太田述正コラム#12722(2022.4.30)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その2)>(2022.7.23公開)

 「本書では、西園寺の生涯を概観することはしない。
 そのかわり、もっぱらこの問題、すなわち「山県・松方の死後、なぜ元老の補充がなされなかったのか」という問題を解き明かすことに集中する。
 時間的にいえば10年たらずの時期しか扱わない。

⇒永井のこの問題意識は素晴らしいけれど、既に、私見の一端をお示ししたことからお分かりのように、それは、西園寺の生涯、とりわけ、その生誕から洋行までの間を詳しく振り返ること、更には、秀吉流日蓮主義のような思想の探求・理解、なしには生産的な成果はもたらさないのです。(太田)

 原敬・・・は、まだ元老山県が健在であった1915(大正4)に元老が死没したあと、誰が天皇の相談相手となって政権の移動の処理(すなわち後継首相候補の選考)をすることになるのか、と山県に質問した。
 山県は、その場合には西園寺などに頼むことになると答えた。
 原が山県に質問したこの時点で、西園寺は「違勅」問題・・1913(大正2)年、第一次護憲運動が高まった時、大正天皇は内閣不信任案の撤回と内閣への協力を求める勅語を西園寺にあたえた。しかし、桂内閣は総辞職に追い込まれ、総辞職に追い込まれ、責任を感じた西園寺は政友会総裁を辞任し、京都に謹慎した。・・でなおも謹慎中であり、元老としての活動をいまだ始めていなかった。
 自分の死後は、より若年の西園寺に元老の仕事をさせ、従来どおり元老制度を維持・継続するというのが、山県の考えであった。・・・

⇒山縣が、本当にそこまで言ったのかどうかはともかく、私は彼は西園寺を最後の元老にするつもりだったと見ています。
 なお、戊辰戦争時点までに、近衛忠煕と大久保の間で、西園寺を忠煕の、山縣を大久保の、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達の、それぞれ、公家出身者と武家出身者の後継頭目する、あらあらの合意が形成されていた可能性が高い、とも。(太田)

 元老、内大臣、宮内大臣など天皇・摂政の側近のあいだで、「御下問範囲拡張問題」なるものがはじめて登場するのは1924(大正13)年2月末、ちょうど松方正義が最初の危篤状態に陥った時だった。
 この時、静岡県興津(おきつ)で療養中の松方を見舞った宮内大臣牧野伸顕が、同じく興津に住む西園寺を訪問し、内閣交代の場合に天皇・摂政の御下問の範囲をどうするかを相談したのが最初である。
 牧野の相談の詳細は不明だが、元老以外の人物にも御下問範囲を拡張することについて西園寺の意向を尋ねたのだと推測される。
 西園寺がそれにどう答えたのかも明確でないが、内大臣の平田東助<(注3)>に対しては、「御下問範囲拡張には不同意」との意向を示したことがわかっている。

 (注3)とうすけ(1849~1925年)。「米沢藩の藩医・伊東昇廸(伊東家は代々医を業とし、昇廸の父の名を伊東祐徳といった)の子として生まれるが、兄の祐順が家を継いだため、・・・1856年・・・に同藩の医師・平田亮伯の養子となり、藩校・興譲館・・・で学び、さらに江戸へ上って古賀謹堂の門で学んだ。
 戊辰戦争においては、米沢藩は政府軍に敵対した奥羽越列藩同盟の中心として戦うが敗北。その後、藩命によって東京へ上り、明治2年(1869年)5月に慶應義塾・・・に入り、吉田賢輔に英学を学び、のち大学南校(現在の東京大学)に入学した。・・・
 明治4年(1871年)、岩倉使節団に随行し、訪欧する。当初はロシアに留学する予定であったが、ベルリンで青木周蔵・品川弥二郎らの知遇を得て説得され、統一したばかりのドイツでの留学に切り替えた。ベルリン大学で政治学、ハイデルベルク大学で国際法、ライプツィヒ大学で商法を習得する。このうちハイデルベルク大学では日本人として初の、博士号(ドクトル・フィロソフィ)を得た。 明治9年(1876年)1月に帰朝。内務省御用掛となり、のち大蔵省に転ずる。長州藩出身の品川・青木の仲介により、木戸孝允・山縣有朋・伊藤博文ら長州閥の知遇を得て、かつて政府に敵対した米沢出身でありながら長州系の官僚として信頼されていくことになる。
 ドイツ法学の専門家として大蔵省翻訳課長、少書記官、法制局専務などを歴任。明治15年(1882年)には、憲法調査のため、伊藤の憲法調査団に随伴。病で帰国した後は、内閣制度導入に関わる法制度整備に貢献した。
 明治23年(1890年)の帝国議会発足時には、同年9月29日貴族院議員に勅選され、枢密院書記官長を兼ねる。平田は貴族院内で勅選議員を中心とする会派・茶話会の結成に務め、山縣直系の貴族院官僚派の牙城を築いた。・・・
 第1次桂内閣では桂太郎の要請に応じて農商務大臣に就任。・・・
 さらに第2次桂内閣では内務大臣となる。明治41年(1908年)には日露戦争後の自由主義・社会主義思想の勃興や弛緩した世情を危ぶみ、思想統制政策として戊申詔書の公布を仰ぎ、また地方政策では、地方改良運動を推進した。陸軍および内務系官僚に広範な「山縣閥」を築いた山縣側近の中で、陸軍の側近が桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅らとすれば、平田は清浦奎吾・田健治郎・大浦兼武らと並ぶ官僚系の山縣側近として人脈を形成した。・・・
 大正元年(1912年)12月には、第2次西園寺内閣の総辞職を受け、元老会議で後継首相に推されるが、辞退。以後は閣僚などの表舞台には立たず、貴族院および宮中における山縣閥重鎮として、元老に次ぐ影響力を保ち続ける。・・・
 大正11年(1922年)には内大臣に就任するとともに伯爵に陞爵する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9

⇒平田東助は、山縣の走り使いとしての生涯を送ったと言ってもいいでしょう。(太田)

 つまり、西園寺は元老の再生産につながる御下問範囲拡張には最初から反対だった。」(4、11、13)

(続く)