太田述正コラム#12648(2022.3.24)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その10)>(2022.6.16公開)

 「和宮降嫁の時期をめぐり朝幕間でもめているなか、京都に公武合体運動を行う雄藩があらわれる。

⇒松茸じゃあるまいし、歴史において、誰かにとって都合のいいことがタイミングよく勝手に「あらわれる」ことなどまずないのであって、その誰かがあらわれさせたのではないか、と、疑うべきなのです。(太田)

 それが長州藩主毛利敬親(たかちか)の命を受けて上京した長州藩直目付長井雅樂(うた)である。
 長井の「航海遠略策」は、攘夷が難しいことを認め、幕府主導のもとで大船をつくり、海外に雄飛するという開国論であった。・・・
 1861<年>5月12日に入京した長井雅樂は、議奏正親町三条実愛と面会した・・・。

⇒どういう縁があってそうなっていたたのか、調べがつきませんでしたが、正親町三条実愛の女子が毛利敬親の養女を経て長州藩の支藩の長府藩の最後の藩主となる毛利元敏正の正室になっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E6%95%8F
ことから、長井は、実愛のところに赴いたわけです。(太田)

 <彼は、>天皇に長井の意見を取り次ぎ、天皇の同意を得た。・・・

⇒近衛家は、長州藩7代藩主の毛利重就(しげなり。1725~1789年)の時に、(当時、近衛家の別動隊ではなくなっていたところの、鷹司家が重就の女子を正室にしていたところ、)重就の嫡男の毛利親著(ちかあき。1766~1800年。その子が11代藩主の斉元になっている)の女子の多鶴(1767~1774年)を近衛経煕の正室に迎えるべく婚約まで漕ぎつけていたけれど、輿入れ前に多鶴が死去している、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E5%B0%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%A6%AA%E8%91%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%96%89%E5%85%83
http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/warrior/edo/mouri.html ←師久は経煕の誤り。
ということは、近衛家は毛利家にも食指を伸ばしていたわけであるところ、この斉元の子が長州藩13代藩主の敬親であることから、近衛経煕の子の基前の子の忠煕が、恐らくは(その後近衛家の別動隊に復帰していたところの、毛利家の縁戚家たる)鷹司家を通じて、幕府自身が公武合体論の理論化を怠っていることに業を煮やして、ということだったのかもしれませんが、(一心同体であるところの島津家にやらせても、近衛家作だと思われることが必至なので、)毛利敬親に、(近衛家側から骨子を示した上で、)その理論化を依頼した、と、私は見るに至っています。(太田)

 毛利敬親とともに長井雅樂は・・・1861<年>11月13日に江戸に着き、老中久世広周と安藤信正から正式に公武間の周旋依頼を受けた。・・・
 <今度は、1862年>4月13日、島津久光<が上京>した。・・・
 4月16日に久光は、近衛邸で近衛忠房、中山忠能、正親町三条実愛、久世通煕に建白書を提出した。
 久光の主要な建白内容は、安政の大獄で処分を受けた、公家側では近衛忠煕、青蓮院宮、鷹司政通・輔煕、武家側では一橋慶喜、松平慶永などを赦免にすること、そのうち近衛を関白、一橋を将軍後見職、松平を大老に就任させること、老中久世広周を早急に上京するよう命じ、幕府に右の方針を実行させることである。・・・

⇒久光の上京とこの建白書の提出もまた、全て近衛忠煕が(薩摩藩内の秀吉流日蓮主義信奉者達と提携して行ったところの)自作自演であった、というのが私の見方です。
 この建白書の内容は、概ね実現されることになります。
 その最大の目的は、近衛家を含む五摂関家が全て公然と活動ができるようにして、近衛家が倒幕・維新の秘密司令本部機能を十全な本来の形で発揮できるようにすることと、幕府を内部から崩壊に導くことが隠された狙いであるところの、秀吉流日蓮主義者たる徳川慶喜と松平慶永の2人、を超高級工作員として幕府に首脳クラスに就任させるべく送り込むこと、です。(太田)

 4月23日、・・・寺田屋事件が発生する。・・・
 久光の上京前から京都周辺に参集していた尊攘派にとって、久光の鎮撫行為は期待を裏切るものであったことはいうまでもない。
 その一方で、過激な攘夷運動を嫌う天皇や公家にとって久光への期待は高まった。
 また襲撃対象と目された京都所司代は、京都の治安維持を図る組織であっただけに、面目丸つぶれである。」(78~79、81)

⇒あたかも幕府の手先化したかのような、近衛家/島津氏による尊攘派の弾圧は、建白書の内容が概ね実行されるまでの間に尊攘派に暴発されては、全ての企みが水泡に帰してしまうからでしょう。
 もとより、尊攘派を根こそぎにするつもりなど毛頭ないのであり、彼らには、近い将来、大暴れして幕府を揺さぶる、という重要かつ不可欠な役割を果たしてもらうつもりだったところ、それもその通りになる、と見るわけです。(太田)

(続く)