太田述正コラム#12602(2022.3.1)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その24)>(2022.5.24公開)

 「<それ>がデマだと判明すると、ただちに11月岩倉が勅使となり、大久保と木戸が補佐する形で、薩摩と長州の両藩に支援を要請するため赴くのである。・・・

⇒岩倉は、引き続き、大久保や山縣ら、薩摩藩系の島津斉彬コンセンサス信奉者達の便利屋として使われ続けたわけです。(太田)

 薩摩藩の新政府への協力を引き出すうえで、新政府と薩摩藩とを仲介した西郷の存在は大きかった。
 ただ西郷は、新政府の威信確立のためには、一般的な協力だけでは不十分で、さらに献兵による御親兵、すなわち政府直轄軍の創設が必要だと考えた。
 こうして西郷の提案を受けて、のちに長州に土佐を加えて、急遽、三藩提携による御親兵の創設が決定された。
 その結果、6月末までに新政府は、薩摩・長州・戸さの三藩からの献兵によって一挙に約8000人の直轄軍をもつことになったのである。
 もっとも、西郷が献兵を提案した背景には、薩摩藩特有の事情もあった。
 薩摩藩は、西郷が進めた藩政改革によって、1870(明治3)年になっても1万3000人余という諸藩のなかでは突出した兵隊をかかえていた。
 この膨大な常備軍を維持することは、すでに薩摩藩にとっても西郷にとっても負担であった。
 この意味において、献兵による直轄軍創設は、新政府の強化と薩摩士族の処遇という一挙両得の妙策だったのである・・・
 しかし・・・、用心深い岩倉は、薩長両藩に依存しすぎることにも警戒的だった。
 幕末期と同様、より多くの勢力と提携した基盤固めを好ましいと考えていた岩倉は、・・・1871(明治4)年7月、薩摩と長州に、土佐・名古屋・福井を加えた5藩による「国事御諮詢(こくじごしじゅん)」の制度化を推進するのである。・・・
 <そして、>5藩の藩知事・旧藩主に対し、・・・毎月3回出仕が命じられた。・・・

⇒1863年末から1864年初にかけて参預会議が発足しますが、その時の構成員が、この5藩の藩主格・・但し、名古屋の元藩主の徳川慶勝は辞退・・のほか、将軍後見職の徳川慶喜と会津藩主の松平容保と宇和島藩前藩主の伊達宗城であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E9%A0%90%E4%BC%9A%E8%AD%B0
ところ、まさに昔の名前で出ています感がありますね。
 なお、伊達宗城(ないしその養嗣子の宗徳)が外されているのは、「戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・奥羽列藩同盟寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E
という経緯があるからでしょう。(太田)

 7月初旬、・・・長州藩の鳥尾小弥太<(注44)>と野村靖<(注45)>が、廃藩置県断行論の口火を切った。

 (注44)1848~1905年。「長州藩士<の子。>・・・維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。・・・陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は軍事研究団体である月曜会に属し再び山縣らと対立、枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった。・・・
 廃藩置県は、鳥尾と野村靖による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B0%BE%E5%B0%8F%E5%BC%A5%E5%A4%AA
 (注45)1842~1909年。「長州藩の・・・足軽<の子。>・・・廃藩置県にあたって、鳥尾小弥太とともに、西郷隆盛・木戸孝允等政府有力者を周旋しとりまとめるなど活躍を見せ、その後、宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧。<神奈川県令、内相、逓信相、等を歴任。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%9D%96

⇒「鳥尾小弥太と野村靖」が実際に廃藩置県の口火を切ったかどうかはどうでもいいことで、大久保や西郷、そして山縣ら、が、維新の時以来、実現のタイミングを計っていて、時至れりと判断した、ということでしょう。(太田)

 これに兵制の統一を希求する兵部少輔(ひょうぶのしょう)の山<縣>有朋と、財政の統一を切望する大蔵少輔の井上馨が即座に賛成し、最終的には木戸の賛同もえて、まず長州藩において廃藩置県の方針が決定した。
 問題は、集権化政策に批判的な薩摩藩の動向であった。
 そこで7月6日、山<縣>が西郷を訪ね、廃藩を切りだすと、意外にも西郷はその場で賛同を表明した。
 そしてその日の夕方には大久保も「今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出」ることを決断して同意したのである。・・・」(59~62)

(続く)