太田述正コラム#12646(2022.3.23)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その9)>(2022.6.15公開)

 「天皇は、「和宮・・・<を>外国人が往来する地に降嫁させることはできない。
 すでに三社に攘夷を祈願していることもあり、せめて嘉永初年の状況に戻してほしい」・・・と、降嫁についての条件を提示した。・・・
 幕府の意を受けた酒井は、<1860年>7月29日に長文の奉答書を朝廷に提出した。
 そこでは、「通商条約の締結を余儀なくされたが、誰もがそれを快くは思っていない。
 したがって武備充実につとめ、7、8年から10年の間に外交交渉によって和親条約まで引き戻すか、または戦争を行う」・・・と、期限つきで攘夷の実行を約束したのである。
 この約束は和宮降嫁を実現させるためのものであったが、後になって幕府の首を絞めることになる。・・・
 <結局、>和宮<は>降嫁を承諾した<が、>・・・一明後年の先帝17回忌の御陵参拝を終えてから出発し、先帝の御回年ごとに御陵参拝として上京すること、二、入輿(にゅうよ)後も和宮の生活は御所風を遵守すること、三、江戸城での生活に慣れるまで女官1人を御側附とし、下級女官である三仲間(みなかま)を随従させること、四、御用があるときには橋本実麗を江戸に下向させること、五、御用があるときには上臈または年寄を使者として上京させること、という五ヵ条の条件をつけた。
 これを受けて天皇は、8月18日に関白九条尚忠に文書を下し、幕府に降嫁許可の伝達とともに条件を履行するよう求めた。
 その条件は、一、和宮が望む五ヵ条の条件を遵守すること、二、破約攘夷の誓約は老中が替わっても違背しないこと、三、和宮降嫁は国家のため朝幕間で熟談して行ったものであり、徳川家の安泰のため幕府が朝廷に強制したものではないことを天下に周知させること、など6ヵ条であった。・・・」(67~69)

⇒孝明天皇・和宮なる兄妹は、揃いも揃って、自分達を取り巻く内外情勢を全く分かっていなかったという印象を受けます。
 その責はもっぱら孝明天皇が負わなければならないわけですが、孝明天皇が立太子した時に侍講になった中沼了三に問題があったことを示唆したところ(コラム#12542)、もともと傳役(養育係)は近衛忠煕だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
のですから、勘繰って、忠煕が、佐幕・攘夷論者を探し回り、彼のお眼鏡にかなったのが、薩摩藩士の門人が多かったところの、中沼了三、だったのではなかったか、と思いたくなります。
 しかし、この中沼は、「浅見絅斎の学統である鈴木遺音(恕平)の門下として儒学を学んだ。・・・1843年・・・、鈴木遺音の没後に・・・、京都で開塾」した人物であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89
ところ、この浅見絅斎は、「山崎闇斎に学び崎門 (きもん) 三傑の一人。のち闇斎の神道説に反対し破門されたが,朱子学の立場から大義名分論を説き,赤穂四十七士を義士とし,楠木正成を忠臣とし,尊王論を鼓吹し」、
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E-14533
「その尊王斥覇論は徹底しており、関東の地に立ち入ることはなく、終生、諸侯の招聘を拒み在野にあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E
というのですから、中沼も佐幕であった可能性は小さく、どうして孝明天皇が佐幕になったのか、不思議です。
 (鈴木遺音については、調べがつきませんでした。
 なお、孝明天皇の儲君御乳人(乳母)であった押小路甫子の生家の壬生家にも養家の押小路家にも、特段佐幕的傾向は見られません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E7%94%AB%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6 )
 私の取敢えずの仮説は、孝明天皇(1831~1867年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
の1846年の即位時に京都所司代であった酒井忠義(1813~1873年。京都所司代:1843~1850年。1858~1862年)(注15)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E7%BE%A9_(%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%97%A9%E4%B8%BB)
に天皇が好印象を抱き、酒井を通じて好意的な徳川幕府観を形成した、というものです。

 (注15)「酒井氏<は、>・・・松平氏、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族。・・・江戸時代の徳川幕府では、大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F

 この酒井が和宮降嫁騒動の時、二度目の所司代を務めていたこともあり、孝明天皇としても、何とか酒井の顔を立ててやりたいと思ったのではないか、と。(太田)

(続く)