太田述正コラム#12686(2022.4.12)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その26)>(2022.7.5公開)

 「・・・議奏正親町三条実愛は長州藩の寛大処分を望んでいたが、それが難しいからといって戦禍になることは避けたかった。
 仮に戦乱となれば長州藩は朝敵となり、宗家である三条や一族の三条西も同罪を免れない。

⇒幕末の三条家、正親町三条家、三条西家、のうち、次女が毛利敬親の養女経由で毛利元敏の正室になっていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B
その背後に宗家の三条家の関与があった可能性が大だとはいえ、処罰されるとすれば、それは三条実美であり、その累が分家の正親町三条家まで及ぶとは考えにくいですし、仮に、次女の件で及んだとしても、毛利氏と何の関係もない、(正親町三条家の分家の)三条西家まで及ぶとはさすがに考えられませんが・・。(太田)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AD%A3%E6%99%B4 ←三条季晴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%B5%B7 ←三条実起
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E4%BF%AE ←三条公修
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87 ←三条実万
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E ←三条実美
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B ←正親町三条実愛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6 ←正親町三条家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%B6 ←三条西家 (太田)

 京都に集った長州藩の軍勢は、松平容保を退けなければ天皇の真意はとおらないと主張する。
 7月6日に一橋慶喜は長州藩が退去するよう説得する方針を示すが、容保は長州征討を主張して譲らなかった。
 結論が得られないなか、7月9日に薩摩、久留米、土佐の三藩士は議奏と武家伝奏に対し、長州藩の主張を聞き入れると朝廷の権威が立たないため、京都から退去させるべきだと主張した。
 彼らは関白二条斉敬や慶喜を訪れて同様に申し入れた。」(168)

⇒一橋家は幕臣(御三卿のうちの一卿)ではあっても、禁裏御守衛総督は「朝臣的な性格を持」っている上に、「水戸藩執行部や<御家門に準ずる外様の鳥取藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E9%96%80
の>藩主・池田慶徳、<やはり御家門に準ずる外様の岡山藩(上掲)の>藩主・池田茂政(いずれも徳川斉昭の子、慶喜の兄弟)らと提携し」ていたのに対し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
松平容保は、幕臣(会津藩主)で京都守護職なる幕府の役職に就いていて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%81%B7
親藩・御家門の会津藩(注38)の武力と京都所司代の武力だけに拠っていた、ことから、いわゆる「一会桑」政権は、その制度設計上、同政権への不満は、孝明天皇-一橋慶喜、のラインではなく、本来は、その部下に過ぎないところの、松平容保-松平定敬(京都所司代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%89%80%E5%8F%B8%E4%BB%A3
のラインにもっぱら向けられるようになっていたわけです。

 (注38)「会津松平家は幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9 前掲

 近衛忠煕らの企画力というか悪知恵は相当のもの、と、言うべきでしょう。
 しかし、容保には、自分がそういう立場にあるという自覚がなかったとしか思えません。
 慶喜は、「盟友」である、尾張藩の徳川慶勝より、(恐らくは近衛忠煕と相談の上で、)彼の弟である容保がそういう人物であるとの口上を添えて、推薦を受けたと想像され、謝意を表しつつ、これまたトロイ松平慶永を丸め込んで、慶永を通じて、会津藩内の反対論に抗う形で無理やり容保を京都守護職(注39)に就けた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%81%B7
と私は見ており、「容保<が>長州征討を主張して譲らなかった」折には、慶勝と自分が見立てた通りの人物だった、と、大満足だったに違いありません。(太田)

 (注39)「<会津>藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた<が、>・・・春嶽<は>会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。・・・
 当初は京都守護職の定員は決まっておらず、島津久光も容保とともに任命された。容保は反対したが、幕府はあえて久光を任命。久光もこれを内諾していたが、京都および朝廷が尊王攘夷派に牛耳られる事態に失望し、<1863>年4月16日守護職辞退の願書を提出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%81%B7

(続く)