太田述正コラム#12614(2022.3.7)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その30)>(2022.5.30公開)

 「西南戦争後、岩倉の存在感がふたたび浮上する。
 1877(明治10)年から78年にかけて、いわゆる維新の三傑があいついで他界するという出来事が生じたのである。・・・」(80)

⇒いやなんの、その西南戦争を陸軍卿兼任のまま、参軍(注54)(現場総指揮官)として戦い勝利したところの、長州藩閥にして隠れ薩摩藩閥の山縣有朋が、事実上の政府最高首脳(島津斉彬コンセンサス信奉者達の総帥)になっており、引き続き、岩倉は、彼らの便利屋として、その最晩年を送ることになった、ということでしょう。

 (注54)「政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。
 また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村を加えて薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。山縣有朋もかつて西郷の元で御親兵・陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では薩摩閥の大山巌に協力するなど、薩摩閥内部の西郷vs大久保の争いに長州閥が便乗する構図となっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
 「参軍<は、>・・・征討総督の本部にあって、その軍事に参加し計画を立案した職。参謀にあたる。明治元年(一八六八)に制定。 ※東京日日新聞‐明治一〇年(1877)二月二七日「陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義の両君は参軍に任ぜられ」」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E8%BB%8D-2043990
 川村純義(すみよし。1836~1904)は、「川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の姉は西郷隆盛の母(政佐)であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9

 なお、内戦であって圧倒的に陸軍の役割が大きい西南戦争における、「注54」に出て来るところの、参軍たる陸軍の山縣と海軍の川村・・川村は、西郷との縁戚である(上出)ことも勘案して起用されたのでしょう・・の並列的起用は、(川村の方が山縣よりも年上ですが、)見かけだけのことであり、かつまた、川村が元薩摩藩士であったことに加え、山縣も、何度も申し上げているように元隠れ薩摩藩士なのであって、要は、薩摩藩の不平分子達を薩摩藩関係者でもって叩き潰したのが西南戦争だった、ということです。
 なお、山縣の隠れ薩摩藩士度の程度は、「西南戦争では、当初大久保など政府中枢は西郷が加担することはないと考えていたが、山縣は西郷が騒動に与する考えはなくとも、情誼において私学校党の徒が必ず担ぎ出すと見ていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
といった具合に、1860年の入薩以来と私が見ているところの山縣の西郷との付き合いが、これまた私見では、山縣の方が大久保よりもむしろ濃厚であった(注55)と考えないと、西郷に係るこのような大久保を超える的確な情勢判断など下せなかったはずだ、ということからも推し量れるのではないでしょうか。(太田)

 (注55)「山縣有朋<は、>・・・1860年・・・には薩摩藩の動向を探るため、書状の届け役として薩摩に潜入している<ところ、>・・・1866年<には、>・・・京都で・・・薩摩藩の倒幕派である西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、・・・1868年<の>・・・鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊本隊にも出陣の命令が下り、山縣は・・・3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得し<、>・・・戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では・・・越後平定という戦果は挙げられたが、薩長兵間の対立が続き、特に長州藩兵の黒田参謀への不満は高まる一方であった・・・ため山縣は一時参謀を辞職したが、改めて参謀に任ぜられた<ものの、>薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった<ところ、>この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山縣が薩長に気配りしたことで解決し<、>・・・明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、・・・翌明治3年(1870年)に<米国>経由で8月2日に横浜港に到着した。」(上掲)

(続く)