太田述正コラム#12730(2022.5.4)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その6)>(2022.7.27公開)

 「西園寺が松方・牧野の始めた「元老・重臣協議方式」(=御下問範囲拡張)に賛成ではなかったこと、老齢のため内大臣を辞職した松方の後任の、前回は締出しをくらった平田が西園寺の強い推挙で就任し、その平田も西園寺と同様の考えであったこと、さらに松方や牧野が準元老化を望んでいた当の山本<権兵衛>本人が、西園寺と牧野の内密の交渉によって後継首相候補とされる予定であったこと、この三点が新方式を一度きりと終らせた原因だった。・・・

⇒趣旨的には繰り返しですが、平田も牧野も西園寺と一心同体であり、憲政の常道化を装いつつ、他方で、後継首相推薦権を元老を増やさないことで西園寺だけに絞っていき、やがて、牧野を内大臣にした上で、推薦権をその内大臣の後継者達に承継させていく、という長期計画に沿って、この三人はシナリオに基本的に沿った演技を行っていた、と、私は見ている次第なのです。(太田)

 <そして、>山本内閣<を経て、>・・・清浦<内閣となったが、>・・・その清浦が、1924年5月の第15回総選挙で護憲三派が圧勝したあと、しばらくして辞表を出すと、摂政は平田内大臣に時局収拾の方法を下問し、平田は後継内閣組織につき元老に下問されるべしと進言した。
 <そこで、>西園寺の意見を聞くため、徳川侍従長が西園寺の住む京都に派遣され、もう一人の元老松方<(注9)>のもとへは平田みずからが赴いた。

 (注9)松方正義(1835~1924年)。「明治1(1868)年5月,新設の日田県知事となり,間引の風習を矯正する一方,県下の富豪に拠金を要請し中央政府の財政に寄与。そして民部大丞を経て大蔵省権大丞になり,以後,租税権頭,租税頭,大蔵大輔,勧業頭 など財政関係の役職を続け,地租改正などに従事。この間に一時渡欧し,財政経済の知識を豊富にする。大久保利通の死去にともない13年内務卿に就任。西南戦争(1877)を契機とするインフレーションの高進や財政難を克服するために,大蔵卿大隈重信が外債募集による財政整理を断行しようとすると,これに反対。明治14年の政変により大隈が失脚すると大蔵卿に任ぜられ,緊縮財政を強行し紙幣整理を進める一方,日本銀行の設立(1882),兌換銀行券の発行(1884)など財政,金融制度の確立に尽力した。こうした一連の政策を一般に「松方財政」と呼ぶ。しかし景気は急速に下降し,特に農民の被害が大きかった(松方デフレ)。18年の内閣制度の発足と同時に成立した伊藤博文内閣に大蔵大臣として入閣したのち,6年以上蔵相を続け,24年には首相に就任し,蔵相を兼任した(第1次松方内閣)。日清戦争(1894~95)後,第2次伊藤内閣の蔵相になり,戦後経営プランを立案,実施しようとしたが意見が容れられず辞任する。29年再度首相になり(第2次松方内閣),翌年金本位制を実施した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9-16548
 「薩摩閥では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道・大山巌は政治的野心に乏しく、松方は年齢やキャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物ではあったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに閣内分裂が理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、それゆえ派閥をまとめることが出来なかったといわれる。また、薩長元勲の中では唯一勤皇志士としての活動歴がなく、維新後の功労で元老・公爵にまで立身した。・・・
 <日清戦争の時は国債発行を実行させ、日露戦争の時は財源は自分が何とかするからと積極的に開戦を主張した。>・・・
 陸奥宗光 「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」
 尾崎咢堂 「公は重々しいところはあるが、感じの至って鈍い人で、公がもしも薩摩人でなかったら、総理大臣にはなれる人物ではなかったろうと思う<。>・・・先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎない<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9

⇒そもそも、西郷隆盛や大久保利通も大した人物ではなかった、と、かねてから申し上げてきた(コラム#省略)くらい、薩摩には人材が乏しく、さりとて、薩摩藩の倒幕・維新における功はずぬけていたことから、維新後、軍民官僚出身の人物が活躍を始めるまでの間、やむなく松方のような人物が重用された、ということでしょう。
 但し、日清、日露両戦争の時の松方の「活躍」ぶりからすると、松方も秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者としての気概は持っていたようですね。
 なお、西園寺が京都に籠っていたのは、たまにしかないところの後継内閣首班の推薦と決定、以外の重要政務の決定、に参与を求められないようにするためであり、元老の任務がそれだけに絞られることを慣行化した上で、当該任務を内大臣に引き継がせるためだった、というのが私の見方です。(太田)

 しかし、病臥中の松方にはもはや意見を述べる力はなく、平田は松方を見舞っただけで、強いてその考えを問うことはしなかった。
 だから、今回の後継首相候補の奏薦は、もっぱら西園寺が平田内大臣と連絡をとりつつ、単独で行ったことになる。」(33~35)

(続く)