太田述正コラム#12608(2022.3.4)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その27)>(2022.5.27公開)

 「台湾出兵<(注48)>は、清邦との緊張を高め、・・・日清開戦の危機さえ囁かれるようになった。・・・

 (注48)「征台の役とも。1871年台湾先住民が琉球島民を殺害したことや1873年岡山県の船員が略奪されたことを理由に,1874年日本が台湾に出兵した事件。征韓論を唱えて大陸進出をはかっていた外務卿副島種臣は,日清修好条規批准のため清に赴いたとき,琉球帰属問題を含めて台湾漂流問題を交渉したが,清国側はこれを拒否。副島が征韓論争で下野すると,内務卿大久保利通らは当時高まっていた士族の反政府気運解消と領土的野心をもって台湾出兵を計画した。これは・・・駐日<英>公使、<米>公使・・・や政府内部の異論で中止となったが,・・・参議大隈重信を台湾蕃地(ばんち)事務局長官<と共>に・・・台湾蕃地事務都督に任じられた西郷従道は独断で出兵し占領。1874年大久保が清国と交渉,償金50万両を得て撤兵。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5-558884

⇒先の大戦の時のことを考えれば、これは、西郷が「独断」でやったことではなく、政府としての承認がないまま、政府部内における秀吉流日蓮主義信奉者中の当時のトップの大久保利通の内々の指示に従い、同じ薩摩藩出身で秀吉流日蓮主義信奉者の西郷従道が、兵を動かしたということでしょう。(太田)

 8月急遽、大久保が北京に派遣されたが、・・・結局、イギリスの仲介などもあって、10月31日、急転直下、交渉が成立し、ようやく日清両国互換条款の調印となる・・・。・・・
 大久保は、台湾出兵に反対して下野していた木戸との和解を模索し、伊藤を仲介として、1875(明治8)年1月大阪<(注49)>で木戸と会談した。

 (注49)「江戸時代中期には「大坂」と「大阪」が併用され、明治維新後の1868年、新政府はもとの大坂三郷に大阪府を置いた。元来の「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となったのは、このころである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA

 大久保は、大阪会議<(コラム#10852)>において、木戸が政府に復帰することを条件に、まず立憲制の導入に同意した。
 また、木戸の希望を容れて、前年に民撰議院設立建白書を提出していた板垣の参議復帰も黙認した。
 こうして木戸が復帰した政府によって、4月14日、漸次立憲政体樹立の詔<(注50)>が公布され、「五箇条の御誓文」を拡充して立憲政体を漸進的に創設することが宣言された。・・・

 (注50)「この詔書に表題はなく、・・・明治天皇の詔書の形で「立憲政体の詔書」あるいは「元老院、大審院、地方官会議を設置し漸次立憲政体樹立の詔勅」として発表された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E4%BD%93%E3%81%AE%E8%A9%94%E6%9B%B8

 従来、政府内では、大久保を中心とする薩摩閥と木戸を中心とする長州閥との対立が、政権運営の不安定さの一員となっていた。
 両者は、対外危機に対応しうる近代国家の建設という目標では一致していたものの、それを実現していくための優先順位や手順に相違があり、それが緊張を高めていたのである。・・・

⇒そういう側面もあったことは否定しませんが、それに加えて、維新の担い手達のほぼ全員が、私の言う、横井小楠コンセンサス信奉者ではあっても、島津斉彬コンセンサス(秀吉流日蓮主義)信奉者とは限らず、とりわけ、薩摩藩出身者とその他の諸藩の出身者との間には、濃淡の違いがあった、というのが私の見方です。
 秀吉流日蓮主義信奉度が高い人々は、えてして、早期海外進出志向であったのではないか、とも。(太田)

 喰違の変でおった傷の療養中とはいえ、岩倉は、・・・大阪会議にまったく関与せず、結果をあとから知らされただけであった。

⇒既に、廃藩置県の時がそうだったのですから、秀吉流日蓮主義信奉者達のために朝廷内で走り使いをする便利屋としての岩倉の役割は、維新政府が樹立された時点で本来終わっていたところ、一種の前官待遇で、維新後もお飾り的神輿として岩倉が奉られ続けていただけ、ということでしょう。(太田)

 さらに、立憲制の導入が政局の中心になってくると、西洋政治思想に不案内な岩倉にとって、主導権は発揮しにくい状況となった。」(72~76)

⇒大久保や木戸らに比し、岩倉が「西洋政治思想」を身に着ける機会が少なかったわけではなく、単に勉強不足だった、それだけの器量の人間だった、ということでしょう。(太田)

(続く)