太田述正コラム#12732(2022.5.5)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その7)>(2022.7.28公開)

 「6月8日に・・・徳川達孝<(注10)>・・・の訪問を受けた西園寺は、加藤高明憲政会総裁が後継首相に適任であると、摂政に申し上げるよう依頼した。

 (注10)さとたか(1865~1941年)。「田安家第5・8代当主の徳川慶頼の四男。・・・兄・家達が徳川宗家を継承したこともあり、・・・田安家の次期(第9代)当主候補として嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。・・・明治20年(1887年)3月、徳川慶喜の長女・鏡子が輿入れする。・・・
 <大正天皇の>侍従次長となり、皇后宮大夫事務取扱を大正4年(1915年)3月23日から大正5年(1916年)6月22日まで兼務した。大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%81%94%E5%AD%9D
 「日本弘道会<は、>・・・1876年に西村茂樹が東京修身学社を創設、1884年に日本講道会と改称され、1887年に日本講道会が改組されて日本弘道会となった。国民道徳の普及に努め、教育勅語の皇室中心主義の政府の政策を民間から支えていた。機関紙「弘道」を刊行していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BC%98%E9%81%93%E4%BC%9A

⇒徳川達孝は、貞明皇后に一年弱値踏みされた上で、摂政が天皇となった直後に侍従長を解任されていることから、貞明皇后のお眼鏡にはかなわなかったところの、勤倹実直なだけが取り柄の平凡な人物だったのでしょう。
 従って、彼は、憲政の常道化にあたって、単なる西園寺へのメッセンジャーとして京都に派遣された、ということなのでしょう。(太田)

 さらに西園寺は、元老の松方は重い病気のため、摂政の今回の下問に答えることはできないだろうから、内大臣の平田にも御下問になるよう、徳川から摂政に申し上げてほしい、と付け加えた。
 徳川の報告を聞いた摂政は、さらに平田の意見を求めたうえで、加藤高明<(注11)>憲政会総裁に内閣組織の命をくだした。

 (注11)1860~1926年。「尾張藩の下級藩士・・・の次男として生まれた。・・・明治14年(1881年)7月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された。 その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、明治19年(1886年)岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚。このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる。
 明治20年(1887年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
 明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を2期務め(第7回総選挙・高知県郡部、第8回総選挙・神奈川県横浜市)、後に貴族院勅選議員に勅任された。
 大正2年(1913年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画する。同志会の成立を待つことなく桂が急死したため、同志会はいったん総務の合議による集団指導体制をとるも、のちに党大会で加藤が立憲同志会総理(党首)に選出された。翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。・・・
 <そして、>加藤は初の東京帝国大学出身の首相<とな>る。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を成立させた。・・・また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。・・・
 現役首相の病死は3年前の加藤友三郎、54年後の大平正芳のみである。・・・
 西園寺公望は加藤のことを大久保利通、木戸孝允、伊藤博文とならべて「一角の人物であった」と述べるなど高く評価していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

⇒「注11」からも、加藤高明は極めて優秀なる秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であって、西園寺から、憲政の常道の嚆矢内閣の首班としてかねてから白羽の矢が立てられていたことが見てとれます。(太田)

 これにより、護憲三派内閣が成立した。
 これよりさき、総選挙が護憲三派の勝利に終ったのを見届けると、政変が予想されるにもかかわらず、西園寺はにわかに京都に向けて出発した。
 心配した牧野宮内大臣が、内閣交代に備えてしきりに帰京をうながしても、それに応じなかった。・・・
 山本の準元老化を防ぐとともに、総選挙の結果、それまで西園寺が長年支持してきた「情意投合」路線・・・を放棄する選択をせざるをえなくなった(すなわち西園寺がかつて総裁をつとめた正風会にとって長年の敵対政党であった憲政会の加藤高明を奏薦せざるをえなくなった)ので、予想される種々の雑音を避けたいと考えて、意図して京都に留まり続けたのである。

⇒西園寺は1913年(大正2年)から京都を本拠としており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
その時はさっそく京大に転学したばかりの近衛文麿の面倒をみている(上掲)ところ、彼は、むしろ、この件の政変前に東京にたまたまいた、ということだったのではないでしょうか。(太田)

 この加藤高明奏薦以降、元老の進言を受けた摂政ないし天皇は、改めて内大臣の意見をも問うのが慣例となる。
 この新方式を「元老・内大臣協議方式」と呼ぶことにするが、これが公式のものとなったのはこの時点からというべきであろう。
 それまでの内大臣は、みずからが後継首相候補選考の下問を受ける元老が兼任している(松方やその前任者の大山巌がその例)ことが多く、その場合には「元老協議方式」と「元老・内大臣協議方式」とを区別する意味はない。
 しかし、元老でない平田が内大臣となると、事情が変わってくる。」(35~37)

(続く)