太田述正コラム#12634(2022.3.17)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その3)>(2022.6.9公開)

 なお、阿部のイニシアティヴとはいえ、別段それは褒められるべきことでもなんでもなく、既に将軍徳川家斉の時に、事実上『大日本史』史観は日本の公定史観になっていた・・その家斉の時代に阿部は寺社奉行として頭角を現しています・・以上、内政・外政の重要事項については幕府が独断で決めず朝廷に伺いを立てるのは当然であった(コラム#12464)ところ、それを、当時の、将軍の家斉や家慶、そして阿部らの幕閣、は、責任が分散されたと受け止め、自分達の責任逃れになると喜んだ、と私は勘繰るに至っており、有力諸侯への諮問も、同じく、このような退嬰的な理由から行われた可能性があるのではないでしょうか。(太田)

 「ビッドルの浦賀来航に続いて、フランスの艦船が長崎に来航した。
 こうした情報は京都御所にも伝えられた。
 <1846>年8月29日、外国船の来航に不安を感じた孝明天皇は、幕府に御沙汰書(天皇の指示・命令)を下し、近年外国船が来航するようになったという噂を耳にするが、「神州」<(注5)>に疵がつかないよう適切な対応を取ることを求めた。

 (注5)「神国思想<は、>・・・もとは農耕儀礼などと結びついた素朴な信仰に根ざすものであったが,政治的統一が進み,他国・他民族への意識が生まれてくると,日本を他国よりもすぐれた国とする主張の拠り所となった。神国・神州といったことばは,直接排外的な思想に結びつくというものではなかったが,対外緊張が強まったときには,つねに日本中心の排外的な主張を支えるものとなった。《日本書紀》の神功皇后紀に見える神国の語は,朝鮮半島に対する日本人の意識をあらわしており,神功皇后紀の記述は後世まで繰り返し持ち出された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E5%B7%9E-537715

⇒日本人は基本的に人間主義者であるのに対し、外国の人々の大部分はそうではなさそうだ、また、日本では為政者が仁政を心がけるのは当然だと考えられているのに対し、外国の為政者に関しては当然ではなさそうだ、といった認識が、日本神国意識を醸成させた、ということでしょう。(太田)

 また・・・1807<年>にロシア船が来航した際には幕府は朝廷に報告したが、今後もそのようにしてもらえると安心するとつけ加えた。
 これを受けて幕府は、10月3日に禁裏附(づき)(旗本2人が就任し、朝廷を監視した)明楽茂正(あけらしげまさ)を通してビッドル来航に関する詳細を天皇に伝えさせている。
 以後も幕府は、外国船が来航すると、その情報を天皇に伝えるようになる。・・・
 <ペリー来航を受け、>関白鷹司政通は、アメリカ側の要求への対応について、・・・議奏と武家伝奏<の>・・・両役に自身の開国論を示したうえで意見を求めた。
 ・・・烏丸光政<(注6)>(からすまるみつまさ)は、長崎を窓口にアメリカと交易を始めるという鷹司の方針を快く思わなかった。

 (注6)?~1863年。極官は権大納言。
https://www.weblio.jp/content/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E6%94%BF
 参議や初代東京府知事等を務めた烏丸光徳(みつえ。1832~1873年)の父。
 女子の正が三条実萬の養女となって山内豊信夫人になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BE%B3
 「烏丸家(からすまるけ)は、藤原北家日野氏流の公家・華族である。公家としての家格は名家。華族としての家格は伯爵家。家業は歌道。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6

 彼はそれ以前に武家伝奏三条実<萬>を訪れ、鷹司とは異なる意見を共有していた。
 三条は、自らの意見を鷹司政通の息子である内大臣鷹司輔煕に意見してもらおうとする。
 三条は鷹司輔煕の同意を得たものの、父政通には三条から意見を出してほしいと申し渡された。
 7月21日に鷹司政通は、両役に再び意見を求めながら「現今の武士は怠慢だから外国と戦争しても勝算がないため、ここは交易によって利益を図ったほうがよい」と説明した。
 それを聞いた三条は、持論を主張するのを諦めた。」(18、20~21)

⇒三条実萬の正室は土佐藩10代藩主山内豊策の女子であり、女子の一人が同14代藩主山内豊惇婚約者になっており、更に、烏丸光政の女史を養子にした上で同15代藩主山内豊信の正室に送り込んでいる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87
ことから、三条と烏丸は、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった」山内豊信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82
中の、身内相手の「酔えば勤皇」の方から、(それがたとえ無理筋であったとしても)孝明天皇の意向に忠実であれ、とかねがねから言われていたことに忠実に従った、というのが私の取敢えずの見立てです。(太田)

(続く)