太田述正コラム#12706(2022.4.22)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その36)>(2022.7.15公開)

 「・・・<これが、>朝廷内では大騒動となる。・・・
 土佐藩の脱藩浪士は、幕府がパークス一行の伏見から大津への通行許可を出し<(注64)>、それに武家伝奏<1人>・・・と議奏<3人>・・・が異論を示さなかったことを批判した。・・・

 (注64)「大坂で徳川慶喜に謁見する。この時、慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛した。敦賀視察の後、大坂から海路で江戸に帰った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9

⇒外国人に対しては、慶應の改革(注65)でフランス等の協力を得る必要があることもあって、慶喜は余り演技することなく、自然体に近い接し方をしたのではないかと思われ、恐らく、苦労人であったパークス(上掲)のこの慶喜評は正しいのでしょう。

 (注65)「フランス軍事顧問団の指導の下での新制陸軍の整備、フランスの支援による横須賀製鉄所の建設などを行っ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9

 徳川斉昭や島津斉彬は、だからこそ、幕府を内部から瓦解させる役割を果たしうる人物として、そんな慶喜に白羽の矢を立てたのだ、と。
 なお、慶應の改革の目的は、最初から、幕府の資金で、日本の工業力や近代軍隊の基盤を整え、それを幕府瓦解後の新政府に引き継ぐことにあった、と私は見ています。
 実際、「横須賀製鉄所は後に日本海軍の造船施設として流用されたほか、この時期幕府陸軍の将校に取り立てられた者の中には、大鳥圭介・荒井郁之助・小菅智淵・原田一道・津田真道など、明治政府でも政治家・軍人として活躍した人材が少なからず存在する」(上掲)ところです。
 ところで、もっぱら協力を仰いだのがフランスだったのは、オランダでは力不足、米国は南北戦争が終わったばかり、なので除かれるとして、イギリスにすると、日本をのっとられかねないのに対し、フランスなら、日本をのっとろうとしても、必ずイギリスが牽制・介入して果たせないだろうと慶喜がふんだからだ、と思っています。(注66)(太田)

 (注66)「海軍が・・・1855年・・・7月に設立された長崎海軍伝習所においてオランダ海軍軍人の直接指導を受けていたのに対し、陸軍は西洋式装備は導入したものの、オランダ陸軍の操典類の翻訳に基づく訓練に留まっていた。
 ・・・1865年・・・閏5月、外国奉行柴田剛中がフランス・イギリスに派遣される。薩摩藩との関係を強めつつあったイギリスとの交渉には成功しなかったが、7月にフランスに入った柴田らはフランスとの横須賀造船所建設と軍事教練に関する交渉を行った。顧問団派遣はナポレオン3世の承認を受け・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%A1%A7%E5%95%8F%E5%9B%A3_(1867-1868)

 事態を重く見た近衛と一条は、・・・<この>4人<を>罷免<し>た。
 彼らをそのままにしておくと、刺殺されるかもしれない。
 そうした最悪の事態を避けるための措置であったといえる。
 17日には、薩摩・因幡・備前の3藩に京都市中、伏見と大津両駅警備の指令を出した。
 この措置に難色を示す徳川慶喜は、・・・1867<年>4月18日に二条邸に向かって抗議した。
 慶喜は、摂政二条斉敬に4人の復職をを要求し、・・・また相談もなく薩摩・因幡・備前の3藩に京都の警護を命じたことを批判し、これでは京都守護職や京都所司代の意味がないと述べた。・・・
 翌朝に慶喜は二条に謝罪し・・・朝廷<も>3藩に命じた京都警護の朝令を取り消した。
 <かつ>また国事御用掛近衛忠房・一条実良・九条道孝<ら>を罷免<し>、<その他4人>を差控にしている。・・・
 <更に、>摂政二条<自身>・・・も辞職を申し出<た。>・・・
 だが、早くも3日後の<1867>年4月22日には、近衛・一条・九条の3人も国事御用掛に復帰し、4月30日の朝議では摂政二条の辞職申し出も撤回された。・・・
 これ以降、・・・<件の>4人の復職を要求する慶喜と、正親町三条らの採用を画策する薩摩藩とが・・・駆け引きを繰り広げる。
 5月4日、松平邸に集まった<薩摩の>島津久光・<越前の>松平慶永・<伊予の>伊達宗城・<土佐の>山内豊信は、・・・議奏人事案について相談した。・・・
 5月7日に<は、上出4藩の実力家臣達が>協議し<た。>・・・
4侯は、5月10日に再び二条邸を訪れて人選の決定を促した。・・・
 5月23日<、今度は、>・・・約2日間にわたって・・・幕府の言い分を致し方ないとする公家と、開港<には>反対と異議を唱える公家が舌戦を繰り広げた<後、>・・・長州藩の寛大処分と兵庫開港が許可された<が、>・・・薩摩藩では、将軍が天皇に兵庫開港の許可を迫ったとの批判が起こる。」(210~214、216、221)

⇒将軍になった慶喜は、次々に、倒幕勢力がネタにできそうな、朝廷が嫌がる案件をぶちあげ、同勢力を煽ったわけです。
 5摂関家も見事にこれらのネタで足並みの不揃いを演出し、慶喜の煽りを更に増幅させて期待に応える、という、歴史の勧進帳的進行が行われた、というのが私の見方なのです。(太田)

(続く)