太田述正コラム#12612(2022.3.6)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その29)>(2022.5.29公開)

 「岩倉は、・・・華族会館<(注52)>の創設へと導いていった。・・・

 (注52)ピアズ・クラブ<(Peers’Club)>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
 「帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策<の初手であったところの、18>74年創立の華族会館(当初は当時の全華族427家中の約4分の1が参加。1876年開館)は,華族組織化の第一歩であった。・・・東京都千代田区永田町に建てられ、・・・華族の集会場として用いられ<、>・・・貴族院の伯・子・男爵議員の選挙会場としても用いられた。分館が京都(現在の同志社大学構内)にあった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E6%97%8F%E4%BC%9A%E9%A4%A8-463134

⇒「1869年(明治2年)に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家。1874年(明治7年)1月に内務省が発表した資料によると華族は2891人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
であって、数の上でも、旧堂上家より旧大名家の方が2倍であったことからも、この事業が、岩倉だけではなく、いや、それ以上に、木戸の事業でもあった、ことを推察させます。
 蛇足ながら、コトバンクの説明はおかしい。
 華族会館は、建物ではなく、イギリス流社交クラブだからです。(太田)

 岩倉は、1875(明治8)年10月、天皇の華族会館への行幸と直後の下賜を実現し、華族の求心力を高め、君主国における貴族の枢要な役割の自覚をうながしていった。

⇒そのコインの半面として、天皇と華族、就中大名家出身華族との距離を縮め、天皇が彼らの姿に倣って自らを律するようになることを期待したのでしょうね。
 結果的には、それも功を奏しなかったようですが・・。(太田)

 さらに1877(明治10)年には、華族の経済的基盤の保護と鉄道建設資金の確保を意図して、秩禄処分でえた金禄公債を原資に、華族の銀行である十五銀行<(注53)>を設立した。・・・

 (注53)「岩倉具視の呼びかけにより、徳川慶勝・山内豊範・黒田長知・池田章政・藤堂高潔・松平茂昭・南部利恭・吉川経健ら華族が発起人となり、秩禄処分で得た金禄公債を原資に[当時最大の国立銀行<として>]設立。頭取に毛利元徳が就任。有力華族の出資により[第十五国立銀行の改組によって]成立した銀行なので、世上「華族銀行」と呼ばれた。また、宮内省(現在の宮内庁)本金庫(御用銀行)でもあり、いずれにしても世間の信用は高かった。日本経済振興のため、同行並びに出資者である多くの華族は鉄道事業に着目。日本鉄道株式会社が同行をバックに設立され、開業した。当時148あった国立銀行の総資本額の47.3%に相当する規模であった。・・・
[97年国立銀行としての営業期限満期により十五銀行に改組,普通銀行となった。]・・・
 1927年(昭和2年)4月21日 – 昭和金融恐慌により、取り付け騒ぎが発生して休業。経営破綻し、事実上倒産する。武家華族は旧家臣たちの情報網を使って倒産前に財産を他へ移したが、公家華族は倒産するまで何も知らず、大損害を受けた。代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上。・・・
 1944年、帝国銀行に吸収合併された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%8A%80%E8%A1%8C
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%8A%80%E8%A1%8C-76955 ([]内)
 「当時の大蔵少輔(おおくらしょうゆうまたはおおくらしょう)・伊藤博文のもとで制度が創られた。「国立銀行」とは<米国>のnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳であり、「国法によって立てられた銀行」という意味である。したがって民間資本が法律に基づいて設立して経営したものであり、国が設立して経営した銀行ではない。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一・第二・第四・第五の4行が設立された。
 1876年(明治9年)の国立銀行条例の改正で、不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする事も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は下りなかった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C_(%E6%98%8E%E6%B2%BB)

⇒どうせこれも、この銀行が設立された1877年に亡くなった木戸孝允が、生前企画し根回ししたものを華族会館の時と同様、宮中でパートナー関係にあった岩国が形の上で引き継いだというだけではないでしょうか。
 維新の三傑と言っても、島津斉彬に引き立てられた西郷隆盛と大久保利通は、島津斉彬亡き後も、その実績と島津斉彬の残した島津斉彬コンセンサスを引っ提げて行動しただけだったのに対し、(西郷や大久保と違って、医者の家に生まれて武士になったというハンデがあったにもかかわらず、)木戸は、ほぼ独力で、ほぼ同コンセンサスに近い国家戦略を構築した上、長州藩政を牛耳るに至った傑出した人物である、というのが私の評価であり、私のこの評価については、維新以前の時点で「維新の三傑の中で、木戸のみが英語で外国人と会話ができた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
という、桂の欧米知識吸収に係る意欲と能力の高さだけからでも納得していただけるのではないでしょうか。(太田)
 
 岩倉は、将来、華族が欧州の貴族のように上院の主要な構成員となり、君主国の社会秩序を保ち、急進主義の防波堤となることを渇望したのである。」(79)

(続く)