど、次の東京オフ会「講演」原稿で、改めて、更に深堀した解説を行うつもりです。(太田)

(続く)