太田述正コラム#12628(2022.3.14)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その37)>(2022.6.6公開)

⇒英語ウィキペディアでは、シュタインは、経済学者、社会学者、行政学(public administration)者、とだけされていて、当時、ウィーン大学の経済学(Political economics)の教授をしており、
https://en.wikipedia.org/wiki/Lorenz_von_Stein
法学者ではないことに奇異な感を受けるところ、シュタインは伊藤と井上らがまず訪問した、ベルリン大学のグナイスト(注94)(国法学者)が紹介したのでしょうが、伊藤らが、既に日本の国制は君主主権、という方針であったことを知ったグナイストが、シュタインから広義の行政制度に関する話を聞くのが伊藤らによる具体的な条文起草の参考になると思ったのではないでしょうか。

 (注94)1816~1895年。「プロイセン時代のドイツの法学者(国法学)で[政治学者にして]政治家。・・・
 弟子<に、>アルベルト・モッセ<や>・・・マックス・ヴェーバー<ら。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88
 ’He was a great admirer of the English constitution<.>・・・He was proud of being a Junker, and throughout his writings, despite their liberal tendencies, may be perceived the loyalty and affection with which he clung to monarchical institutions.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_von_Gneist ([]内)

 だから、(井上がシュタインとの雑談あたりからヒントを得てシュタインの社会学者としての(?)論文を持ち帰って翻訳して山縣に見せたと想像されますが、)シュタインから最も得るところがあったのは、秀吉流日蓮主義をカモフラージュするのに役に立つところの、主権線・利益線、なる概念の存在を知った山縣有朋だったのかもしれませんね。(太田)

 「結局、シュタイン招聘自体は、高齢を理由としたシュタインの辞退によって実現しなかったが、国史編纂局<(注65)>は、建議どおり1883年4月、宮内省に設立された。

 (注65)「明治政府の修史事業」のウィキペディアには、「1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。またこの際、『大日本史』(神武天皇から南北朝統一までを対象とする)を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。

⇒何度も記しているように、維新推進中枢は秀吉流日蓮主義者達であるわけで、そうである以上は、『大日本史』及び同史観が採用されたのは当然だ。(太田)

 この修史事業に携わっていたのは前記「修史の詔」が漢文による正史編纂を標榜していたことから分かるように基本的に漢学者であり、1875年以降修史局の幹部であった重野安繹は、1880年『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を論ず」を発表し、清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張していた。しかしこのような方法論をめぐっては修史館内部にも意見の相違があり、1881年の機構改革に際し川田剛・依田学海が修史館を去った背景には、彼らと重野・久米邦武・星野恒との間に編纂方針をめぐる対立があったという見方もある。
 以後、修史事業は重野・久米・星野を中心に行われ、1882年には漢文体編年修史『大日本編年史』の編纂事業が開始された。重野らは『太平記』の史料的価値の否定、ひいては『太平記』に依拠する『大日本史』の批判を行うようになった(『太平記』で活躍する忠臣・児島高徳の実在を否定したことで、重野は「抹殺博士」と揶揄された)。その急進的な主張は、修史事業において非主流派の位置に追いやられた国学系・水戸学系歴史家(多くは皇典講究所に拠っていた)との対立を激化させることとなった(これが後記の久米の筆禍事件に発展した)。この間修史館はいくつかの改編を経て帝国大学(東京帝国大学の前身)に移管、最終的には同大学の史誌編纂掛となり、また1889年には修史事業の柱の1つと目されていた『復古記』(王政復古関係史料集)が完成した。
 1892年、論文「神道ハ祭天ノ古俗」の筆禍事件(久米邦武筆禍事件)により久米が帝大文科大学教授を非職になると、翌1893年、井上毅文相は『大日本編年史』編纂事業の中止と史誌編纂掛の廃止、さらに重野の同掛編纂委員長嘱託罷免に踏み切った(同年、重野は帝大教授も辞職した)。これ以降、国家機関による史書編纂は正史の編纂ではなく史料編纂の形で行われることとなり、事件後、帝大に設置された史料編纂掛(1929年:史料編纂所に改称)による『大日本史料』の刊行を中心的な事業とした。」とある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E4%BF%AE%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E6%A5%AD
が、この中には(井上毅こそ登場するが、)坂本が書いているような話は出てこない。

 岩倉は、ここでも総裁心得となり、思想的な後継者と期待する井上毅に、後事を託す思いで調査の統括を委ねた。」(98)

⇒南北朝時代より後の公定日本史書を編纂することは、文字通り、秀吉流日蓮主義の手の内を全世界に向けて明かしかねない話であり、そんな話が岩倉具視の死後、自然消滅するに至ったのは当然でしょう。
 このように、岩倉は、秀吉流日蓮主義者達の代弁者としての諸提言こそ「尊重」されたけれど、必ずしもそうではなかった諸提言については、無視された、というわけです。(太田)

(完)