太田述正コラム#12684(2022.4.11)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その25)>(2022.7.4公開)

 「・・・1864<年>・・・4月20日<の>・・・勅語<では、>・・・幕府に一切の政務を委任し、朝廷から諸藩に命令することはないと明言した。・・・
 4月21日に中川宮朝彦親王は国事扶助の辞表を提出し、25日には近衛忠煕も国事御用掛の辞表を提出した。
 27日に天皇は中川宮の辞職は許さなかったが、近衛の辞職は許している。
 25日の朝議では、横浜鎖港だけではなく、函館と長崎の鎖港を幕府に命じるよう方針を変えた。
 これを知った一橋慶喜は参内し、そのように変更するのであれば大政委任の意味はなく、将軍職は辞職、慶喜も禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を辞職するしかない。
 外国人が摂海に接近したら、公家たちで応対してほしいと言い放った。・・・
 <結局、>4月29日に将軍家茂が参内したときには、当初の予定どおり横浜鎖<港>を命じる御沙汰が出されている。・・・

⇒近衛忠煕らは、三港閉鎖の御沙汰が発出されるはずが、時の関白二条斉敬らによって潰された、という話がリークされて、君側の奸を取り除け、という声が攘夷派の中で高まることを目論み、どちらの側に荷担した形になっても拙いことから、このタイミングで国事御用掛を辞任したのでしょう。
 もとより、それは、斉敬も、そして慶喜も、承知の上の芝居だったはずです。(太田)

 すでに4月29日から、関白二条・議奏・武家伝奏の邸宅には幕府の役人が警護に出ていた。
 近衛忠煕と忠房の父子は、薩摩藩に京都守衛人数から警護を出すよう依頼している。

⇒こういった小さな挿話からも、近衛家と薩摩藩がいかに一体であったかが分かろうというものです。(太田)

 5月9日には<武家伝奏の>野宮定功から一橋慶喜に警備強化を命じる天皇の文書が渡された。
 これにより、二条・中川宮・近衛父子・徳大寺公純・山階宮晃親王に各20人の警護がつけられている。
 安政の大獄に協力したことで殺された九条家の島田左近や、朔平門外で姉小路公知が暗殺された記憶は新しい。
 その恐怖がよみがえったのである。・・・
 6月・・・25日、・・・大納言一条実良<以下、>・・・一条家の門流38人は関白二条斉敬に・・・幕府に横浜鎖港の実行を督促する・・・建白書を提出している・・・。

⇒幕末期に近衛忠煕から関白指名がなかった一条家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 前掲
に、忠煕が、与えた唯一の晴の出番がこれだったのでしょうね。(太田)

 建白書のなかでは、無謀な攘夷は避けるべきだが、横浜鎖港を実現し、天皇を慰め、庶民を安堵させてほしいという。
 このまま朝廷から幕府に鎖港を督促しないで時間が過ぎれば、過激な攘夷論者が憂国の念を抱いていかなる行動に出るかわからない。
 そのような危険性を警告した。・・・
 三条実美など・・・を推して攘夷実行を求めた長州藩・・・の軍勢は八幡、山崎、嵯峨に分かれて着陣した。
 この状況に対して<一会桑政権は、>長州藩を征討する構えを取る。
 しかし、薩摩藩は長州藩と会津藩の「私闘」であるとの理由で、6月24日の京都所司代からの出兵要請を断った。
 ・・・残念ながら、<長州藩>の意向を誰よりも望んでいないのが孝明天皇であった。・・・
 攘夷の手段<・・武力は用いない・・>に関する誤解こそが、長州藩および<都落ちした七卿のうち長州に留まっていた>五卿の悲劇であった。

⇒そんな「誤解」を与えてしまったのは本来は孝明天皇自身の責任ですが、「誤解」が生じるように仕組んだのは近衛忠煕らだったわけです。(太田)

 6月26日には、長州藩邸などに潜伏していた長州藩や諸藩の有志が脱走して嵯峨の天龍寺に向かった。
 翌日に長州藩は浪士鎮撫を名目として遊撃隊を嵯峨に出動させた。
 長州藩の行軍は御所を目指しているとの情報が広がり、御所九門は閉ざされて各藩兵が持ち場を警護した。・・・
 この緊急事態に京都守護職松平容保は病を押して参内したが、歩行困難を理由として御所の勝手口にある清所(せいしょ)御門から武家玄関まで「乗輿」のままで通り「武家候所」に昇殿した。・・・
 参内するときの正装である衣冠ではなく、長髪に白鉢巻、麻裃であったのもよくなかった。・・・
 結局、天皇や関白二条が不問にしたため、容保が処罰されることはなかった。
 容保に非難が集中したのは、長州藩に同情する公家が多く、同藩の寛大処分を妨げる存在と見られたことが大きい。・・・
 その点に加えて留意すべきは、いかなる非常事態であっても、公家たちが朝廷の慣習を厳守しようとしていることである。」(159~160、162~166)

⇒例えば、保元の乱や平治の乱の際、天皇の御所や院の御所も舞台にして戦いが行われましたが、その際に、武士が天皇や院を、守るためや別の場所に移すため、に御所に昇殿した際に鎧兜を脱いで衣冠に着替えた、などという話は当然伝わっていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1
 禁門の変の直前の段階なのですから、むしろ、容保は鎧兜を着て昇殿すべきところを、病のために、そうすると歩行することができないので、いつでも裃を脱いで鎧兜を身に着けて、座った状態で指揮がとれるように、裃で昇殿したのでしょう。
 下級公家達の頭の固さと底意地の悪さがよく分かる挿話ですね。(太田)

(続く)