太田述正コラム#12682(2022.4.10)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その24)>(2022.7.3公開)

 「・・・<1864>年3月・・・には慶喜が将軍後見職を辞職し、禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮に就いた。・・・
 また4月には桑名藩主で容保の弟である松平定敬(さだあき)が京都所司代<(注36)>に就任する。

 (注36)鎌倉幕府におかれた六波羅探題や室町幕府におかれた所司代(侍所麾下、京都の治安担当)にならって・・・江戸幕府により・・・設置されたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%89%80%E5%8F%B8%E4%BB%A3

 <1862>年から容保は京都守護職<(注37)>をつとめていた。

 (注37)「薩摩藩主の父島津久光が主導した文久の改革の一環として設けられた新職である。・・・
 会津藩主・松平容保が<1862>年閏8月1日・・・に就任。本陣を金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)に置いた。原則的に藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。・・・
 京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。しかしながら所司代・町奉行・会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かり(非正規部隊)として新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%81%B7

 ここに一橋、桑名藩、会津藩の「一会桑」と呼ばれる三者がそろうこととなった。」(158)

⇒家近良樹『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』に対するあるレビューは、「明治維新は「薩長連合による倒幕」の結果という、正統的とされてきた歴史観に真っ向から異議を唱え、論争を喚起する著。当時の政治権力が、江戸における「徳川幕府」と、それとは相対的に独立した、京都における「権力」=一橋慶喜、会津藩、桑名藩=いわゆる一会桑政権とに分裂していたと説く。そして、薩長が目指したものはこの後者「一会桑政権」からの権力奪取であり、それを倒幕=打倒「江戸幕府」と単純に理解すべきではないという論旨は明快である。たとえば、同政権は孝明天皇とは不思議なほど親密な関係にあったこと。そして長州の会津藩に対する怨念、敵愾心は蛤御門の変、さらには京都での会津藩(=京都所司代)による苛烈な勤皇勢力への弾圧によって頂点に達していた、などに着目する。なぜ、会津藩が長州を中心とする官軍にあれほど徹底的に攻撃されたのか。その一方で会津藩の側に「会津の殿様は孝明天皇にあれだけ忠義を尽くし、天皇からも厚い信頼を寄せられていたのに」それを「朝敵」(=天皇に敵対する勢力)と断じたのは長州の政治的「欺瞞」とする見方がある。それらを理解するためには、この一会桑政権という不思議な権力の成立と崩壊をしっかり押さえておく必要があることがよく判る。後世の歴史家はしばしば、歴史の結果からみて合理的「原因」を推測するという手順を踏むが、明治維新に至る権力闘争の過程は意図と結果がストレートに結びつくほど単純ではない。ある政治的「意図」が思わぬ結果を生む、そういうプロセスの複合した最後の結末がたまたま「明治維新」に結実したというほうが正解に近い。それにしても一会桑政権の立役者、慶喜とはなんとも不思議な人物。」
https://honto.jp/netstore/pd-review_0602120349.html
としているところ、最後の「明治維新に至る」以下を、「明治維新に至る権力闘争の過程は、ある政治的「意図」と「結果」がストレートに結びついた単純なケースである。一会桑政権の立役者、慶喜は、この「政治的「意図」」・・実は、その基本は近衛忠煕と島津斉彬が策定したもの・・に忠実に従っていることを秘匿しつつ、その「意図」を踏まえ、忠煕と薩摩藩を牛耳っていた島津斉彬コンセンサス信奉者達が描き、必要に応じ微修正を施し続けたシナリオに基づき、「意図」がもたらそうとした「結果」を見事にもたらされることに全面的に協力したところの、名演技者であった」へと変更すれば、私の慶喜観になります。
 で、この一会桑政権樹立は、忠煕らが筆を加えた最新シナリオに基づき、一体化した五摂関家の頭目たる忠煕が、そのために時の関白に就けたところの、慶喜の出身の水戸徳川家と二代にわたる一体化を果たしていた二条家、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E4%BF%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC
の二条斉敬に指示して慶喜に伝達させて実現したものであった、と見るわけです。
 その目的は、残存佐幕勢力・・とっくの昔に水戸徳川家と尾張徳川家は倒幕勢力に与していた・・を、京都に幕府の出先的なものを設置して倒幕勢力を挑発させてその主たる志向先を本拠の方以上に出先の方に向けさせるよう誘導する形で二分割させ、倒幕勢力に対する残存佐幕勢力の総力を挙げての同時反撃を逃れるところにあった、と。
 だからこそ、慶喜を将軍と一体である法人格の将軍後見職から解職した上で、将軍とは別の法人格である禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮なる職(政権)をでっちあげてそれに就かせ、かつまた、この政権の手足として、慶喜のことが殆ど分かっていないトロイ容保と、その容保の言いなりになると見越されていたと思われる、(容保の異母弟の)松平定敬、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA
を指定させた、と。
 興味深いのは、当時、尾張藩の藩主だったのは、この兄弟の異母兄の徳川茂徳・・後に慶喜の後を襲って一橋家当主になる・・で、尾張藩の実権を握っていたのは、そのまた異母兄で水戸徳川家出身の正室の子の徳川慶勝・・茂徳の養親・・だったことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E5%BE%B3 と上掲

(続く)