太田述正コラム#12616(2022.3.8)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その31)>(2022.5.31公開)

 「政府内で最初に声をあげたのは、侍補たちだった。・・・
 まず天皇に対して政府から独立して親政を開始することを要請した。
 つぎに内閣に対しては、「有司専制」批判を緩和するため、天皇のブレーンとして侍補を政務に関与させるように求めた。・・・
 
 (注56)「有司専制(ゆうしせんせい)は、明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていると批判した言葉。学問的には1873年(明治6年)に起こった明治六年政変後の、大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期を指す。また、これを板垣退助などが批判した。
 1873年(明治6年)、明治政府では岩倉使節団などの洋行派と、西郷隆盛ら国内残留派の路線対立が激しくなっていた。
 10月に大久保ら洋行派が勝利し、西郷や板垣退助らを下野に追い込んだ。
 この年の11月に内務省が設置され、大久保が参議兼任のまま内務卿となったが、この時期に有司専制が確立されたという見解が一般的となっている。
 以降、参議による各省の卿兼任が一般的となり、各省は参議による操作を受けることとなった。
 これに対し、1874年(明治7年)に板垣退助・後藤象二郎らによって政府へ出された『民選議院設立建白書』の中にある「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラス下人民ニ在ラス、而独有司ニ帰ス」の言に由来しており、「有司」とは政府中枢を指して議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状は、国民の「輿論公議」を重んじるとした『五箇条の御誓文』の精神に反すると痛烈に批判し、以後自由民権運動における政府批判と議会設置を求めるスローガンとして用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%8F%B8%E5%B0%82%E5%88%B6

⇒「注56」から、『五箇条の御誓文』こそ、日本における最初の近代憲法であり、以後、明治憲法、現行憲法、と続くけれど、実際、議会が開設される運びになったのですから、この最初の近代憲法だけは規範性がそれなりにあった、ということになりそうです。
 なお、侍補達による「有司専制」批判は、単に、身の程知らずであるとの自覚がない自分達による権力奪取を計った(武力を用いざる)ミニ・クーデタの試みであって、当然のことながら、失敗に終わった、というのが私の見方です。(太田)

 注目すべきは、「天皇親政」運動が本格化する過程で、天皇も政治に積極的になり、しだいに宮中が内閣とは相対的に自立した存在になっていったことである。・・・
 天皇の政治的立場は、岩倉や木戸および儒学者の元田らの薫陶を受けたこともあって、基本的には保守的な気質の漸進論者であった。
 政府の方針を全面的に否定するつもりはなかったが、少し距離をおいて、日本の国情や伝統を重視する立場から、性急な西洋化には批判的な意見をもっていた。・・・
 岩倉は、・・・内閣が政策決定の中心であること自体を変えるつもりはなかった。
 それゆえ岩倉は、伊藤とともに、「宮中府中の別」の原則を押し立て、天皇と内閣との一体化を推し進める一方、侍補の政務関与を拒否するという方針のもとに、1879年10月、侍補を廃止したのである。・・・」(81、83、85)

⇒大久保暗殺後のこの頃からは、当時参議だった山縣有朋こそ、日本政府の最高権力者であり続けた、と私は見ているわけですが、侍補の廃止を断行したのは、従って、山縣だったということになります。
 その「山縣は1879年から翌年にかけて将校十余名と桂<太郎>を駐在武官や語学研究生として清へ派遣し、兵役改革を調査をさせ<、>・・・その報告を受け、1880年(明治13年)11月30日 天皇に「進隣邦兵備略表」を上奏」しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
 これは、そう遠くない時期に日清戦争を決行する、ことを念頭に、天皇に日清軍事バランスの御進講を行い、天皇に、外交大権と統帥大権(だけ)については直接行使者である、ということを自覚させ、軍事素養教育を施し、そのことを通じて、天皇を元田ら侍補達の考え方のマインドコントロールから脱却させることが狙いだったのでしょう。
 結局、この山縣の努力も水泡に帰すことになるのですが・・。
 それにしても、元田ら愚昧な人々を侍補に任じてしまった、(既に亡き人になっていた)大久保利通、の(西郷隆盛と甲乙つけ難い)見識のうすっぺらさが改めて分かろうというものです。(太田)

(続く)